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第3話

Author: ピーちゃん
あずさが階段を降りると、百合子がみやびに車椅子を押され、数人の使用人と一緒に荷物を運び込んでいるところだった。

「まあ、やっと来たの?」百合子がまぶたをわずかに上げ、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。「てっきり一生、部屋に閉じこもっているのかと思ったわ」

みやびは横に控え、手にしたお茶を差し出しながら、柔らかい声をかけた。

「おばさんはリハビリを終えたばかりなんです。お医者さんからは、とにかく歩くようにって」

「リハビリ?」あずさの視線が百合子の足元へ向く。

百合子は得意げに膝を軽く叩いた。「驚いた?医者が言うには、回復は順調で、もう少し養生すればすっかり治るんですって」

そう言って彼女は上の階を指差した。「今日からみやびがここに住むわ。私の世話をするためよ。あんたがどう思おうと、これは決まったことなんだから」

あずさは唇をわずかに歪めただけで、黙って賢吾に目を向ける。

彼は唇を引き結び、小さく答えた。「……この件について、あずさはもう了承してある」

百合子は一瞬驚いたが、すぐに鼻で笑った。「ようやく物分かりが良くなったのね」

みやびはすぐさま嬉しそうに百合子の腕に絡む。

「おばさん、荷物は私が運びますね」

「ええ、好きな部屋を選ぶといいわよ」

「ありがとうございます!」

みやびは弾むように階段を駆け上がり、ほどなくしてガタンと大きな音が響いた。

顔を上げたあずさの目に映ったのは、みやびが使用人に指示して、廊下に飾られた絵を外させている姿だった。

その絵は、あずさと賢吾が初めてのデートで訪れた海を描いたもの。二人で選んだ大切な思い出だった。

「こんなの、部屋の雰囲気に合わないでしょ」みやびは悪びれもせず笑い、絵を脇へ放ると、さらに壁の写真を指さす。

「この辺も、邪魔だから片付けちゃって」

次々と外されていく写真の中には、二人の結婚写真もあった。

賢吾は階段の途中で立ち止まり、険しい顔をした。何かを言いかけて、けれど結局、あずさに向かって小声で言っただけだった。

「……放っておけ。あとで戻せばいい」

あずさは口元を引きつらせ、何も言わなかった。

そのとき、みやびが階上から顔を出し、甘えるように賢吾を呼ぶ。

「賢吾さん、私、主寝室がいいな。おばさんの部屋にも近いし、看病もしやすいでしょ?」

「そうね、そのほうが助かるわ」百合子がすぐさま同調する。

賢吾は無意識にあずさの顔色をうかがった。反対されると予想していたのだろう。

だが、あずさは静かに頷いた。「いいわ。私は客室に移るから」

くるりと踵を返した彼女の手首を、賢吾が咄嗟に掴んだ。「……あずさ、どうしたんだ?」

あずさは振り返り、冷ややかに笑う。「どうもしないわよ。泊まらせるって言い出したのは、そっちでしょ?」

「でも……以前のお前なら、こんなの許すはずがなかった」賢吾は眉毛をひそめる。

「以前の私?」彼女の笑みはさらに深まった。「まあいいじゃない。これで、あなたの望み通りになるから」

そのまま腕を振りほどき、主寝室に入り、自分の衣服を次々とスーツケースに詰め込み始める。

賢吾は黙って立ち尽くし、ようやく声を絞り出した。

「……あずさ、お前、本当はどうしたいんだ」

「別に何も」彼女は顔も上げずに答える。「ただ場所を空けてあげてるだけよ」

喉がつまったように賢吾は言葉を失った。

夜七時、食事の時間になり、あずさは階段を降りた。ダイニングルームに入ると、賢吾と百合子、そしてみやびはもう食卓を囲っていた。

みやびが煮魚を百合子のお皿によそうと、百合子は満足げな笑みを見せる。

「ありがとうね。やっぱりみやびが優しいわ。私の好物をよく覚えてくれてる」

賢吾があずさを見ると、彼女に手招きする。「早く来い、食事だ」

だがあずさが座り、並べられた料理を見渡す瞬間、体がこわばった。

エビ、マンゴー、ピーナッツ……彼女のアレルギーを引き起こすものばかりで、食べられる料理は一つもなかった。

視線を上げれば、百合子が含み笑いを浮かべている。

賢吾は気づきもせず、エビを一尾すくってみやびの器に置いた。

「これ、好きだったろ。味見してみて」

「ありがとう、賢吾さん」みやびは頬を染め、嬉しそうに笑う。

さらに賢吾は百合子に椀を差し出し、スープをよそってやる。そしてようやく、動かないあずさに目を留めた。

「……いい加減拗ねるのはやめろ。ご飯くらいちゃんと食べないと」

あずさは愕然とした。

――彼は忘れているんだ。

自分のアレルギーについて彼は知っていたはずだ。

かつて、わずかなエビを口にしただけで、彼女が夜中に病院へ運ばれた。そのとき、賢吾は泣き腫らした目で「アレルギーのものがあれば全部取り出してやる」と約束したのだ。

それなのに今は、みやびに笑顔でエビをすすめては、百合子にスープをよそった。あずさのアレルギーなんて気にもせずに。

あずさは目を伏せ、黙って野菜を一口食べる。

そのとき、百合子がふいに口を開いた。

「賢吾。みやびは長いことあんたを支えてきたのに、見返りもなくてかわいそうよ。せめて式くらい挙げてやったらどう?」

賢吾の箸がぴたりと止まる。視線があずさへと流れる。

みやびが小さく首を振り、わざとらしく困ったように笑った。

「……私は大丈夫です。賢吾さんを困らせたくないから」

「だめよ」百合子は彼女の手を取って強い口調で言う。「こんなに尽くしてくれてるんだから、ちゃんと森崎家の人間として迎えたいわ」

食卓には重い沈黙が落ちる。

賢吾はしばらく迷った末、低くつぶやいた。「……あずさと相談してから決める」

「いや、結構よ」

静かな声で遮ったのはあずさだった。全員の視線が彼女に注がれる。

彼女は箸を置き、表情ひとつ変えずに言った。

「反対してないから、好きにすればいいわ」
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