Masuk
「えぇ?!男性ばかりの住み込みの会社で、家事をしてくれる家政婦がいなくなって困ってるんですか?」「そうなんです。知人の会社なんですけど、体力もいるし神経も使う仕事なんでね?……食事くらいは毎食美味いものを食べたいって、愚痴を聞いてしまって」「それは……お気の毒ですね」ウンウン、と何度も細かくうなずいて、雨の日に捨てられた犬のような目で凪を見上げる。眉間に悲しげなシワを寄せ、小首をかしげてみせた。「可哀想に……大丈夫よ?」本当に犬に見えたようで、凪は小さな手で俺の頭を撫でる。……予想通りの反応に心の中で爆笑した。「知り合いを当たってみますけど、それまでは私が週に2〜3度……」「言い忘れましたけど、その会社はちょっと危険な仕事を請け負ってるんですよ。もしかしたら今日の仕事で命を落とすかもしれない……だから今すぐ毎日美味い飯を食べられる安心が欲しいって泣かれちゃって……」「……そうなんですか」凪の大きな瞳にうっすら涙が浮かんだ。……危険な仕事、命を落とすかもしれないというパワーワードが心に突き刺さったらしい。「京極社長、おまかせください。私が行って少しでもお役に立てるのなら!」「ありがとうございます!給料は弾むよう言っておきます」「え、お金をいただけるのですか?」「……逆に、タダでやろうとしてました?」視線を泳がせる凪。……おいおい、どんだけ聖女なんだよ。もう一歩で天使を通り越してアホに成り下がるぞ。……という心の声はおくびにも出さず、少しだけ助けてやることにした。「時間は7時から13時までの実働5時間。朝食と昼食付き。週休二日。給料は時給3000円で交通費全額支給。……という条件で話を進めます」「え、時給3000円って、そうなると週休二日で……40万円以上の稼ぎになりますけど!?」「当然です。家政婦のあとは、ここでの仕事もあるでしょう。あの……変な踊りを踊らなきゃならないし」首をかしげる凪に、ひとつ咳払いをしてごまかす。「それでは向こうの企業に凪さんのことをお伝えしますね」「面接は?」「……そんな贅沢なものはさせません」「はぁ……あの、その企業様のお名前は?」「黒石一……黒石興業です」一礼して、つまみっ子倶楽部の簡易的な事務室のドアに向かう京極。……上半分が透明の窓になっていて、そこに何人かの子供が背伸びして覗き込
「り……ひと、」「俺の名前を気安く呼ぶな……っ」女の両手を頭の上で片手でまとめ、スカートをまくりあげて覗く白い太ももを開く……ベルトをゆるめ、チャックをおろして自身をソコへと導けば、あとは一旦すべてを忘れられる。……離婚した妻に贈ったはずのネックレスは、俺に嫌な記憶を蘇らせた。凪の首元を飾っていた時は光り輝いていたのに……自分のもとに戻ってきた途端まばゆい光を失い、代わりに不吉な輝きを放っているように見える。嫌でも自分をあの日に連れて行くとわかっていながら、俺はネックレスを手に入れてしまった……本気の愛の証として、唯一愛した妻に贈ったものだった。それが数年の時を経て自分の手に返ってくるとは……精一杯の愛を突き返されたあの日と同じ痛みが胸を貫く。結婚生活は3年目に破綻した。理由は妻の裏切り……1人では寂しさを埋められない幼稚な女だった。激しく腰をくねらす俺に、女が甘い叫び声を上げた。体とは裏腹に冷え切った気持ちと同じく、冷たい表情でそんなを女を見下ろす。「あ……っ、まって……っちょっと……」何を待てというのか。本当はイイくせに、女はいつも逆を言う。イイくせにダメ、待てと言いながら、ほら……自分から腰を動かしている。先端に向かってくる快感は、どんな女を抱いても同じだ。面倒になって動きを早め、勝手にフィニッシュを迎える。自分の始末だけをして、だらしなく開く女の下半身にはスカートを適当におろして終わりにした。現金を数枚、女の上へと降らせ、俺はホテルの部屋をあとにする。「待って……次は、いつ会えますか?」まだ余韻を残した顔で、通り過ぎようとした腕を取られた。「次はない」「どう、して……この前は専属にするって言ってくれたのに」「執着されるのはまっぴらだ。俺のようなクズに惚れる女も……泣く女もな」すでに頬を濡らす顔を見て冷たく言ってやった。……凪の涙とは違う、哀れみを誘う涙。いつからか、妻の真美もよく泣くようになっていたことを思い出した。「あ……あんたの情婦だったこと、あちこちでバラしてやる」「好きなだけ話せよ。界隈じゃ俺は危険人物だと知られてる。痛くも痒くもねぇわ」「次は、別の女を抱くの?」返事をする必要はないと判断して部屋を出た。すぐに秘書に連絡をする。「1本携帯を捨てる。30分後に取りに来い」仕事用とプライベー
「本当にいいんですか?!これ……お母さんの形見でしょ?」京極社長にネックレスの話を聞いて手放す決意をし、つまみっ子倶楽部に戻ってきた凪に声をかけてきたのは、介護職員の小森和人。凪は奥の金庫からネックレスを取り出し、デスクに広げて携帯を構える。「昨日話を聞いたときから迷ってたんです。……このネックレスに思いがある人が持ってるべきなんじゃないかって」「疑うわけじゃないけど……それ本当の話なんですか?」たった今聞いてきたネックレスの話を、かいつまんで聞かせるも、疑わしい表情で腕を組む小森。「そんなに簡単に、人は嘘をつかないと思うんですけど」「でもあの京極って社長、カッコ良すぎるし、かなり胡散臭いですよ?」凪は心配そうな小森を見上げ、安心させるように笑った。「大丈夫ですよ。入居者の代表として立ち退きの反対を訴えに行ったとき、有名な政治家さんの名前を出してましたよ?……ケーキも美味しかったし」「政治家と付き合いがある企業?……それ逆に危ないでしょう?!それに、美味しいケーキは信頼の材料にはなりません!」「それはそうですけど……」小森は凪よりひと回り近く年上の介護士だ。そのせいか、凪の行動を注意深く見守っているところがある。凪はそれに対して感謝の気持を抱きながら……信用されていないことも痛感して、少し寂しく思うこともあった。「そもそも、あのネックレスをつけている母を見たことないし。形見と言っても思い出の品だということもないので……」「だけど売却すればかなりの金額がつくと思いますよ?」それを言われるとグッと詰まる……凪にとってお金は、自分の未来を大きく左右するものだ。……どんな人にもそんな側面はあるだろうが、凪の場合、状況が切迫している。「ネックレスの事情を知ってしまったんだもの。売りに出すなんてこと、できません」写真を数枚撮ってから、ネックレスをケースにしまった。そして少し考えて、手持ちのバッグではなくリュックに入れて、しっかりチャックを閉じる。京極がアクセサリーの価値は8桁だの9桁だと言っていたので落ち着かない……荷物をひったくられる心配のないリュックなら安心だ。「ネックレス、自分は写真でいいってことですか?本当にあなたという人は……」笑ってごまかしながらドアを出ていこうとする凪に、小森はもうひと声かけた。「車に気をつけて。自
「諦めた訳じゃありませんよ?私がオーダーしたネックレスの可能性は捨てきれませんから」「そうだとしても、母が虫の息で私に存在を伝えたネックレスなんです。盗んで手に入れたという証拠でもあれば別ですけど、そうじゃないならいくらお金を積まれても手放す気はありません」「……また来ます。あなたはまったく私の言う事を聞いてくれないので」一瞬向けた視線に、少しだけ罪悪感が乗ったのを感じた。ここで追い込めば、ビルからの退去もネックレスも、彼女から勝ち取ることは出来るだろう。多分……相当な涙と引き換えに。帰社する車の中。運転席の秘書が後部座席に座る京極に、バックミラー越しに不躾な視線をよこした。イライラした京極はため息をつき、ミラーを睨む。「……なんだよ」「い、いえ……あともう一押しで凪さんの気持ちを変えられそうだったのに、ボスらしくなく強く出なかったので、どうしたのかと思いまして」「苦手なんだ。ああいう女は」正統派美人、まっすぐで穢れのない瞳、キラキラした笑顔……「しかも福祉施設の運営者だぜ……?俺とは真逆すぎて、蕁麻疹が出る」……交通事故で母親を失ったと言ってたが、一人暮らしなのか、それとも父親や家族がいるのか。「汐沢凪は、あのビルの居住者か?」「あぁ……はい。全居住者6名のうちの1人に間違いないです」少ないから覚えてますえへへ……と笑う秘書の前歯が赤く染まっている。きっと余分に塗りすぎた真っ赤な口紅のせいだろう。京極はゲンナリした表情を隠さず秘書に命じる。「サバンナビルディングに戻れ」自分たちが帰る時、利用者はもうほとんどいなかった。……あの変ちくりんな踊りは小学校で言う帰りの会みたいなものだったのだろう。きっと今頃、つまみっ子倶楽部には凪1人だ。「あの、何か忘れ物でも……」「あぁ。大事なものを置いてきてる。誰も中に入れないよう、入り口を封鎖しないと危ない」「え、でもまだ帰宅してない居住者もいるかもしれませんが、」「……そんなもん知るか」それより、凪が持っているネックレスの方がずっと重要だ。俺の目に狂いがなければ、あのネックレスは間違いなく元妻、真美に贈ったもの。だとすれば、金額では換算できないほどの価値がある。なにしろ、京極家に代々伝わる希少価値の高いダイヤを使っているのだから。サバンナビルディングは、設立した当時、
3日後……京極は秘書を連れてサバンナビルディングにやってきた。つまみっ子倶楽部に行く前に1階の中華料理屋に顔を出す。「あぁっ!……京極さぁん!」大きな鍋をかき混ぜていたお玉をぶん投げ、自分に駆け寄る初老の店主は満面の笑顔だ。「どうも……で、すすんでます?」「もちろんです〜約束の日には必ず退去しますからね!」キャンキャンと甲高く鳴き、自分の周りをぐるぐる回る忠犬店主の頭を撫で、京極はその隣のレストランにも顔を出した。「わおっ!京極さん!」マンマ・ミーアっ!と叫んで踊りださんばかりなのは、中華料理屋の店主と同じだ。居住者も全員、京極が示した十分な立ち退き料を受け入れ、残るは「つまみっ子倶楽部」だけなのだが。「……たった3日でつまみっ子さん以外を落とすとは、さすがボスです」「もっと言え」遠慮がちに言う秘書を見下ろす京極に、秘書は顔を赤らめた。……ちがう。化粧が濃いだけか。これから究極の「暖簾に腕押し」に、退去を承諾させに行かなければならない……あのキラキラした目と、不器用なのに一生懸命な雰囲気が苦手で身震いがする。2階に上がると、のんびりした歌声が聞こえてきた。入ってみると老人と子供が、前で踊る凪の身ぶり手ぶりを真似て踊りながら歌っていた。それはあまりに平和な光景で、くらっ……とめまいを覚える。よろめく京極をとっさに秘書が支えたが、視線を向けた瞬間、勢いよく手を離すから……うっかり踊りの輪の中に入ってしまった。「あ、京極さん?!」子供と老人に注目される中、キラキラした笑顔の凪に名前を呼ばれ、その目が一緒に踊ろうと誘っているとわかる。両手でそれを阻止し、代わりに秘書を引っ張ってきて踊らせてやる。話はこのへんちくりんな踊りが終わるのを待つしかない……「すみません、体操とコミュニケーションを兼ねた、オリジナル音頭でして……」「はぁ、そうですか」別室に案内されてホッとしたところで、子供が小さな乳酸菌飲料とストローを持ってきた。……テーブルの下に体ごと入ってしまうほど小さいくせに、こんなものを持ってきて。突き刺して飲めというならそうしてやろうじゃないか。「……それで、私がここへ来たのは、」ストローに口をつけ、ちう……っと一気に吸い込むと一瞬で空になる乳酸菌飲料。視線をやると、窓越しにこちらを見ていた子供が嬉しそうに笑うので、
「あなたは……?」「申し遅れました……サバンナビルディング2階で『つまみっ子倶楽部』という福祉関連事業を行っております、汐沢凪と申します」綺麗な所作で頭を下げる女はとても若そうだが、年齢に見合わない気品に近い落ち着きと佇まいを見せる。あぁ……こういう正統派美人は苦手だなぁ。「つまみっ子倶楽部……なかなか攻めたネーミングをつけましたね?」「本当は、つくしんぼ倶楽部にしようと思ったのに、申請書に何を思ったかつまみっ子と書いてしまって……」話の矛先を変えた京極にまんまと乗っかる汐沢という女性。顔がみるみる赤くなっていくのを見て、京極はちょっと口角をあげた。「……よければ、次に入居できるテナントをご紹介します。移転費用もこちらでお出ししますよ」「でも……それは申し訳ないです」「いえ、突然の取り壊しで申し訳なく思っております。せめてそれくらい、させてください」少し黙った汐沢。……よし、落ちた。京極は近くに空いているテナントを頭の中で探し始めた。……退去は2週間で完了してもらおう。そのかわり、うちのマスコットキャラクターのぬいぐるみでも渡して……「そんなお世話になるわけには、参りません」「は?」「だってそんなことをしたら、こちらの会社がたくさん損をしてしまいますよ?」「はぁ……いや、だからそれは」「立ち退きを反対する入居者の代表として来たんです。ですからお願いします。サバンナビルディングでこのまま営業させてください!」頭を下げ、サラサラと落ちる髪。 ぼんやり見つめながら、京極は気づかれないようため息をつく。……これだから正統派は嫌なんだよ。秘書がアイスコーヒーを持って入ってきた。これ以上話しても折り合えないような気はしたが、今後の交渉のため愛想を振りまいておくことにする。「君……高島田幹事長からいただいた、コンソワーレ・セ・ボンのアレ、お出しして」秘書に伝えるも、頭の上にはてなマークを踊らせている。……くそ使えない秘書めっ!高島田幹事長とは、普通にニュースを見る大人なら、誰でも知っている政治家だ。コンソワーレ・セ・ボンとは、SNSで話題になっているパティスリー。若い女子なら知ってるだろ。その2つの名前を出したのは、わかりやすく権威性を示せるからだ。あからさまな舌打ちに、秘書は青い顔で飛び出して行く。しばらくしてそれらしい







