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僕達のマザーランド
僕達のマザーランド
Penulis: エムおばさん

第一章『始まり』

last update Tanggal publikasi: 2026-08-04 18:29:04

『#俺たちのマザーランド』

「みんな、そろそろ着くぞー」

 沢山ある液晶画面の内、手前の小さなモニターに映し出された目的地の座標を指でなぞり、確認した彼女は耳に装着したイヤホンマイクを押さえて他の船員達に告げる。腕時計型の通信端末を通して全員の耳元へ届いた少女の声に、彼女の耳にも低い声が疎らに返ってきた。

 今回の目的地には『瘴気』と呼ばれる有毒ガスが濃い区域のため、全員がガスマスクの着用を余儀なくされている。そんな物々しい雰囲気の中、鼻歌を唄いながら操縦感を握るのは見目にして十二、三の少女だった。

 彼女が皆に声を掛けた数秒後、そのイヤホンマイクから「前方注意」の言葉が聞こえる。それは見張り台にいた船員の声で、少女の「見つけたか?」という問いに、彼は呆れたように鼻で笑った。

《おいおい、またガセネタ掴まされてんじゃねぇか》

「またぁ? 今度は何だった?」

《四足大型が二頭》

 ガスマスク越しにスナイパーマントを深く被り、双眼鏡を覗く彼は辺りを注意深く見回しながら、感じ取れる気配までの距離をおおよそで測る。

「正面一五〇〇メートル、あとは10時方向一二〇〇メートル先の森ん中だ。どっちもまだ目視は出来ない」

《面倒臭ぁ……まぁ、別に偽情報でも良いけどもー?》

「良い訳あるか、このアホ船長。風向きが北西から西へ移動、風速も上がってる」

《了解、風下へ避けるぞ》

 見張り台の青年の報告に応え、少女は操縦桿を小さく回してペダルを踏む。船の速度を落とし、ゆっくりと旋回する。

 少女が座る操縦席の右後ろにあるコントロールパネルの前では、回転椅子に座る体格の良い男性が「こっちにも反応が出た」と少女に声を掛けた。彼は袖から覗く夜明け前の空のような青い肌の腕を伸ばし、モニターの角度を変えてカメラの切り替えスイッチを入れる。

「レーダーに入ったか。映像を回してくれ」

「了解。左のは結構なデカさだ」

 座標とは別のモニターに映ったレーダー映像に、少女はいよいよ溜め息を吐く。

「……んもー……」

「ローズマリー、指図書には何と?」

「二足小型が三頭」

「まったく、『上』は俺達を余程殺したいらしい」

 見張り台の青年とまったく同じ嘲笑を零した彼に、少女は「帰ったら文句言ってやる」と可愛らしく遺憾の意思を見せた。

「しかし、どうしようか……装備はあるけど、二頭をもっと引き離さないと厳しいな」

「本部からの移動距離を考えると、閃光砲(レーザー)は止めておいた方がいい。再充電に三日、『予定違い』で食料もそんなに積んでないから食べ盛りが飢えるぞ」

「まぁ仕方無いか」

 少女は船内スピーカーで船員達に呼び掛けた。

「いいか、みんな。正面の方は本船(こっち)で引き付けとくから、ユズ君とリンで先に森にいる方の討伐を頼む」

《マリーさん、地上に降りた方が良い?》

 そう問い掛けたのは、船の最下部にある飛行バイクの整備室で、装備を積み込んでいた青年だ。

 ガスマスクの変わりに、ゴーグルと『兄』の手縫いである深紅のスカーフをマスク代わりに口元へ巻き、準備に勤しんでいる。

 そんな彼に、少女は「飛んでいった方が安全だ」と指示した。

《ただでさえ相手が大きいからな。いくらリンでも、踏まれると痛いぞー?》

「えー怖ぁい」

《リンデン、今からハッチを開ける。ちょっと下がってろ》

 青い肌の男性が注意を促し、「了解」という青年の返事を聞いた男性は、船の真下にある後部ハッチの開閉ボタンを押した。

 整備室の奥へと移動し、ゆっくり外側へと開いていくハッチから距離を取って眺めていた青年だったが、室内に外の風が入ってきた瞬間、言い様の無い違和感にゴーグルの中で眉を顰めた。

「……これ、ちょっとヤバいんじゃない?」

 その一言は当然、操縦席の少女や他の船員達も聞いていた。己の名を呼ぶ彼に、少女も訝しげな顔をしつつ問う。

「リン、どうした?」

《俺ちょっと先に出るよ。ユズさんに言っといて》

「俺も聞いてる。何があった?」

《分かんないけど、確認したい事が出来てさ。何か変な感じがする》

「変な感じ?」

 青い肌の男性が少女を見る。すぐに少女と視線が合い、頷いた彼女は「良いだろう」とゴーサインを出した。

「ただし、対象からは二百メートル以上の距離を置くんだぞ。攻撃はするな、あくまで偵察だからな」

《了解。ありがとう、マリーさん》

 壁に掛けてあった、革の鞘に納まる一本の長い剣。その負い革に腕を通して背負い、自らが装備を整えたスカイライドのレバーを上げてエンジンを掛ける。

 彼はすぐさま飛び乗るようにバイクへ跨ると、マフラーを靡かせながら数秒と待たずに船のハッチから出ていった。

 見張り台の青年が彼の飛び立っていく姿を見た時、耳元に少女の声が届く。

《フェノン、聞いてたな。そこからリンの様子を見ててくれ》

「嫌だね」

《そう言わずに援護してやれ。アイツの偵察は見るだけで終わらないの知ってるだろ?》

「まったく……だったら許可出すなよ」

 呆れた様子で溜め息を吐く見張り台の青年に、少女もつい苦笑を零す。

「リンの『変な感じ』は、九割が要救護者の発見に繋がってる。もしかしたら、と思うと無碍に出来なくてな」

《アイツが勝手に死んでも俺は知らんぞ。連帯責任は御免だぜ》

「んもー、またそんな事言って……」

「要救助者を発見したら全力で守る、討伐対象を発見したら全力で倒す。マニュアル通りだろ」

 青い肌の男性は「いつもと同じだ」と続けるとそのまま席を立ち、少女にコントロールパネルの操作を全て操縦桿からのオートメーション設定にしたと報告する。

 パネル脇に置かれた落下防止のハーネスを素早く装着した彼は、さも面倒臭そうに腕を上げて背筋を伸ばし、灰色の髪をガシガシと掻いた。

「さて、そろそろ俺も行ってくる」

「わかった。気を付けるんだぞ」

《あの阿呆はユズさんに任せました》

「面倒だが了解だ。皆、武運を祈る」

 数分後、整備室からもう一基の飛行バイクが出ていき、見張り台の青年は備え付けの機関銃と大型対象用ライフルに弾丸を装填しながら、ガトリング銃を背負う男性の飛行バイクを見送った。

 船は向きを変えて進みながら、少女がフットペダルを踏み操って搭載されている重火器の装備を始めている。しかしその時、全員のイヤホンマイクに、最初に出ていったスカーフの青年の慌てた叫び声が入った。

《マリーさぁん! 緊急、緊急!》

「おお、どうした?」

《女の子拾っちゃった!》

「……女の子っ?」

 スカーフの青年の言葉に、少女は思わず首を傾げた。

 何故、女の子? しかも、何故こんな所に?

 ここは街から離れた、人など入らぬ……人が生きていけるような環境に無い、森の奥地の上空なのだ。何故、そのような少女がたった一人で、猛獣や討伐対象の蔓延る生息地を彷徨っていたのだろうか。

 しかし、考えるのを二秒で止めた彼女は青年に指示を出す。

《リン、一度船に戻って立て直すんだ。要救護者を抱えたままじゃ危ないぞ》

「ごめん、無理!」

《何? どうしたんだ》

《テメェ、船長の指示無視してんじゃねぇよクソが》

 少女の指示を拒否した仲間に、見張り台の青年が不機嫌そうに文句を述べる。だが直後、その理由を理解した彼は双眼鏡を片手にガスマスクの奥で顔を引き攣らせた。

「……おいおい、変異種かよ」

 彼等が討伐対象としている相手は、通常の個体とそうでない『変異種』がある。

 一般的にはただ動物と大差無い行動を取るが、今回遭遇した大型は、身体を覆う黒い靄を背から触手の様に多数伸ばし、飛び回る青年を追い掛け続けている。時にはその触手を鞭のようにしならせ、彼を叩き落としてでも捕らえようとしているのが見て取れた。

 世界中に蔓延る、その名も『生きた死』。彼等はそれを『モルス(死)』と呼び、この世界において、最も人類を脅かしている恐るべき存在であった。

 スカーフの青年は髪の長い褐色肌の少女を裸のまま肩に担ぎ、片手で巧みに飛行バイクを操りながら右へ左へと触手を何とか躱し続けている。

「チキショー……こいつ、集中的にこっちばっか狙ってくるんだけど! ユズさん、早く助けて!」

「ちょっと待ってろ、すぐ行くから頑張れ!」

 重量オーバーとなった人数を乗せた飛行バイクは、若干の悲鳴を上げながら本来のスピードからは考えられない速度で巨大な毒牙から逃げ回っている。

 しかし、変異種の『モルス』が牙の付いた触手を上へと新たに伸ばした事に彼が気付いた瞬間、それは目にも止まらぬ速さで飛行バイク目掛けて振り下ろされた。

「やっべ」

 避けきれない。スカーフの青年が戦慄に目を見開くが、触手は寸での所で弾かれたように上へと跳ね上がり、千切られた触手の先は飛行バイクの反対側の地面へと音を立てて落下する。

 直後に轟く、『モルス』の苦しげに聞こえる咆哮。唖然と見ていた彼のイヤホンマイクに、見張り台にいる青年の低い声が届いた。

《生きてるか? 阿呆リンデンめ》

「あ……ありがとうフェンネル! マジで助かった、ビビったーっ!」

《言っとくが、これは貸しだ。晩飯にアイスを所望するぜ》

「種類はっ?」

《チョコレート》

「了解! 俺もチョコ好き!」

 見張り台の青年は構えていた狙撃銃の薬莢を排出し、再びスコープを覗き込んで照準を合わせる。倍率を下げれば、彼はもう一台の飛行バイク近付いてを見つけて小さく息を零した。

「リン、八時方向三十メートル後ろにユズさんだ」

《!》

 仲間の言葉を聞いてスカーフの青年が後ろに振り向けば、ガトリング銃を背負う青い肌の男性が飛行バイクで此方へ飛んで来ていた。

 未だ逃げ続けるスカーフの青年は、彼の姿を見て思わず安堵の声を漏らす。

「良かった、来てくれた!」

「この大馬鹿野郎! 救助する前に一回相談しろ!」

「だってぇー! 『急を要した』の!」

 現場に到着した男性は、すぐに背のガトリング銃を下ろすと素早く構えて残りの触手を落とし始める。その隙に男性の頭上近くへと移動したスカーフの青年は、己の背に携えた剣を抜いて坊主の男性へ向かって叫んだ。

「ユズさーん! 早速だけど、この子持ってて!」

「なっ……!?」

 男性が見上げた直後に、上から降ってきた裸体の少女を咄嗟に抱き留めた彼は思わず「うわっ!」と声を上げる。男性は、彼女を投げ落としてきた仲間に悪態を吐きながら、何とか車体の揺れを立て直して落下を防いだ。

「……っお前は、何年! この仕事をやってるんだ! 要救助者を殺す気か!!」

 幼い少女の見目は、おそらく船で操縦桿を握る少女よりも上背が低くずっと幼い。推測ではあるが、一見すれば七、八歳程度だろうか。

 青い肌の男性はガトリング銃を下げて少女を横抱きに抱え直し、『モルス』からすぐに距離を取る。一旦船へ戻った方が良いと判断し、飛行バイクを旋回させるためハンドルを回そうとするすが。

「駄目だユズさん! コイツの狙いはその子だ!」

「あぁ!?」

「今『チャーチグリム』に近付いたらマリーさん達が危ない! 俺が囮になってみるから、ユズさんはその子の保護をお願い!」

「……まったく面倒な……理解はしたが、要救助者は丁寧に扱え! 分かったか!」

「ごめんなさーい!」

 男性は怒鳴りながらも、青年の指示通り飛行バイクを自動運転に切り替え、着ていたパーカーを脱ぐとすぐに少女の身体をくるんだ。

 意識の無い彼女に、命綱代わりの簡易ハーネスを装着して自分の物と繋ぐと、男性はその小さな身体を左膝に乗せて抱え込み、再び飛行バイクのハンドルを握る。

 ガトリング銃を右膝に乗せて再び構え直した男性は、少女の護りに入るため距離を離しながら向かってくる触手を撃ち返していく。その最中でも、耳に聞こえる通信では、彼等の母船『チャーチグリム号』が対峙している『モルス』もまた変異種であるようだった。

 見張り台の青年と会話している少女の声が、少しずつ焦り始めているのが分かる。確かに、現在搭載している船の装備だけで、大型の変異種を相手取るのは少々厳しい。

「リンデン! もう一体も変異種みたいだ!」

「向こうもっ? 急がなきゃ」

 一方、身軽になった青年は背中の鞘から剣を抜き、虹色に輝く刀身を目標に向けて真っ直ぐに構えた。

「早く終わらせて、アイス作んないと」

 飛行バイクのスロットルを全開にして速度を上げ、巨大な黒い靄の身体を旋回して赤く目が光る頭の方へと飛んでいく。剣を前から振り切るように真横に構え直した青年は、飛行バイクの上で腰を浮かせるとそのまま腿を上げてハンドルに足を乗せ、バイクを踏み台に勢い良く上へと飛び上がった。

 『モルス』の頭上よりも高く飛んだ彼は剣を頭上に高く振り上げ、『モルス』の眉間目掛けて思い切り縦に振り下ろす。まるで剣の軌道をなぞるように巨大な斬撃を生んだ剣は刃先が『モルス』に届いていないにも関わらず、大型かつ変異種の『モルス』を一瞬で真っ二つに両断してしまった。

 その断面には、青みがかった薄紫の美しい巨大な球体が妖しく輝きながら顔を覗かせている。それこそが『モルス』の動力であり、活動の源である『核』と呼ばれる物体だった。

 飛び上がった勢いのまま断裂した間を飛び落ちていく青年はそのまま『核』へと剣を突き立てる。虹色の剣に触れた『核』はガラスよりも脆く簡単にひび割れて砕け、『モルス』は断末魔の咆哮を絞り出すように吠えると、黒い靄の身体をさらさらと空気中へ四散させ始めた。

 その様子を確認した彼は腰に携えたフックショットを飛行バイクに撃ち込むと、そのままワイヤーを巻き取ってバイクを引き寄せ、見事に元居た座席の上へ着地する。剣を背に差し直し、爽やかな笑顔で彼は満足気に一息を吐いた。

「よし、討伐完了っ!」

「よく聞けリンデン、お前は今日明日と二日間、洗濯の刑だからな」

「ええっ!?」

 何故か、あまりにも心外そうなスカーフの青年に、それでも青い肌の男性は「何が『ええっ!?』だ」と更に青年を叱り付けた。

「本当なら独断での行動は始末書ものなんだぞ。その上、要救護者まで無駄に危険に晒しやがって……ローズマリーに感謝して、お前はしっかり反省しろ」

「はーい……」

「よし、分かったならリンデンはこのまま『チャーチグリム』の加勢に向かえ。俺はこの子の救護で一旦船に戻ってから……」

《ユズくぅーーん! もう限界だ、一気にカタを付けるからなぁー!》

「はぁ?」

 船からの無線が繋がった瞬間に聞こえた、聞き馴染んだ少女の声。軍の配給品である黒いパーカーに包んだ少女を抱える男性が「どういう事だ」と問い返した瞬間、男性と青年は、もう一体の『モルス』が、船から発射された激しい光の筋に貫かれるのを目撃してしまった。

 轟音の中、強烈なレーザーを口から尾へと一直線に受けた対象は、ゆっくりと地面に身体を倒した直後、塵となって風に溶け消え始める。どうする事も出来ないまま、その光景を唖然と見つめていた二人は思わず顔を引き攣らせた。

「……あれぇ……? マリーさん、閃光砲(レーザー)使っちゃったのぉ……?」

 男性は無言で頭を抱え、青年はすぐに見張り台の仲間へ連絡を取る。

 もう一体の『モルス』は、吸引した空気を圧縮した弾丸として扱う変異種だった、と見張り台の青年は説明する。『チャーチグリム号』に搭載した装備だけではどうする事も出来ず、要救護者、そして仲間の安全確保が第一と判断した少女は、どうやら船長の権限……という名の独断で閃光砲(キャノン)と呼ばれるレーザーの主砲を使用したらしい。

 お陰で残る一体の討伐は一瞬で済んだが、『間違っていた指図書』の所為で充分にエネルギーを蓄えていなかった船は、たった一撃の主砲で全エネルギーを使い果たしてしまったために少しずつ降下を始め、森の中へと入っていこうとしている。

 彼等の船は、エンジンに搭載されたエネルギー源が常に自己発電を行うため、放っておいても充電は可能である。しかし充電システム自体はかなり古い物のため、ペダル式発電機を交代で漕ぎ続けても、飛び立てるようになるまでの再充電に最短で三日程の時間を要する。つまり、その間は何とかして『モルス』が巣食うこの立入禁止区で、皆で生き延びねばならないのだ。

《だって! 要救助者も居たし、変異種だったんだぞ!? 使うだろ! みんなの安全確保が第一だろ!》

 ちなみに、この様な事態は今回が初めてではない。

「いつも俺達を守ってくれてありがとう、マリーさん。俺も一緒に発電機漕ぐからさ、何なら洗濯とか手伝って欲しいなー」

《一応、俺は止めたんだぜ?》

「どうせなら、もっとちゃんと止めてくれよ……」

 仕方無い、まずはメシ探しか。

 遠い目をして「面倒臭い」と天を仰いだ男性は、腕の中で気を失う少女を見て、更に深い溜め息を吐いた。

 ここは何処だ。

 それが、目を覚ました少女が最初に思った事だった。

 目を動かして天井に張り巡らされた細い鉄のパイプを辿り、次に首を動かして四面の壁を見渡す。室内の壁には掲示板のような物が設置されており、そこには幾つか張り紙がされていた。

 業務的なものや、野菜や果物の様な植物と一緒に、日用雑貨が描かれた広告……掲示の種類は豊富だが、そこに書かれている内容や文章は少女には理解できない。

 他、設置されたテーブルに置かれた文房具らしきものや器具、床に置かれた箱の様な機械。決して広くはないが、消毒液の匂い漂う整頓された部屋。

 少女にとって、そこはまさに異世界そのものだった。

「………………あー……」

 声は出る。耳も聞こえる。次に少女は上体を起こし、己の手や身体を見下ろしてみた。

 袖の無い、見慣れぬ白いヒラヒラとした衣服。そこから伸びる濃い褐色の腕に、これまた見慣れぬ半透明の管が伸びているのを見つける。その管を辿れば、銀色の棒に吊るされた、透明の液体が入った袋に行き着いた。

 少女は何故か、それが『身体に液体を入れるもの』とすぐに理解した。確かこれは、血管から直接栄養や水分を入れるための装置だった筈。だとしたら、自分に繋がった管の先には針が付いている。

 少女は時折流れてくる長い紺色の髪を掻き分けながら、管を覆っていたシール状の包帯を剥がし、何処か慣れた様子で点滴針を引き抜くと、その針を小さな手の中に包み隠した。

 逃げなければ。本能的にそう感じたが、ここから出るには、まず何をすべきか。

 そんな事を考えた時、突然部屋に響いたノックの音に彼女は肩を飛び上がらせた。

 最初に二回、一秒空けて、もう二回。「失礼します」という低い声を聞いて、少女は点滴針を握り締め、背を壁にするためベッドの隅へと身を隠すように詰めた。

「入りますね」

 ドアが外側に開き、見覚えの無い男が液体の入ったボトルとグラスを乗せたトレーを持って入ってくる。灰色の髪をヘアバンドで上げた厳つい見目をしたその男は、上着を着ていてもその体格の良さが分かる程に筋肉質な身体をしている。背も高く、袖からは太い腕と、夜明け前の空の様な薄い青色の肌が覗いていた。

 己が立ち向かって勝てる相手ではないだろう。だが、怯ませ逃げる事は可能だろうか?

 少女は男の仕草や動きを見ながら、頭の中を高速で回転させていく。しかしそんな彼女に気付いたのかか否か、男は少しだけ苦笑を浮かべ、優しい声音で少女に声を掛けた。

「カメラで確認していたら、貴方が目を覚ましたのを見かけましてね。気分はどうです?」

 柔らかい口調。そして聞き慣れた言語に、少女はほんの僅かに眉間の皺を緩めた。

 彼女から見た大男は、その大きな背を堂々と彼女に向けて持ってきたトレーからグラスとボトルをサイドテーブルに移して並べている。相手に敵意は無いと感じた少女は、その小さな口を恐る恐る開いた。

「……ここは何だ」

「!」

 言葉を返してくれると思っていなかった男は、驚いた様子で少女に振り返る。視線が合い、男の反応の速さに少したじろいだ様子を見せた少女だったが、それを相手に悟られないよう健気に男を睨み返してくる。

 男はすぐに柔らかく微笑み、落ち着いた声で「救護室です」と答えてやった。

 彼はボトルからグラスに液体を注ぎ、少女にそっと差し出す。強く警戒していた筈の少女が何故か素直に受け取ったのを見て、男は、彼女が本来は危険の無い人物なのだろうと悟った。

 点滴針を隠し持っている事に気付いていたが、彼女がそれを武器として扱う方法を知っているとは思えない。様子を見て、少女が怪我をしないよう、彼女から針を取り上げるべく男は隙を伺う。

「さぁ、どうぞ。一気に飲まないよう、少しずつ飲んで下さい」

「……これは?」

「ウチの船員が作り置きしているレモネードを、更に希釈したものです。元気が出ますよ」

 最初に匂いを嗅いだ少女は、恐る恐るグラスに口を付ける。少しずつグラスを傾けて、ほんの僅かに液体を舐めた。

 瞬間、年相応にぱっと明るくなった表情。男も彼女の顔を見て満足気に口元を緩ませた。

「……甘くて酸っぱい」

 そう言いつつも、少女はグラスを離さず二口目を飲んでいる。いつの間にか手から離れて膝に乗る点滴針を見つけた男は、苦笑しつつも「お気に召したのなら良かった」と笑い掛けた。

 点滴チューブを手繰り寄せ、点滴台を片付けながら自然を装って針を回収する。少女は気付いていないのか否か特に気にした様子もなく、寧ろ少し機嫌良さ気に男を見上げてきた。

「お前、名はあるのか?」

「ユズリハと言います」

「ユズリハ……ユズリハか。良い名だ」

「どうも。……それと、もし貴方が許して下さるなら、その腕を手当したいのですが」

「腕?」

 少女がふと己の腕を見下ろせば、白い衣服が自分の腕から滴った血で赤く染まっている。同時に点滴針から漏れ出た輸液が思いの外布に染み込み、少女は「うわっ」と声を上げて驚いた。

 ユズリハ、と名乗った男は、これ以上濡らさないようにと慌てて少女からグラスを受け取る。すぐに備え付けのフェイスタオルを彼女に渡すが、少女は戸惑うばかりでタオルを持ったまま動けないでいた。

 ユズリハはグラスをサイドテーブルに置き、腰のポーチから取り出した薄いゴム手袋を履くとベッド脇に膝を着く。目の前で跪き、真っ直ぐに見上げてくる大男に少女は思わず自身の胸元を掴む。

「では、宜しいですか?」

「………………」

 黙って頷いた少女の手を取り、彼女からそっと受け取ったフェイスタオルを褐色の細い腕に乗せる。もう一方の少女の手をタオルに乗せて押さえているよう指示を出し、ユズリハはサイドテーブルの下にある棚からもう一枚フェイスタオルを出した。

 彼女が着る白いワンピースの濡れた部分に、新しく出したフェイスタオルを乗せる。そして再び少女の腕に手を添えて押さえていたタオルをそっと浮かせてみると、タオルに血痕などは無く、既に血は止まっているようだった。

「思いの外、濡れてしまいましたね。船長が戻ってきたら、新しい服を出してもらいましょうか」

「船長……ユズリハには主が居るのか?」

「そうです。その船長に貴方の事を報告したいのですが、貴方のお名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

「……名前。私のか?」

「そうです。何とお呼びしましょうか」

「………………」

 しかし、その時に見せた少女の反応は、唖然とも呆然とも取れない不思議なものだった。

「……『何と』……?」

 そう呟いた少女は質問に答える事なく、眉を顰め喋らなくなってしまう。無言でユズリハから目を逸らし、床を見つめたまま思い悩むように首を傾げて動かない彼女に、ユズリハはすぐに原因を悟った。

 恐らく、答えられない故だ。彼女は己の名を『知らない』、もしくは『思い出せない』のだろう。

「……では、仮に『胡蝶(こちょう)の君』と呼ばせて頂きましょう」

 彼女の細く幼い腕をタオルで拭い、念のため、点滴針の刺さっていた箇所に絆創膏を貼る。呼ばれ慣れない仮の名や、初めて見るであろう絆創膏を見つめながら、少女はやはり訝しげに首を傾げる。

「……それは、私の名か? 私は『胡蝶の君』というのか?」

「いえ、あくまでも仮の名前です。今後の事が決まり次第、貴方だけの名前が貰えると思いますが……思い出せそうには、ありませんか?」

「何を?」

「貴方が生まれ持った全てです。他にも出生や身分、貴方が何処から来て、何をしていたのかも分かれば、後々に役立つかも知れないですが」

 しかし、少女の反応はやはり芳しくはない。

 ユズリハはそれでも笑みを絶やさず、少し落ち込んだ様子を見せる少女に「ご心配なさらず」と優しく声を掛けた。

「まぁ、焦らずとも何とかなるでしょう。今は体調を整えるのが先ですね」

 少女は立ち上がったユズリハを目で追うが、再び俯くと悲しげな顔でぽつりと呟く。

「……私は、役立たずだな……」

「……………」

 何処か上から目線で、態度も大きい、比較的『問題児』の部類には入るであろう少女。そんな彼女が、『自分に出来ない事』を『役立たず』だと嘆くとは。

 ユズリハはそっと寄り添うように、膝を抱える彼女の傍、ベッドの上へゆっくりと腰掛けた。

「……貴方が、責任感の強い方という事は分かりました」

「………………」

「ですが、貴方が役に立つか立たないかを決めるのは貴方ではありません。我々はまだ、出会ったばかりなのですから」

 彼の言葉に顔を上げた少女は、その大きな瞳を潤ませてユズリハを見つめる。本当に小さく呟かれた「ありがとう」の一言に、ユズリハはただ、彼女に優しく笑みを返した。

「気分の悪さや、身体に痛みなどはありませんか?」

 ユズリハの質問に、少女は首を横に振る。「それは何より」と彼は笑ったが、「では」とベッドからユズリハが腰を上げた瞬間、少女の腹から大きな低い音が三秒ほど室内に響いた。

 その音にユズリハは目を丸くし、少女は褐色の頬を真っ赤に染めて、幼くも美しい顔をゆっくりと膝に埋めていく。

 頭から湯気が上がるのが視えるようだ。年相応の可愛らしさを感じ、ユズリハは微笑ましそうに目を細めた。

「……空腹は身体が健康である証拠です。何ら恥ずかしがる事は無い」

「……すまない……」

「では、何か食べる物を用意しましょう。それまで、菓子で良ければ摘まんでいてください。これなら栄養価も高く、腹の足しにもなりますので」

 ユズリハは、ウエストポーチから銀色の包み紙に包まれた、一口大のオールシーズンチョコを三つほど取り出す。少女の小さな手を取り、その柔らかい掌に直接三つの包みを乗せた。

「……これは、食えるものなのか?」

「ええ。包みを開いて中身を食べて下さいね」

「この、薄い『紙』のような物は食べられないのか……」

「そうです。食べられるのは中の茶色い球体だけですので」

 まじまじと掌の上の包みを眺めている少女に少しだけ苦笑を浮かべ、ユズリハは片付けた点滴や濡れたタオルなどを乗せたトレーを持ち上げる。

「それでは、少々時間を頂きます。先の尖っている物、金属製の物、動く物には触らないようお願いします」

「わ、わかった」

 「それでは」と最後に一言声を掛け、ユズリハは静かに部屋を出る。医務室のドアを閉め、暫く耳を澄ませて中の様子を伺ってみると、十秒と経たない内に、部屋の中から銀の包みを開ける音が微かに聞こえてくる。

「……ん〜〜〜……!! う、うまぁ……!!」

 少女の感動に震える声に、ベッドでゴロゴロと悶えているらしい音。純粋かつ可愛らしい反応を感じ取り、ユズリハは思わず吹き出してしまった。

 取り敢えずは、一安心か。そのままメインホールへと戻った彼は、リビング奥のシンク台にトレーを置き、壁に設置された電話の受話器を取って外線のボタンを押した。

 五桁の通信チャンネルを続けて押し、最後に緑色のボタンを押す。受話器の中から呼び出し音が三回程続いた後、ブツ、という無音の直後に「ユズ君か?」という聞き馴染んだ少女の声が聞こえてきた。

 乗組員では年長者である彼を「ユズ君」とあだ名で呼ぶのは、この船では一人しかいない。

《キッチンからとは珍しいな。リストベルは?》

「俺のは充電中だ」

 リストベル、とは、軍から支給されている腕時計型の通信端末の事だ。

「それよりも、女の子が起きたぞ」

《ほ、本当かっ?》

 心から喜ぶ船長の声に、ユズリハもつい、胸を撫で下ろすように息を吐く。

 実は、少女を救助してから五日の日数が経っていた。帰還してからすぐに、ローズマリーの知り合いの医者には一度診てもらっている。だが調べても特に異常は見つからず、医者には「自然に起きるのを待つしか無い」と言われていた。

《ああ、良かった……! 女の子の様子はどうだ? 名前は? 何故あんな所に居たのか聞けたか?》

「名は『胡蝶の君』だ」

 その報告を聞いて、アシㇼパは少し残念そうに「そうか」と応えた。

《リンの時と同じ、か……》

 以前、彼女と同じ状況で発見され、同じ様に身元不明で船長に引き取られた少年がいた。彼も一時は『御剣(みつるぎ)の君』と男性の仮名で呼ばれていたが、現在は彼だけの名を与えられ、ユズリハ達と同じ船の乗組員として立派に成長し働いている。

 結局、未だに彼の記憶は戻っていないが、彼も特に気にした様子はなく、新たな人生を謳歌している最中だ。

《女の子は、不安そうだったんじゃないか? 怯えたりはしていなかったか?》

「多少警戒心はあったようだが、それも最初の内だけだったな。リンデンのレモネードを飲ませてみたら、多少緊張が解れたらしい。腹鳴らして照れてくれる程には打ち解けてくれた」

《あはは、可愛いなぁ。それなら良かった》

「ふっ、まぁな」

 微笑ましく笑い合う二人だったが、しかし、次の言葉でユズリハの声は少しだけ影を落とす。

「ただ、名前も住所も、何も覚えていないのは確かにリンデンの時と似てるように思うが、古風な言葉遣いや警戒の仕方とか、あの年齢では少々有り得ない程の知識量は持っているように思う。感謝も謝罪も出来てるが、如何せん『自分は役立たずだ』と嘆く様子も見せててな……」

《……何?》

「何か『されていた』のか、何か『させられていた』のか……憶測ではあるが、彼女との会話の中で、所々に闇を感じた。一応、今の報告はそれだけだ」

《そうか……》

 ローズマリは考え込むように数秒だけ黙る。しかし、すぐに明るいいつもの調子で「今は仕方無いな」と話し始めた。

《過去に起きた事を今の私達が悩んでも、何も出来る事は無い。この先『胡蝶の君』が記憶を取り戻した時のために、今から心を護ってやるのが私達がすべき事だからな》

「ああ。だが、まずは先に腹拵えだな」

《おお! そうかそうか、それなら長電話は良くないな。ユズ君は強面だし見た目も厳ついから、私達が帰るまで、くれぐれも女の子を怖がらせないように気をつ付けるんだぞ》

「失礼な奴だな。一応言われた事はいつも守ってるだろ?」

《ユズ君の緊張があんまりにも顔に滲み出てるから小さい子に泣かれるんだぞ? 先週だって孤児院の手伝いに行って、中に入った瞬間に泣き声の大合唱だったじゃないか》

 身に覚えがあるユズリハは、船長の言葉にぐっとたじろぐ。

《子供が大人に持つ第一印象が後々に響いてくるのはユズ君も知ってるだろ。小さい子には目線を合わせて、特にユズ君は笑顔と敬語を徹底する事! これは船長命令だからな》

「はいはい分かった分かった。もう時間だから、早く会議行ってこい」

《おっと、そうだな。じゃあ頼んだぞー》

 通信を切り、ユズリハは苦笑と溜め息を吐きつつ軽食を作る。出来上がった食事を新しいトレーに乗せて医務室へと戻ったユズリハが見たのは、香ばしいパンと玉子の匂いに目を輝かせた少女の笑顔だった。

 一方、ユズリハとの通信を切ってから二時間後。

「はぁー……この話は六度目だぞ。一体、何回話せば解ってくれるんだ?」

 報告と言う名の尋問のために『中心街』へと出てきていた少女は、心底呆れた様子で薄い茶色の髪をガシガシと掻いた。

 すり鉢状の会場内、皆が見下ろす中心の証言台に立つ少女は、あまりにも有名な己の名を嫌って軍のパスコードである『ローズマリー』を通称として名乗っている。その上、彼女を知る者は更に名を細かくして愛称を呼んでいるため、彼女ほど『呼ばれ名』が多い人物もそうはいない。

「だから、私達は指図書に書いてあった座標通りの指定場所へ向かっただけだと言ってるだろう。当然そこが『禁猟区』であった事も知っているし、実際、討伐任務だけをこなして『キュア』の捕獲は行っていない」

「その証拠はあるのか?」

「船の運行記録を見てみろ。全てが映ってる」

 うんざりした様子で腕を組むローズマリーの三歩後ろで、焦げ茶色の大きなコートを羽織り、フードを目深に被った彼女の護衛を務める部下が、退屈そうに目を擦りながら大きく欠伸をした。

 彼女はそれに気付いていないのか注意もせず、つまらなそうな彼女の部下を見ていた会議場中段に座る薄いサングラスを掛けた男性が、苦笑を浮かべて木槌を二回打ってマイクに声を乗せた。

「皆々様、静粛に。尋問の論点が逸れておりますぞ」

「バーベイン殿」

 ローズマリーの顔が少し明るくなり、欠伸をしていた部下が視線を向ける。

 彼女が『バーベイン』と名を呼んだその男性は、ローズマリー達を始めとした複数ある討伐隊の直属の上司に当たる存在だ。

 バーベイン・ジャスパー司令官。軍属の一尉に当たる将校で、中年とは思えぬ端麗な容姿、整った口髭が凛々しさを際立たせ、その柔らかな物腰で、彼を慕う仲間や部下も多い。

 その上でかなり頭の切れる凄腕の将校であるのだが、推薦を多数に渡り受けているにも関わらず、何故か自ら出世を拒否し、司令官という地位に座り続けている不思議な人物でもあった。

「この二日間で、その様な質問は既にされ尽くしてきた。今日の議題は『遭難未遂の責任』と、『救助者の今後の扱い』だった筈でしょう」

 司令官の言葉に、先程まで野次と悪口で賑わっていた会場内が突然静かになる。彼に唯一応えたのは、証言台に立つローズマリー本人だった。

「……報告書の二十一ページに記載されている。発言しても?」

「許可しよう」

「ありがとう、バーベイン殿。あの時、要救助者発見に伴い、私は皆を守るためにやむなく閃光砲(レーザー)を使用した。確かにその区域は『キュア』の禁猟区ではあったが、野生動物の狩猟もとい食用植物の採取は禁止事項に無かったため、『チャーチグリム号』の復旧の間に、船員達の一食分の食料は採らせて貰った」

「一泊分の食料すら搭載していなかったのは何故かな?」

「指図書には『二足中型』が三頭とあったから、元々は半日で帰還する予定だったんだ。だが、実際出向いてみれば相手は『四足大型』が二頭、しかもどちらも変異種だった……お陰で、大切な仲間達を危険に晒したんだぞ」

「指図書の記載が間違っていた、という事で宜しいか?」

「まさにその通りだ」

 何処からか「異議あり」の声が響く。ローズマリーもムッとした顔で声の方を見たが、ふと『警戒した部下が粗相をしないように』と思い立って後ろに振り返る。

 しかし、背後の部下は沈黙を守り、腕を組んで俯いたまま動かない。

「……おーい、会議中だぞー……?」

 まさか、寝ている?

 堂々としている、と言えば聞こえはいいが、彼も『副船長』という立場で、ここまで会議に興味を持たないというのも如何なものか。暴れないだけマシだと思うべきか、ローズマリーは少しだけ複雑な心境になった。

 そんな時、一人の将校が異議を唱える。

「指図書の手配を疑うなど、我々に対しての冒涜もいい所だ」

「……ヒヨス三佐」

 その男の胸元には、『三佐』の階級章が綺羅びやかに光っている。バーベインより一つ上の階級である青い肌をした初老の男だが、本日の進行役でもあるジャスパー司令官の声は彼に対して少々冷ややかだった。

「しかし、現に指図書の内容と『チャーチグリム号』の搭載カメラが映した事実は大きく食い違っております。貴殿がそう仰るのであれば、間違っていたのは指定された区域か、または討伐対象か……」

 遠回しに「罪を認めろ」と問われ、一佐の額に青筋が浮き出る。

「……我々が間違いを犯していると? 侮辱も甚だしいぞ、ジャスパー司令官」

「なら、貴殿が現地へ直接出向き、己の目で確かめてみては如何ですかな?」

「……何だと?」

「貴殿が作成した『チャーチグリム号』への指図書をその手に、貴殿の部隊で貴殿自身ががモルスを討伐に行ってみて下されば、隠された真実も見えてくるというもの。日取り、討伐船は私の方で手配致しましょう」

 会場内がざわつき始める。皆が囁くのは、嘲笑か反抗か……二人のやり取りを見上げて聞いていたローズマリーには分からなかった。

 ただ、一佐の声がやや荒いものになったのは確かだった。

「モルス討伐はそちらの仕事だろうが。いくら人手が足りないからと、自分達の仕事を我々に押し付けようとは職務怠慢もいい加減にしろ」

「……職務怠慢?」

 彼の重く低い一言で、再び会場内が静まり返った。

 サングラス越しでも、真っ直ぐに此方を見てくるバーベインの視線に、三佐も思わず冷や汗を滲ませ固唾を呑む。

「……そちらが仕事も禄に出来ていないのに、こちらも仕事を請け負うつもりは無い、と申しておるのです。一丁前に文句を訴える前に、今この場で指図書の食い違いを認め、原因を暴き、事細かに真実を説明なされよ。それが出来ないのであれば、閉場まで口を閉ざしていたまえ」

「…………っ」

 論破されて何も答えない相手に、バーベインは嘲笑に鼻を鳴らす。ローズマリーも彼に同調するように何度も頷き、他の武器が使えなかった事も付け加えて述べた。

「その区域は誰も足を踏み入れないから、地上に降りれば暗くて深い森になっている。下手に重火器を使うと火災の原因にもなるし、風向きに寄っては街を焼く大災害になりかねない」

 そもそも、五十年以上前に製造された旧式の船である『チャーチグリム号』は、耐火、耐熱の部品が古く火災にあまり強くない。そのため、防火や誤爆防止のために、普段から弾薬は非常時分しか搭載出来ないのが今の悩みの種だった。

 自然保護、という名目で討伐隊全体の火器類を制限されている昨今において、今回ローズマリー達は、四足大型の『モルス』、しかも、変異種を限られた弾薬数の中で二体も相手取って戦ったのだ。

「通常種なら、ガトリングや砕石弾でも十分に対応できる。でも変異種だとそうもいかないのは皆が知っている事実だ。本当に生きるか死ぬかの瀬戸際で、少しでも『皆が生き延びる可能性』があるなら、それに懸けるのは船長として当然の事だろう」

 うんうん、とバーベインが頷き応える。

「要救助者と船員を守るために、決死の覚悟で閃光砲(レーザー)を使用した、という事だな」

「そうだ」

「もしそのまま遭難したとしても、自分の部下達なら自給自足も戦闘もお手の物。閃光砲(レーザー)の使用は、皆への信頼があるが故の結果か」

「その通りだ!」

 嬉しそうにローズマリーが認める。バーベインも「それならば」と判決を出すため木槌を握る。

 しかし、その時だった。

「一つ、宜しいか」

「!」

 会議場中段、バーベインより少し離れた席に座る、先程とは別の将校が指を挙げた。少々小太りのその男は胸元に『一佐』の階級章を携えており、地位は上から四番目に位置する。

 軍では全ての隊員達の上官とも言える相手だが、その男に気付いたローズマリーは、誰にも聞こえない声で「またか」と不機嫌そうに呟いた。

「アイオライト三尉。実は我々の手元の資料に、その指図書が君達の自作だという報告が来ているんだがね」

「……何?」

 あまりにも眉唾な情報に、ローズマリーは思わず眉間に皺を寄せる。バーベインは表情を変えずにその話を聞いていたが、「ジャスパー司令官も知っている」と話を振られた事で、心底呆れたように一瞬だけ天井を見た。

 直属の上司の名が出た事で、ローズマリーは少しだけ不安そうな表情を浮かべている。バーベインは溜息混じりに「やれやれ」と零した。

「バードメット一佐……確かにその件についても、私の耳には入っています。しかし何度も調べた末に『根も葉もない噂だった』と結論が出ているではありませんか」

「本人に聞かずして、そんな結果が納得できる筈もあるまい。報告が上がっているものを看過するなど言語道断。議会の原則書にもそう書いてあるぞ」

 何処か得意げに意見してきたその男の言葉に、辺りからは数人の小さな笑い声が響く。そんな中、ローズマリーもバーベインと同じく呆れた様子で首を振った。

「一佐殿も毎度毎度、大変ご苦労な事だな。親愛なるご家族に『しつこい』と言われた事は無いのか?」

 軽蔑を込めて冗談を放った彼女に、相手は鼻で嘲笑い返した。

「負け惜しみは止したまえよ、可愛らしい船長殿。一介の三尉如きが、軍の財産である『チャーチグリム号』を私物化している事だけでも腹立たしいというのに、あまつさえ船を危険に晒し、危険な区域に不時着まで起こしたのだ。船員とて、少人数の上に得体の知れぬ若造ばかりで信用など出来るものか。ここまでの大罪を犯して、お咎め無しとは行くまいぞ」

「……いい加減にしろ」

 仲間達の事を言われて少しだけカチンと来たローズマリーは、ほんの少し声を荒げて言い返す。

「私達だって、立ち入り禁止区域なんか行きたくて行った訳じゃない。そもそも『船』を危険に晒したくないなら、もっとマシな指図書を打てばいいだろ。こっちは大迷惑してるんだ」

「素直に『己は仕事が出来ない』と認めてはどうかね。証拠もないのに此方の所為だと責任を押し付けて、仮にでも部下を持つ身として恥ずかしくないのかね」

「そっくりそのままお返しするぞバードメット一佐。改ざんの証拠を揉み消し、違和感マシマシの指図書、それでも無視すれば『任務放棄』……粗探しならまだ可愛いが、作られた粗でイチャモン付けられたら溜まったものじゃない」

「いやはや、嘘や戯言にはよく回る口だ。皆、聞いたか? アイオライト三尉は、およそ船長の器では無い」

「お前が私を嫌いなのは分かるが、そこまで手の込んだ真似をする意図が分からない。お前は私にどうしろと言うんだ」

 わざとらしく、肩を竦めて困って見せるローズマリーに、その男はあろう事か、彼女に見下す様な目を向けたまま嘲笑いながら答えた。

「何を間抜けた事を。貴殿の様な『中途半端』はさっさと今の役職を引退し、早々に船を軍に返還すべきだと思わないか?」

 想像もしていなかった言葉に、ローズマリーは愕然と目を見開く。

「……は?」

 思わず、言葉にならない声が漏れる。その瞬間にも、会場内はあっという間にざわつき始めてしまった。

 一方で、全てを大人しく傍観していた彼女の背後にいる部下は、大きな欠伸をしながらベルトポーチから小さな青い飴玉を一つ取り出すと、徐に自分の口へと放り込む。鋭い眼差しで会話を聞いていたバーベインが木槌を打ちつつ「静粛に」と叫び、周りが落ち着きを取り戻しても尚、男の独り善がりな発言は続く。

「そもそも、貴殿のような『女児まがい』が船長を勤めている事が気に入らぬのだ」

「はぁ……!?」

「不老のオリヴェールといえど、その見目は頼りなく誰よりも非力……なのに、魂だけは無駄に歳を食って、今の地位に醜くしがみ付いている。貴殿に居座られては次世代も育たず、未来を生きる若者のためにならない」

「……き、貴殿が私の何を知っていると言うんだ! 訂正しろ! 私が、私が『女児まがい』だと……っ?」

「いつまでも見苦しく『船』にしがみ付いていないで、今回を機に討伐隊を退役し、いっそ軍からも身を引いては如何かな? 貴殿が退き、汚染された部下を再教育すれば、全てが丸く収まる」

 重ねて食らう暴言に、遂に若干の目眩を感じたローズマリーは咄嗟に証言台の手摺りへと掴まった。

「……こんな事って……!」

 なんと気味の悪い男か。一佐ともあろう男が、ここまで部下を侮辱し虐げるとは。

 信頼できる友人達からも、エンジンに半永久的な機関を持つ『チャーチグリム号』が一部の軍人に狙われていると忠告してくれていた。しかし、そんな彼女も、ここまで酷い差別を受けるとは予想していなかったために、思わず動揺してしまった。

 まさか、大切な『家族』をも悪く言われてしまうとは。

「………………っ」

 ローズマリーは、ぐっと歯を食い縛って怒りと悔しさを呑み込んだ。

「……私に、職を失えと? 私は『大家族』なんだ、大切な子等が飢えるじゃないか」

「この際、孤児院も国営にすればいい」

 男は尚も鼻で嘲笑う。

「その歳で職探しなど……と言う所だろうが、貴殿ほどの器量なら、幾らでも雇い先はあるだろうな。何なら、我が屋敷で『愛玩』として囲ってやっても良いが?」

 会場内に響く、嘲笑と侮蔑。見目や性別の所為で、この男のように彼女の事をよく思わない人間は決して少なくはない。彼の部下だけでなく、男に賛同する者達もヒソヒソと面白可笑しく囁き合っているのが見えた。

 長年の経験から悪く言われる事には慣れているとはいえ、流石のローズマリーでも言葉を失い、きつく眉を寄せて強い不快感を露わにしていた。

 なのに、ローズマリーの部下は彼女の背後でポーチから輪ゴムを取り出し、指に掛けて引き延ばし始める。

 直後、数回に渡って鳴り響いた木槌の大きな音と共に、会場内に響いていた笑い声が収まっていく。注意を促すバーベインの声は、明らかに怒りを孕んでいた。

「……発言には気を付けなされよ、バードメット一佐。本日これまでにおいて、全ての発言が彼女に対する酷い侮辱だ」

「おや司令官、まさか身内の『老害』に肩入れするのか?」

「……『老害』ね。『誰』の事だか」

「それとも……『先程の件』はそちらに『先約』があったのかな? それなら貴殿に謝罪せねば」

 再び小さな笑い声が所々に湧く。深い溜め息と共にローズマリーが俯き、バーベインが深く息を吸いながら言葉選びに数秒の間を空ける……が。

 その時、小さな風切音をローズマリーは背後に聞いた。

「!」

 彼女は思わず顔を上げる。すると、一佐目掛けて何かが跳んで行くのを見た瞬間、それは彼の側頭部に柔らかく触れて床に落ちた。

 同じ瞬間にそれを目撃したバーベインは、一佐に対する侮蔑に開きかけた口を閉じる。

「……何だ?」

 一佐は感触のした箇所に触れ、咄嗟に辺りを見渡して何かを探す。すると己の足元に、本来ならばそこにある筈のない、一センチに満たない大きさの、白い粉がまぶされた黄色い球体が落ちているのを見つけた。

 球体を指で摘んで持ち上げる。それが小さな飴玉だと気付いた次の瞬間には、後頭部に先程と似たような感触を感じた。

 首の側面、そして右の頬、耳の上。何故か次から次へと飴玉が飛んできては、肌に軽く触れて絨毯の床へと落ちていく。

「な……何なんだ」

 戸惑う彼の様子は会議場の誰もが見ており、ハッとしたローズマリーが後ろに振り返る。

 すると、目深に被ったフードから退屈そうな表情を覗かせる部下が、親指と人差し指に輪ゴムを掛けた即席のパチンコに飴玉を構え、目の前のある一点に向けて狙いを定めていた。

 切れそうな程に長く後ろに引いた輪ゴムを、彼女の部下は証言台の右斜め前に見える大理石のレリーフに掘られた美しい天使達に向けて放っている。ポーチから取り出しながら七〜八秒に一個の間隔で放たれ続けるそれは、彼の指を離れる度にレリーフからさらに何処かへ跳ね返って飛んでいく。

「……あのー、フェンネルくーん……?」

 普段彼女が言わない名で呼んでも、彼は答えずに首を傾げては飴玉を構えている。一佐の男の額やこめかみなど、色んな角度から何度も何度も鬱陶しく肌を掠め触れていく小さな飴玉に、一佐はローズマリー達を指差して大声で怒鳴り付けた。

「おい、小僧! 一箇兵の分際で、さっきから何をしているんだ!!」

 突然の奇行に走った部下を不思議に思ったローズマリーは、怒鳴る男を無視して、部下に小声で話し掛けながら近付く。すると彼はローズマリーの身長に合わせて屈むと、彼女にだけ聞こえる声で耳打ちした。

 あまりにも小さな囁きに何度か聞き返すローズマリーだったが、ふと彼の指差す方向に目を向けると、その意図を言葉に出して確認する。

「……何? あの彫刻の……額の上に、飴ちゃんを当てたいのか?」

 レリーフに掘られた天使達の中に、天井を見上げ顔が上に向いているものがある。距離は彼からそれ程離れてはいないが、証言台よりは一メートル高い場所に位置している。確かに何度か練習すれば、その部分に飴玉を乗せる事は可能かも知れないが。

 彼は切れた輪ゴムをポケットに入れて新しい輪ゴムを指に掛け、飴玉を挟んで強く引き伸ばすと指を離す。しかし、何度飛ばしても飴玉はレリーフの頬や翼、鼻の頭などに当たっては違う壁を数度弾いて跳ね返り、一佐の男へと四方から飛んできては頭上から優しく降らせるように掠めて当たる。

 フェンネル、と呼ばれた彼は、少し残念そうに溜め息を吐いた。

「……案外、当たらねぇモンだな……」

「こっ……こらこらこら、フェンネル君? 今は大事な会議中じゃないか。物凄く暇なのは分かるが、もうちょっとだけ我慢しような?」

 遊び出してしまった部下に、ローズマリーはまるで小さい子をあやす様な口調で冷や汗を浮かべながら注意する。しかし彼は焦る船長を無視し、レリーフに向けて飴玉を飛ばし続けている。

 そんな彼等を見ていたバーベインが、先程とは打って変わって楽しそうに笑い出した。

「はっはっは、確かに訓練において根気は大事だ。それでこそ、本来の才能が磨かれ輝いていく。素晴らしいじゃないか」

「おいおいバーベイン殿、甘やかさないで注意してくれ。仮にでも会議中なんだ」

「………………」

 にこにこと微笑むバーベインに、眉を下げて困った表情で訴えるローズマリー。そして二人の会話を聞いてか聞かずか、フェンネルは何の反応も見せずにまた一つ、また一つと飴玉を飛ばし続けている。

 バードメット一佐は、額の血管が裂け切れそうなほど顔を真っ赤に染めて声を荒げ叫んだ。

「い……いい加減にしろっ! 幾ら何でも下手くそ過ぎるぞ! 目の前の標的に掠りもせんとは、兵として出来損ないにも程があるだろう!」

「はぁん!? フェノンが出来損ないだとっ?」

 フェンネルを幼名で擁護しながら、ローズマリーも思わず怒鳴り返した。

「ウチのフェノンを悪く言うな! 『チャーチグリム』の中でも、射撃はこの子が一番得意なんだぞ!」

「お前が育てた兵だから所詮その程度なのではないのか! 軍に家庭内事情を持ち込む時点で、頭がどうかしているとしか思えん!」

「違ぁう! この子の努力と才能だバーカ!」

「子供が子育ての真似事などするから中途半端な人材しか育たんのだ、よく今まで生きていられたものだな!」

 何をぅ!?

 ローズマリーがそう言いかけた時、変わらず笑顔のバーベインが止めに入った。

「まぁまぁ、バードメット一佐。それ以上は血圧が上がりますぞ」

「黙れ、ジャスパー司令官! 貴殿も進行役ならば、警告の一つも出したらどうだ! 下手糞が下手糞に狙うから、あの小僧が放った飴玉が鬱陶しくて堪らんではないか!」

「彼はいつでも鍛錬を積む、兵士の鑑のような男です。どうか寛容に……」

「寛容になど、とうに限界を超えておるわ! 何が鑑か、奴の放った飴玉は全て儂の……っ」

 男は掌に乗せた、色とりどりの飴玉を見下ろし、気付く。

「……儂の、頭にばかり……」

 思わず言葉を切った彼は、その目を愕然と見開いたまま、会議場中心の証言台へと視線を向けた。

 その男、フェンネル・メノウの表情はフードに隠れて上からは確認出来ない。ただ、レリーフ目掛けて輪ゴムを引き、飴玉を挟んだその指を離す。

 放たれた飴玉はレリーフの右上にある別の天使の手に当たって右上へと跳ね上がり、近くの花瓶を弾いて上に打ち上がる。そのまま放物線を描いて男の席の真上にある照明の傘に乗ると、そこを滑り落ちた飴玉は、バードメット一佐の耳を掠めて優しく肩を叩き床に落ちた。

 一佐の顔色が、瞬く間に青褪めていく。

「まさか……」

 何て事は無い。男が馬鹿にした彼は、先程からずっと狙いを定めて『狙撃』を繰り返していたのだ。

 彼が『小僧』と呼んだ相手がフードを脱ぐ。艷やかな黒髪を三つ編みに結い、首に巻き付けている事でかなりの長髪である事が分かる。

 顔に流れてくる前髪を耳に掛ける表情は、目を伏せたまま能面の様に動かない。だが再度輪ゴムを引いたその時、静かに男を見た彼の視線は強烈な殺意を持って『標的』を睨み上げていた。

「……やっぱ、見てないと当たんねぇか」

 がり、と、彼の顎がその口の中の飴玉を砕く。

 その瞬間、放たれた飴玉はレリーフの額を上に滑り、手摺りや花瓶を数度渡り歩いた三秒後、顔面蒼白で戦慄く男の汗ばんだ額を軽く弾いて、男の掌に乗った飴玉達の上へと混ざった。

「…………!!」

 会場の空気は凍り付き、静まり返る。フェンネルが飴玉を咀嚼する音だけが、はっきりと会場内に響き渡っていた。

「ふぇ、ふぇふぇフェンネルくんん? か、かか会議中に遊んじゃ駄目じゃないかなぁぁっ?」

「……ローズ、発砲許可を」

「だだだ出さないぞぉ!? 許可なんて必要無いだろぉ!? 絶対に出さないぞぉ!?」

 部下の真意に気付いたローズマリーが冷や汗を滝のように流しながら、引き攣った笑顔でにこやかに彼を叱る。ベルトに拳銃でも持っているのか後ろ腰から手を離さない彼と、その手を掴んで部下を止めようと焦る少女をずっと見ていたバーベインは、何故か楽しげに微笑んだまま、未だ怒り冷めやらぬ様子のフェンネルに明るい声で話し掛けた。

「宜しいかな、メノウ上級曹長。会議場内で飴ちゃんをいっぱい飛ばしたら、勿体無いじゃないか。貴重な糖分を無駄にしたら『めっ』だぞ?」

「そ、そうだそうだ。『めっ』だぞ、フェノン」

 小さい子をあやす様な二人に対し、フェンネルは諦めたのか腰から手を離してローズマリーの手を払う。「『ごめんなさい』は?」と謝罪を促すローズマリーに、むすっとした表情を浮かべて腕を組み、不貞腐れた様子でだんまりを決め込んだ。

 会議に参加していた誰もがフェンネルの見せた本気の殺意に恐怖で慄き、場内には笑って誤魔化そうとする船長と、和やかに微笑む司令官の会話だけが場違いに響き渡る。

 バーベインは、さも楽しそうに木槌を二度打ってローズマリー達に処遇の結果を述べた。

「まぁ仕方無い、ついでだからメノウ上級曹長も反省文だな。『飴ちゃんを無駄にしてゴメンナサイ』って書いて、提出するように」

「……ふん」

「船長殿の処分も反省文にしよう。取り敢えず『閃光砲(レーザー)を使って遭難しそうになりました、ゴメンナサイ』って書いて、部下の反省文と一緒に本部の私宛に郵送しなさい。それで今回のお咎めは終了だ」

 予想外の結果に、ローズマリーは緑色の目を丸くして驚く。

「そ……それだけっ?」

「おや? 不満なら、控訴を申し立てる事も出来るが……」

「ま、まさか! ありがとうバーベイン殿! いや、違う違う、本当にすまなかった!」

 思わず感謝を述べてしまうが、彼女はすぐに訂正し謝罪を述べる。辺りをざっと見回し、是好機なりと悟ったローズマリーは後の予定を告げながら不機嫌なフェンネルの背中を押して出口へと急ぎ始める。

「この件の報告書と反省文は、三日以内に郵送しよう! 後日、確認の連絡をお願いする!」

「了解した。楽しみにしているよ」

「さぁ、行くぞフェノン! 早く帰ろう!」

「…………チッ」

「二人共、お疲れ様。気を付けて帰りたまえ」

 バーベインが見守る中、ローズマリーとフェンネルは足早に会議場を後にした。

 二人が扉から出ていった瞬間、まるで止めていた息を吐き出すかのように、会場内が一斉にざわつき始める。話題は勿論、先程フェンネルがやってのけた超人的な狙撃についてだ。

 もし、あれが実弾であったら……その瞬間は、誰もがそれを考えた。だが、実際に恐ろしいのはそこでは無い事も、皆少しずつ気付き始めていた。

 あの青年は、目標物さえ視界に入っていれば銃口を向けておらずとも撃ち抜く事が出来る、という事を今この場で証明してみせたのだ。

 凄まじい『鷹の目』を持つ美しき青年。『チャーチグリム』を指揮する少女のようなアイオライト船長には自分の様な用心棒も居るという『警告』を、彼はこの場にいた全員の記憶に深く焼き付けていったのだった。

 皆の話し声すら耳に入ってこない程に衝撃を受けていたバードメット一佐は、彼等が去った後も未だ戦慄した身体を動かせないでいた。立ち尽くすその情けない背に、バーベインは音も立てず静かにゆっくりと歩み寄った。

「バードメット一佐殿!」

「ぎゃああっ!」

 バーベインは、わざわざ男を驚かせるように耳元へと大きな声で話し掛ける。肩を飛び上がらせて叫んだ男は、その拍子に持っていた掌の飴玉を床にばら撒いた。

 当然、一佐は青白い顔のまま怒鳴り返してくる。

「ふ……ふざけるな、ふざけるなっ! この儂を誰だと思っているんだ!」

 そんな彼に、バーベインは大層機嫌良く「ご機嫌如何かな!?」と同じ声量で笑い掛けた。

「いやはや、飛んできたのが飴玉で良かったですなぁ!」

「っう、うるさいぞ! もう少し静かに喋らぬか!」

「……本物の銃弾でなくて、本当に良かった良かった」

「……なっ……!?」

 戸惑う相手を他所に、バーベインは床に散らばった飴玉を一つ拾い上げ、その赤く小さな球体をまじまじと見つめる。

「……はてさて、バードメット一佐殿は理解できておられるのか否か……」

「……な、何の話だ?」

「貴殿が、最初に彼等に喧嘩を売ったのです。それが『この程度』で済むとは、まったく貴殿も運が良い」

「な、何を言う。『喧嘩を売った』だと? 儂は予てから問題視されていた、軍の害虫を駆除しようと……」

「貴殿はそうかも知れません。だが……彼等にとっては違う」

 バーベインは、飴玉からバードメットへと視線を移す。サングラスから僅かに覗くその眼に、バードメットは先程の青年以上に例えようの無い恐怖を覚える。

「……まさか貴殿は、『チャーチグリム』の船員達が、雇われてあの船に乗っているとでも?」

「ど……どういう事だ」

「彼等は船長に忠誠を誓い、『母』のためならばどんな手段も厭わない狂人達だ。『チャーチグリム』が最強と謳われるのは、個性溢れる『息子達』と、彼等を纏め上げる彼女の能力あってのもの……決して、『船の性能』などではないのだ」

 バードメット一佐が、ぐっと言葉を詰まらせる。結局、この男も『チャーチグリム号』が目的だったか……そう悟ったバーベインはサングラスのブリッジを押し上げ、飴玉を手に相手へと歩み寄る。

「あの船が魅力的に映るのも理解できる。だが、その魅力の『元凶』である船長をあまり苛めると、恐ろしい番犬がその喉笛目掛けて飛び掛かってきますぞ。それを、頭の片隅にでも入れておいた方が良い」

 バーベインは飴玉を彼の胸ポケットに入れ、一佐の肩を二度叩いてその脇をすり抜ける。しかしふと立ち止まって振り返ると、バードメット一佐はすっかり怯えた様子でこちらを見返していた。

「……そうそう、忘れておりました」

 満足気に息を吸ったバーベインは、「そういえば」と言葉を続けた。

「バードメット一佐殿は、現在の四長老がどなたかご存知か?」

「な……何を、突然……?」

「基本、四長老は軍経験者の年長者から推薦、選出される。現在、ヴァルテッリの長はその高齢からくる体調不良で、代理の者を立てておられたな……ラウリの長は高齢ながら未だ現役、マティアスの長は数年前に交代してから、経験は浅いながらも立派に責務を全うなさっている」

「……そ、それがどうした。儂には関係無い」

「マティアスと同じく、数年前にオリヴェールの長も次代へと継がれたのをご存知ですかな?」

 その言葉を聞いた男は、思わず目を見開いた。

 それぞれ人種の異なる四種族の内、他の三種族の長達に比べ、かなりの長寿であるオリヴェール族は代の引き継ぎが革命後一度も行われていなかった。見目は若くとも、必然的に年長者であるオリヴェールの長は、常に四長老の中心として、この国を纏めていた。

 その大役を、先代は新たな候補者を四長老達のみに推薦し、人知れず引退していったのだ。

「せ、先代? オリヴェールの長は、確かあのいけ好かない髭面の男だった筈だ。……引退、しただと?」

「ええ。彼は今、ラウリ自治区内の森に奥方と隠居していますよ」

「なら、今の長は……?」

「……ローゼス=メアリ・オブシディアン。この名を聞いた事は?」

「……まさか、『導きの女神』が……!?」

 五十年前、革命軍を率いて皇帝軍を打ち負かしたとされる、現ハイマート共和国の祖。この国に住む者で、この名を知らぬ者は存在しないだろう。

「生きていたのか……あの動乱の時代を抜けて……!」

「……では私はこれで。その当代からの『反省文』を、本部で待たなければなりませんので」

 そう言い切ったバーベインは、再び背を向ける。相手はきっと、鳩が豆鉄砲を食らった顔か……もしくは、絶望に目を見開き固まっているか。相手の息を呑む気配をその背に感じ、髭を蓄えたその口角を上げた。

「四長老に対する侮辱で迫害尋問に掛けられる前に、その汚泥を綺麗にして貰えて……彼等には、感謝せねばなりますまいな」

 『チャーチグリム号』船長の正体、四長老オリヴェール族代表という地位を知っているのは、バーベインを含めた彼女の旧友数人、そしてこの国を共に治める四長老の仲間達だけだ。

 擲ったこの一矢が、果たしてどの様な結果を生むのか。彼は脂汗を浮かべたまま何も言い返す事が出来ない相手を一瞥もしないまま、不敵な笑みをその口髭に隠した。

「マリーさん達、まだかな……」

 足元の小石をハート型に並べながら、右頬に大きな火傷の跡が目立つ一人の青年は空を見上げ、小さく呟いた。

 以前、船長に茶々入れしてきた将校に対して殴りかかろうとした前科がある彼は、議会の永久追放と会議場への立ち入り禁止を言い渡されていた。そのため、船長が会議への招集が掛かる度、

会議場正面の玄関前にある階段に腰掛け、律儀にローズマリー達が出てくるのを待っているのだった。

 会議が始まって二時間半。する事も無くぼんやりと座っているだけの彼の足元には、いつの間にか蝶が群がり羽を休めている。彼の肩へと飛んできた小鳥も、そのスカーフに身体を埋めて目を閉じ、やってきた野良猫が彼のすぐ隣で腕を仕舞って座り込むと、爽やかな風に髭を揺らしながら、うとうとと気持ち良さそうに居眠りをし始めた。

 それらを追い払う事もせずに、彼は慣れた様子で隣の猫を撫でながら退屈そうに溜め息を吐いた。

 彼の気分が穏やかで落ち着いている時は、決まって沢山の生き物達が彼に集まり、何故かその身を彼に委ねてくる。それはさながら木漏れ日の輝きが心地良い、止まり木の様な感覚だろうか。

 見上げた先には、白い雲が青く広い空をゆっくりと流れていくのが見える。噴水に反射してキラキラと輝く陽の光に、小さな飛沫を上げながら流れる水の音色。夢へと誘うような心地良さに、青年はその赤い瞳を閉じた。

「……良い天気だなぁ」

 世界は冬から春へと変わろうとしている。花が芽吹き、命が活発になっていく季節の中で、青年が覚える自然と一体になった様な感覚は、彼をいつも幸せな気分にさせてくれた。

 ローズマリー達『チャーチグリム号』に拾われ、その目が醒めた時から、青年は命あるものの位置が鮮明に把握出来る能力を持っていた。そんな彼にとって、命が星の様に輝く様を感じる瞬間は、まさに至福の一時と言えよう。

 命を溶かし育む土の匂い、優しく降り注ぐ日の暖かさ、道を伝い流れてゆく水の音、肌を柔らかく撫でていく風の感触……人々の体温、動物達の吐息や、小さな虫が葉を食べる音など、辺りに存在する命が、忙しなく動いているのが手に取るように分かる。遠くで声を上げて泣く赤子も、卵を割って生まれる小鳥も、懸命に生きようとしている彼等の強さを感じた青年は、その愛おしさに思わず表情を緩ませた。

 命とは、こんなにも美しい。『生きている』とは、こんなにも素晴らしい。

 深く息を吸い込み、全身で『世界』を感じ取った彼は、その息をゆっくりと吐きながらその場に仰向けに寝転がった。隣にいた猫が彼の腹に乗って丸くなり、小鳥達に至っては、彼の髪を啄んで遊び始めている。

 ただ『そこ』にいるだけで、嬉しい。青年は、溢れさせた感情を笑顔に変えて腹の上の猫を優しく抱き締めた。

 しかし、その時。

「あっ!」

 今一番に感じたい存在を察知した青年は、カッと目を見開いた。

 彼の頭元にいた鳥達が驚き、青年の頭元から飛び立つと同時に、よく知った仲間達の声が正面玄関の方から聞こえてくる。勢い良く起き上がり後ろへ振り返った青年は、腹に乗る猫を抱えて素早く立ち上がると、会議場から出てきた二人に満面の笑みで駆け寄った。

「マリーさん! フェンネル!」

「リン、遅くなってすまない。その猫ちゃんはどうしたんだ?」

「猫!」

「阿呆リンデンめ」

 フェンネルが不機嫌そうに舌打ちするが、リンデン、と呼ばれた青年は全く気にした様子もなく「おかえり」と猫の頭を撫でながら二人に笑顔を浮かべている。その姿はさながら主人の帰宅を喜ぶ忠犬のようで、フェンネルは猫を抱く彼の尻に全力で振り回される大きな尻尾が見えた気がした。

「お疲れ様、マリーさん。会議どうだった? またイジメられたりしなかった?」

「フェノンもいたし、大丈夫だ。何も問題は無かったぞ」

 リンデンに笑顔で答えるローズマリーだったが、隣で腕を組むフェンネルはそんな彼女を「ふっ」とせせら笑う。

「堂々と嘘吐いてんじゃねぇよ、船長。正直に教えてやれば良いだろ」

「よせ、フェノン」

「え、何?」

「リン、本当に何でもないんだ。気にしなくて良い」

 しかし、はぐらかそうとする彼女を無視して、フェンネルは先程会議室で起きた出来事を包み隠さずリンデンに話した。少し悲しそうな笑顔で「もう終わったから」と微笑むローズマリーだが、話を聞いたリンデンの表情は瞬く間に阿修羅へと変貌していく。

「……よくもマリーさんに……!」

「リン、もういいから」

 ローズマリーは何とかリンデンを宥めようと声を掛けるが、辺りの空気は瞬く間にひやりと冷たくなる。リンデンの腕に抱かれていた猫は慌てた様子で地面へと身軽に飛び降りると、そのまま何処かへと一目散に走り去っていった。

 それだけではない。三人の近辺にいた鳥や小動物達、虫さえもが蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ始め、彼等の周りの動物は何一つも居なくなってしまう。

「おい、リン」

「はは。良い気分転換だ」

「こらフェノン」

 怒るリンデンに、けしかけた形になったフェンネルは空気の変化を楽しみながら笑みを零した。

 己の感情や気分によって、周りの生物に影響を及ぼしてしまう。これもまた、彼の奇妙な能力の一つだった。

 彼が腕に巻く通信端末には、その能力を抑えるための制御装置も組み込まれている。感情が負の方へ強く振り切ると当然制御装置も壊れてしまうが、そうなると、彼の周りにいる人間はその能力の影響を直接受けて身体に異常を来たしてしまう。良くて失神、最悪の場合など考えるだけでも恐ろしい。

 当然、それを知っているローズマリーはリンデンに注意を促す。

「リン、いい加減落ち着け。制御装置が壊れたら周りに迷惑を掛けるぞ」

「……ねぇフェンネル、その野郎どこの誰? 名前と階級教えてくれたらブッ殺してくる」

 怒り心頭のリンデンに、フェンネルはやはり「阿呆リンデンめ」と嗤いながら鼻を鳴らした。

「だからテメェは阿呆なんだよ。この件は俺が持つから、全面的に出禁食らってる阿呆は船で大人しく飯でも作ってろ」

「はぁ? 子猫ちゃんが独りで抜け駆けして無事に帰ってこれると思ってんの? 絶対に俺が行った方が早いね」

「誰が子猫ちゃんだクソゴリラチワワが。テメェの『やり方』は目立つ上に足が付く。黙って俺に任せてりゃ良いんだよ」

「んもー、殺すな殺すな」

 真面目に相手の殺害計画を立てようとしている部下二人の背中を思い切り叩き、彼女より頭二つほど背の高い二人はその痛みに軽く呻く。「早く帰ろう」と笑って歩き出した彼女の後ろ姿に青年達は顔を見合わせるが、フェンネルは溜め息を吐いて呆れたように首を振り、リンデンは「うん」とローズマリーに微笑んだ。

 船長の後ろに付いて歩き出した二人に、ローズマリーは「だがな、リン」と切り出す。

「お前が思う程、今回の会議は悪い事ばかりじゃなかったんだ」

「え、そうなの?」

「ローズ」

 船長に静止を掛けたフェンネルだったが、彼女は『してやったり』の笑顔で「ふふん」と口角を上げる。

「確かにムッとした事もたくさん言われたが、そんなのは別にいつもの事だ。でも、フェノンがちゃんと仕返ししてくれたんだぞ」

「仕返し? 会議はいつも寝てるって聞いてたけど」

「いつもはそうだな。でも、ちょっと過激だったけど、フェノンのお蔭で今とても気分が良いんだ」

 不思議そうに首を傾げるリンデンだったが、そんな彼にローズマリーは会議場での出来事に加え、フェンネルの行った『仕返し』を簡潔に説明する。確かに過激ながらも仲間の武勇伝を聞いたリンデンは、目を輝かせてトキメキに緩む口を両手で覆う。

「やだ……超格好いいじゃん……!」

「そうだろう、そうだろう。方法はあんまり褒められたものではないが、本音で言えば、実はかなりスカッとした。私は大満足だ」

 頷きながら褒めるローズマリーの後ろで、不貞腐れるフェンネルが不満げに呟く。

「俺は満足してない」

「まだそんな事言ってんのか? 私が『いい』って言ってるのに」

「ふん」

「んもー……リン、何か言ってやれ」

 会議での出来事を思い出し、僅かに苛立つフェンネルにリンデンが優しく微笑む。

「俺が何か言わなくても、フェンネルはいつもスゴいよ? 誰も怪我させてないのもスゴいし、マリーさんが今こうして笑顔でいられるのも、フェンネルが居てくれるからだし」

「………………」

「俺なんかさ、すぐカッとなって暴れちゃうし、制御装置壊れたら大変な事になっちゃうから……フェンネルみたいに賢い方法で仕返しできたら良いんだけどなぁ」

 フェンネルは黙り込んだまま何も答えない。

 リンデンは優しい眼差しで笑みを浮かべ、視線を逸らすフェンネルの顔を覗き込む。

「ね、自信持ってよ。『チャーチグリム』では一番フェンネルが賢いんだから」

「………………」

「そうだぞ、フェノン。私はお前のような『息子』がいて鼻が高いんだから」

 不意に二人に絶賛されたフェンネルは、無表情で俯くと指先で三つ編みを弄り、戸惑ったように目を泳がせる。

「……別に……お前らが阿呆だから……」

「んもー、褒めてくれたら『ありがとう』だろ?」

「………………」

 照れている。そして、恥ずかしがっている。微笑ましい彼にローズマリーが目を細め、リンデンが手で顔を覆い叫んだ。

「もう、フェンネルの天邪鬼! 好き!」

「キモうぜぇ寄るな死ね」

「照れてるー! 可愛いー!」

「死ね」

「こらフェノン、過激な照れ隠しはするなっていつも言ってるだろ」

 フェンネル独特の口が悪い照れ隠しも、何年も一緒に過ごしてきた二人にとっては慣れたものだ。三人は彼等なりに仲良くじゃれ合いながら、道すがら昼食を買い食いしつつ帰宅の路に着いた。

 会議場から東へと歩き始めて、十五分が経過した頃。

 腹拵えも済んだ三人が船へと帰還した瞬間、最初に違和感を唱えたのはリンデンだった。

「待って、何か変」

「!」

 ハッチの取っ手を握った瞬間に感じた異様な気配。リンデンはすぐに二人へ注意を促し、そっと取っ手から手を離して中の様子を小窓から伺う。

 ローズマリーとフェンネルは顔を見合わせ、船内を覗き込むリンデンの背後や頭上、彼の死角になる方向の警戒を始める。

「……何だと思う?」

 入口のドアに耳を寄せ、リンデンが後ろの二人に問う。

 後ろ腰のホルスターに差していた拳銃を抜いたフェンネルは、マガジンの本数と薬室内の弾丸を確かめ、調整をしつつリンデンに「さぁな」と答えた。

「今日は留守番にユズさんがいる筈だ。あの人に何かあったんだとしたら、今この中にいるのは相当な化け物だぜ」

「会議前にユズ君と話をした時は、特に異状は無いみたいだった。要救護者の子が起きた、とは言っていたが……」

「えっ、じゃあ、その子が化け物って事?」

 リンデンの一言にフェンネルが舌を打つ。三人の間に、数秒の沈黙が流れた。

「……まさかぁ」

 冗談めかして言ったローズマリーだったが、その笑顔は引き攣っていた。

「どっちにしろ、警戒するに越した事は無ぇ。リンデン、戦闘準備」

「あの……本当ごめん、フェンネル」

「あぁ?」

「実は全部、部屋に置いてきちゃってて……」

「なんで」

「街に出るなら必要無いと思って」

「テメェ仮にでも船長付きの護衛ならちょっとは武装しろよ阿呆が」

「ゴメンってぇ」

 こんな時でも相変わらずな二人に「止めないか」とローズマリーが苦笑する。

「フェノン、リンに何か貸してやってくれ。リンだって、うっかり相手を殺してしまわないように工夫して頑張ってるんだ」

「マリーさん……!」

 しかし、露骨な溜め息で呆れてみせたフェンネルは、腰に差していた短剣(ダガー)を鞘ごとベルトから引き抜いてリンデンに投げ渡す。

「この阿呆リンデン。テメェなんか、バカ過ぎる阿呆リンデンだ」

「だからゴメンってぇ。ちゃんと研いで返すからさぁ」

「グズが」

「こらこら」

 リンデンは受け取った銃剣を自分のベルトに差し直し、フェンネルはコートを脱いでハッチの真正面にある柵に掛け置く。二人より一歩後ろに構えたローズマリーが二人に目配せして手を挙げ、フェンネルとリンデンもそれを合図に目を見合わせて頷き合った。

 リンデンが、ゆっくりと船の入口であるハッチを押し開く。

「ユズさーん……いるー……?」

 当然、リンデンの呼び掛けに返事は無い。それどころか、廊下はまるで燻ぶる煙のような白い靄で、真っ白に埋め尽くされていた。

 リンデンは手で少し靄に触れて外へ掻き出してみる。靄の消え方、匂い、感触、温度など、あらゆる情報から、その気体の答えを導き出す。

「……ただの水蒸気だ。雲の中に入るみたいな感じかも」

 ローズマリーが胸を撫で下ろし、フェンネルが「よし」と頷いた。

「毒じゃないなら良い。そのまま進むぞ」

「了解〜」

「ローズは外で待ってろ」

「一緒に行く。これは私の船だぞ」

「あぁ?」

 嫌そうなフェンネルの横で、心配そうなリンデンが彼女に「大丈夫?」と問い掛ける。

「マリーさん、何があるか分かんないよ? 危なくない?」

「っつーか邪魔」

「ナメるなよ小僧共め。私を置いていったら勝手な真似ばかりするからな」

「えぇ……それ、どういう脅しなの……?」

「まったく、どいつもこいつも……念のためマスクはしとけよ」

「分かった、ありがとうフェノン」

 フェンネルはベルトポーチから小さく丸められた三角巾を取り出し、ローズマリーに向けて投げる。受け取った彼女は、それを広げて口を覆うと後頭部で布巾の端を結んだ。

 合図を出し合い、ハッチの中へと進み始めたリンデンに続いて、フェンネルとローズマリーも船内へと足を踏み入れる。何故か電気が消え、暗くなった廊下は何処までも白い靄で埋め尽くされ、リンデンは靄を手で払いながら奥へと入っていくが船内の視界は無いに等しい。

 フェンネルが背後からハンドライトを点けても真っ白な霧が照らされるばかりで、各部屋の窓から入る明かりが何となく分かる程度にまで、中は靄に埋め尽くされていた。

「なんで中のライトが全部消えてるんだろ……もしかして、この霧でショート起こしたとか?」

「それは無ぇだろうな。ウチの配電盤は、ユズさんが完全防水に拘って改造してある」

「なんで?」

「掃除しやすいようにだとよ」

「なら、今回はユズ君がわざと明かりを消したと考えるのが自然かも知れないな」

「なんで?」

「んー……姿を隠すため、とか?」

 ローズマリーの言葉にリンデンは眉を下げ、フェンネルは顔を険しくさせた。

「これ……急いだ方が良いのかな? マリーさん、どうしよう」

「取り敢えず、ユズ君の安全確保を優先しよう」

「あの女の子じゃなくて?」

「その女の子が『どっち』か分からないから仕方無いだろう。その子が助けを求めているのであればユズ君が保護しているだろうし、違うのであればユズ君を助けなきゃいけない。まずはユズ君を見つけるんだ。リンは船内の『検索』を頼む」

「分かった」

 船内の生体反応を探るため、リンデンは目を閉じて更に感覚を研ぎ澄ませる。その背後で、フェンネルはローズマリーに小声で発砲許可を問うが。

「駄目だ、今回はリンに任せろ」

「相手の得体が知れねぇのにか」

「リンやユズ君に、何か危害が加えられた場合のみ許可を出す。それまで、安全装置は絶対に外すな」

「……チッ」

 フェンネルは舌打ちで返事をするが、大人しく拳銃の薬室から弾を抜き、弾倉を抜いてホルスターに差し直した。

 その時、リンデンが口を開く。

「いたよ、マリーさん。リビングだ」

「!」

 自分達の他に、数十メートル先のメインデッキに感知した二つの存在。

 一つはユズリハで間違いないが、もう一つは?

「多分あの女の子も一緒にいる。でも、その女の子に若干の『モルス』体の感覚あり」

「何? ユズ君は無事そうか?」

「それは大丈夫」

 そうか、とローズマリーは胸を撫で下ろした。

「なら、ユズ君が動けない理由がある事を想定して動いた方が良いな。ユズ君が女の子を保護、もしくは捕獲しているのであれば対話してみる。逆ならユズ君を助け出すぞ」

「分かった」

「じゃ、『現場担当』のフェノンにバトンタッチだ」

 ローズマリーが言えば、指名された本人は少々面倒臭そうに「へいへい」と答えた。

 彼女の命令や指示を踏まえて、フェンネルは大まかな作戦を二人に説明していく。

「ローズは食糧庫からキッチン下を開けてリビングへ入れ。中に入ったらシンクを防護壁代わりにしながら一時待機、換気扇が回って見えるようになってからユズさんに声掛けを始めろ。相手の武装状況が分からない以上、絶対にキッチンから顔は出すなよ」

「了解だ」

「リンデンはこのまま行ってリビングのハッチ前で待機、目標の位置確認と捕獲準備だ。ローズの声に相手が気を取られている瞬間を狙え」

「フェンネルは?」

「整備室のブレーカーを上げてから監視台に上がる。そこのサブスイッチでリビングの電気と換気扇を入れるが、明るくなってもすぐには動くなよ。ローズの声を合図に捕獲開始だ」

「分かった」

「可能なら、俺も上から捕獲を狙う。ローズ、捕獲対象の安否は?」

「助けられるなら助けたい。リン、フェノン、出来る限り相手は無傷で安全に保護するんだ。間違っても殺さないように。いいな」

「分かった!」

「了解」

 皆で頷き合い、タイミングを合わせた三人は『リストベル』と呼ばれる腕時計型端末の画面共有ボタンを同時に押した。これで経過時間はもちろん、位置情報、通信機能、装着者のバイタル信号も共有される。

 リンデンはその場で靴を脱ぎ、足音も無く廊下を奥へと進む。ローズマリーとフェンネルは二人で踵を返して一度外へ出ると、勝手口のような所からローズマリーの掌紋認証でハッチを開き、整備室に入る。フェンネルからハンドライトを受け取ったローズマリーは食料庫へ向かい、フェンネルは再び外へ出て、監視台へと続く梯子を登り始めた。

 リンデンがメインデッキに近付くと、その入口であるハッチは完全には閉まっておらず、少しだけ空いた状態にあった。中へは入らずにリビングから死角になる位置に待機、短剣を抜いて逆手に構えると、目を閉じて感覚を尖らせ、気配を探りながら耳を澄ました。

 微かだが、中から男女の話す声が聞こえる。男の方は当然聞き馴染んだユズリハの声で、意識もはっきりしており、普段と変わらぬ声音で焦っても怒ってもいないようだ。

 彼の危険を感じない様子に、リンデンは心底安心する。ただ、女の方は……否、この声の感じは『少女』であろうか。その少女に向けて、ユズリハは何やら説得するような口調で話しかけ続けている。

「ほら、俺の仲間が帰ってきました。今のままでは大変な誤解を受けます、早く背中から降りて下さい」

「何が誤解だ、折角捕まえた所だというに……解放は却下する。今放せば、またお前は私から逃げ出すだろう?」

「貴女が追いかけて来なければ、俺だって逃げたりしませんよ。さぁ早く、そこから下りて」

 そんな会話の内容を聞いたリンデンは、訝しげに片眉を上げる。あまりに落ち着いたユズリハの声音は、警戒していないどころか呆れや諦めにも似たものを感じる。

 しかし、その少女はユズリハの大きな身体に馬乗りになり、何かの方法で彼を捕らえているのには間違いない。ユズリハを助けるため、不思議に思いながらもリンデンは短剣を握り直した。

 その時、突然メインデッキ内の明かりが灯り、変わらず靄で真っ白ではあるが、機器類の配置が分かる程には視界が開けた。同時に回り出した空調設備のお陰で、船外へ吸い出され始めた靄は天井から少しずつ薄くなっていく。

 その状況に素早く気付いた少女が、少し戸惑った様子で辺りを見渡し始めた。

「くそ……蒸気が何処かへ吸い出される。何が起こった?」

「換気扇が回ったんですよ。この霧もすぐに晴れます」

 リンデンは、靄が晴れてゆく先に少女の姿を捉えた。

 俯せに倒れるユズリハの広い背中に、アヒル座りで乗っかっている褐色肌の幼い少女。長い紺色の髪が、ローズマリーの用意した白いワンピースに映え、さらさらと艷やかに揺れ靡いている。

 俯けば目の前に降りてくる長い髪を鬱陶しそうに避けながら、少女が何故か右手を天井へと翳した時だった。

「ユズ君、聞こえるかっ? 何処にいるんだ!」

「!」

 キッチンのある方から、ローズマリーの声が響く。すると少女は目を見開き、声の方をギロリと睨んだ。

 彼女から強い殺意を感じたリンデンは、ハッチの隙間からリビングへと侵入する。

「……馴れ馴れしく呼びおって……!」

 少女が呟いた瞬間、突如として、ストンと帷が落ちるように完全に靄が晴れる。彼女はローズマリーの声がしたキッチンに手を翳して何かをしようとしていたが、完全に意識をそちらに向けていた事で、少女の死角に回っていたリンデンが彼女に向けて強く床を踏み込んだ。

 少女はリンデンの殺気に気付くも刹那ほど遅く、数メートルの距離を一蹴りで跳んできたリンデンに背中から体当たりを食らう。そのまま床を滑りながら俯せに抑え込まれ、腕を背中で固定され動きを封じられてしまった。

 背中に馬乗りになられてしまっては、もう手も足も出ない。

「っは、離せ! 貴様、何者だ!」

「暴れると痛いよー? じっとしてなって」

 少女が背中から居なくなった事で、自由を得たユズリハは動き辛そうにゆっくりと上体を起こして立ち上がる。

「くっ……誰だ、リンデンか?」

「ユズさん、大丈夫?」

「やっと動ける。取り敢えずは助かった」

 取り敢えず?

 何やら含みがある言い方に、リンデンは「どゆこと?」と訝しげに問う。

 ユズリハはリンデンと少女に、凝った肩を回しながら歩み寄った。

「リンデン、彼女は敵じゃない。要救護者だ」

「いやいや嘘でしょっ? さっき明らか捕まってたじゃん!」

「俺が油断しただけだ。彼女には助けが要る」

 メインデッキで話をしているユズリハとリンデンの様子に、監視台にいたフェンネルも、天井の丸い窓から下へと飛び降りてくる。三メートルほどの高さを猫のように身軽に着地した彼は、操縦席の後ろの壁に掛けられた小銃を手に取ってリビングへと上がった。

「おいおい、何が起こってる?」

「フェンネル、こいつ要救護者扱いだってさ」

 リンデンの説明に、フェンネルはユズリハを見る。

「……どういう事か、一から説明してもらっても?」

「分かってる。彼女は……」

 しかしその時、キッチンの奥からローズマリーの「おーい」という声が響く。その声を聞いた途端、リンデンに捕まえられていた少女が身を捩って抜け出そうと小さく暴れ始める。

「うわ、何? 怖い怖い、抵抗すんなし」

「貴様ぁ……私に触れるな、離れろ痴れ者めが!」

「やだ、口悪ぅい」

 そう言いつつも、リンデンは少女との力の差に余裕を見せつつ、しっかりと掴まえる腕の力を安定させる。

 顔を覗かせようとしたローズマリーをフェンネルが制止し、少女と彼女の間に入ってボルトを引くと小銃の薬室に弾丸を送り込む。

 ユズリハは状況を見ながら判断を選んでいるようで、少女が敵ではないと言いながらも、彼等が警戒を強める事を制止せずに様子を伺っている。

 少女は腕を出そうと足掻くが、変わらず自分の上に居座り続ける相手に「何故だ」と驚いている。

「魔力が使えん……! 貴様、私に何をしたっ?」

「えー何にもしてないし。むしろ暴れてんのはそっちなんだけど?」

「離せ、そこを退け! 私はそこに隠れている女を、今すぐ始末せねばならんのだ!」

「!」

 少女の言葉に、船員達の表情が瞬時に冷たいものへと変わる。リンデンがフェンネルを見れば、彼は既にその銃口を少女の眉間へと向けていた。

 そんな張り詰めた空気の中で、最初に沈黙を破ったのは溜め息を吐いたユズリハだった。

「……言いましたよね。乗組員を傷付けるなら、俺は金輪際、貴女の前に姿を見せません」

「くっ……!」

「……?」

「何、その脅し?」

 リンデンとフェンネルだけでなく、キッチンに隠れていたアシㇼパも首を傾げる。

 焦った様子の少女は、「でも」と言い訳を並べ出すが。

「あ……あの女は、ユズリハを馴れ馴れしく呼んだんだぞ。見逃す事は出来ん……!」

「彼女はこの船の船長で、俺の上司なのですから馴れ馴れしいのは当然でしょう。皆の上に立つ者は誰であれ、下々の者に気安くするものです」

「何……? なら、こいつ等は下僕という事か?」

「下僕て」

 リンデンが思わず鼻で嗤った。

「彼等も俺も下僕ではありません。この船の乗組員達です」

「おい、女! 貴様が船長(ふなおさ)なれば、早くこの不届きな下郎を退かさんか! 私は巫女なのだぞ!」

 さっきから、この少女は何を言っているのか。そして、何故ユズリハは彼女の扱いにここまで慣れているのか。

 訝しげに眉根を寄せるばかりだったリンデンが問う。

「ユズさんは、コイツの弱みでも握ってんの?」

「今の内だけだろうがな。話してみたら、完全に記憶喪失という訳でもないらしい」

「……どういう事なの?」

「俺もまだ把握は出来てないが、とにかく悪い子ではない。それだけは確かだ」

 すると、キッチンからそっと出てきたローズマリーは、フェンネルが構えていた小銃のバレルを下へ押して照準を逸らさせる。何も言わないフェンネルは小さく舌打ちをするが、大人しく安全装置を掛けて銃口を床へと向けた。

 ローズマリーが俯せに組み敷かれる少女の前にしゃがむと、少女はローズマリーを鋭く睨み上げる。未だ抜け出ようとする腕をリンデンがしっかり固定するが、少女は攻撃を諦めてはいないようだ。

 ローズマリーは、ニッと少女に笑い掛けた。

「初めまして、『胡蝶の君』。私はこの船の長で、皆の上司だ。勿論、ユズ君は私の部下で仲間だ」

「……たとえ長でも、我が番(つがい)を気安く呼ぶな」

「ツガイ?」

「この男は、私が選んだ私だけの番だ。貴様らが何者であろうと、我が番に気安く接する事は許さん」

 三人が一斉にユズリハを見る。こんな話を聞けば、この様な反応をするだろうと予測していたらしい彼はすぐに皆に掌を見せて「今の内だけだ」とすぐさま否定した。

「違う、そうじゃない」

「ユズ君……こんな小さい子を相手に……」

「変な勘繰りするな、彼女がそんな事を言うのも本当に今だけだ。法律と秩序を学んで今の生活に慣れれば、絶対に落ち着くから」

「……もしかして、ユズさんはコイツが起きてからずっと船内を逃げ回ってたんですかぃ? 船中の灯り全部落として」

 フェンネルの問いに、ユズリハは頭を掻きながら頷いた。

「起きてすぐではないが……話してる内に、妙に気に入られたみたいでな」

「……そんな簡単なものではないわ、戯けが」

 ユズリハの言葉を聞いた少女が、不満そうに口を開く。

「私は、私の意思でユズリハを選んだのだ。故に、その瞬間からこの男は我が番であり、私のものとなったのだ。神の子を授かる巫女のものは、神が所有すると同等ぞ。貴様ら下郎が簡単に触れて良い存在ではない」

「……んー?」

 訝しげに唸ったリンデンの声だけが、その場に大きく響いて消えた。それ程に誰もが唖然とし、ユズリハも疲れたように溜め息を吐く。

 しかし、それでもローズマリーは神妙な面持ちで少女の言葉に耳を傾けていた。

「……そうか。大体は分かった」

 ユズリハの様子を見れば、この珍妙な少女の言い分は、本当に彼女が勝手に言い出した事と見て間違い無いだろう。しかしそんな少女も、己の知らない場所で目覚め、不安の中で優しく接してくれる相手に懐くのは当然と言えば当然だろうか。

 一通り状況を整理したローズマリーは、少女に再び微笑みかけた。

「お前はユズ君に一目惚れして、彼を番にしたいんだな?」

「馴れ馴れしく呼ぶなと言っとるんだ。番に『したい』のではない。私が選んだ時点で、既に私とユズリハは番なのだ」

「成る程なぁ。じゃあ、番った今は何を目的に動く?」

「子を成す」

 アシㇼパから、表情が消えた。

「……いつ?」

「すぐにでも」

 少女の言葉に迷いは無い。『それこそが当然』と言わんばかりの声で、少女は彼を自慢するかのように続ける。

「ユズリハは賢くて冷静、心身共に屈強で温厚。此奴の種なら、必ず神の子を宿す事が出来る」

「うえぇ……」

 抑え付けるリンデンが、強い嫌悪感に音を上げそうになる。ローズマリーが視線を向けてリンデンを労った瞬間、彼女は背後で小さな金属音が弾けるのを聞いた。

「駄目だ、フェノン」

 先程の金属音が小銃の安全装置を外した音だと気付いたローズマリーは、すぐに立ち上がって銃口を少女に向けるフェンネルの前に立ちはだかる。

「銃を降ろせ。私は許可しない」

「コイツは塵(ゴミ)だ、塵は殺すしか無ぇ」

「だとしても、ここは私の船だ。発砲は許可しない」

「うるせぇ、命令すんな」

「フェンネル、どうか少しだけ待って欲しい。クソみたいな考え方なのは分かるが、これは誰かに植え付けられたものの様な気がするんだ。頼む」

 ユズリハにも諭され、しかし「だとしても」とフェンネルは言葉を返す。

「ユズさんなら分かるでしょうよ。そんな簡単に人間は変わらねぇ……生かしといてもこっちが損こくだけだ」

「分かってる。だから俺に時間をくれと言ってるんだ」

「フェノン、銃を降ろせ。これは命令だ」

 ローズマリーは表情を変えずに、スッと眼を据わらせフェンネルを見上げる。時間にして数秒間フェンネルとローズマリーは睨み合っていたが、ふと、フェンネルは銃口を上に逸らすとボルトを引いて薬室から弾を抜いた。

 ボルトを戻す事無く、そのまま小銃を床に投げ捨てる。ガシャンと大きな音を立てて転がった銃を、ユズリハが拾い上げた。

 ローズマリーに背を向けたフェンネルは、絞り出すように言葉を投げた。

「……俺の視界に入ったら、その時点で頭吹っ飛ばすからな」

「フェノン」

「命令なんざ知るか。……そん時はこんな船、喜んで出てってやるよ」

 一切振り返る事もなく、歩き出したフェンネルはハッチを抜けてメインデッキを出て行ってしまう。

 ローズマリーは、ふ、と息を吐き、少しだけ悲しげな目をハッチに向けていた。

「地雷なのは分かってたが……」

「……ローズマリー、俺は……」

「……ユズ君も良くやった。ありがとう」

 お前は間違っていない。謝罪を言おうとしたユズリハは、感謝と共に振り返った彼女の表情を見て、これ以上の言葉を紡がなかった。

 よし、と気合を入れ直すように呟いたローズマリーは、ぱっと少女に向き直って屈むと、ハッキリとした口調で相手に告げた。

「……残念だが、『胡蝶の君』。この船では、私が法律であり神と呼べる存在だ。だから現に部下を退けられたし、彼も私の言葉を守った」

「そ……それが、何だ……」

「強がっても無駄だぞ? ここに居る皆が私の部下で、ユズ君も当然、私の大切な船員で仲間だ」

「…………っ!」

「外から突然やって来たお前が何をどう勝手に決めたとしても、彼はお前のものにはならない。何故なら、既に私がこの船の神だからだ」

 少女は悔しげにローズマリーを睨む。まさか、己にここまで毅然とした拒絶の言葉を言ってくるとは、夢にも思っていなかったらしい。

 ローズマリーはわざとらしく、少女にふんぞり返ってみせる。

「今の段階では、お前がユズ君に言い寄る事も触れる事も私は許可しないぞ。私の大切な船員を、変な危険に晒す訳にはいかないからな」

「……決めるのは貴様ではない。私が……」

「残念、この船の全ての決定権は、神である私にあるんだよ。この船を逃げ出しても、お前の主張はこの国では一切通用しない。そんな中で生きていける強い自信があるのなら、お前の自由にすればいいさ」

「………………」

 確固たるローズマリーの言葉に、他の船員も船長に意見する事はない。それは正に彼女の発言が正当で間違いないものであり、真実であると少女に突き付けていた。

 少女の眼に、強い戸惑いが生まれる。そのためか、少女がそれ以上ローズマリーに言い返す事は無かった。

 ユズリハの言う通り、彼女は決して悪い人間ではない。そう理解したローズマリーは、視線を下げた少女の目の前に人差し指を突き付けた。

「でも!」

「っ!」

「そんなお前に、機会をあげようと思う」

「……何……?」

 少女が訝しげにローズマリーを見上げた。

「達成すべき条件は二つ。それが出来れば、ユズ君に求愛する資格を与えよう」

「!」

「おいローズマリー……」

 突然自分の名前が出て、意見しようと口を開いたユズリハをローズマリーが笑顔で制止する。

「まぁまぁ、いいじゃないか。年齢も性別も人種も、誰かが誰かを好きになるというのは素敵な事だ」

「それとこれとは別だろう」

「勿論、最終的にユズ君の心を射止められるかどうかは、彼女の気持ちと腕次第になってくる。それまでは、どうか大目に見てやってくれ」

 少女の『洗脳』が解けた後で、諦めるよう説得すればいい。

 船長の言葉の裏にそんな意味を悟ったユズリハは、困った様子で頭を掻きながら溜め息を吐いた。そんな彼に、ローズマリーも思わず苦笑を浮かべる。

 少女に向き直ったローズマリーは、少女に発破の言葉を掛けた。

「さぁ、ユズ君は一応お前の求愛を許可したぞ。もし彼を振り向かせる自信がお前にあるのなら、条件を飲んだ方が得策だと思わないか?」

「……言ってみろ」

「いいだろう」

 一つ目、とローズマリーは慣れた口調で説明した。

 『チャーチグリム号』は討伐任務以外にも、司令官であるバーベインからの命令で『中心街』の治安維持や犯罪の制圧に駆り出される事がある。実はローズマリーが呈した条件は、素行の悪さから補導されたり逮捕された子供達を保護した際に、必ず出しているものだった。

「一つ目は簡単だ。ハイマート共和国の歴史や地理、文化を始め、法律や秩序、道徳など、この国で生きていくための知識を全て学習する事」

 当然、ローズマリーが運営する三つの孤児院では、基本教科として十六歳まで授業で学べるようになっている。保護され孤児院に入れば、必然的に教養や人間関係を身に付けられる……それは、彼女の教育に関する強い拘りでもあった。

「この国にだって、破ってはいけない秩序も規律もある。逆を言えば、国が抱えている問題も少なくはない……それらの全てを学んで、考えて、知識を力にするんだ。抜き打ちで質問するからな」

「……二つ目は?」

 ローズマリーは、ニッと悪戯っぽく笑った。

「この船の乗組員全員と友達になる事だ」

「……トモ、ダチ?」

「そう、友達だ。だがそれに至っては、決めるのは私じゃない。この船の全員……私の仲間一人ひとりが、お前を『友達』だと認めれば合格だ」

「トモダチ……」

 しかし、その条件に対して、少女ではなく彼女を押さえ付けていたリンデンから文句が飛び始める。

「えぇーっ! 俺、反対なんだけど! コイツと友達になるとか絶っ対、無理!」

「それを彼女がこれから頑張るんじゃないか。このテストはお前にも出しただろ?」

「そうだけどぉー」

「ちゃんと合格もしたじゃないか」

「そうけどぉー……!」

 不貞腐れるリンデンに、ユズリハも思わず苦笑を浮かべる。

「……フェンネルに啖呵を切った手前、俺が断る訳にはいかないな。ローズマリー、彼女の指導係は俺に任せてくれないか?」

「勿論だ。この子に勉強用の本と筆記具を構えてやってくれ。教科書になりそうなものは私が探してこよう」

「了解だ。有難う」

「リン、確かリストベルの予備は部屋に保管してあるんだったな」

「え? うん」

 なんで? と、首を傾げるリンデンに、ローズマリーは「少しの間、彼女に貸してあげて欲しい」と頼んだ。

 屈強なユズリハが少女一人で抑え込まれてしまった事、そして彼女から『魔力が使えない』という言葉を聞いて、リンデンの能力を抑える制御装置が搭載されているリストベルが関係していると感じた。ある程度訓練を積んでいるリンデンなら短期間外していても大丈夫だろうが、出会ったばかりの少女に対してはまだ信用するには早過ぎる。

 船員と少女を守る為、咄嗟に思い付いた応急処置だった。

「俺は外していいの?」

「もう帰ってきたんだし、大丈夫だろう。着替えにでも行った時に取ってくれば良いから」

「分かった」

 リンデンは自分のリストベルを手首から外すと、器用に片手で少女の左手に装着する。

「ベルトの部分、汗臭かったらゴメンね?」

「はぁ? 臭いのは嫌だ」

「だからゴメンって」

「特注が届くまでの我慢です。何なら、ベルトは後で交換しましょう」

「本当か? 有難うユズリハ」

「特注が届いたらそのまま返してくれたら良くない? え、待って嘘でしょ、そんな臭いの?」

 何やら急に仲良さげな会話をする少女と船員達に、『友達』になれるのも時間の問題かと、ローズマリーは微笑ましそうに目を細める。

 ……しかし。

「………………」

 もし、少女の言う『魔力』とやらが、リンデンと同じ不思議な能力だったとしたら。

 彼女を抑え込んだのが、制御装置を持っていたリンデンではなくフェンネルだったら。

 もし能力を発揮されて、この狭い船内で戦闘になってしまったら。

 自分達の運の良さと、『もしかして』の恐怖を思い返し、ローズマリーは心の底から胸を撫で下ろしていた。

「ローズマリー、もう良いだろう」

「そうだな」

 ユズリハに促され、ローズマリーはリンデンに掌を見せて『対象の解放』を指示した。

 リンデンが少女の腕を放し、その小さな身体から退く。すると、彼女は訝しげに眉を潜めながら、ゆっくりと身を起こした。

 手を差し伸べてきたユズリハの手を取り、少女は静かにその場に立ち上がる。

「ようこそ、ハイマート共和国へ」

 そう笑ったローズマリーに、少女は少し警戒した眼差しを向けた。

「……この腕輪は何だ」

「保険で盾で枷だ。条件が達成するまで、絶対に外したら駄目だぞ」

「……もし、外したら?」

「その時は、ユズ君にお前の首を飛ばしてもらおう」

「!」

 少女は驚き、弾かれたようにユズリハを見上げる。しかし、ユズリハは少しだけ眉根を寄せただけで、落ち着いた声でローズマリーに確認する。

「……まさか、それは『命令』じゃないよな?」

「もちろん『指示』だ。頼んだぞユズ君」

 変わらず笑顔のローズマリーに、ユズリハの表情が柔らかいものに戻る。

 絶対的な執行力のある『命令』と違って、『指示』は任務を受けた船員に決定権がある。ある程度の融通が利く『指示』ならば、彼女が信頼に足る人物になった時、もしくは止むを得ない理由があって外さざるを得ない状況になった時など、場合によって融通が利くという事だ。

「……そうか。了解した」

 いつか、枷を外せる時が来る……必ず信用に足る人間になれる。

 船長の言葉を受け、ユズリハもしっかりと任務を引き受けた。

 しかし、『命令』と『指示』の違いなど知る由もない少女は、己が番に選んだ男が、何の躊躇いもなく己の処刑を請け負ってしまったと認識し、戸惑い怯えた表情で視線を下げる。

「まずは名前を考えないとな。自分の事は、何も分からないんだろう?」

 すっかり意気消沈した様子で、素直に頷く少女。そんな彼女にローズマリーは苦笑しつつ、そっと歩み寄って優しく声を掛けた。

「大丈夫、心配するな。幾らでも時間はあるんだから、これから頑張っていけば良いんだ。お前の頑張り次第で、きっとユズ君に相応しい女性になれる」

 自分の腕を抱き、床を見つめたまま黙って頷く少女に、ローズマリーは彼女の肩に手を置いて寄り添い、優しく励ました。ユズリハも、二人をソファへ促して自らはキッチンへと向かう。

 一方で。

「……ねぇ、マリーさん……?」

 その、と言い淀むリンデンの真意をすぐに悟ったローズマリーは、彼に微笑み「行け」と応えた。

「こっちは任せろ、リン。『お兄ちゃん』を頼むぞ」

「……ありがとう」

 メインデッキを出て行ってから完全に気配を消し、何処かへ行ってしまったフェンネルを追いかけて、リンデンはリビングを走りハッチを出て行った。

 その気配を辿り、廊下を入口のハッチへ向けて進むリンデンは、左側にある二つ目のドアの前で足を止めた。

 閉ざされた目の前のドアを四回ノックし、中にいるであろう彼に声を掛ける。

「ふぇーんねるー。入るよー?」

 ノブを握り、右に回して引き開く。すると、すぐに不機嫌な低い声が返ってきた。

「……入ってくんな」

 それを聞いたリンデンは、優しい眼差しで苦笑を浮かべた。

「入るよー」

「出ていけ」

「出ていかないよー」

 いつもの声音を保ち、ドアを後ろ手で閉めて中に入れば、床には彼の上着や今日持ち出していた装備が乱雑に散らばっている。それらを簡単に纏めたリンデンは、右側にある二人掛けのソファに丸ごと乗せた。

 更に数歩奥へ進んで二段ベッドに近付く。二人が使う二段ベッドに隣接した簡易ベンチにそっと腰掛けると、彼が普段使っている下段のベッドに凭れ掛かった。

 その下段のベッドでは、白い布団がこんもりと山を作っている。リンデンが布団の山の枕側を見やれば、中に立て籠もっている彼は布団の中で丸くなったまま、あらゆる銃弾を箱から出して選り分けていた。

 シーツの上は一丁の拳銃の他に大小様々な銃弾だらけで、弾頭が尖っている物も多く並べられ、枕元に転がっている。

「……寝る時に危なくない?」

 囁くように注意したリンデンに対し、フェンネルは唸るような声で「黙れ」と返した。

「あっち行け」

「行きませーん」

「……今の俺は機嫌悪いぞ」

「知ってますー」

「頭吹っ飛ばされてぇのか」

「やれるもんなら、ってね?」

「傲りは身を滅ぼすんだぜ」

「だって、近距離で負けた事無いしー?」

「……じゃあ、これが記念すべき一敗目だ」

 徐に頭元の拳銃を手に取ったフェンネルは、リンデンの左上側後頭部に銃口を突き付ける。しかし、それでもリンデンは一切動揺する事無く、銃を握る彼の手をそっと自分の両手で包んだ。

「……フェンネル。弾切れの銃じゃ、俺には勝てないよ」

 静かに優しい眼差しを向け、微笑む。そんな美しい彼の笑みに舌打ちで返したフェンネルは、不貞腐れた顔でリンデンを睨んだ。

「……ふん」

 構えていた拳銃をリンデンに押し付けて、顔を背けたフェンネルはそのまま布団に深く身を隠してしまう。そんな彼に小さく息を吐いたリンデンは、靴を脱いで簡易ベンチを踏み台にベッドへと座り直すと、再び山を作った布団の上へ覆い被さるように、ずっしりと凭れ掛かった。

 当然、布団の中からは「重てぇ」と苦情が聞こえてくる。

「……このゴリラめ」

「幸い体格には恵まれましてねぇ」

「……本当、何しに来たんだよ」

「俺? フェンネルの様子見にきたの」

「いらねぇ。ローズには適当に言っときゃいい」

「マリーさんの指示じゃないよ。俺が来たかったの」

「来るなよ」

「来るよ。フェンネルが泣いてるような気がしたから」

 布団の山が、「ふっ」と自嘲の吐息に揺れる。

「……テメェもクズだな。間抜け面を拝みに来たってか?」

「フェンネルが間抜けだった時なんか無いじゃん」

「目ぇ腐ってんだな。憐れな奴だ」

「フェンネルはスゴい人だよ。怒ってても、機嫌悪くても、拗ねててもさ。いつだって、俺の尊敬する兄貴だから」

 リンデンが布団の山を優しく撫でれば、「やめろ」と少し怒った声がした。

「……いつもいつも、お前は嘘ばっかりじゃねぇか」

「フェンネルが信じてくれないだけでしょー? 俺が嘘下手なの知ってるくせに」

「……良くも悪くも、か?」

「へへっ」

 リンデンはベッドを降りて簡易ベンチに再び腰掛け、布団の山を子供を寝かし付ける様にぽんぽんと叩き始める。緩やかなリズムとリンデンの能力はフェンネルの心に静寂と穏やかさを与え、ほんの数秒で、優しく夢の中へと誘っていく。

「マリーさんには、俺から説明しとく。今は少し休んで、次に起きた時には気分もずっと良くなってるよ」

「……そんなんじゃねぇ」

「そうだね。分かってる」

 鼻から上だけを覗かせたフェンネルの目は赤い。リンデンは前から後ろへと彼の頭を優しく撫で、その髪を指で柔らかく梳いた。

「よく踏み留まったね、フェンネル。よく我慢した。本当に偉いよ」

「……もっと褒めろ」

「うん。お疲れ様」

 温かい手の心地良さに目を閉じたフェンネルは、そっと這い出すように毛布から手を出す。手探りでリンデンの腕を見つけると、彼は上腕の袖をその掌いっぱいに掴んだ。

 逃すまいとするような、上着だけでなくインナーのシャツまでしっかりと握ってくるフェンネルにリンデンは思わず苦笑するが、服を掴む彼の手に自分の手を重ねると、布団の中から静かな寝息が聞こえるまで、その傍らに優しく寄り添っていた。

 「すごい集中力だな」

 真剣に本を読んでいる少女に、見ていたローズマリーが感嘆の声を漏らした。

 初対面の時とは打って変わって大人しく素直になった少女は、ローズマリーとの約束通り、勉学に勤しんでいた。

 メインデッキの奥にあるキッチンでは、少し遅い昼食の準備がユズリハとローズマリーによって進められている。ユズリハが今朝から仕込んでいた材料を出際良く調理していき、ローズマリーはシンクを陣取り、彼が使用した調理器具の片付けと食器の準備を手伝っていた。

 キッチンからはリビングが見え、そこに置かれた大きなソファの周りは、大量の本や雑誌が山のように積み上げられている。その真ん中で分厚いを幾つも広げる幼い少女は、言語や文字などの基礎知識を始めとした、この国の様々な情報を目を見張る早さで頭に学び入れていた。

 辞書に始まり、図鑑、事典、果ては法律百科まで、一冊を読み終えては右から左へと本を移動していく。一見、ざっと目を通すだけに見える少々雑なページの進み方でも、知識は頭に入っているのか、あっという間に文字の読み書きが出来るようになった彼女は、ユズリハに貰った筆記具でノートに何かを書き留めている。既に二冊目になるノートには、ローズマリーが名付けてくれた彼女だけの名前が記されていた。

 『クミン・ラリマー』。候補は幾つか用意していたが、その名を聞いた少女は「これがいい」と自ら選んだ。

 意味を知っていた訳でも、特別な感情があった訳でもない。ただ、ローズマリーが読み上げている時に、この名前にだけユズリハが優しい顔をした気がしたから。ただ、それだけの事だった。

「ローズマリー、あの雑誌やら漫画やらは、リンデンの私物じゃないのか?」

 大量の本に混ざって積み上げられた、見覚えのある表紙の雑誌を見かけたユズリハが問う。

「知らん」

 そう答えたローズマリーの声は呆れていた。

「私は倉庫にあった本を全部持ってきただけだ。リンにも、捨てられたくない物は必ず自室に置いておくよう言ってあるし」

「……ん? 確か先週、リンデンはフェンネルと『数ヶ月分より過去の号は処分する』と約束してたが、残してたって事か?」

「そうだろうな。ま、最近はフェノンの許可も取らずに勝手に私物を増やしてるみたいだから、見つかって怒られるのも良い薬になるだろ。約束を破ってるリンが悪い」

「まったく……毎度の事だがフェンネルが不憫だな」

 溜息混じりに言ったローズマリーに、ユズリハも眉間に皺を寄せて『被害者』を労った。

「しかし、ユズ君は逆に私物をあまり持っていないな。自室だって、キャビンは余ってるのに用具入れだった所から引っ越さないし」

 『チャーチグリム号』には、二段ベッドが備え付けてある十二畳の広さのキャビンが三部屋搭載されている。しかし、ユズリハが初めてこの船に来た時には二部屋のキャビンが物置になっていたため、ローズマリーは、急遽フェンネルと片付けた四畳の用具室を臨時の自室として彼に充てがった。

 しかしその後、キャビンの掃除が済んでもユズリハは自室の引っ越しを拒否し続けていた。これまでに何度もローズマリーは彼に広いキャビンへの移動を提案したが、ユズリハは「落ち着かない」と断固として引っ越しを拒否、用具室に留まり続けているのだった。

「不便はないのか? あの部屋じゃ、満足にチェストも置けないだろ」

「俺はあの部屋が気に入っているんだ。広過ぎず、ベッドも机も充分に使えてる。これ以上に物を増やす事も無いだろうから、今のままで満足なんだよ」

「唯一の趣味も『家事全般』、おまけに斧の手入れも、ユズ君はキッチンで研いでるしなぁ」

 アシㇼパは、キッチンの隅に置かれた大きな虹色の石板を見た。

 まな板ほどの石板は大きな砥石になっており、普段『キュア』と呼ばれる鉱物で出来た武器を扱うユズリハやリンデンは、専用の大きな砥石で手入れを行わなければならない。リンデンはローズマリーの勧めで専門の職人へメンテナンスを依頼しているが、ユズリハはキッチンの床で、自らの手で大きな片刃斧を研ぎ磨いている。

 その腕はプロ顔負けのものであり、斧だけでなく、彼が研いだ包丁やナイフは、その切れ味の良さにリンデンですら「扱うのが怖い」と言わしめている。

「何なら、新しい包丁とか欲しくなったりしないのか? 他の調理器具とか、最新の掃除用具とか……近頃は色々あるんだろ?」

「便利な物も良いが、古い物を直して育てるのが俺は楽しいんだよ。必要最低限の物は軍の配給品で揃えられるし、節約にもなる」

「うーん……相変わらず欲の無い男だ。美徳だが寂しいぞ」

 そう言うと、ローズマリーは口を尖らせて不満を訴える。何とか世話を焼きたいらしい彼女の『親心』に、ユズリハも少し照れくさそうにはにかんで礼を言った。

「心遣いは感謝するが、お前が気に掛ける必要は無い。ただの従業員に金を使うより、『自分の子供達』に何か買ってやれば良い」

「私はユズ君を『ただの従業員』だなんて思ってないし、思った事もないんだが?」

「……そう言ってもらえるだけで充分だ」

「んもー」

 未だ煮え切らない顔をするローズマリーに苦笑し、ユズリハはコンロに火を掛けて鍋を温める。「この恥ずかしがり屋さんめ」と彼を罵ったローズマリーは、拭き終わったグラスを棚に戻していった。

「……そういえば」

 ふと、ローズマリーがグラスを持ったままユズリハに振り返る。

「私達が尋問から帰ってきた時、船の中が真っ暗で真っ白だったんだが」

「……ん?」

 どういう事か、とユズリハは一瞬戸惑ったが、彼女達が船に戻ってきた時の状況を思い出して「ああ」と納得の声を漏らす。

「何故電気が消えていて、白い靄で埋め尽くされてたかって事か」

「その通りだ、それが言いたかった。私達がいない間に何があったんだ?」

 ユズリハは温まった鍋に油を引き、刻んだ具材をどんどん入れて炒め始める。彼が木べらを滑らせる度、じゅわっという小気味良い音が響く。

「何があったのか、と言うか……俺はただ、彼女にチョコレートを食わせただけなんだがなぁ」

「……それだけ?」

「本当にそれだけだ。『刷り込み効果』もあっただろうが、大した事は何もしていない」

 今から数時間前。それはユズリハがローズマリーとの通信を切り、彼が医務室に戻った時だった。

 その少女……クミンは、食事を終えるとチョコレートの包み紙をユズリハに見せて『おかわり』を強請ってきたらしい。先程の物とは違う味がいいだろうと考えたユズリハは、ミルクや苺、ホワイトチョコなど、数種類のチョコレートを掻き集めてきて小皿に並べた。

 色とりどりの色彩や形に、クミンは眼を輝かせて喜んでくれたらしい。

「それからは他愛も無い話をしてた筈なんだが、喋っているうちに何だか会話の内容がおかしくなってきてな……」

 ユズリハも、最初は適当に流していた。幼い子が、気に入った大人に憧れるような感覚だと思っていた為だ。

 だが、彼女が皿の上のチョコレートを全部食べ終わる頃には、クミンの言葉は完全に自分を『繁殖相手』として捉えた言葉を並べるようになっていた。

「『お前の様な男こそが我が王家の血筋には相応しい』だと。そう言われた時には恐怖すら感じたな」

「うわぁ……」

 異様な気配と妙な感覚に警戒し始めていたユズリハは、彼女のいる医務室を一度出て、距離を置いた方が良いと判断する。しかし、適当に理由を付けて医務室を出たは良いものの、その内に段々と船内の至る所が霧がかったように白くぼやけ始め、終いには彼女の姿が見えない状況下にも関わらず、己の耳元で「何処にいても分かるぞ」と言われてしまったのだ。

 ユズリハはすぐに配電盤のブレーカーを落とし、クミンの前から姿を眩ませた。

「だが、暗闇に紛れても彼女にはあまり意味を成さなかったな。逃げ回れていた時間は三十分も無いぐらいだが、彼女はまるで、俺を追い掛けて遊んでいるようだった」

「『目』で探していない……という事か」

 リンデンの『探知能力』に近いものかも知れない、とローズマリーは推測する。リンデンが相手の気配を探る際は目を閉じ感覚を研ぎ澄ませているようだが、クミン『白い靄』を発生させ、その水蒸気を媒体に動くものや温度などを探知していたのだろう。

 つまり、彼女は水分を扱う。その巨大な『可能性』にローズマリーは戦慄に唸った。

「……もし、あの霧を探知だけでなく攻撃に使えていたらと思うと恐ろしいな。船に入った瞬間に、私達を敵とみなして攻撃する事も出来た筈だ」

「……残念ながら、彼女にはそれが可能らしい」

「何?」

 ローズマリーが目を見開いてユズリハを見る。彼は鍋に水を入れ、火力を中火に設定した。

「実際あの時、皆が入ってきた事に気付いた瞬間に敵意剥き出しだったんだ。すぐにでも攻撃を仕掛けるつもりだったようだが、すぐに説得して何とか踏み止まってもらえてな……彼女が聞き入れなかった場合を考えると、恐怖しか無い」

 ユズリハは、クミンとの『かくれんぼ』で分かった彼女の情報をローズマリーに報告した。

 何故、ユズリハ程の屈強な男が、幼い少女一人に抑え付けられていたのか。

 彼女が背中に乗っている間、ユズリハの身体は鉄骨でも入れられたかの様に、指の先まで固定されて動かなくなっていた。動かせるのは首から上のみ、全く身動きが取れない中、ユズリハは何とか冷静を保ちながら「何故か」と問う。

 ユズリハの疑問に、彼女はさも自慢気に話してくれた。

「身体の水分を……?」

「彼女の手、もしくは肌が触れている間は、僅かだが体内の水分を操っていられるらしい。人体の六割は水分だからな、そんな超能力があれば如何様にも出来るだろう」

「……本人が知らない間に、相手をミイラにする事も出来るって訳か。似ているようで、リンとは違う能力みたいだな」

 うーん、と腕を組み、二人は首を傾げて唸った。

 二人が『超能力』と聞いても特に驚かないのには、共に暮らし働いている、リンデンの存在がとても大きい。彼はたった一人でモルス大型を討伐できる程の斬撃を飛ばすという能力を有し、その感情すらも、相手に身体的な影響を与えてしまうという不思議な力を持っている。

 水、という物質に限る様な能力を見せたクミンだが、その能力は自分達のように普遍的な人間には、やはり脅威である事に違いはない。

「確かに、使い方次第では恐ろしい能力ではある。だが逆を言えば、『正しい使い方』を学べばかなり便利な存在にもなるという事だ。違うか?」

「……違わないな。火薬の一つとっても、同じ事が言える」

「そう。彼女はこの世界に合わない知識のせいで牙を剥きがちだが、元は純粋で素直な性格のように思う。こっちが節度と倫理を持って真っ直ぐに向き合えば、必ず良い方へ向かってくれる筈だ」

「……ふーん?」

「子供は良いぞ。若ければ若いほど、色んな才能が見えてくる。もし彼女を引き取る気なら、すぐにこの船の即戦力になれるかも知れんぞ」

「そうかそうか」

 ユズリハは完成間近のトマト煮込みを、優しい眼差しで見つめながらゆっくりとおたま笏で掻き混ぜている。ローズマリーは全員分の食器を新しく棚から出して配膳の準備を進めながら、ニヤリと口角を上げて微笑むユズリハに笑い掛けた。

「よしよし、それならリッキーにも連絡しておこう。申請はあそこが一番早いからなぁ」

 どうにも茶化すような声音が気になったユズリハが鍋から顔を上げれば、そのニヤニヤと笑うローズマリーの顔に、彼の眉間の皺が深くなった。

「……何だ、その顔は」

「んー? ウチの子達の中で、クミンを友人だと認めるのはユズ君が一番早そうだと思ってな」

 満面の笑みを見せる船長に対し、ユズリハは更に険しい顔になって拒絶を示した。

「絶対無いな」

「お、何故だ?」

「血筋がどうの、神の子がどうの……気色悪いオカルトな発言をしている限り、俺はあまり関わりたくない」

「んー……その気持ちは分かる気がするなぁ」

「あんな小さな子供に子作りだの何だのと言われて……お前なら、我が子がそんな事を言い出したらどうする?」

「ショックで寝込む」

「俺は考えるだけで吐き気がしてくる。そんな考えを一切捨てるまでは、俺は彼女を絶対に認められない」

 はっきりと言い切ったユズリハに、ローズマリーも「確かになぁ」と息を吐く。

「まぁ、それが当たり前の反応だな。ユズ君の家も、クミンと歳が近い子供達が多いから……ふぁっ?」

 ふと視線を感じて振り返ったローズマリーは、その真っ直ぐな眼差しに気付いて肩を飛び上がらせる。

 コンロの火を止めたユズリハが驚く彼女の視線を辿ると、本の隙間から真っ直ぐに此方を見ている……否、『監視』とでもいうのか。じっと見つめてくるクミンと目が合った。

 彼女は何を言うでもなく、ただユズリハをじっと見つめている。

「……クミンさん、何かご用でしょうか? 質問があるなら、貴女が声を出さないと答えられませんよ」

「……ユズリハは、家族が多いのか?」

「ええ、まぁ。大家族な方ですね」

「子供達とは、お前の子か?」

「いいえ、弟妹が五人います」

「ふむ、ユズリハは兄弟が多いのか」

「はい」

「成程……ふふっ」

 そう言って微笑んだ後、クミンは再び本に視線を戻す。顔を見合わせたユズリハとローズマリーは、ただ軽く首を傾げた。

「何だか余裕だったな……今さっきバッサリ振られたのに」

「恐らくだが、俺が独り身であると聞いて安心したんだろう。相手が居ないなら、如何様にでも出来ると踏んだんじゃないか?」

「求愛への徹底さは、あの歳では流石というか……」

「考え方はまるで『カレヴィ帝国』だ」

 聞き覚えのある名に、ローズマリーはサラダを取り分ける手を止める。

「……冗談だろ?」

「勿論、彼女がとうに滅んだ亡国の生まれだなんて言うつもりはない。だが、彼女の『かつての親』があの国を盲信しているなら話は別だ。純粋な彼女は、教えられた全てを信じ込む」

「狂信者が我が子に、か……調べてみる価値はありそうだな」

「ああ」

 二人が皿をテーブルに並べ終わった直後、何故か上半身裸のリンデンがリビングへと戻ってきた。背伸びをし、「ただいまー」と明るい声でキッチンへと近付いてくる。

「マリーさん、フェンネル寝たよー」

「ありがとう、ご苦労だったな」

 ミニトマトが入ったミニボウルを、ローズマリーがリンデンの前に差し出す。

「え、いいの!?」

「頑張ったご褒美として、ミニトマトのつまみ食い権をに与えよう。一個持っていけ」

「やった! ありがとう、マリーさん!」

 素手でミニトマトを一つ摘み上げ、嬉しそうに頬張る。目を輝かせて「甘い」と叫ぶリンデンに、ユズリハが至極当然とも言える質問を投げる。

「おいリンデン。服はどうした」

「フェンネルが離してくれないから貸してあげたの。相当参ってたし、暫く起きないかも」

「ここ数日、勤務続きで無理してたしなぁ。まぁ、アイツには良い休息になる」

「毎日ヘトヘトの上に会議の件とド級の地雷出現だもん。フェンネルも運が無かったね」

「お前はせめて代わりのシャツぐらい来てこい」

「すんませーん」

 しかし、リンデンは特に悪びれる様子もなく、ダイニングの椅子にかけてあった黒いパーカーを羽織る。

「俺のだぞ。洗って返せよ」

「了解でーす。ねぇ、アレは何してんの?」

 二個目のミニトマトを頬張り、袖に腕を通して前のファスナーをしっかり上げたリンデンは、大量の本に囲まれて分厚い本を真剣に読み込んでいるクミンを指差す。

「クミンだ、リン。クミン、ラリマー」

「くみん……じゃあ、クミンは何してんの?」

「今、この船にある本を網羅している途中だ。主に法律とマナー、対人会話と心理学を学んでもらってる」

 ローズマリーから難しい用語が並び、リンデンは訝しげに眉間に皺を寄せる。

「え……そんなの習得できんの? アイツが?」

「さぁ?」

「えぇ……?」

「クミンの目標が『ユズ君と番になる事』だから、根本的な解決にはなってないんだが……それでも、せめて相手を思いやれる言葉を言えるようになったら素晴らしいと思わないか?」

「そうだけどさぁ」

「リンと同じ特性を持つ以上、一般の保護施設には連れていけない。最終的には、この船で一緒に仕事が出来るようになるのが目標だ」

 しかし、それでもリンデンの反応は芳しくない。

「それ、フェンネルは無理じゃないかなぁ……?」

「確かに、道程は遠く長い。でも、クミンの性格を見ていると、あながち不可能ではないと私は踏んでる」

 自信に満ちた船長の笑顔に、リンデンは再びクミンの方へ目を向ける。彼女は変わらず本のページを眺め、時折膝の上で広げたノートに何かを書き出している。

 真面目に勉強している。初対面では、ローズマリーに殺意を向けてすらいたというのに。

「……ふーん……」

 それが、リンデンが今のクミンに抱いた印象だった。

 リンデンはキッチンを離れ、ソファに近付き背凭れの上へと行儀悪く腰掛ける。その幼い真剣な横顔を訝しみながら、彼は懸命にペンを動かすクミンに声を掛けた。

「……何してんの?」

 その気配に気付いていたクミンは、視線を本に落としたまま答えた。

「見て分からんのか? 勉学に励んでいる」

 話し掛けるな。そんな空気を感じたリンデンはイラッとした顔で彼女の頭頂部を見下ろすが、己は『人間』として先輩なのだと心を落ち着かせ、負けじと言葉を続ける。

「本読むのは分かるけど、ノートに何書いてんの?」

「私が特筆すべきと思った点を抜き出して纏めている。相手を手玉に取るには、心理学において『駆け引き』が重要になるらしいからな」

「……んー?」

 理解できずに首を傾げたリンデンに、クミンは嘲るように口角を上げて彼へと視線を向けた。

「……知ってるぞ。そういうのを『ナンパ』と言うのだろう?」

「は? 何が? なんで?」

「残念だが、私には決めた男がいる。相手にしている暇は無い、他を当たってくれ」

 リンデンは先程と同じイラッとした顔で、今度はローズマリーとユズリハを見る。しかし、食事準備を終えて調理器具を片付けていた二人は、首と手を振ったりクミンを指差す等して「負けるな」と無言の合図を送る。

「くっ……」

 二人の応援を受け、リンデンは何とか怒りを抑え切った。

「お……お前さぁ、世間知らずなのに『ナンパ』とか知ってんだな。かなり意外なんだけどー」

「そうか? この本に書いてあったぞ」

「あれ!? 『キュートオーク』の最新じゃん!」

 雑誌を受け取ったリンデンは目を丸くした。

 キュートオーク。『可愛いコナラ』という意味を持つこの本は、可愛いものに興味を持つ十歳〜十五歳の女児向け雑誌だ。

「届くの今週末なのに、なんで!?」

「リン、それは私が買ってきたやつだ。書店にはもう並んでたぞ」

「えっ、マリーさん『キュートオーク』読むの!? 可愛い……!」

「ちなみにリンが持ってたバックナンバーはソファ横に積んである」

「嘘でしょ!?」

 リンデンはいくつか本を退けると、積まれた本の下に自分が愛読している雑誌を見つけた。カビが生えないよう丁寧にパッキングまでしてあったのに、包装は全て取り払われている。

「やだぁ、倉庫に隠しといたのに!」

「定期購読で毎月来るんだから、新しいのが来たら処分する約束だろう? 部屋にスクラップ溜め込んでるのも知ってるんだぞ」

「一年毎に処分してるもん!」

「おいおいリンさぁん。お前がその雑誌を買い始めて七年経つけど、七年分のスクラップなんて一体何冊になってるんだろうなぁ? そもそも、スクラップがあったら本体は必要無いだろー?」

「そういう事じゃないの! いいじゃん、可愛いの好きなんだもん! 毎月の料金はちゃんと俺のお小遣いから出してるもん!」

「部屋を圧迫されてるフェノンが可哀想じゃないのかぁ?」

「やああぁぁ!」

 おおよそ成人している者達の会話とは思えない。ユズリハも白い目を向けながら呆れたように二人を諌める。

「やめなさい、二人共。大の大人等が見苦しいぞ」

 そんな時、ふとクミンが楽しそうに吹き出した。皆が驚いて振り向くと、彼女は口に手を添えて笑い声を漏らしている。

「ふふっ……いや、すまない。仲が良いんだな」

「……お前、そんなオシトヤカな笑い方するんだな……」

「はぁん? 今私を馬鹿にしただろう許さんぞ貴様」

「あぁ!?」

「リンデン、少し遅いが昼にしよう。クミンさんも、区切りが着いた所で休憩にしましょう」

「……はーい」

 不穏になりかけた空気をユズリハに止められた二人は其々にソファを離れ、ダイニングに移動する。

「さぁさぁ、クミンにとっては我が家で初めての団らんだ! たくさん食べるんだぞ!」

 四人が皆席に着いたのを確認し、ローズマリーが「手を合わせて」と号令を出す。船員達が「いただきます」と声を揃えると、クミンも見様見真似で手を合わせ、少々戸惑いながら頭を下げた。

「い……いただきます……?」

 そんな彼女の微笑ましい様子に、ユズリハとローズマリーは食事前の挨拶もしっかりと彼女に教えて上げた。

「ミニトマトおいしいー」

「全部食べるなよリン。フェノンにも残しておかないと」

「先の話だが、私達は本当に『親子』なんだ」

「何?」

 そこそこに食事も終わった頃。ユズリハは使用した食器を片付け、リンデンはフェンネルの為に軽食を作ろうと準備をしている。

 ローズマリーとクミンは二人でダイニングに座り、歴史書を開いて一緒に読んでいた。クミンが質問しながら二人で勉強していた時、彼女の隣に座るローズマリーが、ふと口を開いた。

「だが、年齢がおかしいだろう。ローズマリーは子供だ」

「私が産んだんじゃない。でも『親子』なんだ。わかるか?」

 首を傾げるクミンに、ローズマリーは優しく微笑んだ。

「血の繋がりなど無くとも、誰もが皆『家族』になれる」

「心の絆、だったか。それは軍隊や集団を伴う職業にも必要だと呼んだ」

「……そうだな。クミンは、オリヴェール族の特性は読んだか?」

「明るい茶色の髪に、緑色の瞳。事故、事件以外での寿命は決まって二百年、『拓き』と呼ばれる変異が起きると身体的な老化が止まる」

「その通りだ。よく覚えたな」

「ローズマリーは、その身体的特徴をすべて持っているな。お前はオリヴェール族なのか?」

「そうだ」

 頷いたローズマリーは、何処か儚げに微笑んでいた。

 このハイマート共和国には、四つの種族が存在する。色素が薄いオリヴェール族、他種族より小柄な者が多いマティアス族、身体能力が高いヴァルテッリ族、そして薄い青色の肌を持つラウリ族だ。

「私は十三歳で身体が『拓いて』しまった。それからずっと、この見た目で生きている」

「じゃあ、実際の年齢は見た目とは違うのか」

「ああ」

 長寿で知られるオリヴェール族という人種に生まれ、十三歳で成長を止めた彼女は、見目は少女のままでも、実は優に八十二年以上の時を生きている年配者だ。オリヴェールは一定以上成長すると二日間ほど眠れなくなるという異変があり、眠れない時間が終わればその瞬間から肉体は成長や老化をやめ、二百年の時をその姿で生きる事になる。

「オリヴェール族の人は、大体見た目よりも年上の人が多い。身体が老化しない分子沢山の人も多いから、このハイマートではオリヴェール族の人口も一番多いんだ」

 しかし個人差が激しい『拓き』の変異は、老人になり死ぬまで起きない者もいれば、ローズマリーの様に、幼くして起きてしまう者もいる。

 ローズマリーは身体的な成熟が未発達の状態で『拓き』を迎えたため、子を授かる事が出来なくなった。

 ローズマリーの話を聞いたクミンは、絶望に近い愕然とした表情でローズマリーを見ていた。

「見ての通り、私の身体は幼いままだ。だから子を産む事は出来ないが、それでも、たくさんの子供達を何人も育ててきた」

「……そんな……」

「その中で、私の事を『母』と慕ってくれる子も大勢いる。自分で産まなくても、命は繋いでいく事が出来るんだぞ」

 しかし、クミンの表情は変わらない。

 戸惑い、焦り、悲しみ、絶望。そんな感情を少女の瞳に感じたローズマリーは、思わず苦笑を浮かべる。

「……聞け、クミン。血筋に拘らなくても、この世界には『母』の温もりを待つ子等がたくさんいる。その子等に愛を注ぐ事も、『母』としての立派な務めなんだぞ」

「でも……それでも、私は『神の子』を産まねばならないんだ……」

「クミン……」

 そう応えたクミンは、何処か、とても苦しそうだった。

 その時、夕飯の仕込みも終わらせて準備を万端にしてきたリンデンが、クミンの向かい側の席へと腰掛ける。

「ねぇ、クミンは何にそんな拘ってんの?」

「こ、拘ってなど……! これは『使命』だ」

「使命って言うけどさ。それは、誰から受けた使命なの?」

「それは……!」

 クミンは勢いで何かを言いかけるが、肝心の言葉が出てこないのか、ぐっと飲み込むように俯いてしまう。

「お、覚えて……いないが……」

 何かを探るような、リンデンのクミンに向けた眼差しは無表情のまま変わらない。

 少し悲しげに目を伏せたローズマリーが、クミンの顔を覗き込むように首を傾ける。

「……クミンは、『母親』になりたいんじゃないのか?」

「母……子を持つ親の、女性の事だったな」

「……そうだな」

 ダイニングテーブルを囲んで交わされる会話にしては不穏になってきた空気に、洗い物をし終えたユズリハも傍まで来て合流する。

 俯いていたクミンは小さく息を吸うと、言葉を選んでいるのか、答えを探しているのか、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「……私は、その『母』というものを知らないし……別に、なりたい訳では無い」

「……なら、何故そこまで子を望むんだ?」

「それが私の存在しうる理由だから」

 ローズマリーはリンデンを見た。彼は小さく首を振り、クミンの言葉に嘘がない事を知る。

 ローズマリーが続けて「子を成して産んだ後はどうするのか」と問えば、まだ幼気な少女は「知らない」と答えた。

 どうしてそう思うのか、誰かに頼まれたのか、果たして、それが『一度』で終わるのか。

 彼女はそれ以上、何も覚えていなかった。

「……神の子を産む事こそ、私が生きていられる理由なのだ。子を産めぬ者は……世界に必要無い」

「……おい、今なんつった」

「いいんだ、リン」

 一瞬、冷気で張り詰めたような感覚がリビングに走る。すぐにローズマリーが「落ち着け」と制止し、クミンの震える肩を優しく抱きかかえる。

「彼女が悪いんじゃないんだ。……クミンは今まで、そうやって教えられてきたのだろう?」

 俯いたまま頷いたクミンは、ほんの僅かに鼻を啜った。リンデンも視線をテーブルに下げ、ローズマリーはユズリハを見上げて「温かい物を」と頼むと、彼はすぐにキッチンへと戻り準備を始める。

「クミン、この世界では、誰もそんな事を気負わなくても良いんだ。血統も遺伝子も関係無く、あらゆる人間が、あらゆる人生を自由に謳歌できるんだから」

「でも……」

「お前だって、まだまだ子供じゃないか。その『神の子』とやらは、もっと大人になってからでも良いんじゃないか? 私としては、好きな人と幸せな時間の中で、ゆっくりと家庭を築いて欲しいものだけどな」

「………………」

 言葉も無く、クミンは静かにローズマリーの優しい言葉を聞いている。その時、そっと彼女の前に、ユズリハが温かいココアを差し出した。

「……クミンさん。大切なのは、これからをどう生きるかです」

「ユズリハ……」

 彼を見上げたクミンの瞳は、既に涙で潤み揺れている。

「突然知らない場所に放り込まれて、不安ばかりなのも理解できます。ですが、もし困った事があっても、我々が必ず貴女をサポートします。安心して、新しい人生を歩いていきましょう」

 ユズリハの言葉に、クミンは顔をくしゃくしゃに歪ませ、大粒の涙を流し始めた。声も上げずに泣き出してしまった彼女の頭に、ユズリハは慰めの意を込めて大きな手を優しく乗せる。

「泣かないでください。全ては『これから』なんですから」

「そうだぞ、クミン。大船に乗ったつもりでドンと構えてろ」

 大船、って分かるか?

 ユズリハの問いにローズマリーが吹き出す。「本当だ」、と笑う彼女と呆れるユズリハの声に、クミンは再び鼻を啜り、手首で濡れた目を拭った。

「……父母、とは……このような存在なのだろうか」

「ん?」

「私は、『親』というものが分からない。事典では、子に対して無償の愛を注ぐ存在だと読んだ。親とは……両親とは、皆この様な存在なのか?」

「……どうだろうな。私も、自身の親とは仲が良い方ではなかったから」

 どこも同じだな、と、ユズリハも苦笑した。

「でも、クミンがそう思ってくれるなら、私達は全然構わな……」

「嫌だ」

「ふぁっ?」

 意外な拒否に、二人は目を丸くする。クミンは涙に濡れる顔を隠す事も無く、どこか悔しそうに訴える。

「ユズリハが、『父』なのは嫌だ……っ!」

「!?」

「俺……!?」

「ユズリハの隣には、私が並んでいたいのに……っわ、私は……私が、この男の番に……『妻』というものになりたいのにぃ……!」

 ついに机に突っ伏して、クミンは声を上げて泣き出してしまう。

 ユズリハは天井を仰いで深い深い溜め息を吐き出し、ローズマリーは視線を逸らして肩を震わせていた。

「……笑い事じゃないぞローズマリー……」

「ぐふっ……わ、わかってる。いや、ここまでくるとな……思想がどうのというより、可愛らしい恋心のようじゃないか。幸先は良さそうだ」

「何処が良いんだ。まったく、どいつもこいつも……」

 その時、ふと肌を刺すような、電気が走るようなピリピリとした感覚を覚えて、ユズリハはリンデンへと目を向ける。彼は椅子に腰掛け腕を組んだまま、何かを考え込むようにテーブルの上の虚無を見つめていた。否、その表情は何処か、焦りや緊張、怒りのような感情を含んでいる。

 まるで、ドライアイスの冷気が直接流れ込んでくるようだ。

「……リンデン」

「ッ!」

 名を呼ばれ、驚いて顔を上げたリンデンに、クミンの背を撫でながら慰めていたローズマリーが顔を上げる。

「どうした?」

「リンデンの機嫌が悪い。お前、抑制装置付けるの忘れてきてるだろ」

「え? うわ、ホントだ」

 パーカーの袖を捲り、手首にリストベルが無い事に気付いたリンデンは少し慌てたように謝罪した。

「ごめん、本気で気付かなかった。もしかして空気悪かったの?」

「いや、それはいい」

 本当にゴメンね、と申し訳無さそうに笑うリンデンに、ユズリハは少々神妙な面持ちで問う。

「今までの会話を聞いてて、何か気になった事でもあったのか? 随分考え込んでた様だったが」

「んー、考え込んでたっていうか……いや、特に何でもないんだけどさ」

 ユズリハの問いに、リンデンは少し照れ臭そうにはにかんだ。

「俺の親ってどんななのかな、って思っただけ」

「……何か、思い出したのか?」

「全然。俺の『お母さん』はずっとマリーさんだし、ユズさんやフェンネルは、尊敬できる格好良い『兄貴』だ」

「いや俺は下男でいい」

「んもー、ユズ君はどうしてそんなに自己評価が低いんだ」

「ユズさんは『兄貴』だよ。友達だし、先輩だ。……でもさ、絶対に『父親』じゃない」

「待て待て。リンまで、どうしてそんなに酷い事を言うんだ」

「言ってないよ、逆、逆」

 そう言ったリンデンは苦笑しながらも、何処か真剣な眼差しで語る。

「……何かね、『父親』って感覚に強い嫌悪感があるんだよね。許しちゃいけないっていうか、絶対に相容れない存在っていうか……」

「覚えていなくとも、か?」

 ユズリハに問われてリンデンが頷く。

「勿論、俺に関わってくれた大人はみんな良い人ばっかりだ。でも、その人達だって『父親』みたいとは思えない。思っちゃいけない。あんなのと……『アレ』と大事な人達を、一緒には出来ないんだ」

「リン……」

「……俺にとって、『父親』ってそんな感覚なんだよね」

 話を聞いていたユズリハとローズマリーが困った様子で顔を見合わせる。しかし、リンデンに先に応えたのは、そっと顔を上げたクミンだった。

「……私は」

「!」

「私は……それでも、『父』に認めて貰いたかった」

「……クミン……」

「……諦めろ。『アレ』は人間じゃねぇよ」

 リンデンの言葉に、クミンは絶望に打ち拉がれ、諦観の念を浮かべて頬を濡らす。さめざめと声も上げずに泣く彼女を、ローズマリーが咄嗟に抱き締めた。

「私は認めるぞ、クミン。頑張り屋で素直で純粋な、一人の恋する女の子であるお前を認める。だからお前は、どうかありのままで生きていってくれ」

「ローズマリー……!」

「俺も、今のクミンさんを応援していますよ。貴女は今、充分努力なさっている」

 クミンはローズマリーの温かさやユズリハの優しい声を受けて、溢れる涙をそのままに目の前のローズマリーを抱き締め返した。

 頭の片隅に残った『使命』という鎖に取り憑かれ、自身が信じてきたものが崩れ去る絶望を拒絶して尚も『使命』にしがみ付こうとしていた。なのに彼等は皆、己を拒絶する事なく全てを受け入れてくれているのだ。

 この世界の優しさに触れたクミンは、幼子が母に縋るようにローズマリーにしがみ付く。その手は力強く握り締められ、痛々しい程に震えていた。

「……すまない……」

「クミンが謝る事は何も無い。悪いのは、クミンを酷い目に合わせた当時の状況なんだ。ここは我が家、不満も悲しみも喜びも、私が全て受け入れよう」

 その言葉を受けて、クミンはやっと嗚咽を漏らした。

「……ところでリンデン」

「んぇ? 俺?」

 妙な返事で自分を指差すリンデンに、ユズリハは「さっきの話だが」と続ける。

「お前が言う『アレ』とは、まさか彼女が言った『父』と同一人物なのか?」

「え? 違うでしょ。なんで?」

「さっき、クミンさんに『諦めろ』と言っただろ。まるで彼女の『父』を知っているような口ぶりだったぞ」

「いやいや、それは……んーちょっと説明できないけど、俺はクミンの親父も知らないし、自分の親だってモヤッとした感じだけで、詳しい事は全然分かんないし」

「……そうか」

「それに、もし一緒だったら俺とクミンが兄妹になっちゃわない? 全然似てないし、絶対違うと思うよ」

「……まぁ、それもそうだな」

 そうだよー、とリンデンは笑う。しかし、ユズリハは先程クミンと話をしていた彼が、明らかに自分が知るリンデンではなかった事に気が付いていた。

 あの時、『諦めろ』と言った彼の瞳には、一体何が映っていたのか。いつもの明るく活発で少年のようなリンデンが、まるで凄惨な歴史を歩んできた男のような。

「………………」

 その違いを説明する事も出来ず、ユズリハは一つ、溜め息を吐くしかなかった。

「ふぇーんねるー。おはよー」

「……来るな」

「入るよー」

「出てけ」

「入ったよー」

 その後、時間を見計らって部屋に入ってきたリンデンに、布団に包まるフェンネルは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。

 頭まで被り直した布団も意味をなさない程、強く甘辛いソースのような匂いを感じたフェンネルは、舌打ちをしながら布団から顔を覗かせた。

「……臭ぇ……」

「じゃじゃーん。お肉だよー」

 盆に乗った唐揚げとハンバーグのプレートを得意げに見せてきたリンデンは、ベッドの向かい側、チェストの脇にあるサイドテーブルを引き寄せて、料理が乗った皿を並べていく。

 その数、中皿四枚。大量の料理を目にして、フェンネルは若干気持ち悪くなる。

「……起きてすぐ、食えってか……?」

「絶対無理だと思って、サラダとハムエッグのプレートも作って来た! ついでにバターブレッドもセットだよ!」

「っせーな……なんでそんなテンション高ぇんだよ……」

「フェンネルが起きたから!」

「あぁ……? 今、何時だ……」

 フェンネルが頭元の時計を確認すると、アナログの針は四時半過ぎを差している。布団に引き籠もったのは、確か午後二時前だった筈。

「……二時間半か……寝過ぎたな」

 のっそりと起き上がり、目を擦って欠伸を一つ。腕を上げて背筋を伸ばし、フェンネルは一つ息を吐いた。

「本当によく寝てたねー! いつもお疲れ様!」

「いい加減うるせぇ、仮眠で大騒ぎしやがっ……」

 しかし次の瞬間、フェンネルは窓の外を見て愕然と目を見開いた。

 見上げた先の窓の外は真っ暗、澄んだ空気に、星が明るく輝いている。

「……嘘だろ……」

 仮眠程度と思っていたら、まさかの明け方起床にフェンネルは思わず頭を抱えた。

「……皆、夕飯どうした」

「ん? ご飯? 夜は俺が作ったよ。ハンバーグにした」

「エンジンの点検と整備は……」

「ユズさんがやってくれた」

「弾薬の棚卸しは……?」

「俺がしました」

「……なんで起こさなかったんだよ……」

 自分の仕事を放り出して、ここまで寝入ってしまっていたとは。

 つい心の声が漏れたフェンネルだったが、リンデンは至極正直に理由を話した。

「マリーさんがね、『アイツは寝なさ過ぎだから、今のうち熟睡させとけ』って」

 フェンネルは『母』の高笑いが聞こえたような気がした。

「……あのクソババア……!」

「たまには良いじゃーん。少しは体力回復になったでしょ?」

「良くねぇよ、任務放棄したんだぞ。明日……いや、もうあと一時間後だな。ユスさんに頭下げねぇと」

「大丈夫だって! 取り敢えず、ご飯食べよう。俺も食べるから」

「テメェが食いたいだけだろうが」

「まぁまぁ。先にお手洗い行って、顔洗ってきなよ。さっぱりするよー?」

「……ふん」

 しかし、大人しくリンデンの言うとおりに手洗いに立って数分後に戻ってきたフェンネルは、自分が眠っていたベッドに腰掛け、二人で小さなテーブルを囲って手を合わせた。

 フェンネルはリンデンが淹れてくれたコーヒーを啜り、バターブレッドに手を伸ばす。

「お前は何やってた? まさか今まで起きてたんじゃねぇよな」

「あはは、寝た寝た。 九時から四時まで」

「……結構ガッツリめに寝てんな。心配して損した」

「心配してくれたんだ? ありがと」

「うるせぇ。……リンデンは人が良すぎるからな。『あのクズ』に手を焼いてたんじゃねぇかと思っただけだ」

「ああ、クミンの事?」

 ハンバーグを頬張るリンデンが言う。彼から聞き覚えの無い名前が出て、フェンネルはサラダのフォークを持つ手を止める。

「『クミン』?」

「うん。クミン・ラリマーだって」

 名付けの経緯を聞き、フェンネルは心底呆れた溜め息を吐き出した。

「……名前なんか付けんなよ、あの見境無しは……」

「でもフェンネルが部屋に入ってから、マリーさんの言う事聞いて、大人しく勉強してたよ。態度も考えも、だいぶマシになってる」

「勉強?」

「ハイマートの歴史とか法律とか、倉庫の本は全部引っ張り出してきてた。……俺の『キュートオーク』二年分も、アイツに譲ったさ……」

「あぁ? お前、先々月までのは捨てたっつってただろ」

「本当にすいませんでした」

 約束を破り、嘘を吐いていた事に対してフェンネルはしっかりリンデンにキレた。

「バカじゃねぇのかテメェふざけんなよクズが」

「本当にすみませんでした」

「立って頭下げた上で更に土下座して謝れ。誠心誠意心込めて『申し訳ありませんでした許して下さいメノウ上級曹長殿』って言え」

 リンデンは神妙な顔付きで椅子から立ち上がると、一言一句言われた通りに謝罪する。実はこのやり取りは年に三回ほどの頻度で行われているため、フェンネルは相手に謝罪の念を感じればその場で許してやっているし、リンデンも心からの謝罪と反省を述べ、悔い改めた上で許しを請えば相手が許してくれる事を知っている。

 ちなみに、ユズリハには「懺悔するなら、お前はどうして怒られると分かっている事をわざわざ選ぶんだ」とリンデンはがっつり叱られている。

 丁寧に頭を蹲い謝罪するリンデンに、フェンネルは今回も「二度とやるなよ」と許してやった。

「まったく、お前も毎度学習しねぇのな。何か? 記憶喪失になったら覚えとく事が難しくなんのか?」

「それは俺だけだと思います。性格上の問題であります」

「もういい、分かった。手ぇ拭いて座れ」

「うん」

 再び椅子に腰掛け、除菌タオルで手を拭うリンデンにフェンネルは深い溜め息を吐く。

「……お前が性格上で小っちぇえ事も守れねぇのに、国の制度や法律を学んだところで、歪んで育った性根が変わるかよ」

 そう続けたフェンネルの言葉は、リンデンではなくあの少女に向けられている。怒りや呆れ、憎しみだけでなく、その声音は諦観故の悲しみも孕んでいた。

「……んー、まぁ、そうだよね」

 それでも、リンデンは彼が優しい男であると知っている。フェンネルは同じ立場であった己を受け入れ、様々な場面で手を差し伸べ助けてくれているのだ。

 彼のようになりたい。それは、リンデンの目標の一つでもあった。

「確かに、アレがアイツの性格だったら、勉強じゃ根本的な解決にはならないかも知れない。でも、クミンは俺と違って性格の問題じゃなかった。明日、会ってみたら驚くかもよ?」

「知った事か、俺には関係無ぇ」

「でも、俺の事は?」

「あぁ?」

 フェンネルは伏せていた視線を向ける。目の前には、「俺も同じだったよ」と自分を指すリンデンの姿がある。

「マリーさんが船で引き取ってくれた時も……一緒に兵舎学校通った時も、フェンネルはずっと側にいて俺を支えてくれたよ」

「……俺は何もしてねぇ。ローズが勝手に決めた事だ」

「軍で人体実験されててもおかしくない奴なのに? 前にも、色々やらかしてるし……なのに、全部受け入れてくれたじゃん。なんで?」

「しつけぇな、あれは『お前だから』って言って……」

 そう途中まで言って、ニッコリと微笑んでくるリンデンに気付いたフェンネルは苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。

 自分が過去に迷い、落ち込んだ時に彼はいつも『お前だから助けた』と言ってくれる。リンデンは嬉しそうに、少し照れたようにはにかんだ。

「へへ……えへへ」

「うぜぇ」

「大丈夫だよ、フェンネル。俺が立ち直れたんだもん」

「……アレは駄目だ、クズがチラついて吐きそうになる」

「んー……まぁね」

 フェンネルが『クズ』と呼んだ相手が誰なのか、リンデンはすぐに気付いた。

「……ねぇフェンネル?」

「何だよ」

「もし、ね? もし……俺の『父親』がヤバい奴だったら、どう思う?」

 突然に話題が代わり、レタスを頬張るフェンネルが訝しげにリンデンへと視線を戻す。

「……何だ、いきなり」

「昼間、ちょっと話題に上がってさ。……俺の父親がって、話になって」

「……フェヌグリークじゃなく?」

 フェヌグリーク、とは、彼等が世話になっているローズマリーの顔見知りの男性だ。彼女に何かあった時、彼等の後見人となる人物として申請されている。

 しかし、リンデンは首を横に振る。

「ううん。俺の……自身の、生みの親の事」

「覚えてるのか?」

「いや、知らない。でも……」

 そう続けたリンデンは、何処か怯えているようだった。

「会った事も無いのに……なんかさ、考えるだけでスゴく嫌な感じがする。クミンは、マリーさんとユズさんが『父母とはこんな感じか』って言ってて……」

「ユズさんは父親というより、良く出来たローズの弟って感じだけどな」

「いや、そうかもなんだけど……俺は、父親って存在と、ユズさんを一緒に言われたくなくて」

「……つまり?」

「『アレ』は人間じゃない。……同じ、生き物と思えないんだ。『ソレ』が何をしたのかは分かんないし、顔も名前も存在も分かんないけど……でも、大切なユズさんを一緒に考えたくなくて」

「……成程」

 そう相打ちを打ったフェンネルは、特に表情を変える事なく言葉を返した。

「まぁ、その気持ちは分からんでもない」

「で……でも俺は、そんなのの子供かも知れなくてさ。顔も声も知らなくたって、『アレ』がヤバい奴っていうのは分かる。俺は『アレ』の子供で、だから人間じゃなくて、もし……ヤバい化け物だったら……」

「お前がか?」

「だって……今でも変な能力を制御し切れてないし、感情で左右されまくってて、何か……本能剥き出しの動物と一緒みたいで……」

「今更だろ」

「……怖くない?」

「………………」

 嫌いにならないで。

 上目遣いで不安そうに見上げてくる怯えたような瞳は、捨てられる事を恐れる幼子のそれそのものだった。

 フェンネルは、呆れたように溜め息を吐きながら持っていたミニボウルをテーブルに置いた。

「……お前は、俺をどう思う?」

「すっごい好き」

「違ぇわ阿呆リンデン。お前も俺の父親が何をしたのか知らない訳じゃねぇだろ」

「そうだけど……」

「だったら、何故お前は俺に懐いたり出来るんだよ」

「だって……フェンネルはフェンネルだもん。親父さんとは別の人間で……」

 その時、リンデンの表情が何かに気付いたようにはっとする。

「お前の感情に、俺の父親は関係してんのか?」

「……フェンネルも、同じ?」

「見た事も無ぇ野郎なんざ知ったこっちゃねぇよ」

 驚いた様子で目を見開くリンデンをフェンネルは鼻で嗤い、呆れた顔でふんぞり返った。

「お前が俺に対して特に何も変わらないのに、この俺が、お前の親がどうとかで何か変わると思ったのか? 見下されたモンだぜ、くだらねぇ」

「……ごめん」

「二度は言わん。そんな事で時間を無駄にするな」

「……うん……」

「泣くな、鬱陶しい」

 顔を歪ませ、汚い顔でぐしゃぐしゃと泣き出す不出来で可愛い『弟』をフェンネルは再び鼻で笑い、苦笑を浮かべたまま再びサラダを頬張り始めた。

 共に過ごした時間は十年以上。生まれた頃は知らずとも、己にとっては過ごした時間だけが全てであり答えなのだ。

 ただ、ほんの数年前は、不安な事や悩みは全て隠してしまっていた彼の事を考えれば、こうして打ち明けてくれる様になったのは大きな成長ではなかろうか。

「顔拭け、汚ぇ」

 嬉しさに頬を濡らし、柔らかい笑みを見せる。今もこうして変わらない純粋さを向けてくれる彼に対し、誰が恐れを抱こうか。

 フェンネルがベッド脇のフェイスタオルをリンデンに投げ渡せば、彼は潤む瞳をフェンネルに向けて愛おしそうに細めた。

「……フェンネル」

「何だよ」

「大好き」

「……もう夜明けだ、早く食え」

 そう言って誤魔化したフェンネルに、リンデンは照れ臭そうに笑う。

 しかし、リンデンがその赤くなった耳元に気付くと、素直じゃない『兄』の不貞腐れた顔に、ただ笑顔を浮かべて彼を見つめていた。

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  • 僕達のマザーランド   第一章『始まり』

    『#俺たちのマザーランド』「みんな、そろそろ着くぞー」 沢山ある液晶画面の内、手前の小さなモニターに映し出された目的地の座標を指でなぞり、確認した彼女は耳に装着したイヤホンマイクを押さえて他の船員達に告げる。腕時計型の通信端末を通して全員の耳元へ届いた少女の声に、彼女の耳にも低い声が疎らに返ってきた。 今回の目的地には『瘴気』と呼ばれる有毒ガスが濃い区域のため、全員がガスマスクの着用を余儀なくされている。そんな物々しい雰囲気の中、鼻歌を唄いながら操縦感を握るのは見目にして十二、三の少女だった。 彼女が皆に声を掛けた数秒後、そのイヤホンマイクから「前方注意」の言葉が聞こえる。それは見張り台にいた船員の声で、少女の「見つけたか?」という問いに、彼は呆れたように鼻で笑った。《おいおい、またガセネタ掴まされてんじゃねぇか》「またぁ? 今度は何だった?」《四足大型が二頭》 ガスマスク越しにスナイパーマントを深く被り、双眼鏡を覗く彼は辺りを注意深く見回しながら、感じ取れる気配までの距離をおおよそで測る。「正面一五〇〇メートル、あとは10時方向一二〇〇メートル先の森ん中だ。どっちもまだ目視は出来ない」《面倒臭ぁ……まぁ、別に偽情報でも良いけどもー?》「良い訳あるか、このアホ船長。風向きが北西から西へ移動、風速も上がってる」《了解、風下へ避けるぞ》 見張り台の青年の報告に応え、少女は操縦桿を小さく回してペダルを踏む。船の速度を落とし、ゆっくりと旋回する。 少女が座る操縦席の右後ろにあるコントロールパネルの前では、回転椅子に座る体格の良い男性が「こっちにも反応が出た」と少女に声を掛けた。彼は袖から覗く夜明け前の空のような青い肌の腕を伸ばし、モニターの角度を変えてカメラの切り替えスイッチを入れる。「レーダーに入ったか。映像を回してくれ」「了解。左のは結構なデカさだ」 座標とは別のモニターに映ったレーダー映像に、少女はいよいよ溜め息を吐く。「……んもー……」「ローズマリー、指図書には何と?」「二足小型が三頭」「まったく、『上』は俺達を余程殺したいらしい」 見張り台の青年とまったく同じ嘲笑を零した彼に、少女は「帰ったら文句言ってやる」と可愛らしく遺憾の意思を見せた。「しかし、どうしようか……装備はあるけど、二頭をもっと引き離さないと厳しいな」

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