Masuk隣国グライエン王国に到着したのは、太陽が西の稜線に沈み、空の端が深い藍色へと溶け始めた頃だった。
馬車の小窓から見えた城は、想像をはるかに超えた威容を誇っていた。エルテアの城など比べものにならない。石造りの城壁が夕闇の中で黒々とそびえ、その輪郭だけで、この国を束ねる者の強大な力を物語っていた。城門を潜ると、松明が左右に連なって揺れ、橙色の光が石畳の上に揺らめく炎の道を作っている。
やがて、重々しい音を立てて馬車が止まった。
扉が外から恭しく開かれ、侍女に手を取られながら石畳に降り立った瞬間、ルミエルは思わず足を止めた。
空気が、違う。塔の中で吸い続けてきた、石と埃と孤独の匂いとは全く異なる。夜風が頬を撫でて流れ去り、遠くから草と土と松脂の混じり合った、生命の匂いを連れてくる。
(……広い)
出迎えの者たちに囲まれ、城の中へと連れられていく。石畳から石廊下へ、燭台の揺れる光の中を歩きながら、ルミエルの心臓は不規則に跳ね続けた。
案内された部屋の扉が開かれた瞬間、ルミエルは息を呑んだ。
天井が高い。壁には精緻な装飾が施され、深い色の絨毯が足の裏に心地よく沈み込む。窓の向こうには夜の庭が広がり、天蓋付きの大きなベッドには深紅の絹が重たげに垂れている。燭台の火がいくつも灯り、柔らかな光が部屋全体を満たしていた。
塔の中の、粗末な寝台と冷たい石の床しか知らないルミエルには、どこに立っていいかもわからないほどの豪奢さだった。
「すぐに夜伽のご準備に入ります」
侍女の一人が静かに告げ、ルミエルは浴室へと連れられた。
扉を開けた瞬間、甘い香りが一気に押し寄せてきた。
大きな木桶には湯がたっぷりと張られ、白と淡桃色の花弁が水面にひらりと浮かんでいる。湯気がゆらゆらと天井へ昇り、部屋中に花の甘やかな香りが満ちていた。侍女の手に導かれ、その湯の中に身を沈める。旅の疲れと、凍りついていた緊張が、温かな湯の中でゆっくりと溶け出していくようだった。
侍女たちの手が、髪を、背を、指の先までを丁寧に磨き上げていく。花弁がルミエルの白い肌の上を静かに漂い、桶の縁を伝う泡が床へと落ちる。水音だけが、静謐な浴室に心地よく響いていた。
(……これから、何が始まるんだろう)
甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ルミエルは白い湯気の向こうをじっと見つめていた。
湯から上がると、薄い絹の夜着に着替えさせられた。白檀を思わせる落ち着いた香油を肌に伸ばされ、銀の髪を丁寧に梳かれる。侍女の指が首筋を辿る感触がくすぐったく、ルミエルは小さく肩を縮めた。
「執務室でのお仕事が終わり次第、陛下がいらっしゃいますので」
侍女たちが一礼して部屋を出ていく。扉が閉まる音が遠ざかり、重い静寂が部屋を包み込んだ。
ルミエルは大きなベッドの端に、ひっそりと腰を下ろした。
薄い絹の生地が肌に張り付き、自分の身体の輪郭が透けて見えるようで、膝の上で両手をきつく重ねる。心臓が、耳の奥で騒がしく鼓動していた。深呼吸を繰り返そうとするたびに、胸の奥で何かが詰まって、うまく息が吸えない。燭台の炎が揺れるたびに、壁の影がゆっくりと不気味に形を変えた。
(オメガを食い殺す男に……僕は今夜、喰われるのかな)
グライエン国王の噂を、ルミエルは何度も頭の中で反芻した。残忍で、情け容赦がなく、オメガを道具のように扱う覇王。馬車の中で幾度となく繰り返した想像が、今この静寂の中で、じわりと恐ろしさの色を濃くしていく。
膝の上の両手が、止まらずに小刻みに震えていた。
不意に扉が開くと、ルミエルは弾かれたように立ち上がった。
部屋に入ってきたのは、見上げるほど大柄な男だった。
燃えるような金髪が、燭台の揺れる光に照らされて輝く。琥珀色の鋭い双眸が、迷いなくルミエルを捉えた。左の頬には、激しい戦場の記憶を刻むような小さな傷跡がある。軍服の上からでも、鍛え上げられた肉体の圧倒的な凄みが伝わってきた。
その体躯は扉の枠をわずかに窮屈にさせるほど大きく、床を踏む足音は低く重く、部屋の空気そのものを震わせるようだった。
ルミエルは反射的に頭を深く垂れた。
逃げ場はない。声も出ない。ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように身を縮めた。男の足音が、一歩ずつ静かに近づいてくる。
「アルリックだ。長い道中、疲れただろう」
低く、落ち着いた声だった。予想に反して、怒鳴るような威圧感も、鞭打つような剣呑さもない。
(……思ったほど、怖くない、のかも)
ルミエルはこわごわと、微かに頷いた。
「挨拶――できないのか?」
アルリックの真っすぐな瞳に射抜かれる。
ルミエルの視線が泳いだ。塔の中でただ生かされてきた彼には、礼儀作法などの知識は皆無に等しい。ただ王妃に言われるまま、頭を低くすることぐらいしか知らないのだ。「お前みたいな馬鹿には何も教える必要はない」と言われ続けてきたから、どう振る舞うのが正しいのか、判断がつかなかった。
「……っ、ぁ……」
声にならない掠れた吐息が、震える口から零れては消えていく。
「声が出ないのか?」
静かな問いかけだった。ルミエルは頷き、そのまま再び深く頭を下げた。自分の不甲斐なさを詫びるように、恥じ入るように。
「頭をあげろ。少し待て」
アルリックの足音が一度遠ざかった。
恐る恐る顔を上げると、彼は部屋の奥の棚から紙と万年筆、そしてインクを取り出して戻ってきた。
「書いて伝えられるか?」
真っ白な紙が、目の前に差し出される。
(どうしよう……)
書けない。字を知らない。
塔の中で、誰かに何かを教わったことなど一度もなかった。読むことも書くことも、ルミエルには最初から与えられていない権利だった。
紙を受け取れないまま、ルミエルの瞳から涙が溢れた。
(……僕、何もできない)
止めようとしたが、止まらなかった。涙が頬を伝い、顎から落ちていく。視界が滲み、アルリックの顔がぼやける。喉の奥が痛くなるほど詰まっているのに、叫ぶことすらできない。礼儀も知らず、言葉も出ず、字も書けない。何も伝えられない無力な自分が、ひどく惨めで、悲しかった。
「……字も書けないのか」
(ごめんなさい……ごめんなさい)
責めるような口調ではなかった。ただ、静かに事実を確かめるような響きだった。ルミエルは涙を拭うことも忘れ、小さく何度も頷いた。アルリックが紙と万年筆を机に戻すと、再びルミエルの正面に立つ。
(怒られる。きっと、打たれるんだ)
身が縮む。王妃エレーヌならば冷たく嗤い、異母兄のルークならば面倒くさそうに手を上げただろう。何もできない、役に立たないと、いつだって罵倒されてきた。だから、この男も――。
だが、ふわりと温かいものに、包み込まれた。
アルリックの大きな腕がルミエルの背に回り、静かに、けれど力強く支えてくれた。硬い胸板に顔が押し付けられ、軍服の布地と、革と金属の混じり合った独特の匂いが鼻を突いた。背中に添えられた大きな手が、子供をなだめるように、ゆっくりと上下に動く。
「泣かないでいい」
頭上から、包容力のある声が降ってきた。
(……怒って、ない?)
これまで優しくされたことなど、一度もなかった。エレーヌは嗤い、ルークは蔑んだ。なのにこの男は怒鳴りもせず、ただルミエルを抱きしめている。アルリックの胸板の向こうから、規則正しく打つ心臓の音が聞こえた。力強く、落ち着いた鼓動が、ルミエルの震えを鎮めていく。
「こちらの言葉は理解できるか?」
ルミエルは腕の中で、小さく頷いた。
「なら、『はい』か『いいえ』で答えられるよう話す。『はい』なら頷いて、『いいえ』なら首を振れ。それでいいか?」
また頷いた。アルリックの腕がわずかに緩み、ルミエルの顔が胸板から離れる。涙で滲む目で見上げると、琥珀色の瞳が静かにこちらを見下ろしていた。そこには、恐れていた怒りの色は、どこにもなかった。
アルリックがベッドの端に腰を下ろし、隣に座るよう目で促した。ルミエルは少し距離を置いて、遠慮がちに腰を下ろした。燭台の炎が揺れ、二人の影が壁に長く伸びている。
「我が国では教会で神に誓い合うような式はない。ルークがしたいと言うなら場を用意するが、どうする?」
ルミエルは即座に首を横に振った。
(……人目に触れることだけは、避けたい)
自分が『ルーク』ではないと露見するリスクを、最小限に抑えなければならない。
「では、夫婦の証について話す。我が国では、夫が妻を三日三晩抱くことがその証となる。明日の朝、家臣が来てシーツを確認しに来る。最初は血が出ると聞いているから、その徴を見にくるのだ。……恥ずかしいかもしれないが、我慢してほしい」
ルミエルは静かに頷いた。頬がじわりと熱を帯びていく。
『抱く』というのが、ただ抱きしめるだけではないことは、漠然と理解していた。しかし、これから具体的に何が行われるのかまでは知らない。
「丁寧に抱くつもりでいる。だが、痛かったり耐えられないようなら、腕を掴むなり噛みつくなりして知らせてくれ。止められるかはわからないが、善処する」
不器用な、けれど誠実な言い方だった。
(……痛い、のかもしれない。血が出るようなことを、するんだ)
けれど、アルリックは『最初は』と言った。少なくとも、今すぐ食い殺されるわけではなさそうだ。ルミエルは未知の恐怖を抱えながらも、目の前の男の温もりを信じてみたいと感じていた。
「では、始めるぞ」
アルリックの大きな手が、ルミエルの肩に触れた。ルミエルは吸い込まれるように、きつく目を閉じた。心臓が喉まで迫り上がってくるように、激しく脈を打っている。
何をされるのか全く想像もつかなかったが、この男が酷いことはしないだろうという予感だけが、不思議とルミエルの中に芽生えていた。
夜着がゆっくりと肩から滑り落ちていく感触があった。冷たい夜気が露わになった素肌を撫で、小さな鳥肌が立つ。あまりの羞恥に身を縮めようとしたが、アルリックの手が背中に回り、静かに、けれど力強く支えてくれた。
「綺麗だ」
低く、短い言葉が降ってきた。ルミエルの頬が、音を立てるほどの勢いで熱くなる。
(――綺麗? 僕が……?)
生まれてから一度も、自分に対して向けられたことのない言葉だった。
「力を抜いて」
耳元での囁きに、ルミエルは震える唇からゆっくりと息を吐き出した。
アルリックの唇が、まず額に優しく触れた。次に頬へ、耳の後ろへと、羽が触れるような慎重さで移っていく。温かく、柔らかい感触が、敏感な肌の上を辿っていく。怖かったが、そこに痛みは微塵もなかった。
(……くすぐったい、かも)
首筋に熱いキスが落とされた瞬間、背筋に細い震えが走った。吐息が肌をなぞり、アルリックの唇が鎖骨の窪みを辿り、肩へと移る。大きな手が背中をゆっくりと撫で下ろし、腰骨の縁に触れた。くすぐったいような、ゾクゾクと痺れるような、今まで知ることのなかった未知の感覚が肌の上を走り回っていく。
やがて、ルミエルは柔らかなベッドに横たえられた。
天蓋の絹が視界いっぱいに広がり、燭台の光が壁の影を揺らしている。アルリックが覆いかぶさるようにして、ルミエルの顔を覗き込んだ。
「怖いか?」
問いかけに、ルミエルは小さく頷いた。アルリックがふっと息を吐き、ルミエルの頬に大きな手を添えた。親指が、いつの間にか濡れていた頬をゆっくりと撫でる。
「目を閉じていていい」
言われるがまま、ルミエルは瞼を下ろした。
視界が閉ざされた暗闇の中で、感覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされていく。アルリックの吐息が近づき、唇が重なった。温かく、穏やかな口づけだった。探るような、確かめるような、慈しむようなキスが何度も繰り返される。唇が触れ、離れ、また触れる。そのたびに、張り詰めていた心の糸が少しずつ解けていった。アルリックの舌が唇の端をなぞると、ルミエルの唇は自然と柔らかくほどけていった。
大きな手が、ルミエルの胸に触れた。
手のひら全体で、その感触を慈しむように包み込んでくる。指が先端へと移り、軽く摘まれた瞬間、ルミエルの唇の隙間から、堰を切ったように音が零れた。
「……っ、ん、ぁ」
自分の口から音が出たことに、ルミエル自身が驚愕した。言葉ではない。けれど吐息よりも確かな、熱を孕んだ甘い音が、止める間もなく唇の間から漏れていた。
アルリックの動きが止まった気がして、ルミエルは反射的に身を縮めた。声を漏らしたことを叱られる、そう思ったのだ。
「もっと聞かせてくれ」
アルリックが耳元で、掠れた声で囁いた。
(――もっと……?)
再び指が先端を愛撫するように転がし、ルミエルの喉がまた音を立てた。
「ん……ぁ、あ」
堪えようとしても、唇の隙間からこぼれ落ちてしまう。声が出ないはずなのに、内側から突き上げてくる快感に引き出されるように、甘い音が止まらない。これが声なのか、ただの吐息の延長なのか、ルミエルには理解できなかった。ただ、アルリックが触れるたびに身体が正直に、熱く反応してしまうことだけが真実だった。
アルリックの手が腹を撫でながら下へと移り、太腿の内側に触れた。身体がびくりと跳ねる。
「力を抜いて」
促されるまま深呼吸をして、閉じていた足の力をゆっくりと緩める。指先が秘所に触れた瞬間、心臓が止まるかと思った。ゆっくりと、解きほぐすように指が動く。
「……濡れてきているな」
低い響きに、顔が燃え上がるほど熱くなった。自分でもわかる。身体が、勝手に期待するように応えているのだ。羞恥で涙が滲んだが、アルリックは構わず丁寧に、根気よく指を動かし続けた。指先が奥へと進む瞬間、異物感に全身が強張る。
「痛いか?」
ルミエルは力なく首を振った。
(お腹の奥が……すごく、変な感じがする)
ゆっくりと指が動き、内壁を撫でていく。痛みはなく、ただ不思議な疼きが身体の芯から広がって、無意識に腰が浮きそうになる。指の動きが繰り返されるうちに、お腹の奥にどんどん熱が集まってくる感覚があった。必死にシーツを握りしめると、上質な布が指の中で皺になった。
アルリックの指がある一点を擦った瞬間、ルミエルの身体が今日一番の大きさで跳ねた。鋭い快楽の閃光が全身を貫き、堪えようとした口から高い声が漏れた。
「……っ、あ、ぁ……んっ」
思わず自分の手で口を押さえたが、アルリックがその手を優しく引き離した。
「声を我慢しなくていい」
その囁きに、ルミエルの頬がまた一段と熱くなる。声が出るはずがないのに。指が動くたびに、甘い音が唇の隙間から零れ続けた。
しばらくして、アルリックの指が抜けた。代わりに、質量を伴った熱く硬いものが太腿に触れた。ルミエルは思わず息を止めた。
「入れる――痛いと思うが……もし我慢できない痛みなら教えてくれ」
先端が入口に押し当てられる。強い圧力が加わり、ゆっくりと押し広げられていく。そして次の瞬間、引き裂かれるような鋭い痛みが走った。ルミエルは思わずアルリックの逞しい腕に爪を立てた。
「すまない」
アルリックがぴたりと動きを止めた。薄明かりの中で、彼の額に汗が滲んでいるのが見えた。自らの衝動を必死に抑え込みながら、ルミエルの身体が慣れるのを、彼はただ待ってくれた。
ルミエルは深く息を吐き、それを繰り返した。痛みが、波が引くように少しずつ薄れていく。この人は、僕を待っていてくれる。その事実が、痛みよりも先にルミエルの胸に深く沁みわたった。
腕に込めていた力を緩めると、アルリックがそれを合図としたように、ゆっくりと動き始めた。
最初は痛みと圧迫感だけだったものが、少しずつ熱を帯びた悦びへと変わっていった。身体の奥を深く擦られるたびに、さっきの疼きがより強くなって戻ってくる。アルリックの激しい動きに合わせて、ルミエルの吐息は乱れに乱れた。もはや声を止めることなど不可能だった。快感に引き出されるまま、甘い音が夜の静寂に溶けていく。
「ん……ぁ、あ……っ、ぁ……!」
声が出るたびに恥ずかしくてたまらなかった。けれどアルリックが奥を突くたびに、身体が勝手に喜びを表現してしまう。アルリックがルミエルの手を取り、強く、壊さないように握りしめた。大きく、頼もしい温かさだった。ルミエルも、縋るように力を込めて握り返した。
身体の奥底から、抗えない何かが込み上げてきた。
波のように幾重にも押し寄せてくる熱狂に、ルミエルは息が詰まった。アルリックの手を強く握りしめた瞬間、全身が激しく震えた。視界が白く滲み、天蓋の絹がぼやけて消えていく。
それから、ふっと全身の力が抜けた。
ぐったりとベッドに沈み込み、荒い息を整える。全身に汗が滲み、はだけた夜着が身体に張り付いていた。心地よい疲労感が全身を包み込み、指一本動かすのも億劫なほどだった。
(――これは、なに? すごく気持ち良かった……)
しばらくして、アルリックの強い腕がルミエルを優しく引き寄せた。硬い胸板に顔が押し付けられ、耳元に規則正しい鼓動が届く。それは驚くほど落ち着いた、力強い音だった。
「疲れただろう? 今夜はもう寝よう」
頭上から慈しむような声が降ってきた。もはや頷く力さえ残っていなかった。ルミエルはアルリックの胸板に額を預けたまま、静かに瞼を閉じた。
「ルーク」
アルリックが、小さく愛おしそうに名を呼んだ。
ルークの身代わりとしてここにいるのだから、そう呼ばれるのは当然だ。それなのに、その名前が胸の奥に小さな棘のようにチクリと刺さった。
燭台の炎が一つ、また一つと消え、部屋が深い闇に包まれていく。
アルリックの大きな体温が背中から伝わってくる。それは、泣きたくなるほど温かかった。誰かにこうして抱きしめられたことなど、生まれてから一度もなかった。塔の中では誰も、自分に触れてはくれなかった。
恐ろしい、食い殺されると思っていた男の腕の中で、ルミエルの身体の強張りがゆっくりと、穏やかに溶けていく。
(この人が……本当に、オメガを食い殺すような残酷な男なのだろうか……)
その問いを胸の中でそっと転がしながら、ルミエルは深い眠りの淵へと落ちていった。
あれから、一ヶ月の月日が流れた。 寝室の石造りの暖炉には赤々と火が灯り、夕暮れの訪れが早い季節の到来を告げている。パチリ、と薪が爆ぜる規則正しい音が静寂を刻み、橙色の炎が揺らめくたびに、天蓋の白い布には長く、不規則な影が這い回る。窓の外は藍色の闇に呑まれ、遠くで冬を予感させる風が木々を激しく鳴らしていた。乾燥した空気に、薪の煙の芳しさが微かに混じり、部屋の中に親密な温度を溜めている。 ルミエルは革張りのソファに深く身体を沈め、膝の上に一冊の本を開いていた。 それはアルリックから直接、手ほどきを受けた文字で綴られた物語だ。以前は一頁を読み進めるのにも酷く時間を要していたが、今では指先で追う視線も滑らかになり、文字の羅列はもはや未知の記号ではなく、意味を宿した生きた言葉としてルミエルの中に溶け込んでいる。 視線は物語を追いながらも、喉の奥では、ずっと別のことを反芻していた。(今日こそ……伝えられる気がする) 重厚な扉が開く音がし、アルリックが姿を現した。 一日の政務を終えた彼の貌には僅かな疲労が滲み、上着の襟元が少しだけ乱れている。卓上の燭台が放つ明かりが彼の金髪を眩く照らし、左頬に刻まれた傷跡が深い影を落とした。 けれど、その琥珀色の瞳がルミエルを捉えた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けるのを、ルミエルは見逃さなかった。 本を閉じ、吸い寄せられるように彼のもとへと歩み寄る。ルミエルが背伸びをしてその唇
謁見の間には、透き通った朝の光が斜めに差し込んでいた。 石造りの高い天井まで届く縦長の窓から、白い光の帯が幾筋も床に伸び、石畳の冷たさを微かに和らげている。壁際に置かれた燭台の炎が、外から吹き込むわずかな風に揺れ、灰色の壁に生き物のような影を落としていた。 アルリックが重厚な彫刻の施された上座にどっしりと腰を下ろし、そのすぐ隣にはルミエルが静かに控えていた。 向かい側に座るのは、エルテア王国の新国王オーヴィン・ヴァランと、その傍らに寄り添う王妃。今日この場に臨むまで、ルミエルは幾度も心の準備を重ねてきた。かつて自分を塔に閉じ込め、呪いの名の下に蔑んできた「エルテア」という国の名は、今なお胸の奥底に小さな、けれど鋭い緊張の礫を投げ込んでくる。 ふと視線を向けた新王妃は、ひどく華奢で、儚げな印象を纏う人だった。 細い肩に淡い藤色のドレスが柔らかく落ち、膝の上で重ねられた白い指先が、時折不安げに微かな震えを見せている。年齢はルミエルよりも随分と上のはずだが、その顔立ちは驚くほど整っており、伏せられた長い睫毛の影が頬に美しい陰影を作っていた。丁寧に結い上げられた柔らかな茶色の髪には派手な装飾はなく、その控えめな佇まいにこそ、高潔な品格が宿っているように思えた。 身構えていたルミエルの強張りが、彼女の放つ穏やかな空気感に触れて、雪解けのように少しずつほぐれていくのを感じる。 一通りの儀礼的な挨拶が交わされ、アルリックとオーヴィンは、両国の近況について言葉を交わし始めた。 国境の安定、交易に関する新たな取り決め、周辺
目が覚めた瞬間、ルミエルは指先一つ動かすことができなかった。 瞼の裏側には、暴力的なほど鮮やかな白光が満ちている。天蓋の白い布を透かして差し込む朝の陽光が、寝室の隅々までをやわらかな輝きで満たし、浮かび上がる埃の粒さえも金色の砂のように輝かせていた。 遠くから微かに届く鳥のさえずり、窓の外で若葉が風に戦ぐカサカサという乾いた音。そして、暖炉の隅で灰になった薪の、微かな焦げたような香りが鼻腔をくすぐる。 眠りに沈んでいた五感が、痺れが解けるように一つずつ、ゆっくりと覚醒していく。その緩慢な時間の流れの中で、ルミエルは自らの胸の内に問いかけた。(……ああ。僕、生きてる。本当に、朝を迎えたんだ) 今日は、ルミエルの二十歳の誕生日だった。 この世に生を受けてからずっと、死の期限だと信じ込まされてきた「呪い」の日。暗い塔の中で、砂時計の砂が落ちるのを眺めるようにして待ち続けていた終焉の日が、今、これほどまでに穏やかな朝としてそこにあった。 呪いなど存在しなかったと、あの男の口から真実を知った後も、この朝を迎えるまでは拭いきれない恐怖が胸の隅に澱のように沈んでいたのだ。夜中にふと目を覚ますたび、ルミエルは暗闇の中で自らの胸に細い手を当て、ドク、ドクと刻まれる脈動を確かめては、安堵と不安の狭間で再び瞳を閉じる夜を幾度も繰り返してきた。 ――けれど、約束の朝は来た。 左胸の奥で、心臓が確かに、力強く時を刻んでいる。
「――ここは、あとは儂がおさめるから。行ってくれ」 老いた国王の震える言葉に、アルリックは短く一度だけ頷いた。そして、迷いのない所作でルミエルの細い手を取った。(……温かい) ルミエルの指先を包み込むアルリックの手のひらは、夜の冷気にさらされていたはずなのに、驚くほど熱を帯びていた。その確かな質量に、ルミエルは胸の奥がじんわりと疼くのを感じる。「では、任せた。我々は国に戻る」 アルリックはそれだけ言い捨てると、無造作に踵を返した。ルミエルはその大きな手に引かれるまま、一歩を踏み出す。 背後で国王が何かを言いかけた気配がしたが、アルリックは一度も振り返ることなく、前だけを見据えて歩き続けた。 遠ざかっていく王妃の狂おしい泣き声、ヨハンの醜い怒鳴り声。それらが夜の静寂に吸い込まれ、代わりに二人を包んだのは、研ぎ澄まされた冷たい夜気だった。規則正しく石畳を叩く足音だけが、耳の奥に心地よく響く。 隣を歩くアルリックの気配を感じながら、ルミエルは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、長く吐き出した。(僕は……最初から、呪われてなんていなかったんだ) その事実は、羽毛のように軽くルミエルの心を撫でた。けれど同時に、腹の奥にはズンとした重たい塊が居座っている。
馬が止まったのは、城下の外れにひっそりと佇む、小さな石造りの家の前だった。 王妃エレーヌはすでに馬を捨て、吸い込まれるように家の中へと滑り込んでいた。ガウンの裾が闇に引き込まれていくのと入れ替わりに、「呪いが……呪いが……」という、乾いた木の葉が擦れるような呟きだけが夜の底に沈んでいく。 アルリックがルミエルを軽々と抱きかかえて馬を下り、迷いのない歩調でその後を追った。 室内は薄暗く、埃の舞う空気の中に一本の蝋燭が細い火を灯していた。 簡素な寝台の上で、中年の男が跳ね起きるようにして上半身を揺らしている。王妃に激しく肩を揺さぶられ、男の寝ぼけた顔には、恐怖と混乱が混じり合った歪な表情が浮かんでいた。 その光景をルミエルは、アルリックの腕から解放されながら眺めた。(あの人が僕に呪いをかけた……人?)「助けて。ねえ、あなたしかいないのよ……!」 王妃が男の胸にしがみつき、声を上げて泣き崩れた。乱れた髪が涙で顔に張り付き、かつての気高く冷酷な面影は、見る影もなく崩れ去っている。「……なんだ、何があったんだ、エレーヌ」 男が王妃の肩を抱き寄せ、眠たげな目を細めた。だが、その視線が背後に立つアルリックを捉えた瞬間、男の表情は瞬時
廊下は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。 深夜の城は、昼間の喧騒が嘘のように暗い。石壁に点々と掲げられた燭台の火だけが、頼りなく通路を照らしている。炎が揺れるたびに、長く伸びた二人の影が壁の上で不気味に蠢いていた。 アルリックはルミエルの細い手を引き、迷いのない足取りで進む。硬い石床に響く足音は二人分。ルミエルはまだ足腰に力が入りきらず、アルリックの広い背中を追うのが精一杯だった。 歩くたびに、番の証が刻まれた首の後ろがじんと熱を持つ。それはアルリックとの絆を証明する確かな体温であり、今のルミエルを支える唯一の拠り所でもあった。 廊下の突き当たりに、王妃エレーヌの寝室があった。 アルリックが扉の前に立ち、その大きな拳で二度、静寂を破るように叩いた。 コン、コン。 乾いた音が響くが、中からの返事はない。アルリックは眉一つ動かさず、今度は少し強く扉を叩いた。それでも応答はなく、彼は躊躇なく扉の取っ手に手をかけた。 鍵はかかっていなかった。重厚な扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。 その瞬間、ルミエルは思わず目を背けた。 寝室の中央に鎮座する大きなベッドの上で、王妃エレーヌが若い騎士と絡み合っていた。衣服は無造作に床へ脱ぎ捨てられ、月明かりと燭台の淡い光が、剥き出しになった白い肌を艶かしく照らし出している。
月明かりが窓から差し込み、ルミエルの横顔を淡く照らしていた。 規則正しい呼吸で胸が静かに上下している。疲れ果てて眠り込んだ身体は、アルリックの腕の中で小さく丸まっていて、触れれば壊れてしまいそうな儚さがあった。アルリックはゆっくりと身を起こし、愛しさに胸を締めつけられながら、ルミエルの顔を覗き込んだ。 ふと、その目尻に、乾いた涙のあとが残っているのに気づいた。
何度、書き直しただろうか。 机に広げた紙の上には、たどたどしい文字が並んでいた。アルリックに文字を教わってからというもの、ルミエルは彼が不在の時間を惜しむようにして、羽ペンの動かし方を身体に叩き込んできた。不揃いで頼りない字の形は、砂漠に刻まれた足跡のようにどこか心許ない。けれど、そこに込められた決意だけは、鋭利な刃物のように光を放っていた。 兄の身代わりとして、呪いを受けたまま嫁いできたこと。本当の名前はルミエルであること。卑しい愛人の子として生を受け、陽の光さえ届かない冷たい塔の中に閉じ込められて育ったこと。そして――二十歳の誕生日を迎えるまえに、この身体を蝕む呪いによって命が尽きる
繋がったまま、ルミエルは息をすることさえ忘れていた。 アルリックの重みが上から覆い被さり、腰を深く打ちつけられるたびに、身体が大きく揺れる。くちゅ、くちゅ、と結合部から溢れる水音が、静まり返った部屋に卑猥なほど鮮明に響いた。愛液が二人の間で混じり合い、アルリックが動くたびに、その音は粘り気を帯びて大きくなっていく。「ぁ……ん、っ……ぁあ……」 声が止まらなかった。唇の隙間から甘い音が零れ、天蓋の奥へと吸い込まれていく。アルリックの腰が打ち込まれるたび、肌と肌が激しくぶつかり合い、乾いた音と濡れた音が重なって耳に届く。奥を執拗に抉られるたびに、全身の神経が熱い一点に集まっていく感覚があ
翌日から、アルリックは毎日欠かさずルミエルの部屋を訪れるようになった。 執務を終えた夕刻、廊下に規則正しい足音が響いてくると、ルミエルは決まってソファから立ち上がり、扉へと視線を向けた。期待と緊張で、心臓が一つ、大きく跳ねる。扉が開き、あの金髪の男が入ってくる。それだけのことが、今のルミエルには嬉しくてたまらなかった。 アルリックが小さな机を二つ並べ、紙とインク、そして万年筆を用







