LOGINミキは、思わず吹き出しそうになった。「それで?それが自慢になると思ってるの?」既婚者の男が毎日家に帰る。そんなのは当たり前のことだ。それを誇らしげに語る口ぶりが、ひどく滑稽に思えた。救いようがない。それに、今の自分にとってはどうでもいいことだ。無関心を装う態度に、白彦の胸の中に言いようのない不快感が広がる。それでも感情を押し殺し、努めて穏やかに言葉を継いだ。「君が買った多肉植物、毎日ちゃんと世話をしているんだ。欠かさず水をやっているのに、なぜか一鉢、また一鉢と枯れていって……」それを聞いたミキの胸に、冷めた笑いがこみ上げた。水を毎日?それが『心を込めた』つもりなのだろうか。本当に大切に思うのなら、多肉植物が水を嫌う性質だと調べるくらい、簡単なことのはずだ。反省している、やり直したい。ミキには、その言葉が白々しくしか聞こえなかった。こちらが嫌がる璃々子との関係を清算しようとしないのと、全く同じ。彼の言葉には、ひとかけらの真実味もない。視線を外し、窓の外に広がる暗い夜の底を見つめる。かつて、この胸の内をさらけ出してすがった時は、見向きもしなかった。すべてを捨て、関わりを断った途端にこれだ。男という生き物は、つくづく身勝手だと思わずにはいられない。流れゆく夜景は、二度と同じ場所には戻らない。二人の関係が、もう二度と元に戻らないのと同じように。微塵も揺るがない態度に、白彦の焦りが募っていく。「あいつらを見捨てるっていうのか?」——俺のことも、このまま切り捨てるつもりか?すがるようなその視線に、ミキが口を開きかけたその時。タイミングを見計らったように、白彦のスマートフォンが鳴り響いた。聞き慣れた専用の着信音。それを耳にした瞬間、ミキは胸の奥から強烈な吐き気がこみ上げてくるのを感じた。なんとしてもミキから確かな答えが欲しかったのだろう。白彦は珍しく、璃々子からの着信を指先で弾いた。「ミキ、俺たちはもう一度……」『最初からやり直せないか』。その言葉を紡ぎ終える前に、再び無情な着信音が車内に響き渡る。ミキは薄い唇の端を歪め、冷笑を落とした。「早く愛しのお姫様の電話に出たら?一秒でも遅れたら、手首でも切られちゃうんじゃない?」白彦は苛立たしげに眉をひそめた。だが、まるで
先ほどの友人たちの会話を思い出し、ミキは鼻で笑った。「たぶん、今でも私がただ駄々をこねてるだけだと思ってるわね」これまでの長い歳月、彼女は常に譲歩し、彼に合わせてきた。彼にとってそれはあまりにも当たり前になりすぎて、ミキが本気で自分を切り捨てようとしているなんて、夢にも思っていないのだろう。佐伯に慰めるように背中を叩かれ、ミキは並々と注がれたグラスを煽った。「さあ、飲みましょ!せっかくの打ち上げなんだから、関係ない奴に気分まで台無しにされたくないわ」彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。「……私の自由な日々に、乾杯」数時間後、店を出る頃には、ミキはすっかり出来上がっていた。佐伯に肩を貸してもらいながら、通りでタクシーを待つ。そこへ、白彦たちの一行が店から出てきた。先頭を歩いていた武志がミキの姿に気づき、ぎょっとした声を上げる。「おい、あれって……お前の元奥さんじゃないか?」白彦の足が止まった。目を細め、エントランスに立つ人影を凝視する。わずか一秒で、それがミキであると確信した。次の瞬間、彼は迷いのない足取りで彼女の方へ突き進んだ。佐伯は到着したタクシーの運転手に、現在地を伝えようと聞き耳を立てていた。ふと、肩にかかっていた重みがふわりと消える。驚いて振り返ると、そこには凍りつくような表情をした白彦が、ミキの腕を強引に掴んで自分の方へ引き寄せている姿があった。酔いが回って意識が朦朧としていたミキは、いきなり硬い胸板に顔をぶつけ、痛みに顔を歪めた。「……誰よ、もう……」顔を上げ、自分を捕らえている男を睨みつける。その輪郭がはっきりと結ばれた瞬間、彼女の整った眉が不快げに寄った。「放して!」「いつ北里に戻ってきた」白彦は放すどころか、さらに力を込めて彼女の細い腕を締め上げた。その痛みで頭に血が上ったミキは、なりふり構わず彼の脚を蹴り飛ばした。「いつ戻ろうが私の勝手でしょ!あんたには一ミリも関係ないわ。さっさと手を離して!じゃないと警察呼ぶわよ!」「大声を出しても無駄だぞ。ここは俺と武志が共同経営してる店だ。セキュリティも俺の息がかかっている」白彦は彼女の脅しなど歯牙にもかけず、冷たく言い放った。「由木さん、あまり強引な真似はおやめください」さすがに我慢できず、佐伯が口を挟んだ。
「白彦、悪いことは言わねえ。女ってのは甘やかしすぎちゃダメなんだ。つけ上がるだけだぞ」喋っているのは、由木白彦と長年つるんでいる悪友の、乾武志(いぬい たけし)だった。ミキがすでに由木家から籍を抜き、法的にも関係を断ったことを知る数少ない人間の一人だ。「武志の言う通りだよ。ミキのやつ、わざとお前を脅してるだけだって。弁護士まで立てて『公正証書を作れ』なんて息巻いてるけどさ、結局お前がいなきゃ生きていけないんだから」そう追従したのは、もう一人の友人、仙道健(せんどう けん)だ。普段から口の悪い男だが、今日はさらに輪をかけて毒を吐いている。「放っておけよ。向こうが音を上げて縋り付いてくるまで、適当にあしらってればいいんだ」武志が鼻で笑って付け加えた。「そうそう。身寄りのない女なんだ、お前に見放されたら行く当てもないだろ」白彦は終始無言のまま、ただひたすらに酒を煽っていた。この飲み会をセットしたのは彼自身だ。時間が経てば経つほど、彼の苛立ちは募っていた。特に、ミキの代理人である峰岸丞弁護士から二、三日おきに公正証書へのサインを催促されるのが、たまらなく癪に障る。離婚届を出してやったのだから、それで彼女の気は済んだはずだ。なぜあれほど徹底的に自分との縁を切ろうとするのか、彼には到底理解できなかった。これまでは少し放っておけば向こうから折れてきたのに、今回はどれだけ待っても彼女から歩み寄ってくる気配はない。プライドを捨てて自ら江ノ本市へ出向いたこともあった。だが彼女は弁護士の助言通り一切の接触を拒否し、どんな提案にも耳を貸さず、裁判をちらつかせてまで完全なる決別を突き通そうとしている。彼にとって唯一の救いがあるとすれば、このところ二階堂澪士が彼女のそばにいないことくらいだった。武志がまだ何か言おうとしたその時、テーブルの上に置かれていた白彦のスマートフォンの画面が光った。着信を報せるディスプレイには、その場にいる全員に見えやすいように名前が表示されている。健がその名前に気づいて、ニヤリと笑った。「おやおや、お前んとこの『愛妻』からお呼び出しだぜ。早く出てやれよ」武志も面白そうにからかう。「璃々子ちゃんは相変わらず寂しがり屋だねぇ。俺たち、集まってまだ一時間も経ってないのに」どうやら、彼の取り巻
これ以上踏み込めば、本当に恥ずかしさで爆発しかねない。話題が変わったことで、詩織の胸のつかえもようやく少しだけ下りた。【ミキの新しい仕事、あなたが手を回したの?】【ああ、手強いお目付け役の機嫌を取るためにな】彼はことあるごとにミキを「お目付け役」と呼ぶ。詩織もすっかりその呼び名に慣れてしまい、初めの頃のようにいちいち反論すらしなくなっていた。とはいえ、身内に対する庇護欲は強い。ミキの気持ちを尊重するなら、今は柊也に妥協してもらうしかなかった。【ミキはいつも「養ってほしい」なんて冗談言ってるけど、本当は自分の仕事にすごく誇りを持ってるの。機嫌を取るのはいいけど、絶対ぬか喜びになるような真似はしないでね】詩織は自分の懸念を正直に伝えた。【分かってる。二人の邪魔さえしなければ、彼女をトップの女優に押し上げてみせるさ】翌朝。ミキの出発はかなり早かったため、昨夜のうちに「タクシーで行くから見送りは気にしないで」と詩織に念を押していた。しかしマンションのエントランスを出ると、すでに一台の黒塗りの車が待機していた。運転手が慇懃に頭を下げる。「近藤様。ボスの仰せで、空港までお送りいたします」「あなたのボスって……誰?」「賀来柊也様です」——露骨な餌付けね!だが……まだ外は暗く、ここでタクシーを拾おうと思ったら大通りまで歩かなければならない。ミキはほんの数秒だけ葛藤した後、あっさりと妥協して車に乗り込んだ。車に乗り込むと、運転手が助手席に用意されていた紙袋を差し出した。「近藤様。ボスから手配された朝食です。どうぞお召し上がりください」中に入っていたのは、数日前に彼女が食べてお気に入りになったという、あのお店のキッシュだった。——ふん。随分とご機嫌取りがお上手なこと。彼が過去に詩織にした酷い仕打ちさえ知らなければ、少しは見直してもいいところだけど。ミキはキッシュを頬張り、高級車のシートにドカッと腰を落ち着けながら運転手に言った。「あなたのボスに伝えといて。私、奢られたり物をもらったりしても、すぐ忘れちゃうタチなのよ。恩とか義理に縛られる気なんてさらさらないから」運転手は愛想よく微笑んだ。「承知いたしました」腹が満たされると、彼女はロールス・ロイス名物の『スターライト・ヘッドライナー』
詩織がマンションの部屋に戻っできたのは、電話を切ってからさらに三十分後のことだった。柊也の視線は、エントランスに吸い込まれていく彼女の後ろ姿を、見えなくなるまで未練がましく追い続けていた。彼女の姿が消えると、彼は深く、長いため息を吐き出した。体中を駆け巡る血の熱を、必死に沈めようとする。こわばりきった体がゆっくりと解けるまで、かなりの時間を要した。やり場のない熱と苛立ちを逃すように、シャツの襟元を乱暴に引っ張る。詩織のあの親友は、下手に姑よりよっぽど厄介だ。しかも詩織は、彼女のこととなるとなぜか過剰に庇い立てするのだ。俺の存在が、将来ミキの優先順位を超える日が来るのだろうか。諦めきれない苛立ちを抱えたまま、柊也はスマートフォンを取り出し、ある番号へと発信した。詩織が玄関のドアを開けると、ちょうどミキがカイにミルクを与えているところだった。子猫のぽっこり膨らんだお腹は、まるで手羽先餃子のようにパンパンになっている。「さっき『もう下に着く』って言ってたのに、ずいぶん時間かかったわね?」ミキはからかうように尋ねた。幸い、玄関の照明が暗かったおかげで、後ろめたい視線を隠すことができた。昔、柊也とこっそり付き合い始めたばかりの時でさえ、こんなに緊張したことはなかったのに。「えっと、ちょっと道が混んでて」「こんな時間に渋滞?」ミキが容赦なく核心を突く。また言い訳を考えておくのを忘れた。詩織は苦し紛れに話を合わせるしかない。「なんか軽い事故があったみたいで。少し足止め食っちゃったの」ミキは「ふーん」とだけ言って、それ以上は追及してこなかった。信じたのか、あえて乗ってやったのかは分からない。詩織が手を洗ってリビングに戻ると、ミキはすでに温め直した夕食をテーブルに並べ、向かいの席に座っていた。詩織が箸を進めている間、ずっと彼女の顔を穴が開くほど見つめてくる。さすがに居心地が悪くなり、詩織は顔を上げた。「ねえ、さっきから何見てるの?」「あんた、リップどうしたのよ。グチャグチャじゃない」「……お酒飲んだから落ちたんじゃないの」「アシスタントは化粧直しするよう注意してくれなかったの?」詩織は危うく舌を噛みそうになった。注意するどころか、そのリップを台無しにした張本人なのだ。「それ
彼は車のシートにどっしりと構えたまま、手のひらで彼女の細い腰をしっかりとホールドし、その赤い唇のすぐ近くで低く囁いた。「これなら、思う存分できるだろ?」彼女の方から求めてくるなど、滅多にないことだ。これがどれほど理性を削る甘い拷問だとしても、彼は喜んでその底なし沼に溺れる覚悟だった。密着した姿勢に、詩織の頬がカアッと熱くなる。全身が小さく震えた。これまでの睦み合いは、いつも柊也が主導権を握っていた。五年の空白も重なり、こうしたことへの免疫はすっかり失われている。ただ、子供のように唇を押し当てることしかできない。見かねた柊也が、低く甘い声で導く。「詩織、口を開けて」促されるままに唇を割ると、すぐに熱い粘膜が吸い上げられた。湿り気を帯びたキスは、彼がずっと抱いてきた感情そのもののように、温かく、それでいて懸命に理性を保っている。もともと、詩織は飲み込みが早い女だ。絡まる舌に自らも応え、彼の熱を追いかける。その積極的な変化に、柊也はたまらなく愛おしそうに目を細めた。深淵のような瞳に、歓喜の光が宿る。あまりに無防備で健気な姿に、柊也の自制心が悲鳴を上げた。キスは不意に深く、激しくなる。肺の酸素が強引に奪われ、熱い吐息が口内を満たしていく。主導権はあっけなく、柊也の手へと戻った。突然の豹変に翻弄され、詩織は無意識に彼の背中へ爪を立てた。逃げ場のない快楽に、声にならない吐息が漏れる。一度唇が離れると、柊也は赤く腫れた彼女の唇を、燃えるような眼差しで見つめた。そのまま首筋へと顔を埋め、熱い吐息を吹きかける。詩織の肌が、瞬時に鮮やかな緋色に染まった。柊也の手は、まるで火の玉のように熱い。腰を抱き寄せるその熱量に、詩織の背筋が戦慄いた。車はいつの間にか、詩織の住むマンションの下に停まっていた。運転手は空気を読み、すでに車を降りて姿を消している。詩織の鼓動は早鐘を打ち、言葉にできない渇望が全身を支配した。彼の服を掴む指先に、ぎゅっと力がこもる。柊也がコンソールボックスから除菌シートを取り出し、ゆっくりと自分の指先を拭った。詩織は潤んだ瞳を細め、ぼうっとした頭で彼を見つめている。上気した顔は熱く、眼差しには艶があった。車内の空気は、濃密な情欲に塗り潰されていく。詩織は彼の肩
余計なことは喋るなという警告か?詩織がその真意を探ろうと睨み返した時には、彼はもう興味を失ったように視線を外していた。そして、自分の腕に愛おしそうにしがみつく志帆に向き直ると、先ほどとは打って変わった穏やかな声色で囁く。「ヒールで立ちっぱなしは辛いだろう。あっちで少し座ろうか」「うん、ありがとう」二人は見せつけるように寄り添い合い、人混みの中へと消えていった。詩織はふと視線を落とし、自らの足を包むハイヒールを見つめた。口元に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。学生時代、親友のミキによく愚痴をこぼしていたものだ。「ハイヒールなんて、現代の拷問器具よ!」けれど社会に出れば、嫌
その一連の光景を、志帆は冷ややかな目で見つめていた。皿の上に載った極上のフォアグラが、急に砂を噛むように味気なく感じられる。詩織は今日一日フル回転で働いていたため、空腹は限界に達していた。譲にメニューを渡され、遠慮なく自分の好きなものを次々とオーダーしていく。その飾らない姿を見て、譲はまたしても彼女への評価を新たにしていた。本当の彼女は、こんなにも自然体で魅力的な女性だったのか。それに引き換え、以前の自分はどうしてあんなにも目を曇らせていたのだろう。「江崎詩織は媚びを売るのが上手い、あざとい女だ」などと。よくよく思い出してみれば、かつての彼女は常に柊也を中心に回
目の前に立っていたというのに、彼は志帆の存在を完全に素通りしたのだ。まるで彼の瞳には詩織しか映っておらず、詩織以外の人間など背景にすぎないと言わんばかりに。……せめてもの救いは、振り返った先の柊也が詩織を見ていなかったことだ。「行くぞ。食事だ」柊也の声は淡々としており、その内面を窺い知ることはできない。志帆は従順に頷き、彼の後ろについて歩き出した。だが、去り際についもう一度だけ、詩織のいる方へと視線を投げてしまう。詩織と合流した譲の横顔からは、先ほどの笑みが消えるどころか、喜びが溢れ出しているようだった。距離こそ離れていたが、譲が詩織に向けている眼差し──そこに潜む特別
その瞬間、詩織の脳裏には無数の言葉が駆け巡った。「末長くお幸せに」といった定型的な祝福。あるいは、「お似合いね、一生お互いを縛り合って世間に害を撒き散らさないでね」という皮肉たっぷりの毒舌。けれど結局、彼女は何も言わなかった。祝福の言葉だろうと呪いの言葉だろうと、かつて彼に真剣な想いを捧げた自分を裏切ることになるような気がしたからだ。だから彼女は沈黙を選び、そのまま静かに部屋を出て行った。詩織が去ったあとの部屋で、柊也は一人、黙々とケーキを食べ続けた。半分ほど平らげたところで手を止め、誰に聞かせるでもなく呟く。「……このケーキが、はなむけ代わりってことにしておくか」