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第112話
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佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第114話
しかし、絵を描くこと以外、自分には一体何ができるというのか。自分の未来なんて、とうに誰かの手で決められていたのではないか、そんな思いが胸の奥に澱のように沈んでいた。押し込めていた怒りのやり場が見つからず、明日香は爪を手のひらに食い込ませながら、ただ黙って目を伏せていた。その重苦しい空気の源が遼一であると感じた珠子は、咄嗟に笑顔を作って場を和らげようとした。「遼一さん、映画のチケット買ったじゃないですか？そろそろ時間ですよ。行かないと遅刻しちゃいますよ」軽い口調で促しながら、遼一に言葉を慎むよう目で合図した。珠子には、二人の間に何があったのか見当もつかなかった。あれほど遼一を想っていた明日香が、ある日突然冷たくなり、時には刺すような言葉さえ投げかけるようになった。遼一の怒りは苛烈で、珠子さえ怯えるほどのこともあった。遼一は明日香の絵の下絵を無造作に引き裂き、冷え切った目で見下ろした。「向上心のないやつだ。この三ヶ月、まだ懲りないのか？」その言葉に珠子は慌てて彼を制止し、強引に引き離した。病室を出て、廊下の出口に差し掛かったときだった。床に散らばった破れた紙の中から、明日香は一枚の絵を拾い上げた。「......遼一」思わず漏れたその声に、遼一と珠子は足を止めた。「私は、ただ......好きなことをしていたいだけ。もう......私にかまわないで。あなたたちの望むことには、もう十分に応えてきた。帝都大学に進むのも、卒業後に結婚するのも......残りの三年、私の人生に口を挟まないで」遼一が自分を嫌っているのなら、なぜあの絵を破ったのだろう。すでに二人の間には、ほんのわずかな親情以外、何も残っていないはずなのに。二人が立ち去ったあと、部屋に残されたのは、深い静寂だけだった。これで本当に遼一との縁は切れたのだろうか。一度は死んだはずのこの身体で、なぜいまだに彼を恐れる必要があるのだろう？明日香は、保温容器の中の料理を黙々と食べきった。しかし、思いもよらぬことに、それからわずか三十分後、再び食事が運ばれてきた。樹が、彼女が空腹になるのを案じ、別のレストランから料理を取り寄せたのだった。だが、明日香はもうお腹がいっぱいだった。スプーンを持つ手が機械のように動き、無意識に口へと運ぶ。自分は、一体どうなってし
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第113話
怪我をして以来、珠子は学校から遠ざかり、自宅で長い療養生活を送っていた。今日は珍しく遼一が休日だったため、珠子は彼に頼み込んで外出を許され、その足で病院にいる明日香のお見舞いに行くことを決めた。「ずっと家に閉じこもっていては体に良くないはず」と、珠子はそう思っていた。この間、明日香へのお見舞いに訪れる人はほとんどおらず、もっぱらウメが足しげく通っていた。二人はウメに頼んで料理をたくさん作ってもらい、それを持って病院へと向かった。ウメに世話をされる日々が続く中で、珠子の元々ほっそりしていた顔は、うっすらと赤ちゃんのような柔らかさを帯びてきていた。お見舞いということで、珠子はいつも以上に慎重に身だしなみを整える。しかし化粧はせず、三つ編みを肩に垂らし、薄い色合いの膝丈スカートを身にまとった。その姿は清楚で柔らかい印象を与えたが、遼一と並んで歩く二人を見れば、まるで叔父と姪のように見えた。病室の前にたどり着くと、珠子はそこで何かが違うことに気づいた。部屋の中に見慣れぬ人影があったのだ。バルコニーにいる明日香の姿を確認しなければ、間違えて別の病室に来たのかと思ったほどだった。明日香はドア越しに二人の姿を捉えると、心のどこかで一瞬の動揺を覚えながらも、何事もないように軽く話し始めた。「いいのよ。もし気に入ったら、次はもっとお菓子を作って持っていくわ。嫌いなものがあれば後でメッセージしてちょうだい」「君が作るものなら、何でも美味しいよ」「じゃあ、切るわね。お兄さんが来たみたいだから」「わかった」明日香は相手との通話を切り、バルコニーから中へ戻ると、手にしていた携帯を相手に返した。「すみません、突然のことでしたのに来ていただいて」「いえ、どうぞお気になさらず」その相手が病室を後にした後、明日香はようやく遼一と珠子に目を向けた。しかしその目はどこか虚無的で、何の感情も読み取れない。そして、不自然に浮かべられた笑みはかえって哀愁を漂わせていた。「お兄さん、珠子さん、どうしたの急に？」珠子は何かを言おうとして躊躇い、気後れした様子で一歩だけ前に進み、手に持っていた花束を差し出した。「明日香、遅くなって本当にごめんね。模擬試験があって、ずっとそれで忙しかったの。それから、遼一さんも仕事が立て込んでいて......言い訳になっ
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第112話
明日香はそっと本を閉じ、静かに歩を進めた。その先で、ボディーガードが手際よく保温弁当の蓋を開ける。三段重ねの弁当箱が姿を現し、一番上には羊羹、二段目には豚カツ、そして三段目には野菜の栄養粥が入っていた。あの夜、病状を知らされた明日香は耐えきれない不安に押しつぶされそうになり、病棟の下にあるあずまやでひとり涙をこぼしていた。その時、聞きなれた男の声が静かに響いた。「どうして君を見るたびに泣いているんだい？」苦笑を混ぜた優しい口ぶりに、明日香はふと顔を上げた。そこには他人でありながら、深い思いやりを湛えた瞳があった。樹――彼は明日香が今まで出会った中で一番心の温かい人だった。正体も知らない見知らぬ誰かから受ける温もりが、こんなにも胸に染み入るものだとは、明日香自身も思わなかった。それ以来、樹は度々顔を見せに来てくれるようになった。そして毎回、彼は手ずから準備した食事を届けてくれる。驚くべきことに、彼は明日香の好物をまるで知り尽くしているかのようだった。しかし、どうして彼がここまで親身にしてくれるのか、その理由を明日香は理解することができなかった。ボディーガードが静かに説明を始める。「羊羹は若様があなたの家のウメさんに教わって作られたものです。豚カツも......実は若様の料理初体験です。不味かったら無理せず残していただいて構いません」明日香は感心しながら尋ねた。「でも、どうして3切れだけなの？」その問いに、ボディーガードは落ち着いた声で答える。「医師から傷が癒えるまで脂っこいものを控えるよう指示がございました。全快した暁には、若様がたっぷりお作りすると約束されましたよ」ほほ笑みながら「なるほど」と頷き、明日香は箸を手に取った。一口豚カツを口にすると、その手が突然止まる。表情に変化は見せないまま、彼女はじっくりと味を確認し、静かに飲み込んだ。彼の心を無駄にはしたくなかった。ウメさん以外の誰かが自分のために料理を作ってくれたのは初めてだったからだ。 明日香は豚カツと粥をすべて平らげ、羊羹は後で食べることに決めた。そしてお返しとして、暇な時に焼いた手作りクッキーをボディーガードに託した。その後、部屋を見送るように出た明日香は突然胸を押さえ、急ぎ足でトイレへ向かった。手早く口をすすぎ、水を何杯も飲み干す。その異変に気付
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第111話
江口は小さく頷いた。「ええ」康生は彼女の滑らかな脚をゆっくりとなで回しながら、思案顔で言った。「好きにさせておけよ。会社の大半の業務はあいつが仕切っている。たまの息抜きなら構わないさ。だが、どうしてあいつのことを気にかける？そんな小賢しい頭でまた何か企んでるんじゃないだろうな？」もともと猜疑心の強い康生に対し、江口は甘え混じりの声で返した。「ただ、彼が銀ノ蝶にいるって報告しただけよ。後で遼一さんから話を聞いたとき、『なぜ黙っていた』って怒られたくないから」康生の眉根がふっと緩み、再び江口を抱きしめて首筋に軽くキスを落とした。「よしよし......拗ねないで。明日、一緒に買い物にでも行くか？好きなものを何でも買ってやるよ」すると、隣の個室から声が飛び込んできた。「おいおい、そこの二人、何をひそひそ話してるんだ？俺たちに聞かせられない話か？」「話すことなんて決まってるでしょ、ベッドの上のあれよ」「お嬢ちゃん、暇なときはこのジジイのために滋養強壮のものでも買ってやってくれよ」本気の言葉はいつだって冗談めかして口にされるものだ。康生も彼たちの本性を知らぬはずはない。——傷跡はかさぶたになりつつあるが、時折かゆみを伴う。じっとしていられず、痒みをこらえるのが何よりもつらい。医師からは跡が残ると告げられたが、明日香は気にしない。ベッドから起き上がれたら、明日香は介護士・圭子を帰らせた。もうほとんど介助は要らない。遼一が最後に訪れて以来、誰一人として見舞おうとはしなかった。明日香の存在は、周囲の誰にとっても取るに足らないものだった。ただ、ウメだけが毎晩欠かさず訪れた。外食が合わないと知るや、手作りの料理をそっと置いて帰っていく。本来なら静水病院で療養するはずだったが、むしろ体重は数キロ落ちたままだ。病室のドアをノックする音が響き、明日香はバルコニーのソファから顔を上げたが、そのまま動かない。「入れ」ドアが静かに開くと、黒いスーツに身を包んだボディガードが、ピンクの保温容器を手に立っていた。「明日香様、お食事をお持ちしました」明日香はかすかに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。「そこに置いておいて。後でいただくから」「樹様より、『食べ終わるまでそのまま待つように』とのご指示を預かっております
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第110話
「あの薬は、お前が渡せと言ったんだろう？目的はもう果たしたじゃないか。なのに、なぜそんな悲しい顔をしている？明日香を打ちのめし、康生が自分の娘を地獄に突き落とすさまを見届ける......それはお前の計画の一環だったはずだろう？もし、あの子とやりたいなら......先に譲ってやってもいいぞ」哲は唇を尖らせながら、ふざけた口調でそう言い放った。「気にならないなら、いっそ二人で一緒にいただくのも悪くない。長年の兄弟だろ？女一人、共有するくらい、どうってことはない。こうも長い間、お前が女に手を出さないのを見てるとさ、本気で不能なんじゃないかって疑いたくもなるよ！」その言葉に、遼一の瞳が凍てつくように冷たく光った。底知れぬ闇が、瞳の奥に静かに広がっていた。「......もう一言でも口にしてみろ。お前の口を永遠に閉ざしてやっても構わない」哲の切れ長の目にほんのり赤みが差し、血のように濃い唇が妖しく歪んだ。彼は肩を震わせて笑い声を上げた。「焦ってるのか？珍しいな、遼一。こんなお前を見るのは初めてだ」「......」明日香のことを思うと、遼一の胸に、手のひらから砂が零れ落ちるような虚無感が広がった。どれだけ手を伸ばしても、決して掴めない。心のどこかにぽっかりと空いた穴。その埋め方さえも、もうわからなかった。何かが、決定的に足りない気がしていた。「もう十年も経ってるんだ。少しくらい愛着が湧いてきても、おかしくないよな？なあ、賭けをしようじゃないか。お前が明日香を愛しているかどうかって賭けだ。賭け金は――銀ノ蝶の株式10%。お前が勝てば、俺はお前の部下になってやる。好きに使えばいい」遼一はソファの上に脱ぎ置かれたスーツジャケットを手に取り、骨ばった指で丁寧に襟元のボタンを留めた。「......お前、随分と暇らしいな」「どうした？怖気づいたか？」上着を着終えた遼一は、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで哲を睨みつけた。「お前と明日香......どちらに生きる価値があると思う？明日香に手を出したいなら、止めはしない。ただし、足をすくうような真似はするな。康生に嗅ぎつけられたら、俺とお前、どちらが先に地獄を見ることになるか、よく考えろ」そう言い残し、遼一は背を向けて去っていった。遼一にとって、踏み出す一歩一
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第109話
明日香は、本当にこのまま悲しみに沈んで死んでしまいたいとさえ思った。前世の彼女は愚かだった。遼一の本心を見抜くこともできなかった。だが今は......物事を細かく考えようとするたびに、心には癒えることのない傷がひとつ、またひとつと増えてゆく。涙は絶えることなく頬を伝い落ちるが、明日香は一声も上げて泣かない。無表情のまま、明日香は静かに涙をぬぐった。「大丈夫。さっき、虫が目に入っただけ」看護師は訝しげに明日香を見つめた。病院の病室に虫なんているはずがない。この人、もしかして......もう正気ではないのでは？しかし看護師はそれ以上言葉をかけず、点滴スタンドに目を向けると、まだ半分以上残っていた栄養剤の速度をゆっくりと落とした。そしてドアを閉めるとすぐ、主治医のもとへ向かい、明日香の精神状態について報告した。クラブ・銀ノ蝶――この店は二、三十年前にオープンした老舗のクラブで、元は戦前のカフェーを改装したものだ。今なお、当時の面影を色濃く残すレトロな空間が広がっている。その二階、ボックス席から、一人の長身の男が一階のフロアを見下ろしていた。ステージには、一人の歌姫が懐かしい演歌『夜桜』をしっとりと歌い上げている。紅梅色の正絹の着物に白狐の羽織、波打つ黒髪には真珠の簪がきらりと光る。柔らかなライトに照らされたその姿は、白磁のような滑らかな肌に艶やかな瞳。まるで浮世絵から抜け出したかのような、粋で妖艶な風情だった。その歌い手は、ほかならぬ江口だった。同じボックス席のソファでは、新垣哲朗（あらがきてつろう）が、派手な化粧と艶やかな着物を纏った二人のキャバ嬢を左右に抱き、ピンクのシャツのボタンを数個外して胸元をあらわにしていた。そこには意味深な口紅の跡――女たちとの戯れの証が残っていた。「俺が手を下さなくても、あんたの彼女、もうすぐ壊れそうだぞ。ははっ......お前、本当に少しも心が痛まないのか？病院では俺の部下がずっと張り付いてるが、あの子、一人きりで病室に籠っては、こっそり涙を拭いてるんだぜ。見てるだけで、こっちの胸まで張り裂けそうになるってのに......無関心でいられるのは、お前くらいだろう！」哲朗は、美女の手から差し出された葡萄をひと粒口に運び、唇の端を吊り上げて笑った。「ああ、そうか。忘れてたよ。お前には最
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