LOGIN美玲の言い放った言葉に、その場に居た全員が驚いて美玲の顔を見た。自分の夫の隠し子を、こともあろうかその夫に認知させないのかと聞いている。しかも、それを口にしたのは正妻である美玲本人だった。雪乃は驚きのあまり、息をすることさえ忘れていた。――どうして……?自分が一番、認知を望んではいけない相手だと思っていた。壮真には妻がいる。その家庭を壊すことなど、自分にはできない。だからこそ、これまで康太の存在を隠し続けてきた。それなのに、その妻である美玲が、自ら認知を促している。何が起ころうとしているのか、雪乃にはまだ理解できなかった。それまで黙って事の成り行きを見ていた和真が、やっとのことで口を開いた。「お義姉さん、兄さんに認知させるって、それはどういう―――」和真自身も混乱していた。康太が自分の子ではないことは、すでにDNA鑑定によって明らかになった。だからこそ、これからどう決着をつけるのかを考えていた。しかし、まさか自分の兄に認知させるという話になるとは思ってもいなかった。美玲の険しい顔がこちらを向く。その視線に圧倒され、和真はその先を言う前に口を閉じた。そこへ玲司が割って入った。「美玲、綾乃。お前たちが考えていることを話してくれ」低く落ち着いた声だった。玲司もまた、何かを察しているようだった。美玲と綾乃は目を見かわした。言葉を交わさなくても、二人の間ではすでに話がついているのだろう。美玲が小さく頷く。すると、綾乃が口火を切った。「和真を、鷹宮の当主に指名するわ。これは鷹宮のお父さんとも合意の上よ」「……え?」和真の顔が固まった。――俺が?その言葉が頭の中を何度も駆け巡る。自分はこれまで、鷹宮の当主になるつもりなどなかった。ましてや、こんな騒動の最中に、その話が突然出るとは思わなかった。驚く和真の顔をよそに、綾乃は続けた。「和真と心春の間に生まれる子供のために、鷹宮の家を和真に守ってもらいます。同時に和真には、神崎グループのすべてを壮真さんから受け継いで欲しいの」その言葉を聞いた瞬間、和真は言葉を失った。神崎グループを、自分が――。兄からすべてを受け継ぐ。それは単なる会社の引き継ぎではない。神崎家そのものを背負うことになる。壮真がそんなことを許すはずがない。和真の脳裏に、父・正蔵の顔が浮か
張り詰めていた部屋の空気を切り裂くように、鋭い声が響いた。「ホントに育ちの悪い女!!」玲司の隣に座っていた女性が、吐き捨てるように言い放った。雪乃はビクッとして身を縮こまらせた。心臓が大きく跳ねる。先ほどまで自分の過去をすべて話していたことで、すでに神経は張り詰めていた。そこへ突然浴びせられた言葉に、雪乃は何も言い返せなかった。ただ、その女性から目が離せない。気品のある佇まい。背筋の伸びた姿勢。一目で、自分とは住む世界が違う人間なのだと分かった。――この人は誰なの?雪乃が戸惑っていると、「落ち着け、美玲」玲司がその女性に声を掛けた。美玲は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それでも怒りは消えない。雪乃へ向けられた視線は鋭く、まるで自分の夫を裏切った女を見定めるようだった。雪乃は思わず肩を強張らせる。自分が責められるのは当然だ。壮真と関係を持った。その結果、康太が生まれた。そして今、その康太を利用して和真を巻き込もうとした。どれだけ理由があったとしても、許されることではない。雪乃はそう思いながら、恐る恐る綾乃の耳元へ顔を寄せた。そして小さな声で聞いた。「あの方は……?」綾乃は雪乃を気遣うように、同じように小さな声で答えた。「壮真さんの奥様の美玲さんよ」その答えを聞いた瞬間、雪乃の顔から血の気が引いた。――壮真さんの奥様……。胸の奥が冷たくなる。まさか、ここに壮真の妻がいるとは思っていなかった。これまで何度も頭の中で考えたことはあった。もし、壮真の正妻に知られたら。もし、自分と康太の存在を知ったら。けれど、実際に目の前にすると、その恐怖は想像していたものとは比べものにならなかった。雪乃はソファから床へ滑り落ちるように跪いた。「も、申し訳ありません!!まさか、壮真さんの奥様がいらっしゃるとは―――」震える声だった。額が床につきそうなほど、深く頭を下げる。自分がどれほど愚かなことをしたのか、今さらながら思い知らされる。しかし、美玲はそんな雪乃を見下ろしながら、意外なほど冷静な声で言った。「頭を上げなさい。私に謝ってどうするのよ」雪乃はゆっくりと顔を上げた。美玲の表情には、怒りがある。だが、その怒りは自分だけに向けられているわけではないように感じた。美玲が綾乃の方を見る。すると綾
雪乃は顔を上げると、まず和真の目を見た。そこには、怒りも責めるような色もなかった。それがかえって苦しかった。これまでずっと、自分は間違ったことをしていると分かっていた。それでも康太を守るためには、ほかに方法がないと思い込もうとしていた。けれど今、すべてを知った和真を前にすると、自分のしてきたことの重さが、胸にのしかかってくる。雪乃は深く頭を下げた。「騒ぎを起こして、申し訳ありませんでした」声が震えそうになるのを、必死に堪えた。顔を上げると、再び和真と目が合った。和真はフッと笑うと、雪乃の顔を見ながら言った。「心春を泣かせずに済んで良かったよ」その言葉に、雪乃は一瞬、何も言えなかった。責められると思っていた。もっと厳しい言葉を浴びせられても仕方がないと思っていた。なのに、和真が最初に口にしたのは、自分への怒りではなく、妻である心春を思う言葉だった。――この人は、本当に優しい人なのかもしれない。昔、ほんのわずかに見ただけだった和真の印象とは、あまりにも違っていた。雪乃は小さく息を吐き出し、頷いた。そしてもう一度、深く頭を下げる。「皆さんにも申し訳ありませんでした」しばらく頭を上げられなかった。ようやく顔を上げると、雪乃は大きく息を吸い込んだ。ここまで来たのだ。もう、隠してはいけない。康太のためにも、自分自身のためにも。雪乃は震える胸を押さえるようにして、事の次第を話し始めた。二十代の頃、壮真と出会い、交際をしていたこと。神崎家が傾いてしまったとき、壮真が自分を捨てて鳳条の娘と結婚してしまったこと。十年後に再会した壮真と、再び関係を持ってしまったこと。そして康太を身ごもり、壮真から「産んでくれ」と言われたこと。あのときの言葉を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。自分は愛されている。そう信じたかった。康太が生まれれば、壮真もきっと自分たちを守ってくれる。そう思っていた。けれど、現実は違った。康太を産んだ途端、玲子の助言によって、雪乃は康太と二人で放り出された。あまりにも突然だった。信じていたものが、音を立てて崩れていくようだった。雪乃は、そのときの恐怖も、悔しさも、絶望も、すべて包み隠さず話していった。その間、誰も口を挟まなかった。静かな部屋に、雪乃の声だけが響いていた。すでにすべてを知っていた
ソファに腰を落ちつかせ、綾乃の隣で縮こまっていた雪乃も、少しだけ顔を上げてこの部屋に集まった面々を見わたした。部屋は広く、調度品の一つ一つからも、この家が普通の家庭とは違うことが伝わってくる。それだけに、雪乃は落ち着かなかった。自分がこんな場所にいることそのものが場違いに思え、無意識に両手を膝の上で固く握り締めていた。先日、九条ホールディングスで会った、九条叶翔。そして自分の向かいに座る、九条玲司。どちらも雪乃にとって、簡単に目を合わせられるような相手ではなかった。特に玲司から向けられる視線には、これまで感じたことのないほどの威圧感がある。玲司の隣に座る優雅な女性には見覚えがなかったが、その隣に座る男性―――自分が康太の父親だと言った、神崎和真にはかすかに見覚えがあった。もう何十年も前に会ったきりだ。それなのに、顔を見た瞬間、記憶の奥にしまい込んでいた遠い日の光景が蘇ってくる。若い頃の面影を残しながら、和真は驚くほど若さを保った容姿をしていた。年齢を重ねたはずなのに、疲れや老いをほとんど感じさせない。雪乃は思わず、和真の顔をじっと見つめてしまった。―――壮真さんとは大違いね。そんな場にそぐわない感想が、ふと頭に浮かぶ。同じ神崎家の人間なのに、これほど違うものなのか。雪乃は慌てて視線を逸らそうとした。しかし、和真が自分を見ていることに気づき、また目が合ってしまう。その場の緊張した空気にそぐわない感情で、雪乃は和真を見つめてしまった。自分が何を考えているのか悟られたくなくて、雪乃は小さく俯いた。先ほど最初にこの部屋のドアを開けてくれた執事のような男性が、雪乃の前にコーヒーを置いた。立ち上る湯気から、香ばしい香りが漂ってくる。雪乃は小さく頭を下げたが、言葉を発することをしなかった。こんな状況で、のんびりコーヒーを飲めるような心境ではない。カップに触れることさえできず、雪乃はただ両手を膝の上に置いたまま、静かに座っていた。その男性が、静かに部屋を出て行った瞬間だった。九条叶翔が立ち上がった。部屋にいた全員の視線が、一斉に叶翔へ向けられる。叶翔はその視線を気にする様子もなく、落ち着いた表情で全員を見渡した。「みなさん本日はお集りいただき、ありがとうございます。さっそくですが、本題に入りたいと思います」叶翔がそう宣
九条本邸の玄関を入ると、雪乃は思わず足を止めそうになった。広々とした玄関。磨き上げられた床。静かに佇む調度品。どれもこれも、自分がこれまで暮らしてきた世界とはかけ離れている。―――ここが、九条家……。以前、九条ホールディングスで玲司や叶翔と顔を合わせたことはあった。けれど、実際に九条家の中へ足を踏み入れると、その家が持つ重みを改めて感じてしまう。雪乃は、自分の服装を無意識に確認した。変ではないだろうか。場違いではないだろうか。そんな小さなことまで気になってしまう。何より―――。これから自分が向かう部屋には、九条玲司がいる。鷹宮心春もいる。そして、和真も。そのことを考えるだけで、心臓が早鐘のように鳴った。雪乃は、自分でも顔が強張っていることに気づいた。目の前を歩いていく瑛士の背中を見つめながら、必死に足を動かす。しかし、心の中では別の声が何度も囁いていた。―――怖い。―――このまま帰ってしまいたい。一歩進むたびに、その誘惑が強くなっていく。ここまで来たのだから、もう逃げるわけにはいかない。そう思っているのに、足は鉛のように重かった。もし、心春から責められたら?もし、和真から憎しみの目を向けられたら?当然だ。自分は一度、康太を和真の子供だと言った。そのせいで、何も悪くない心春を傷つけてしまった。謝らなければならない。そう思う気持ちと、怖いという気持ちが胸の中でぶつかり合っていた。やがて、瑛士が大きな扉の前で立ち止まった。振り返った瑛士と目が合う。雪乃も足を止め、思わず息を飲んだ。この扉の向こうに、すべての答えがある。十年間、抱えてきた秘密。康太の父親。そして、自分たち親子のこれから。雪乃は唇をきゅっと結んだ。―――大丈夫。―――康太のために、逃げちゃいけない。瑛士が扉をノックする。コン、コン―――。その音が、静かな廊下に大きく響いた。やがて中から扉が開き、執事のような男性が顔を見せる。男性は雪乃の姿を認めると、部屋の中へ声を掛けた。その瞬間、雪乃の胸が大きく跳ねた。いよいよだ。瑛士は雪乃に一礼すると、そのまま玄関の方へと歩いて行ってしまった。雪乃はその後ろ姿を見送った。「ありがとうございました……」小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。瑛士の姿が見えなくな
夜七時。すっかり日が落ちた街を、タクシーが静かに走っていた。後部座席に座る雪乃は、隣にいる康太の小さな手を握ったまま、何度も窓の外へ視線を向けていた。康太は何も知らない。今日、これから何が話し合われるのかも。自分がその中心にいることも。雪乃は、そんな息子の横顔を見るたびに胸が締めつけられるようだった。―――この子だけは、何も知らないままでいてほしい。十年間、自分一人で康太を育ててきた。苦しいことも、悔しいことも、何度もあった。それでも、康太の笑顔だけを支えにして、ここまで生きてきた。今日、その生活が大きく変わるかもしれない。そう思うと、握っている康太の手に自然と力が入った。「お母さん?」「……何でもないわ」雪乃は慌てて微笑んだ。「もうすぐ着くからね」やがてタクシーが停まり、雪乃は料金を支払って外へ出た。目の前に広がった光景に、雪乃は思わず息を呑んだ。広大な土地。そして、その敷地の中には二軒の豪邸が並んで建っている。夜の照明に照らされた建物は、まるで別世界のものだった。ここが―――九条家。以前、自分が訪れた九条ホールディングスとは比べものにならないほどの、圧倒的な存在感。雪乃は思わず康太の手を握りしめた。―――本当に、ここへ来てしまった。一度は和真の子供だと言ってしまった康太。そして、そのことで心春を傷つけた。その事実を思えば、ここへ足を踏み入れることさえ怖かった。インターホンを押さなければならない。それなのに、指が動かなかった。雪乃は門の前に立ったまま、ただ黙って豪邸を見つめていた。「お母さん、どうしたの?」康太が不思議そうに見上げてくる。雪乃は小さく首を振った。「ううん……何でもないの」そう言いながらも、心の中では何度も自分を奮い立たせていた。―――逃げちゃ駄目。―――今日は、きちんと話をするために来たんだから。そのときだった。門の内側から、若い女性が歩いてくるのが見えた。そして、優しげな声で声を掛けてくれた。「神山雪乃さんと康太くんですか?」突然声を掛けられ、雪乃は驚いて顔を上げた。けれど、その女性の柔らかな笑顔を見ているうちに、強張っていた表情が少しずつ緩んでいった。「はい……」女性は頷くと、門の中へと促してくれた。「どうぞ」雪乃は一瞬ためらった。けれど、もう戻