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5.帰り道

Penulis: 中岡 始
last update Tanggal publikasi: 2026-02-24 15:05:02

宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。

閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。

米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。

「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」

米谷が言うと、隣の常連が笑った。

「それ言うたら飲まれへんやろ」

律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。

史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。

串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。

串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。

米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。

「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」

米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。

史人は即座に否定したかった。送るという言葉が、責任に聞こえる。責任は増やしたくない。増やしたら、また潰れる。仕事で潰れかけた自分が、恋愛でも誰かを背負えるわけがない。背負えないと分かっている。

それなのに史人は、口を開けずにいた。

律が米谷の言葉を聞いて、片眉を上げる。ふっと笑う。

「送られる側って、意外と悪くない」

律の声は軽い。軽いけれど、目が史人を見ている。逃がさない目だ。逃がさない目なのに、追い詰める圧がない。不思議な圧だ。引っ張るのではなく、そっと近づける。

史人の胸の奥に、二つの感情が同時に湧いた。面倒を見る責任を増やしたくないという冷たい恐れと、今夜この男を店の外の闇に放り出したくないという熱い衝動。衝動は言葉になる前に体を動かすから厄介だ。

律が立ち上がった。座り直したときの綺麗さは残っているが、立った瞬間に重心が少し揺れた。膝が緩むような揺れ。顔は笑っている。笑っているのに、足元だけが正直だ。

史人は反射で手を伸ばしていた。手首を掴むのではなく、肘の外側に手のひらを添える。添えるだけなら責任ではない、と自分に言い訳できる距離。

「ふらついてる」

史人が言うと、律は目を細めた。

「見られてる」

史人は返す言葉がなくて、ただ息を吐いた。見られている。そう言われると、見ていたことが罪になる気がする。罪になると、謝らなければならない。謝ったら関係が深くなる。深くなるのが怖い。

米谷がにやにやと笑った。

「兄ちゃん、今夜はええもん見せてもろたわ」

史人は苛立ちを隠さずに言った。

「何を」

米谷は肩を揺らして笑い、串田の方へ視線を投げる。

「串田さんも見てたやろ」

串田は皿を拭きながら、顔も上げずに言った。

「見てへん」

見ていないと言い切る声は、嘘を許す声だ。嘘を許すことで、人を守る声だ。史人はその声に救われる。救われるのに、胸の奥が熱くなる。熱くなるのは危険だ。危険でも、もう止められない。

宵だまりの暖簾をくぐると、外の空気が冷たかった。雨上がりの匂いがまだ残り、路面の湿り気が街灯の光を滲ませている。店の暖色の灯りが背中に当たり、数歩歩くたびにその灯りが遠ざかる。灯りが遠ざかると、宵だまりの膜が薄くなり、夜の輪郭が急に鋭くなる。

律が肩をすくめた。

「寒」

声が子どもみたいだった。さっきまでの軽口よりずっと素直で、史人の胸がきゅっと締まる。締まるのが嫌で、史人は律の肘に添えた手のひらを離そうとした。離そうとして、離せなかった。律の体温が薄い布越しに伝わって、離したら冷える気がした。律が冷える気がしたのではなく、自分の手が冷える気がした。

律は一歩踏み出し、足元が少しだけよろけた。史人の掌が自然に強くなる。強くなると、律がこちらを見た。

「助けてる?」

律は笑って言う。笑っているのに、目の奥が試している色になる。史人がどこまで面倒を見るのか、どこまで責任を背負うのか。言葉ではなく、体で試してくる目だ。

史人は腹の奥が熱くなるのを感じた。怒りではない。自分が試されていることへの苛立ちと、試されることが嬉しいという理解しがたい感覚が混ざる。混ざったまま、言葉が出ない。

史人は低い声で言った。

「転ぶな」

律は肩を揺らして笑った。

「転ばへん。たぶん」

たぶん、という言葉がずるい。確実じゃないから、史人が手を離せない。離せないのを分かっていて言っている。律はそういうところがある。馴染み方が上手いのに、距離感の危うさも同時に持っている。危うさは、甘えの形をして人の腕に絡んでくる。

二人は並んで歩いた。宵だまりから史人のアパートまで徒歩四分。たった四分が、今夜は妙に長く感じる。長く感じるのは、夜道の冷たさのせいではない。隣にいる男の体温が、史人の皮膚の感覚を鋭くしているからだ。

街灯の下を通るたび、律の横顔が明るくなって、すぐに暗くなる。明るい瞬間に見える鼻筋と唇の形が、暗い瞬間に残像になる。残像が頭の中に張り付く。張り付いた残像を振り払うために、史人は前を見た。前を見ても、視界の端に律が入る。入るたびに、胸が小さく揺れる。

「史人さん」

律が名前を呼んだ。呼び方が軽い。軽いのに、名前だけが妙に重い。仕事で呼ばれる名前はただの札だ。宵だまりで呼ばれる名前は生活の名前になる気がする。そして今夜の夜道で呼ばれる名前は、もっと厄介なものになる。

史人は返事をしなかった。返事をしたら、何かが始まる気がした。

律はそれでも話しかける。

「家、近いん?」

史人は口を開いた。

「近い」

近いと答えるだけで、律の口角が上がる。満足そうな笑い。満足の裏に、別の感情が潜んでいる気がして、史人はそれを見ないふりをした。

自販機が見えた。宵だまりへ来るときに通った、自販機。白い光が暗い道に浮いている。さっきは通知音の幻で胸が縮んだ場所だ。今は、その白い光が二人の影を足元に落とす。影が重なる。重なるのが、なぜか嫌ではない。

史人は自販機の前で立ち止まり、財布を出した。金属音が鳴り、冷たい風が指先を舐める。史人は水を買った。ペットボトルが落ちる音ががちゃんと響く。史人の胸が一瞬だけ跳ねる。通知音に似た音。しかし今夜は、その跳ねがすぐに落ち着く。隣に律がいるからだ、と史人は気づいてしまう。気づいた瞬間、また怖くなる。誰かがいることで落ち着くという感覚は、依存の入り口だ。

史人はペットボトルを拾い、蓋を開けて律に差し出した。

「飲め」

律は受け取って、ボトルの口を見た。見た後、史人の方を見る。目が少しだけ柔らかい。柔らかいけれど、すぐに軽口に戻る。

「なんやそれ。命令」

史人は淡々と返した。

「水や」

律は笑って、水を飲んだ。喉が動くのが見える。喉仏の上下が、街灯の明かりに浮いて、史人の視線が一瞬だけそこに吸い寄せられる。吸い寄せられた視線に気づかれたくなくて、史人は自分もペットボトルに口をつけた。水は冷たい。冷たいのに、胃の奥が落ち着く。落ち着くと同時に、胸の熱が際立つ。

律が言った。

「優しいな」

史人はその言葉を受け取りたくなかった。優しいと言われると、責任が生まれる。責任が生まれると、明日も、次も、期待される。期待されるのが怖い。期待に応えられなくなった自分を、仕事で何度も見てきたからだ。

史人は言葉を避けるために、別の言葉を選ぶ。

「水買っただけや」

律は肩を揺らして笑った。

「それが優しさやって」

史人は返事をしなかった。沈黙は肯定に見える。肯定に見えるのが怖い。怖いのに、否定する言葉が出ない。否定したら、律の顔が曇る気がした。曇った顔を見たら、史人はまた何かをしてしまう。そういう連鎖が怖い。

二人はまた歩き出した。湿った路面を踏む音が、夜に吸い込まれていく。遠くで車が走る音がして、時々、犬の鳴き声がする。生活の音だ。宵だまりの生活の音とは違う、外の生活の音。外の生活の音は、少しだけ冷たい。冷たいけれど、律と並ぶと、その冷たさが不思議と心地いい。

史人のアパートが見えた。古くはないが新しくもない建物。外階段があり、手すりの金属が街灯に光る。ここに帰ると、静かすぎる。静かすぎて、仕事の通知音の幻が暴れる。なのに今夜は、静かすぎる部屋に誰かを入れる可能性が生まれている。その可能性が、史人の胸をざわつかせる。

律が階段の手前で立ち止まった。立ち止まったというより、体が一瞬だけ固まった。さっき宵だまりで見た、あの一拍の停止に似ている。けれど今は、すぐに笑いで誤魔化すことはしない。

律は史人を見上げた。街灯の光が頬を照らし、目の下の影を薄くする。整った顔だ、と史人は思う。整いすぎて、どこか現実感がない。現実感がないのに、息は温かい。温かい息が、夜の冷気に白く滲む。

律が言った。

「史…史人さんってさ」

言いかけて、止まる。止まると、史人の胸が跳ねる。続きが怖い。続きが、恋愛の言葉だったらどうする。恋愛をする余裕はない。余裕がないのに、欲望はある。欲望だけが先に立って、責任が追いつかない。それは一番醜い。

史人は先に言った。

「上がるか」

自分の口から出た言葉に、史人は驚いた。言うつもりはなかった。言うつもりがなかったのに言ってしまった。体が先に動くのと同じだ。言葉も先に動いてしまった。

律は一瞬だけ目を見開いた。それから、笑った。軽口の笑いに戻る。戻ることで自分を守る笑いだ。

「誘ってる?」

史人は返さない。返さないまま、階段を上がり始めた。上がり始めたという行動が、答えになる。行動で答えるのはずるい。ずるいけれど、史人は言葉で約束するのが怖かった。言葉で約束したら、責任が固定される。固定された責任は、いつか自分を殺す。

律は階段を上がってきた。足音が近い。近い足音のリズムが、史人の心拍と重なる。重なると、体の中がざわざわと騒ぎ出す。眠気ではない。疲れでもない。別の種類の覚醒だ。

踊り場で、律が少しだけよろけた。史人は反射で振り返り、律の腕を掴んだ。掴んだ瞬間、布越しの筋肉の硬さが掌に伝わる。硬い。細いのに硬い。硬さが、史人の掌の中で熱を持つ。

律が笑った。

「やっぱ助けてるやん」

史人は息を吐いて、掴んだ手を離せなかった。離せなかったことが、もう答えだ。答えが出てしまっているのに、史人の頭はまだ言い訳を探している。

助けているわけではない。転ばれたら面倒だから。近所迷惑だから。自分のアパートの階段で誰かが転んだら管理会社に連絡が必要になるから。そういう理屈が、頭の中で次々と並ぶ。並ぶほど、嘘くさくなる。嘘くさくなるほど、胸の熱が増す。

廊下に出ると、外の音が遠ざかった。壁が音を遮る。遮られた静けさが、史人の耳を敏感にする。律の息遣い、服が擦れる音、足音の微かな違い。全部が大きくなる。大きくなると、宵だまりの膜が完全に剥がれる。剥がれた途端、二人は剥き出しになる。

史人は鍵を取り出した。鍵穴に差し込む手が少しだけ震える。震えを律に見られたくなくて、史人は肩で壁を隠すようにして鍵を回した。金属が回る音が、やけに大きい。通知音に似た響き。似ているのに、今は違う緊張が走る。違う緊張は、甘い匂いを含んでいる。

律が後ろで囁くように言った。

「史人さん」

名前を呼ばれるだけで、史人の背中がぞくりとした。ぞくりとしたものが、背骨を伝って腹の奥へ落ちる。落ちた熱が、じわじわと広がる。

史人は鍵を回し切り、ドアノブに手をかけた。手のひらに金属の冷たさが貼りつく。冷たさが欲望を冷やすわけではない。冷たさは、欲望の輪郭をはっきりさせる。

史人はドアを開けた。部屋の空気が漏れ出す。室内の匂いは、洗剤と埃と、少しの生活の匂い。誰かを迎える匂いではない。誰かに見られる匂いでもない。自分のためだけに積み上げた、乾いた生活の匂い。

律がその匂いを吸い込んで、笑った。

「ひとり暮らしの匂い」

史人は苛立ちに似たものを感じた。匂いを言葉にされると、生活が暴かれた気がする。暴かれるのが怖い。怖いのに、律が暴くのは嫌じゃない。嫌じゃないのが一番怖い。

史人は靴を脱ぎ、律にも促した。律は靴を脱ぐときも妙に綺麗に揃える。揃える動作が、史人の部屋の雑さを際立たせる。際立たせるのに、律はそれを笑いにしない。笑いにしないことが、逆に史人の胸に刺さる。

律が玄関で立ち止まり、史人の背中に近づいた。近づき方が、宵だまりの常連に馴染む距離ではない。もっと個人的で、もっと危ない距離。

律が小さく言った。

「ねえ、史人さん」

史人は振り返れなかった。振り返ったら、顔が近い。顔が近いと、終わる気がした。終わるというのは、帰すという意味ではない。理性が終わるという意味だ。

律が続ける。

「俺、酔ってる」

史人は返した。

「見りゃ分かる」

律が笑う。笑い声が、狭い玄関に反響する。宵だまりの笑い声とは違う。逃げ道のない笑い声だ。

律はさらに囁く。

「酔ってるから、言い訳できる」

その言葉が、史人の胸の奥を殴った。言い訳。責任を回避するための言葉。史人がいつも使ってきたもの。今ここで律がその言葉を使うと、二人は同じ穴に落ちる気がする。落ちるのが怖い。怖いのに、落ちたい。

史人はやっと振り返った。振り返ると、律の顔が近かった。頬の赤みが少し残り、目は薄く潤んで見える。泣いているわけではない。アルコールのせいで水分が集まっているだけだ。だけなのに、史人の中の何かが柔らかくなる。柔らかくなると、守りたくなる。守りたくなると、責任が生まれる。責任が怖い。

史人は理性を掴むために言った。

「寝るなら布団出す」

律は首を傾げた。

「寝るだけ?」

試す声。挑発する声。挑発が、軽口みたいな顔で出てくる。宵だまりの空気で隠れていたものが、ここでは隠れない。

史人は喉が乾くのを感じた。さっき飲んだ水が、もう足りない。足りないのは水だけではない。

史人は言った。

「知らん」

知らん、と言うのはずるい。自分で決める責任を放棄する言葉だ。史人は仕事で決める責任を押し付けられ続けた。だから私生活で決める責任を持ちたくない。持ちたくないのに、今は決めたくなる。決めたくなる自分が嫌だ。

律が一歩近づいた。足音がしないほど静かな一歩。静かな一歩が、史人の胸を騒がせる。

律が言った。

「じゃあ、俺が決める」

史人の背中が壁に当たった。玄関の壁紙が肩に触れ、ざらつきが服越しに伝わる。ざらつきが、現実を呼び戻す。呼び戻すのに、欲望は引かない。むしろ鮮明になる。

律の指が史人の手首に触れた。触れ方が軽い。軽いのに、指先が熱い。熱が、史人の手首から腕へ這っていく。這う熱は、宵だまりの出汁の温度とは違う。もっと直接的で、もっと危うい。

史人は言葉を探した。止める言葉。帰す言葉。責任を増やさない言葉。どれも見つからない。見つからないまま、史人の体が先に動く。仕事で鍛えた反射とは違う反射。もっと原始的な反射。

史人は律の手首を掴み返した。掴み返した瞬間、律が笑った。勝ち誇る笑いではない。安心する笑いでもない。試した答えが出たことを確認する笑いだ。

史人はその笑いが怖かった。怖いのに、離せない。

ドアが背後で静かに閉まった。閉めたのは誰か分からない。分からないまま、玄関の外の冷気が遮断される。遮断された瞬間、二人の空気が濃くなる。濃くなると、宵だまりの灯りが背中で消えていく感覚が、はっきりと分かった。

史人は思う。ここから先は、店の延長ではない。言い訳も、茶化しも、常連の笑い声もない。あるのは自分の部屋と、隣にいる男の熱と、そして自分の選択だけだ。

選択が怖い。怖いのに、選びたい。

史人は律の顔を見た。律の目が、史人の中の逃避を見抜くように揺れた。揺れた目の奥に、さっき宵だまりで見た薄い影が一瞬だけ差す。影はすぐに消える。消える前に、律が囁く。

「史人さん、帰したくない顔してる」

史人は息を止めた。図星だった。図星を言葉にされると、胸の奥がきしむ。きしむのに、嫌ではない。嫌ではないことが、もう終わっている証拠みたいで怖い。

史人は言った。

「勝手に決めんな」

律は笑う。

「勝手に決めるの、得意やねん」

その軽口に、史人は少しだけ救われた。軽口があると、まだ宵だまりの延長だと言い訳できる。言い訳できるうちは、責任を直視しなくていい。

史人はその言い訳にすがりながら、律の手首を引いた。引く力は強くない。けれど律は素直に従った。従い方が、甘えに見える。甘えに見えると、史人の胸の奥の熱がさらに増す。

廊下の向こう、部屋の奥は暗い。暗い奥へ踏み込むたび、宵だまりの灯りが遠ざかる。遠ざかった灯りの代わりに、史人の中の欲望が明るくなる。明るくなるのに、言葉は出ない。言葉が出ないまま、史人の胸の中で責任回避と衝動が混ざり合い、どちらがどちらを飲み込むのか分からなくなる。

雨上がりの冷気はもう届かない。代わりに、律の体温が近すぎるほど近い。近い体温が、史人の生活の乾きを溶かし始める。溶けるのが怖い。溶けてしまったら、戻れない気がする。

それでも史人は、戻りたくないと思ってしまった。

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    朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   63.窓の外の機体灯

    未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   26.熱情の第一音、名前のない告白

    律の指先が、白と黒の境界に触れた瞬間、梅田の雑踏が一度だけ息を止めたように見えた。実際には、誰かの笑い声も、遠いアナウンスも、通り過ぎる靴音も消えていない。それでも、史人の耳の中でだけ、音の層が入れ替わる。上に乗っていた日常のノイズが薄くなり、代わりに、鍵盤に触れる皮膚の擦れる気配が濃くなる。黒い艶の向こうに、律の背中が真っ直ぐに立っている。背中の細さは弱さではない。細いまま折れないための硬さだと、直感が告げる。律は一度、深く吸ったように見えた。見えただけかもしれない。さっきまで浅かった呼吸が、その一瞬だけ底へ落ちた気がする。落ちた呼吸のあとで、律の手が鍵

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   25.鍵盤に触れる前の沈黙

    人だかりの中心に近づくにつれて、梅田の夜は別の顔を見せた。ネオンの白がただ眩しいだけじゃなく、輪郭を切り出す刃みたいに見える。人の肩、髪、スマホの光、笑い声の口元。全部がはっきりしすぎていて、息をする場所が薄い。律に袖を引かれたまま、史人は人の流れを避けるように歩いた。避けているつもりでも、肩がぶつかる。コートの布が擦れる音が耳に残る。どこかで缶の開く音がして、すぐに拍手のような乾いた音に紛れた。イベントの空気だと、身体が理解した。宵だまりの笑い声の膜とは違う。ここは、見るための場所だ。見られるための場所だ。人だかりの中心に、グランドピアノがあった。黒い艶

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   30.着信名は「父」

    朝の光は、いつもなら部屋を薄く漂うだけで終わる。史人の一Kの窓から差し込む白は、カーテンの繊維を透かし、壁の汚れをぼんやり浮かび上がらせる程度のものだ。律にとっては、昨日の梅田の白に比べれば優しいはずだった。けれど今朝の白は、優しいふりをして、刃の薄さで喉を撫でてくる。律は目を開けた瞬間に、それが分かった。空気が軽い。軽いのに、胸の奥に重いものが沈んでいる。重いものは音だった。昨夜の鍵盤の打撃、息を詰めて放った自分の熱、拍手の熱のなかで固まった史人の眼差し。全部がまだ、皮膚の内側に貼り付いている。隣では史人がまだ眠っていた。寝返りを打つ気配

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   28.体温へ戻れない帰り道

    梅田の白い光から離れるほど、音の残像だけが濃くなる気がした。律の横を歩きながら、史人はさっきまで耳の奥を占拠していた旋律が、街の雑踏に溶けていくのを感じていた。溶けていくのに、消えない。消えないのは、音そのものではなく、音が開けた穴だった。胸の奥に穴が開いて、そこから冷たい風が出入りしている。冷たい風が痛いのに、息がしやすい。痛みと回復が同居するのが、気持ち悪いほど心地いい。二人はいつもみたいに並んで歩いている。肩が触れそうな距離も、歩幅を合わせる癖も、何も変わっていないはずだった。けれど、会話だけがない。宵だまりから史人の部屋へ向かう夜も、こんなふうに無

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