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第5話

Author: 星入りポケット
もともと広々としていたはずのキッチンが、この瞬間だけはやけに狭く感じられた。

晴子は宥里と知輝の背後で気まずそうに立ち尽くし、数秒固まったあと、慌てて答えた。「は、はい。すぐに詰めますね」

知輝は小さく頷くと、視線を宥里へ向けた。相変わらず淡々としていて、何の感情も読み取れない冷ややかな目だった。

「ちょうどいいところにいた。これから一緒に病院へ行って、香織に謝ってこい。昨日のお前の行動はあまりに軽率だった。香織にひどい迷惑をかけたんだぞ」

宥里は思わず笑いを漏らした。「はぁ?聞き間違いかしら?不倫して結婚式まで挙げたのはあなたなのに、今度はその愛人に頭を下げろっていうの?」

「浮気だと?お前は何も分かっていない!」知輝の瞳が鋭く光り、全身からただならぬ威圧感が漂った。

「あの結婚式は形だけのものだ。俺は香織を助けたかっただけなんだ。

彼女の実家はひどく古い考えに縛られていて、今でも理不尽な掟が当たり前のように残っている。大学院まで進めたのも、香織が必死に両親を説得し続けたからだ。

それなのに今度は、親が決めた相手との結婚を無理やり迫られた。相手はまともに意思の疎通もできない男だ。断れば縁を切るとまで言われて、親の言いなりになるか、自分の人生を選ぶか、どちらか一方を選べと迫られた。

香織には、ほかに逃げ道がなかった。だから、結婚したように見せかけることにしたんだ」

知輝は眉間にしわを寄せ、宥里をまっすぐに見据えた。

「香織は、俺がこれまで教えてきた中で一番優秀な学生だ。今では仕事のうえでも、なくてはならない存在になっている。教師としても上司としても、困っている彼女に手を貸すのは当然だろう。

宥里、お前は面白みのない退屈な女だとは思っていた。だが、少なくとも最低限の分別くらいはある人間だと思っていたよ。それが昨日は何だ。事情も知らないくせに会場へ乗り込んで、あんな騒ぎを起こして。

おかげで香織は、地元で完全に顔を潰された。まだ若いのに、これからどうやって生きていけっていうんだ」

宥里はその場に静かに立ち尽くしたまま、知輝がまくしたてるのを聞いていた。

結婚して七年になるが、この男が一度にこれほど長く話すのを聞いたのは初めてだった。

そう思うと、急に何もかもが馬鹿らしくなった。

「とにかく」

知輝は少しだけ声を落ち着かせると、教え子に言い聞かせるような口調で続けた。

「昨日のお前のせいで、香織は大勢の前で恥をかかされ、ひどく傷ついた。医者からも、重いストレス障害と抑うつ傾向があると言われている。

すぐに病院へ行って、香織に謝ってこい。それが済んだら桃木家にも行き、事情を説明したうえで、きちんと頭を下げるんだ」

宥里はとうとう堪えきれずに声を上げて笑った。「知輝、私は愛人に頭を下げるつもりなんて、これっぽっちもないわ」

「愛人なんかじゃない!」知輝の眉間が再び険しく寄った。「言っただろう。香織は追い詰められて、仕方なくやったことだ。彼女には何の罪もない……」

「罪がない?」宥里が言葉を遮った。

「罪がないなら、どうして式場からの電話が私のスマホに間違ってかかってきたの?知輝、私が馬鹿なのか、それともあなたがわざと馬鹿なふりをしているのか、どっちなの?あの女は何もかも分かったうえで愛人になったのよ。自分から堕落する道を選んだの!」

「宥里!」ついに知輝が怒りを露わにした。いつもは感情を見せない顔に、はっきりと怒りの色が浮かぶ。放たれた言葉は鋭い刃のようだった。

「他人をあげつらう前に、自分の胸に手を当ててみろ。七年前、自分がどれだけ浅ましい真似をして俺のベッドに潜り込んだか、思い出してみろ!」

パンッ!

乾いた音がキッチン全体に響き渡った。

宥里は全力で知輝の頬を張った。彼の顔が大きく横を向く。

一瞬の出来事だった。まったく身構えていなかった知輝は、怒りに震えながらも、信じられないものを見るように宥里を見つめた。

この女が、俺を叩いた?

宥里は震える手を引っ込めた。今や全身が小刻みに震えていた。

なるほど。七年前のあの夜は、知輝の中にずっと抜けない棘のように残っていたのだ。

宥里は何度も、あの一夜は自分が仕組んだことではなく、ただ不運が重なっただけの偶然だったのだと説明した。知輝自身も「もう昔のことは言うな」と口にしていた。

けれど本当は、彼は一度たりとも自分を信じたことなどなかったのだ。

彼の中で自分はずっと、結婚するためなら手段を選ばない悪女のままだった。

だからこそ、この七年間の結婚生活で見せてきた冷淡さも、我慢も自制も、すべてに理由があったのだ。

この瞬間、宥里はどうしようもなく疲れた。これまで味わったことのないほど深い徒労感だった。

知輝は表情を引き締め、長い指でそっと唇の端を拭った。宥里を見る目が、さらに冷たさを増していく。

「宥里、選択肢は二つだ。香織に謝りに行って、桃木家にもきちんと事情を説明するか。それとも……」

そこで一拍置いてから、彼はついにその言葉を口にした。

「離婚か」

「分かったわ」宥里はいっさい躊躇することなく答えた。

知輝の目元がわずかに緩んだ。宥里が折れたのだと思ったのだろう。

何しろ、あれほど執着してようやく手に入れた妻の座だ。宥里が離婚を選ぶはずなどないと思っているのだ。

「じゃあ準備しろ。すぐに一緒に……」

「離婚しましょう!」宥里は彼の言葉を遮り、きっぱりと自分の意志を告げた。

知輝の表情が数秒間、そのまま固まった。信じられないものを見るように宥里を見つめる。

「……今、何て言った?」

「離婚しましょうって言ったのよ」宥里はもう一度繰り返した。だが胸の中は、やりきれない思いでいっぱいだった。

離婚という言葉は、昨日のあの馬鹿げた結婚式の場で、すでに口にしていたはずだ。それすら覚えていないなんて、知輝は本当に自分にこれっぽっちも関心がなかったのだと、改めて思い知らされた。

これ以上事態が悪化しては収拾がつかないと見た晴子が、慌てて包み終えた弁当箱を手に割って入った。

「旦那様、お料理をお包みしました。冷めないうちに、早く香織様のところへお届けください」

知輝は弁当箱を受け取ると、冷たい目で宥里を見た。

「しばらく距離を置く。その間に少しは頭を冷やせ。宥里、俺はもう、これ以上お前のわがままに付き合うつもりはない」

そう言い残すと、弁当箱を手に、冷ややかな空気をまとったまま家を出て行った。

知輝を見送った晴子は、そのまま宥里に向かって不満をこぼした。

「奥様、意地を張るのはもうおやめください。旦那様の仰る通り、香織様に一言謝れば、それで済む話じゃないですか。香織様は本当にいい方なんですから、こんなことをなさるべきではありません……」

宥里は冷ややかに晴子を一瞥すると、そのままキッチンを出て行った。

晴子はその場に立ち尽くしたまま、先ほどの宥里の眼差しに思わず気圧された。あんな表情を浮かべる宥里を、これまで一度も見たことがなかった。

……

自室に戻ると、そこには荷造りを終えた二つのスーツケースがあった。

一刻も早く身を寄せられる場所を見つけ、この家を出なければならない。

午前中は直樹と一緒に先生の見舞いに行く約束をしていた。時間が迫っていることに気づいた宥里は、気力を振り絞って簡単に身支度を整え、手早く服を着替えて家を出た。

一階のリビングで晴子とすれ違った。晴子は何か言いたげにしていたが、宥里は一瞥もせずに通り過ぎた。

直樹に教えてもらった住所を頼りに、宥里は先生が入所している療養施設を訪れた。

そこは花丸中央病院の裏手にあり、政界や学界の要人だけが利用する特別な施設だった。

同じ頃、その療養施設からさほど離れていない中央病院の入院病棟では、香織が少し食事を取り、眠りについたところだった。

知輝は優しい手つきで布団をかけ直しながら、青ざめた彼女の寝顔を見つめ、深い自責の念に沈んでいた。

そこへ病室の外からノックの音が響いた。知輝の親友であり、共同経営者でもある鈴木洋介(すずき ようすけ)だった。

香織を起こさないよう、知輝はそっと病室を出た。

廊下に出るなり、洋介は知輝の疲れきった顔を見て言った。「お前を訪ねてきたのは、やっぱり会社の件だ」

会社が今直面している難題を思い出したのか、洋介の表情も一気に険しくなった。

「量子発振子ジャイロのコア部品の開発で、もう半年以上も足踏みしている。国内外の企業や研究所を片っ端から当たったが、どこも要求された精度に達していない。早く手を打たないと、もうこれ以上は持たないぞ」

量子ナビゲーションシステムは、知輝の会社を代表する主力製品だった。会社の利益の七割を、このシステムが生み出している。

知輝もまた、この技術を足がかりに、国内の科学技術分野で確かな地位を築いてきた。

だが、この製品の製造には量子ジャイロが不可欠だった。以前提携していたD国の研究所で突如トラブルが発生し、データがことごとく失われてしまった。作り直したジャイロでは、以前と同じ精度をどうしても再現できない。

在庫が底を突きかけている今、代替のジャイロを見つけなければ、知輝個人の名声も会社そのものも、取り返しのつかない打撃を受けることになる。

「残された道は、あと一つだけだ」知輝は隣に立つ洋介を見た。「花谷先生の研究所だ」

「花谷先生?」洋介もこの権威の名は知っているようだった。「だが、体調が思わしくなくて、もう第一線からは退いているって話じゃなかったか?」

「そうだ」知輝は頷いた。

「今は先生の教え子の若浦さんが研究所を仕切っている。彼の話では、あそこの研究開発センターが保有している量子発振子ジャイロが、うちのシステムと互換性を持つ可能性は高いらしい。

ただ、具体的なパラメータを把握しているのは先生と、そのプロジェクトを開発した本人だけだ」

「でも、先生は今、誰にも会わないんだろう?」

知輝は頷き、重い口調で続けた。「だから若浦さんが、その開発者本人に連絡を取ってみると約束してくれた。だが、今のところまだ返事はない」

「その人物、いったい何者なんだ?そんなに勿体ぶってるのか?」洋介の眉間には焦りの色が濃く滲んでいた。何しろ、その開発者さえ動いてくれれば、会社の危機は一気に解決するのだ。

知輝は首を横に振った。「分からない。これまで一度も表舞台に出たことがない人物だ。ただ、先生が最も目をかけていた教え子で、途方もない才能の持ち主だということしか知らない」

窓の外に広がる青空を見つめながら、知輝は確信を込めて言った。「どんな手段を使ってでも、その人物と連絡を取らなければならない。相手が協力してくれるなら、どんな条件でも受け入れる」

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