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七年目の終わり、雪が溶けた
七年目の終わり、雪が溶けた
Author: ピーちゃん

第1話

Author: ピーちゃん
今年に入って九度目――義理の母、森崎百合子(もりさき ゆりこ)が戸籍謄本を破ったとき、森崎あずさ(もりさき あずさ)の心がふと折れた。

手元には真っ二つになった書類。その片方に、先ほど百合子がぶちまけたスープの跡がまだ残っている。

百合子が怒りを爆発させるたび、決まって最初に犠牲になるのはこの一枚だった。

「何を見てるのよ!」病床に凭れながら、百合子は甲高い声を上げる。

「あんたみたいな厄病神が来なければ、私が寝たきりになることなんてなかったのよ!」

あずさは黙って床に散らばった食器の破片を拾い集める。鋭い端で指先を切り、赤い線が滲む。それでも声は上げず、白いワンピースに飛んだ油じみをそっと拭った。

「可哀想ぶるんじゃないわよ!」百合子はベッド脇のコップを掴み、投げつける。

「さっさと出て行け!顔を見るだけで腹が立つわ!」

コップはあずさの耳すれすれを通り過ぎ、壁に当たって粉々に砕け散った。

あずさは静かに病室を出て、ドアを閉めると、廊下の壁に背を預けて大きく息を吸い込んだ。

鼻腔を刺す消毒液の匂い。二年間、病院で過ごしてきた数え切れない夜が一気に胸に押し寄せる。

彼女はスマホを取り出し、夫の森崎賢吾(もりさき けんご)にメッセージを送った。

【賢吾、介護の人をお願いできない?今日もお義母さんが……】

画面には「既読」の文字が浮かぶ。だが、返事はいつまで経っても来ない。

十数分ほど待ち続けた末に、あずさはスマホを閉じ、戸籍謄本を再発行してもらおうと区役所へ向かった。

区役所の窓口は閑散としていた。破れた書類を差し出すと、職員は確認のために端末を操作し、眉をひそめる。

「……森崎さんは離婚されたようですが、『離婚』とわかる戸籍謄本を発行してもよろしいですか?」

「……離婚?」あずさは耳を疑った。

画面がこちらに向けられる。

「ご覧の通り、ご主人が離婚届を提出されています」

あずさはカウンターの縁を掴み、指先から血の気が引いていく。

彼女の脳裏に、二週間前の光景がよみがえった。治療費の清算に必要だと言って、賢吾が自分の印鑑を借りたことがあったのだ。そのとき、百合子の世話で手いっぱいだった彼女は詳しく聞きもせず、印鑑を差し出したのだった。

「もしかして……離婚についてあなたの合意は得られていないのですか?」職員が気の毒そうに尋ねる。

背後で順番待ちの人々がひそひそと声を交わした。

「ねぇ、あれって、森崎家のお嫁さんじゃない?賢吾さんにすがりついてるって噂の」

「そうそう、あの人のせいでお義母さんの足の治療が遅れたって聞いたのよ」

あずさは無言で左手の薬指を見つめた。そこにはめている指輪が、胸の奥に針を刺すような痛みを連れてくる。

「いえ。話し合って決めたことです、特に問題ありません」

かすれた声で言うと、職員は頷いた。

逃げ出すように区役所を後にする。真夏の日差しの下に立っているのに、全身が震えるほど寒かった。

タクシーに乗って病院に帰る途中、ようやく賢吾から返信が届いた。

「仕事で手が離せないんだ。夜に話そう」

何度もチャット画面を開き、問いただしたい衝動に駆られる。だが、文字を打ち込むことはできなかった。

病院へ戻ると、廊下は不思議なほど静まり返っていた。百合子の病室に近づき、中から笑い声が響いてくる。

そっとドアを押し開けたあずさは、その場に立ち尽くした。

ベッド脇に立つ百合子は、両足でしっかりと床を踏みしめ、器用にフォークで果物を口に運んでいた。

傍らには北沢みやび(きたざわ みやび)が座り、リンゴの皮をむいている。そして、忙しいと言い張っていた賢吾が母の肩を優しく揉んでいた。

「寝たふりなんて最高だわ」百合子は満足げに笑う。「あの小娘、私が歩けるようになったなんて夢にも思わないでしょうね」

「おばさんったら、またそんなことを……」みやびがにやりと笑う。「あずささん、あんなに一生懸命お世話してくれてたじゃないですか」

百合子は鼻で笑った。「当然よ。あの女が邪魔したせいで賢吾が電話に出られなくて、私は長い入院生活を強いられたのよ」

あずさはドア枠にしがみつくように手をかけ、賢吾の顔を見た。彼は複雑な表情を浮かべているが、母の言葉を否定しない。

「離婚届はもう出したのに、どうしてあいつはまだ出て行かないの?」百合子が詰め寄ると、賢吾は低く答えた。

「離婚については、まだ話してない。それに……」

「それにって?」百合子が甲高い声で遮る。「まさか未練でもあるっていうの?みやびのほうがあの女より百倍マシでしょ?」

「母さん!」賢吾の声が鋭く響いた。「離婚は俺なりの考えがある。母さんはゆっくり休んで、回復に専念してくれ」

「はいはい、勝手にすればいいわ」百合子は手を振り払うように言った。

「どうせもう別れるんだから。あいつがタダで世話をしてくれるなら、それはそれでいいわ」

あずさは一歩後ずさり、視界が涙でにじんだ。離婚の当事者である自分が、最後にそれを知るなんて……

病室に背を向けると、背後ではまだ笑い声が弾んでいた。

あずさは窓辺に立ち、スマホの中で眠らせていたとある番号を押した。

「……もしもし、私よ」

彼女の声は驚くほど落ち着いていた。「ここを離れたい。できるだけ早く」

スマホの向こうが沈黙したのちに問う。「もう決めたんだね?」

「うん」窓の外の街路樹が風に揺れ、葉が静かに擦れ合う。

「この家に二年も尽くした。もう、十分でしょう」

通話を切り、病室の方へ一度だけ目を向けた。相変わらず笑い声が満ちている。

その声は、まるで幸せな家庭そのもののように響く。けれど、そこに自分の居場所なんて一度もなかった。
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