LOGIN宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。
閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。
米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。
「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」
米谷が言うと、隣の常連が笑った。
「それ言うたら飲まれへんやろ」
律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。
史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。
串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。
串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。
米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。
「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」
米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。
史人は即座に否定したかった。送るという言葉が、責任に聞こえる。責任は増やしたくない。増やしたら、また潰れる。仕事で潰れかけた自分が、恋愛でも誰かを背負えるわけがない。背負えないと分かっている。
それなのに史人は、口を開けずにいた。
律が米谷の言葉を聞いて、片眉を上げる。ふっと笑う。
「送られる側って、意外と悪くない」
律の声は軽い。軽いけれど、目が史人を見ている。逃がさない目だ。逃がさない目なのに、追い詰める圧がない。不思議な圧だ。引っ張るのではなく、そっと近づける。
史人の胸の奥に、二つの感情が同時に湧いた。面倒を見る責任を増やしたくないという冷たい恐れと、今夜この男を店の外の闇に放り出したくないという熱い衝動。衝動は言葉になる前に体を動かすから厄介だ。
律が立ち上がった。座り直したときの綺麗さは残っているが、立った瞬間に重心が少し揺れた。膝が緩むような揺れ。顔は笑っている。笑っているのに、足元だけが正直だ。
史人は反射で手を伸ばしていた。手首を掴むのではなく、肘の外側に手のひらを添える。添えるだけなら責任ではない、と自分に言い訳できる距離。
「ふらついてる」
史人が言うと、律は目を細めた。
「見られてる」
史人は返す言葉がなくて、ただ息を吐いた。見られている。そう言われると、見ていたことが罪になる気がする。罪になると、謝らなければならない。謝ったら関係が深くなる。深くなるのが怖い。
米谷がにやにやと笑った。
「兄ちゃん、今夜はええもん見せてもろたわ」
史人は苛立ちを隠さずに言った。
「何を」
米谷は肩を揺らして笑い、串田の方へ視線を投げる。
「串田さんも見てたやろ」
串田は皿を拭きながら、顔も上げずに言った。
「見てへん」
見ていないと言い切る声は、嘘を許す声だ。嘘を許すことで、人を守る声だ。史人はその声に救われる。救われるのに、胸の奥が熱くなる。熱くなるのは危険だ。危険でも、もう止められない。
宵だまりの暖簾をくぐると、外の空気が冷たかった。雨上がりの匂いがまだ残り、路面の湿り気が街灯の光を滲ませている。店の暖色の灯りが背中に当たり、数歩歩くたびにその灯りが遠ざかる。灯りが遠ざかると、宵だまりの膜が薄くなり、夜の輪郭が急に鋭くなる。
律が肩をすくめた。
「寒」
声が子どもみたいだった。さっきまでの軽口よりずっと素直で、史人の胸がきゅっと締まる。締まるのが嫌で、史人は律の肘に添えた手のひらを離そうとした。離そうとして、離せなかった。律の体温が薄い布越しに伝わって、離したら冷える気がした。律が冷える気がしたのではなく、自分の手が冷える気がした。
律は一歩踏み出し、足元が少しだけよろけた。史人の掌が自然に強くなる。強くなると、律がこちらを見た。
「助けてる?」
律は笑って言う。笑っているのに、目の奥が試している色になる。史人がどこまで面倒を見るのか、どこまで責任を背負うのか。言葉ではなく、体で試してくる目だ。
史人は腹の奥が熱くなるのを感じた。怒りではない。自分が試されていることへの苛立ちと、試されることが嬉しいという理解しがたい感覚が混ざる。混ざったまま、言葉が出ない。
史人は低い声で言った。
「転ぶな」
律は肩を揺らして笑った。
「転ばへん。たぶん」
たぶん、という言葉がずるい。確実じゃないから、史人が手を離せない。離せないのを分かっていて言っている。律はそういうところがある。馴染み方が上手いのに、距離感の危うさも同時に持っている。危うさは、甘えの形をして人の腕に絡んでくる。
二人は並んで歩いた。宵だまりから史人のアパートまで徒歩四分。たった四分が、今夜は妙に長く感じる。長く感じるのは、夜道の冷たさのせいではない。隣にいる男の体温が、史人の皮膚の感覚を鋭くしているからだ。
街灯の下を通るたび、律の横顔が明るくなって、すぐに暗くなる。明るい瞬間に見える鼻筋と唇の形が、暗い瞬間に残像になる。残像が頭の中に張り付く。張り付いた残像を振り払うために、史人は前を見た。前を見ても、視界の端に律が入る。入るたびに、胸が小さく揺れる。
「史人さん」
律が名前を呼んだ。呼び方が軽い。軽いのに、名前だけが妙に重い。仕事で呼ばれる名前はただの札だ。宵だまりで呼ばれる名前は生活の名前になる気がする。そして今夜の夜道で呼ばれる名前は、もっと厄介なものになる。
史人は返事をしなかった。返事をしたら、何かが始まる気がした。
律はそれでも話しかける。
「家、近いん?」
史人は口を開いた。
「近い」
近いと答えるだけで、律の口角が上がる。満足そうな笑い。満足の裏に、別の感情が潜んでいる気がして、史人はそれを見ないふりをした。
自販機が見えた。宵だまりへ来るときに通った、自販機。白い光が暗い道に浮いている。さっきは通知音の幻で胸が縮んだ場所だ。今は、その白い光が二人の影を足元に落とす。影が重なる。重なるのが、なぜか嫌ではない。
史人は自販機の前で立ち止まり、財布を出した。金属音が鳴り、冷たい風が指先を舐める。史人は水を買った。ペットボトルが落ちる音ががちゃんと響く。史人の胸が一瞬だけ跳ねる。通知音に似た音。しかし今夜は、その跳ねがすぐに落ち着く。隣に律がいるからだ、と史人は気づいてしまう。気づいた瞬間、また怖くなる。誰かがいることで落ち着くという感覚は、依存の入り口だ。
史人はペットボトルを拾い、蓋を開けて律に差し出した。
「飲め」
律は受け取って、ボトルの口を見た。見た後、史人の方を見る。目が少しだけ柔らかい。柔らかいけれど、すぐに軽口に戻る。
「なんやそれ。命令」
史人は淡々と返した。
「水や」
律は笑って、水を飲んだ。喉が動くのが見える。喉仏の上下が、街灯の明かりに浮いて、史人の視線が一瞬だけそこに吸い寄せられる。吸い寄せられた視線に気づかれたくなくて、史人は自分もペットボトルに口をつけた。水は冷たい。冷たいのに、胃の奥が落ち着く。落ち着くと同時に、胸の熱が際立つ。
律が言った。
「優しいな」
史人はその言葉を受け取りたくなかった。優しいと言われると、責任が生まれる。責任が生まれると、明日も、次も、期待される。期待されるのが怖い。期待に応えられなくなった自分を、仕事で何度も見てきたからだ。
史人は言葉を避けるために、別の言葉を選ぶ。
「水買っただけや」
律は肩を揺らして笑った。
「それが優しさやって」
史人は返事をしなかった。沈黙は肯定に見える。肯定に見えるのが怖い。怖いのに、否定する言葉が出ない。否定したら、律の顔が曇る気がした。曇った顔を見たら、史人はまた何かをしてしまう。そういう連鎖が怖い。
二人はまた歩き出した。湿った路面を踏む音が、夜に吸い込まれていく。遠くで車が走る音がして、時々、犬の鳴き声がする。生活の音だ。宵だまりの生活の音とは違う、外の生活の音。外の生活の音は、少しだけ冷たい。冷たいけれど、律と並ぶと、その冷たさが不思議と心地いい。
史人のアパートが見えた。古くはないが新しくもない建物。外階段があり、手すりの金属が街灯に光る。ここに帰ると、静かすぎる。静かすぎて、仕事の通知音の幻が暴れる。なのに今夜は、静かすぎる部屋に誰かを入れる可能性が生まれている。その可能性が、史人の胸をざわつかせる。
律が階段の手前で立ち止まった。立ち止まったというより、体が一瞬だけ固まった。さっき宵だまりで見た、あの一拍の停止に似ている。けれど今は、すぐに笑いで誤魔化すことはしない。
律は史人を見上げた。街灯の光が頬を照らし、目の下の影を薄くする。整った顔だ、と史人は思う。整いすぎて、どこか現実感がない。現実感がないのに、息は温かい。温かい息が、夜の冷気に白く滲む。
律が言った。
「史…史人さんってさ」
言いかけて、止まる。止まると、史人の胸が跳ねる。続きが怖い。続きが、恋愛の言葉だったらどうする。恋愛をする余裕はない。余裕がないのに、欲望はある。欲望だけが先に立って、責任が追いつかない。それは一番醜い。
史人は先に言った。
「上がるか」
自分の口から出た言葉に、史人は驚いた。言うつもりはなかった。言うつもりがなかったのに言ってしまった。体が先に動くのと同じだ。言葉も先に動いてしまった。
律は一瞬だけ目を見開いた。それから、笑った。軽口の笑いに戻る。戻ることで自分を守る笑いだ。
「誘ってる?」
史人は返さない。返さないまま、階段を上がり始めた。上がり始めたという行動が、答えになる。行動で答えるのはずるい。ずるいけれど、史人は言葉で約束するのが怖かった。言葉で約束したら、責任が固定される。固定された責任は、いつか自分を殺す。
律は階段を上がってきた。足音が近い。近い足音のリズムが、史人の心拍と重なる。重なると、体の中がざわざわと騒ぎ出す。眠気ではない。疲れでもない。別の種類の覚醒だ。
踊り場で、律が少しだけよろけた。史人は反射で振り返り、律の腕を掴んだ。掴んだ瞬間、布越しの筋肉の硬さが掌に伝わる。硬い。細いのに硬い。硬さが、史人の掌の中で熱を持つ。
律が笑った。
「やっぱ助けてるやん」
史人は息を吐いて、掴んだ手を離せなかった。離せなかったことが、もう答えだ。答えが出てしまっているのに、史人の頭はまだ言い訳を探している。
助けているわけではない。転ばれたら面倒だから。近所迷惑だから。自分のアパートの階段で誰かが転んだら管理会社に連絡が必要になるから。そういう理屈が、頭の中で次々と並ぶ。並ぶほど、嘘くさくなる。嘘くさくなるほど、胸の熱が増す。
廊下に出ると、外の音が遠ざかった。壁が音を遮る。遮られた静けさが、史人の耳を敏感にする。律の息遣い、服が擦れる音、足音の微かな違い。全部が大きくなる。大きくなると、宵だまりの膜が完全に剥がれる。剥がれた途端、二人は剥き出しになる。
史人は鍵を取り出した。鍵穴に差し込む手が少しだけ震える。震えを律に見られたくなくて、史人は肩で壁を隠すようにして鍵を回した。金属が回る音が、やけに大きい。通知音に似た響き。似ているのに、今は違う緊張が走る。違う緊張は、甘い匂いを含んでいる。
律が後ろで囁くように言った。
「史人さん」
名前を呼ばれるだけで、史人の背中がぞくりとした。ぞくりとしたものが、背骨を伝って腹の奥へ落ちる。落ちた熱が、じわじわと広がる。
史人は鍵を回し切り、ドアノブに手をかけた。手のひらに金属の冷たさが貼りつく。冷たさが欲望を冷やすわけではない。冷たさは、欲望の輪郭をはっきりさせる。
史人はドアを開けた。部屋の空気が漏れ出す。室内の匂いは、洗剤と埃と、少しの生活の匂い。誰かを迎える匂いではない。誰かに見られる匂いでもない。自分のためだけに積み上げた、乾いた生活の匂い。
律がその匂いを吸い込んで、笑った。
「ひとり暮らしの匂い」
史人は苛立ちに似たものを感じた。匂いを言葉にされると、生活が暴かれた気がする。暴かれるのが怖い。怖いのに、律が暴くのは嫌じゃない。嫌じゃないのが一番怖い。
史人は靴を脱ぎ、律にも促した。律は靴を脱ぐときも妙に綺麗に揃える。揃える動作が、史人の部屋の雑さを際立たせる。際立たせるのに、律はそれを笑いにしない。笑いにしないことが、逆に史人の胸に刺さる。
律が玄関で立ち止まり、史人の背中に近づいた。近づき方が、宵だまりの常連に馴染む距離ではない。もっと個人的で、もっと危ない距離。
律が小さく言った。
「ねえ、史人さん」
史人は振り返れなかった。振り返ったら、顔が近い。顔が近いと、終わる気がした。終わるというのは、帰すという意味ではない。理性が終わるという意味だ。
律が続ける。
「俺、酔ってる」
史人は返した。
「見りゃ分かる」
律が笑う。笑い声が、狭い玄関に反響する。宵だまりの笑い声とは違う。逃げ道のない笑い声だ。
律はさらに囁く。
「酔ってるから、言い訳できる」
その言葉が、史人の胸の奥を殴った。言い訳。責任を回避するための言葉。史人がいつも使ってきたもの。今ここで律がその言葉を使うと、二人は同じ穴に落ちる気がする。落ちるのが怖い。怖いのに、落ちたい。
史人はやっと振り返った。振り返ると、律の顔が近かった。頬の赤みが少し残り、目は薄く潤んで見える。泣いているわけではない。アルコールのせいで水分が集まっているだけだ。だけなのに、史人の中の何かが柔らかくなる。柔らかくなると、守りたくなる。守りたくなると、責任が生まれる。責任が怖い。
史人は理性を掴むために言った。
「寝るなら布団出す」
律は首を傾げた。
「寝るだけ?」
試す声。挑発する声。挑発が、軽口みたいな顔で出てくる。宵だまりの空気で隠れていたものが、ここでは隠れない。
史人は喉が乾くのを感じた。さっき飲んだ水が、もう足りない。足りないのは水だけではない。
史人は言った。
「知らん」
知らん、と言うのはずるい。自分で決める責任を放棄する言葉だ。史人は仕事で決める責任を押し付けられ続けた。だから私生活で決める責任を持ちたくない。持ちたくないのに、今は決めたくなる。決めたくなる自分が嫌だ。
律が一歩近づいた。足音がしないほど静かな一歩。静かな一歩が、史人の胸を騒がせる。
律が言った。
「じゃあ、俺が決める」
史人の背中が壁に当たった。玄関の壁紙が肩に触れ、ざらつきが服越しに伝わる。ざらつきが、現実を呼び戻す。呼び戻すのに、欲望は引かない。むしろ鮮明になる。
律の指が史人の手首に触れた。触れ方が軽い。軽いのに、指先が熱い。熱が、史人の手首から腕へ這っていく。這う熱は、宵だまりの出汁の温度とは違う。もっと直接的で、もっと危うい。
史人は言葉を探した。止める言葉。帰す言葉。責任を増やさない言葉。どれも見つからない。見つからないまま、史人の体が先に動く。仕事で鍛えた反射とは違う反射。もっと原始的な反射。
史人は律の手首を掴み返した。掴み返した瞬間、律が笑った。勝ち誇る笑いではない。安心する笑いでもない。試した答えが出たことを確認する笑いだ。
史人はその笑いが怖かった。怖いのに、離せない。
ドアが背後で静かに閉まった。閉めたのは誰か分からない。分からないまま、玄関の外の冷気が遮断される。遮断された瞬間、二人の空気が濃くなる。濃くなると、宵だまりの灯りが背中で消えていく感覚が、はっきりと分かった。
史人は思う。ここから先は、店の延長ではない。言い訳も、茶化しも、常連の笑い声もない。あるのは自分の部屋と、隣にいる男の熱と、そして自分の選択だけだ。
選択が怖い。怖いのに、選びたい。
史人は律の顔を見た。律の目が、史人の中の逃避を見抜くように揺れた。揺れた目の奥に、さっき宵だまりで見た薄い影が一瞬だけ差す。影はすぐに消える。消える前に、律が囁く。
「史人さん、帰したくない顔してる」
史人は息を止めた。図星だった。図星を言葉にされると、胸の奥がきしむ。きしむのに、嫌ではない。嫌ではないことが、もう終わっている証拠みたいで怖い。
史人は言った。
「勝手に決めんな」
律は笑う。
「勝手に決めるの、得意やねん」
その軽口に、史人は少しだけ救われた。軽口があると、まだ宵だまりの延長だと言い訳できる。言い訳できるうちは、責任を直視しなくていい。
史人はその言い訳にすがりながら、律の手首を引いた。引く力は強くない。けれど律は素直に従った。従い方が、甘えに見える。甘えに見えると、史人の胸の奥の熱がさらに増す。
廊下の向こう、部屋の奥は暗い。暗い奥へ踏み込むたび、宵だまりの灯りが遠ざかる。遠ざかった灯りの代わりに、史人の中の欲望が明るくなる。明るくなるのに、言葉は出ない。言葉が出ないまま、史人の胸の中で責任回避と衝動が混ざり合い、どちらがどちらを飲み込むのか分からなくなる。
雨上がりの冷気はもう届かない。代わりに、律の体温が近すぎるほど近い。近い体温が、史人の生活の乾きを溶かし始める。溶けるのが怖い。溶けてしまったら、戻れない気がする。
それでも史人は、戻りたくないと思ってしまった。
薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」







