INICIAR SESIÓN私は黙って彼の言葉を聞いていた。表情ひとつ変わらなかった。そんな私とは正反対に、彼の目は痛いほど揺れている。彼もそれに気づいたのか、顔がさらに曇っていく。しばらく沈黙が落ちたあと、私は「うん」とだけ返した。立ち去ろうとした瞬間、手首を掴まれた。力は強くない。かつて私に梨乃へ謝れと迫った時より、ずっと優しい。だからこそ、その優しさが余計に皮肉だった。「行かないでくれないか」彼は伏し目がちのまま、そっと私を見た。あの切れ長の目は、今は哀願の色を帯びている。「千代、俺は別れたくない」あれほど強引だった彼が、今はひどく弱々しく見える。「梨乃はもうクビにした。今後、あいつとは一切関わらない。信じてくれ」私は彼をしばらく見つめた。それから、慌てる彼をよそに、掴まれた手を振りほどいた。「信じない。前にあなた、私を一生守るって言ったよね。あなたの『一生』って、たった十年だったの?」彼の目が、悲しみと後悔で揺れた。私は深く息を吸った。もう、うんざり。「もう来ないで。二度と関わらないで。あなたと話すことは、もう何もない」そう言い捨てて背を向けた。彼は追ってこない。ただ、蒼白な顔で私の背中を見つめているだけだ。彼が諦めないことくらい、分かっていた。だから翌朝、玄関先に京介たちがそろって立っているのを見ても、たいして驚きはしなかった。翔の手には、私が毎年楽しみにしていた、この時期限定の焼き菓子があった。「千代……ごめん」そして、風斗の手にあるものを見た瞬間、私は言葉を失った。それは「仲直りチケット」だった。たどたどしい字を見た瞬間、子供の頃の私が作ったものだと分かった。風斗はそれをそっと広げた。「……仲直りチケット1枚。1回だけ許してあげるって、そう書いてあった」読み上げたあと、彼は不安そうに私を見た。「千代……これ、まだ有効かな?」私はゆっくりそれを受け取り、書かれた文字をぼんやり眺めた。そして、彼の目に希望が浮かんだ、その瞬間――私はそれを破り捨てた。風斗は息を呑み、目を見開いた。「千代……」自分でも驚くほど、声が冷えている。「子供の頃の約束なんて、何の意味があるの?あなたも言ったよね。私をちゃんと守るって。なのに、守れなかった。だ
その頃、遠い海の向こうで、私はちょうど空港に降り立ったところだった。スマホには、あの3人からのメッセージが山のように溜まっていた。なかでも京介からのものは群を抜いていて、百件を優に超えている。私は一通たりとも返さなかった。そのまま全員をブロックし、まとめて削除する。慌ただしく飛び出したせいで、あの連中の連絡先まで消しそびれるところだった。そんな時、母からビデオ通話が入った。「京介たちが屋敷まで来たのよ。そのあと、京介が交通事故に遭ったの」私はただ小さくうなずいた。昔の私なら、仕事の手を止めてでも、すぐに彼のもとへ駆けつけていただろう。けれど今は違う。ただ小さくうなずいて、「わかった」と返すだけだ。彼の生死なんて、もう私には何の関係もない。「そうそう、婚約解消の件だけど、こちらから新堂家へきちんと伝えておいたから」「ありがとう、母さん」通話を切ると、私はA国であらかじめ買っておいた家へ戻った。荷物をほどき、ようやくほっと息をつく。あの腐りきった関係に、もう二度と振り回されることはない。ただ、一つだけ意外だった。まさか梨乃が、京介にクビにされてたなんて。あれだけ大事にしてたはずなのに、何があったんだろう。そう思いはしたものの、私はすぐに首を振った。もう彼らのことを深く考えるつもりはない。私の中では、もう終わった存在だ。A国での生活は、驚くほど充実していた。支社で働きながら、現場で一つひとつ仕事を覚えていった。以前よりも、ずっと多くのことを吸収できている実感があった。周囲は最初こそ私を軽んじていたけれど、いつしか皆が当たり前のように私を「社長」と呼ぶようになっていた。そんなある日、私はまた1つ、大きなプロジェクトを勝ち取った。オフィスの入り口に立ち、皆に向かって声を張り上げる。「みんな、今月のボーナスはいつもの5倍よ。今夜は私のおごり。好きなだけ頼んでちょうだい」たちまち歓声が上がる。私は微笑んでいた。もしかしたら、最初からこうするべきだったのかもしれない。少しずつ心をすり減らすような関係にしがみつくくらいなら、全部を仕事に注いでしまったほうが、ずっとよかった。あれからも、私はずっと全員をブロックしたままだった。けれど着信を拒否すれば、今度はメールを送ってく
その瞬間、京介は息をすることさえ忘れた。まるで周囲の空気が一気に奪われたように、喉がひりつき、胸の奥が苦しく締めつけられる。「千代……」翔も風斗も、呆然とその場に立ち尽くしていた。昨日まであんなにも元気だった人が、もう二度と戻らないかもしれない――そんな現実を、誰ひとり受け止めきれずにいた。もし千代に何かあったら、自分たちはどう償えばいいのか。この先、どんな顔をして生きていけばいいのか。京介は目を真っ赤にしたまま、引き寄せられるように担架へ駆け寄った。震える手で、白い布をそっとめくる。そこにあったのは、見知らぬ顔だった。その瞬間、京介の唇から大きく息がこぼれた。全身から力が抜け、足元がぐらりと揺れる。翔と風斗に支えられなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。「……よかった。千代じゃない」翔がはっとしたように顔を上げた。「そういえば、千代には運転手がいたはずだ。俺たちが先に出たあと、自分で連絡して迎えに来てもらった可能性もあるんじゃないか?」京介はかすかに首を振った。分からない。けれど今は、ただそうであってほしいと願うことしかできなかった。捜索が終わっても、最後まで千代の姿は見つからなかった。それは同時に、翔の推測が外れていない可能性を示している。男たちは顔を見合わせると、すぐに車へ乗り込んだ。向かう先は、桑原家だった。道中、京介はアクセルを深く踏み込んだ。赤信号さえ目に入らないほど、張りつめたまま車を走らせる。頭の中にあるのは、ただひとつ。1秒でも早く、千代に会いたい。後部座席の梨乃は、猛スピードに顔を青くしていた。「京介、少しだけ……ゆっくり走っていい?怖いの……」けれど、誰もその言葉に応えなかった。梨乃がもう一度声をかけようとした、そのとき。「怖いなら降りろ」鋭い声が、車内の空気を切り裂いた。梨乃はびくりと肩を震わせる。目の縁がみるみる赤くなり、唇を噛みしめたまま、梨乃は何も言えなくなる。どうして。どうして、私がこんなふうに言われなきゃいけないの。その目の奥に、悔しさと憎しみにも似た色がじわりと滲む。ふと振り返った翔と風斗は、そんな梨乃の表情を目にして思わず息をのんだ。二人は無言のままそっと目を見合わせた。互いの瞳に滲
グループチャットが静まり返る。しばらくして、翔と風斗がようやくメッセージを送ってくる。【昨夜、千代は車に乗ったっけ?】【いや、忘れてた。気づかなかった】そのやり取りを目にした瞬間、車内にいた京介は息が止まりそうになった。自分も、千代が車に乗ったかどうかすら確認していなかった。今朝、土砂崩れのニュースを見た瞬間から、胸の奥がずっとざわついている。千代に何度電話をかけても、一度もつながらない。こんなこと、今まで一度もなかった。京介はきつく目を閉じる。きつく結ばれた唇が、押し寄せる動揺を懸命に押し殺しているようだった。そのとき、ふとドライブレコーダーの後方映像に目が留まった。京介は弾かれたように昨夜の記録を再生する。嵐の中、翔と風斗が梨乃を車へ乗せた。その直後、車のドアが閉まった。細い人影が、車の外に取り残されていた。その一瞬が、はっきりと映っている。京介の呼吸が止まった。まさか――自分は千代を、あの場に置き去りにしたのか?ラジオから流れる土砂崩れの続報が、かろうじて保っていた冷静さを少しずつ奪っていく。もし彼女が本当にあの中にいるのだとしたら、自分はこの先、どうやって生きていけばいいのだろう。そのとき初めて、京介は思い知った。自分が間違っていたことを。そして、失ってはいけないものを失おうとしていることを。京介はアクセルを強く踏み込み、昨日の別荘地へ向かう。ほどなくして、翔と風斗も追いついてくる。彼らの顔色は真っ青だった。「千代は……昨夜、車に乗れなかったのか」京介は全身をこわばらせたまま、ゆっくりとうなずく。二人は顔を見合わせた。同じ恐怖が、互いの目に浮かんでいる。昨日まであれほど賑わっていた別荘地は、今や無残な被災現場と化している。消防隊員、救急隊員、報道陣があたりを埋め尽くし、現場は騒然としている。さっきの映像が、ふいに京介の脳裏によみがえった。そこに映っていた千代の青ざめた顔に、京介はたまらず中へ駆け出しかける。だが、消防士に鋭く制止される。「入らないでください!中は危険です!」「恋人が中にいるんだ!助けに行かせてくれ!」京介の目は赤い。消防士は一瞬言葉を詰まらせたが、それでも首を振った。「こちらで全力を尽くしています。ですが、今は二次崩落の
私は少し離れた端の席に腰を下ろしていた。スマホに、明朝の便のチェックイン通知が表示された。近づいてきた京介が、私の手元を見下ろす。「何を見てた」私はすぐに画面を伏せた。「別に」向こうで、梨乃の弾んだ笑い声が上がる。私はそちらを一瞥してから、静かに手を差し出した。「大事な梨乃も満足したでしょう。そろそろ返してくれる?」その言い方が癇に障ったのか、京介の眉がほんのわずかに寄る。けれど次の瞬間には何事もなかったように表情を消し、ペンダントを私の手に戻す。受け取ろうとした、そのときだった。横合いから梨乃が勢いよくぶつかってきて、私の身体がぐらりと揺れる。ペンダントは指先をすり抜け、そのまま足元へ落ちた。乾いた音がして、次の瞬間には無残に割れていた。息が止まった。散らばった破片を呆然と見つめたまま、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。梨乃は唇を噛みしめ、泣きそうな顔で謝った。「ごめん、千代。気づかなくて……」私が口を開くより早く、翔が梨乃をかばうように言った。「梨乃は悪くないだろ。千代が取り損ねただけじゃないのか」風斗も京介も、梨乃をかばうようにそのそばを離れない。翔は気まずい空気を打ち消すように、テーブルに置かれていた小さなメッセージタグとペンを手に取った。「もういいって。せっかくだし、ひとことずつ書いて庭の飾り木に結ぼうぜ。記念にもなるだろ」梨乃はぱっと顔を輝かせた。「じゃあ私、5人がずっと一緒にいられますようにって書く!」彼らは、そんな彼女に優しく目を細めた。私は返事もせず、足元に散った破片を拾い集めた。指先が切れても、気にならなかった。ただ、胸の奥だけがじわじわと痛んだ。翔がメッセージタグを1枚ずつ配っていく。けれど、私の番になったところで、彼の手がふいに止まった。彼の手元には、もう何も残っていない。その瞬間に悟る。まただ。私は最初から、彼らの「5人」の中に入っていない。翔は頭をかきながら、取り繕うように笑った。「こういうの、千代は別に好きじゃないだろ?1枚くらいなくても平気だって」京介が、私の気持ちを決めつけるように言った。「いいよ。千代は気にしてない」そう言うと4人は庭先で身を寄せ合い、互いの願い事を覗き込んでは笑い合っていた
彼女はすぐに退職手続きを済ませ、その日のうちに京介の専属アシスタントになった。彼女の就任祝いに、彼らは郊外の山あいにある貸別荘を借り切ったらしい。景色のいい高台に広がる別荘地の一角で、梨乃が前から一度行ってみたいと話していた場所だと聞いた。山の天気は変わりやすく、その日も夜には雨になるかもしれないと予報が出ていた。けれど、そんなことを気にする者は誰もいなかった。「行かない」届いた招待状を見た瞬間、私は眉をひそめてそう言った。すると案の定、梨乃が泣いた。京介は慌てて梨乃をなだめ、その足で私の家まで押しかけてきた。彼は私の部屋の前に立ち、逃がさないとでも言うように行く手を塞ぐ。「もうわがまま言うなよ」私は疲れたように息をついた。「私、一体何をわがまま言ってるっていうの?行きたくないって思うことすら、だめなの?」ここ数年、ずっとそうだった。梨乃の機嫌を損ねれば、悪いのは私。彼女が涙を見せれば、責められるのも私。誰ひとり、私がどう思っているのかなんて聞いてくれなかった。卒業写真を撮る日だって、そうだった。彼らは梨乃にだけ花を用意して、私のことは忘れていた。それはいけないと思ったのか、梨乃は自分の花を私に譲ろうとした。けれど、私は受け取らなかった。すると彼らは、梨乃が気まずい思いをしないようにと、私を卒業写真に入れなかった。彼ら4人だけの、思い出の1枚。一生に一度しかない写真に、私の居場所がないなんて。今回の誕生日だって同じだった。遊園地に行くことになったのは、梨乃が行きたがっていたから、京介が決めただけ。決して、私が好きだからじゃない。それでも疲れた声で拒めば、京介にはわがままにしか見えないらしい。彼は口を引き結び、感情を抑え込むようにしながら言った。「梨乃は田舎から出てきて、やっと俺たちみたいな相手に出会えたんだ。千代が来てくれないと、あいつはまた余計なことを考え込む。千代、頼むよ」私は呆然と彼を見つめた。京介が、私に「頼む」と言う。そんな日が来るなんて、思ってもみなかった。――でも、それは恋人である私のためじゃない。梨乃のために、だわ。私は視線を落とす。滲んだ視界のせいで、足元がぼやけた。「……わかった」その一言に、京介はようやく安