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#2『墓守犬』

last update 公開日: 2026-08-08 10:36:14

「ねぇマリーさん、今日ってどうするの?」

 クミンが保護されてから二日後の、午前七時。

 ユズリハが朝食の洗い物をしている隣で、食器を拭いていたリンデンが問い掛けた。

 リビングのソファの上で、クミンとタオルを畳んでいるローズマリーは当然のように「行くぞ」と答える。

「もちろん、今日も十時に予約が入ってる。準備が出来次第、すぐに出発するからな」

「どこかへ行くのか?」

 続いてクミンが問えば、ローズマリーは頷き笑顔を見せた。

「ああ。毎週末、私達は子供達のお世話を手伝いに孤児院へ出向いているんだ」

「コジイン?」

「そう。身寄りの無かった子供達が、生きていくために必要な全てを学べる場所だ」

 ローズマリーの説明を聞いても、クミンは不思議そうに首を傾げる。苦笑するローズマリーは「一緒に行こうな」とクミンに微笑み、食器を洗うユズリハに振り返る。

「ユズ君、今日は何処だっけ?」

「『マーガレット学習院』だ」

「ん? でも今日って遠足じゃなかったっけ。確かカレンダーに入ってたけど」

 リストベルのスケジュールを確認したリンデンの言葉に、何故かユズリハの顔が若干暗くなる。

「……小学部と中学部だけな。それも、『ガーベラ』と『カマリア』も合同で行くそうだ」

「すげぇ、大人数だ。何処行くの?」

「旧皇家の博物館と樹立公園らしい」

「ほえー、みんな賢いねー……ん?」

 ふと、リンデンは気付く。

「待って待って、じゃあ『ガーベラ』と『カマリア』の幼学部は誰が看るの?」

「……合同で『マーガレット』に集まるんだと……」

「マジで!?」

 ユズリハの言葉を聞いたリンデンは、両手を上げて喜んだ。

「やったー! 赤ちゃんがいっぱいだー!」

「……また『大合唱』か……」

 高身長と強面の顔のせいで毎度乳幼児に泣かれてしまうユズリハは、天井を見上げてどんよりと肩を落とす。

 そんな彼に、ローズマリーも楽しそうに笑いながら彼に慰めの言葉をかけた。

「ははは、いつも最初だけじゃないか。すぐ仲良くなってるのに」

「向こうが妥協してくれてんだよ……」

「そんなに器用な幼児は居ないぞ。大丈夫だ」

 ふとローズマリーがクミンを見れば、彼女は落ち込むユズリハを心配そうな眼差しで見つめている。そんなクミンに、ローズマリーは「今の内だけだから」と説明した。

「どういう事だ……? ユズリハは、一体何をさせられるんだ?」

「彼に危険は一切無いぞ。ユズ君が優しいだけだ」

「……?」

「あ! 今日メンテナンスじゃん! ちょっと取りに行ってくる!」

「リン、フェノンにも声を掛けてきてくれ。今日は整備室でガトリングを診てる筈だ」

「分かった!」

 自室に置いてある己の愛剣を取りにリビングを出て行ったリンデンを見送り、「私達も急ごうか」とローズマリーがクミンに微笑む。何も分からないクミンは、ただ皆の様子を静かに見ているしか無かった。

「……私は、何をしていれば良いんだ?」

 ぽつり、と少し申し訳無さそうに聞いたクミンに、ローズマリーは満面の笑みを向ける。

「一緒に行こう。今はそれでいい」

「……私でも、戦力になれる事があるのか?」

「勿論だ! むしろ、来てくれなきゃ困る」

「そ、それほどの事が……?」

「今日は特に、少しでも人手が多い方が嬉しい。みんな良い子達だから、いろいろ教えてくれるぞ」

「……迷惑に、ならないなら……」

「迷惑になど、なるものか! 楽しいぞー? だって、可愛い子ばかりなんだからな!」

 ローズマリーは畳み終えたタオルを綺麗に重ねて両腕に抱える。ユズリハに「片付けてくる」と一声掛けると、同じくフェイスタオルを抱えたクミンと共にリネン室へと向かった。

 一方、整備室へと降りたリンデンは、床に直接胡座をかいて部品を磨いているフェンネルの背中を見つけて声を掛ける。

「フェンネルー! おはよう!」

「うるせぇ」

 彼の周りは分解したガトリング銃の部品が広げられ、リンデンは足の踏み場を探しながらゆっくりと歩み寄る。

 フェンネルはそんなリンデンを無視したまま、持っていたスパーギアをウエス代わりの布巾に置く。

「朝ご飯、ありがとう! 美味しかったよ!」

「……どうも」

 笑顔のリンデンを見る事無く、フェンネルは次のギアを手に取り、ホワイトガソリンを染み込ませた布でギアを丁寧に磨き始めた。

「今日も早いね。部屋から出ていったの気付かなかったよー」

「へぇ」

「ユズさんが『明日の朝はゆっくりしてて良い』って。夕食の下拵えまでしてくれてたの、お礼言ってたよ」

「そうか」

「マリーさんは『早起きし過ぎだ』って、ちょっと心配してた。今日のご飯は、クミンも気に入って完食して」

「黙れ」

「……むー……」

 食い気味に言葉を遮ってきたフェンネルに、リンデンは少しだけ困ったように眉を下げた。

 フェンネルがクミンと顔を合わさないように早起きをしていた事は、リンデンも気が付いていた。皆の分の朝食を作って準備してあったのも、誰かに頼まれたクミンが自分に朝食を持ってきたりしないようにする為だ。

 先日の一件で、フェンネルは徹底的にクミンを避けて生活していた。昨日一日、クミンはずっとリビングでユズリハとローズマリーに勉強を見てもらっており、その間、フェンネルはずっと船の外壁や監視台の点検、搭載してある重火器等の整備と補充を行っていた。

 誰かがフェンネルへの用がある際は、リンデンが率先して皆の橋渡し役を担っていたが。

「……テメェも暇じゃねぇんだから、いちいち行ったり来たりしてんなよ。リストベル使えってローズに言っとけ」

 視線をギアに落としたまま、フェンネルは呟くように文句を垂れる。

 しかし、そんな彼にリンデンはきっぱり「嫌だ」と答えた。

「そんな事したら、フェンネルは絶対顔見せなくなるじゃん」

「テメェは同室だろうがよ……」

「嫌だ。俺は寂しいの!」

「……勝手にしろ」

「うん!」

 どれだけ突き放しても、冷たくあしらっても、フェンネルの言葉にリンデンはいつも笑顔を返す。

「やっぱり、直接声聞けるのが嬉しいもん」

「……ふん」

 まるで小春日和に浴びる、暖かな日差しのような眼差し。絶え間ない優しさを向け続けてくれるリンデンに、フェンネルは毎度、悔しい思いを感じながらも絆されてしまっていた。

「ねぇねぇ、今日の『お手伝い』だけどさ」

「行かねぇ」

「え!?」

 しかし、『それ』と『これ』とはまた別だ。

 お手伝い、とは、孤児院訪問による児童監督員の助手……簡単に言えば、保育士補助のアルバイトである。

 全てを言い終える前に即答で断ってきたフェンネルに、リンデンは目を剥いて驚いた。

「嘘でしょ、今日は合同保育だよ!? 『カマリア』と『ガーベラ』の赤ちゃん達も来るんだよ!?」

「だから何だよ」

「一緒に癒されに行こうよぉー! 絶対可愛いよー……!」

「知るかよ」

 一切こちらを見ないフェンネルに、リンデンは彼の袖を引いて駄々を捏ね始める。

「ねぇってばー……行こうよー……」

「『あのガキ』が来るなら俺は行かねぇ」

「クミンは多分、ユズさんと幼学部に行くだろうしさぁ……マリーさんに言っとけば、色々手配もしてくれると思うしぃ……」

「うぜぇ」

「ねぇ、行こうよ……一緒に、赤ちゃんのお世話しようよ……」

 おねだり、と言うには、あまりにも寂しげに顔をしょんもりさせ、袖を引いてくるリンデンをフェンネルは白い目を向けた。

 このまま押し通す事も出来るだろうが、もしそうなった時、この状態の彼なら「船に残る」と言い出しかねない。ただでさえ今日は人手が欲しい筈の孤児院にも、その孤児院の院長であるローズマリーにも、多大な迷惑が掛かってしまう。

 結局、自分が譲るしか無いのか。フェンネルは盛大に溜め息を吐いた。

「……わかった。行ってやる」

「え、マジで!?」

 呆れ返った口調でも、その言葉を聞いた瞬間にリンデンは潤む瞳を大きく見開いて喜ぶ。

「本当に!?」

「二言は無ぇ。ギアの洗浄液も、白油も切れた所だったし……ついでだから、テメェの剣もメンテナンスに持ってってやるよ。後で合流する」

「いいの!? やったぁーっ!!」

 思わず抱き締めてこようとするリンデンを咄嗟に腕で防御し、「いいから準備してこい」と火傷痕の残るその顔を押し返す。

 鬱陶しそうに不機嫌な顔をしつつも、仄かに紅くなっているフェンネルの耳元を見たリンデンは、心から嬉しそうな笑みを浮かべて全身で喜びを表した。

「ああぁ好き! もう本当好き! ありがとうフェンネル!」

「うぜぇ」

「じゃあ、俺、お金とかケースとか準備してくるから! 出発の時に渡すね! やったーっ!」

「早く行け」

「分かった!」

 整備室から走って出ていったリンデンに、フェンネルは僅かに苦笑を零す。自分も片付けて準備をしなければ、と腰を上げ膝を着いた時、何故かリンデンが階段を駆け下り戻ってきた。

「そうそう、言い忘れてた!」

「あ?」

「逃さないからね!」

 唖然とするフェンネルにビシッと指を差し、リンデンは再び階段を駆け上がっていく。その間にも、「上で待ってるから」と叫ぶ彼の声が、遠退きながらも整備室まで大きく響いていた。

 逃さない、とは。言質を取った、という意味なのか、はたまた、自分が彼の剣を持って馴染みの武器整備店に行ったまま逃亡を図るとでも思ったのか。

「……チッ」

 その手があったか。

 本当はそのまま一緒に孤児院へ向かうつもりだったのだが、先に手を封じられた事への腹いせと、何となく信用されていない気配を感じて悔しくなったフェンネルは、盛大な舌打ちを一つかました。

 準備を終え、全員が荷物を確認して船外へと集合する。ローズマリーが最後に船を出ると、ハッチを締め、掌紋認証でロックを掛けた。

 最後にユズリハが舗装されていない土の地面に長い釘のような鉄の棒を突き刺し、登録したリストベルを持っていない者が船に近付くと感電するよう防犯機材ののスイッチを入れる。

「みんな、忘れ物は無いな?」

「マリーさん!」

 リンデンがぱっと手を上げる。

「どうした、リン」

「行き掛けにコリアンダー整備店に寄ってください!」

「用があるのは俺だがな」

「分かった、途中で寄っていこう。出発だ」

 リンデンとフェンネルの予定も確認し、ローズマリー達は船を後にした。

 全員で最寄りのバス停を目指し、徒歩数分の距離を並んで歩く。

 初めて船を降りたクミンは辺りをキョロキョロと見渡し、全てを不思議そうに眺めている。時折ローズマリーに質問したり、リンデンに「あれ見て」と教えてもらったりと、数百メートルの距離でも、彼女は楽しそうに過ごしていうようだ。

 そんな彼等を、五メートル程後ろに下がって付いて行くユズリハとフェンネルが、並んで様子を眺めていた。

「……心境の変化が?」

 ふと、ユズリハが隣を歩くフェンネルに声を掛ける。

「……そんなんじゃねぇですよ」

「『残る』って言い出すのかと思ったんだが」

「言いましたよ。……アイツに脅されたんです」

 そう答えた視線の先には、リンデンの後ろ姿がある。

 ユズリハは意外な理由に笑みを零した。

「ほぉ、脅されたのか?」

「『逃さねぇ』って言われました」

「ははは、アイツらしい。『気配』を追う、だったか? お前がちょっと動いたらすぐに気付くのは流石というべきか」

「そういうのを『キモい』っつーんですよ」

「そう言ってやるな。お陰で助かってる面もある」

「……ふん」

 ユズリハは、フェンネルが背負うリンデンの剣についても質問してみる。すると彼は「ついでです」としか答えず、まったく正直に話さないフェンネルを微笑ましく思い目を細めた。

「また絆されたか。お前も丸くなったなぁ」

「失礼な、俺は元々丸いでしょうよ」

「何処がだよ。サボテン並みにトゲトゲだったくせに」

「まったくユズさんは酷い人だ。サボテンに謝罪を要求します」

「はっはっ、サボテンにかよ。フェンネルは俺と違って優しい男だもんなぁ」

「白々しいにも程があるでしょ」

 不機嫌そうに嗤ってみても、先程と違って多少喋るようになっている。少しでもフェンネルの不安や緊張を解く事が出来ただろうかと、何処か嬉しそうにユズリハは微笑んだ。

 そんな二人を、いつの間にか信号待ちで立ち止まっていたリンデンとクミンが凝視する。

「……いいなぁ……」

 信号が青になって再び歩き出し、小さく呟いたリンデンに「あまり見るな」とローズマリーが制止する。

「フェノンも今『距離』を図りながら頑張ってるんだから、照れさせたら面倒だぞ。我慢しろ」

「むー……」

 リンデンは寂しそうな、不満そうな顔で唇を尖らせる。そんな様子を見たクミンは、そっと彼の袖を引いて「おい」と小声で声を掛ける。

「ん、何?」

「その……リンデンは、フェノンと仲が良いのか?」

 ローズマリーがそう呼ぶため、彼の名前を幼名で覚えていたクミンに、リンデンが優しく「フェンネルね」と訂正してやった。

「ふぇんねる……? あの男はフェンネルというのか」

「そ、フェンネル。フェンネルに『間違えんなよ』って言われてるからさ」

 リンデンがそう説明すると、何故か危機感を覚えたクミンは少し緊張した面持ちで俯き息を呑む。しかし、何とか持ち直してリンデンに向き直ると、意を決したように口を開いた。

「その……ち、朝食の礼を……言いたいんだが……」

「あー、朝ごはん? 今日も美味しかったもんねぇ」

 リンデンは懐かしむように目を細めて頷いた。

 とは言っても、フェンネルはこの二日間、特に変わった朝食は作っていない。一日目は味噌汁に焼き魚だったし、今朝用意されていたのはサンドイッチだ。

 しかし、何か気に入ったらしいクミンがユズリハに作り方を問い掛けるも、彼は「これはフェンネルが作ったものですので」と笑顔で返されていた。

「フェンネルはやっぱり料理上手だよなぁ。あっさり系が多くて、お出汁が美味しくて。ユズさんの作る料理もさ、幾らでもご飯が進むっていうか、お箸もフォークも止まらなくなっちゃうっていうか……」

「あの男は……私にまで、朝食を用意してあった。その礼が言いたい」

「え? 皆の分作るのは当たり前じゃないの?」

「だって……奴は、私の事を嫌っているのだろう? 嫌いな奴の食事など、普通は用意せんぞ」

「そうなの……? ねぇ、マリーさん」

 クミンの言葉に悩んだリンデンはローズマリーを呼ぶ。一通りの説明をリンデンから聞いたローズマリーは、二人に「いい悩みだな」と優しく微笑んだ。

「簡単なようで難しい問題だ。食事だって、人数分作るのは当たり前なようで、実は違う」

「そうなの?」

「リンも覚えておくんだぞ。お前達が生きていられるのは全て、お前達を愛してくれる人がいるからなんだ。愛は無償だが、『愛してくれる』という事そのものは、まったく『当たり前』じゃない」

「当たり前じゃ、ない……」

 復唱したクミンに、ローズマリーが頷く。

「フェノンがリンを想っている事も、ユズ君がクミンのお世話係を引き受けた事も……全て、彼等が『したいからしている』に過ぎないんだ。お前達がそれを当たり前だと思って無償の愛に胡座をかいていたら、相手の気持ちなんかすぐに離れていってしまう」

 何か思う所があるのか、ぐっと唇を噛むクミンの頭を、ローズマリーは優しく撫でる。

「皆から貰った愛は、ちゃんと愛で返さなきゃいけない。受け取る事が難しいヤツもいるんだから、優しさや愛を、無視するような事だけはしちゃ駄目だぞ」

「分かった!」

 理解しているのか否か、強く頷いたリンデンは、早速フェンネルとユズリハの所へと走っていってしまう。唖然とするクミンの横で、ローズマリーは呆れながらも優しく微笑んだ。

「ま、アイツは心配ないか。何か本能的に分かってそうだし」

「……愛を、愛で返す……」

「そうだ、クミン。難しい事だが、実はすごく簡単な事でもあるんだぞ」

「そうなのか……?」

「ああ。『ありがとう』と、心から言えば良いだけだからな」

 今、クミンが望んでいるように。

 そう言われて、クミンはぱっと顔を明るくさせた。

「そ……そうか。これが、『愛を返す』という事なのか」

「フェノンは優しくて思いやりに溢れる子だ。だが、それ以上にずっと怖がりで臆病でもある。お礼を言いたい気持ちも分かるが、あの子がまだ怯えている内は、無闇に近付かない方が良い」

「……私が、嫌いな訳では無いのか?」

「勿論だ。……ただ、今は本人も気付いてないけどな」

「……?」

 ローズマリーは、苦笑しながらクミンの頭を再び撫でる。しかし、それでも残念そうに落ち込むクミンの後ろ姿を、リンデンとユズリハの会話を聞きながら、フェンネルが警戒した眼差しで静かに見つめていた。

 バスを乗り継ぎ、一行は『マーガレット学習院』を目指して足を進める。

 その間、クミンには常に誰かが声を掛け、街の風景、人々の暮らし、歴史的な建造物や文化を、彼女に教えながら移動時間を過ごしていた。

 『礼を言いたい』という彼女の気持ちも尊重しつつ、しかしフェンネルの心も知る他の乗組員達は、ローズマリーの指示でクミンが迂闊に彼に近寄らないよう、注意を払いながら間に入って声を掛け続けていた。

 そのお陰か、リンデン曰くフェンネルは常に落ち着きを保ち、クミンもそわそわしたり落ち込んだ様子を見せながらも、気ままにフェンネルに近付いたりせず大人しくローズマリーの引率に従っていた。

「……どいつも、妙に気を回しやがって」

 途中、リンデンの剣を調整に出すために寄った整備店で、受付を待っていたフェンネルが呟いた。

 腕を組み、休憩用のベンチに腰掛けて壁に凭れる彼の横で、立ったまま商品棚を眺めていたリンデンが微笑む。

「そんな事してないよ。クミンは『人間初心者』っぽいから、暴走しないように皆で注意してるだけ」

「それが『余計だ』っつってんだよ。結局テメェも店まで付いてきやがって」

「元々は俺の剣だもん。フェンネルだって、いきなりクミンがこっち走ってきたらビックリするでしょ? 先住猫ちゃんと新入り猫ちゃんは、お互い慣れさせてから合わせないと喧嘩するっていうし」

「誰が『先住猫』だクソゴリラが」

「ゴリラは猫ちゃん達を守りたいの!」

 リンデンはフェンネルの隣に座り、眉間に皺を寄せて目を伏せる彼の横顔を覗き込む。

「……フェンネルもさ。実はちょっと気付いちゃってるんじゃないの?」

「……何が」

「クミンは『バジルさん』と同じかも、って」

 バジル。その名を聞いて、フェンネルは更に険しい表情を浮かべる。

 最後に逢ったのは五年前、リンデンが口に出した『バジル』とは、フェンネルにとって唯一の異母妹だった。

 リンデンは笑顔を見せ、「大丈夫」と囁く。

「怖くなんかない。人は変われるよ、フェンネル」

「………………」

「バジルさんも、ちゃんと変われたじゃん」

「……アイツは俺の『異母妹(いもうと)』だからな」

「クミンも俺達の『妹』だよ。ローズマリーさんが決めたんだから、大丈夫」

「……ふん」

 相変わらず視線は床を見つめたまま、フェンネルは鼻を鳴らす。

 しかし、それでも彼は、確かに彼が少しずつ警戒と『恐怖心』を解き始めている。その事に気付いたリンデンは、嬉しさを満面に表した。

「……何ニヤニヤしてんだ、気色悪ぃ」

「べっつにー?」

 会計と預け入れを済ませ、機嫌が悪いフェンネルと、彼に後ろから肩を殴られ続けるリンデンが店から出てくる。それを確認した三人は、腰掛けていた花壇から荷物を持って立ち上がった。

「った、叩かれてるぞ……っ!」

「リンデンが笑ってるので大丈夫でしょう。どうせ痴話喧嘩です」

「『チワゲンカ』……?」

 首を傾げたクミンに、ローズマリーは苦笑しながら「今は気にするな」と彼女の肩に手を置く。

「おい二人共、あと二十分だ。先を急ぐぞ」

「お待たせー!」

 二人が合流し、リンデンが「遅くなっちゃった」と照れ臭そうに笑う。その後ろに立つフェンネルはその様子を黙って見ていたが、つい、その気配に顔を向けてしまった。

「!」

 ばち、と音がしそうな程に、その大きな瞳と視線がかち合う。その時初めて、フェンネルは彼女がリンデンと同じ赤い瞳を持っている事を知った。

「……あ……」

 何かを伝えようとしている口元。しかし言葉が出てこないのか、またはローズマリーかユズリハに止められているのか。

 戸惑った様子で目を泳がせ、結局彼女は何も言わないまま、白いワンピースの裾を握り締めて俯いてしまった。

 その反応に、フェンネルは苦虫を噛み潰したような表情で視線を逸らし、彼女に背を向けた。

「……………」

 フェンネルもまた、戸惑っていた。

 彼女の様な人間なら、こちらの敵意に過剰なほど反応すると思っていた。周りを取り込み、利用しようとするか、『使えないもの』は排除を選んでくる……そんな人間ばかりだったのに。

 だが彼女が先程見せたのは、戸惑いと謝罪の念のみで、敵意どころか、歩み寄ろうとしている様子すら伺える。

「…………チッ」

 分かっている。自分は既に『自由』なのだと。

 己を縛っていた『呪い』は、この世界中もう何処にも存在しないのだと。

 フェンネルは深い溜め息を吐き出し、伏せていた視線を上げた。

「院長先生!」

「院長先生だ!」

 マーガレット学習院。『チャーチグリム号』の一行が玄関での受付を行っていると、中庭で遊んでいた年長の子供達がローズマリー達を見つけて騒ぎ始めている。

「みんなー! 元気かーっ!?」

 気付いたローズマリーが中庭に手を振れば、ハキハキとした声で「元気ーっ!」と叫ぶ子供達の声が響いた。

「うんうん、元気だな」

 一行は受付で来院者名簿に名前を記入し、靴を脱いで上履き用のシューズに履き替える。子供達に危険な装備や所持品は全て事務室に置かせてもらい、皆は決まった色の薄手の帆布で縫われたエプロンを着た。

 順番に手を洗い、消毒液のスプレーを持つローズマリーに皆が手を差し出していく。一人ずつ掌にスプレーを吹き付けていくローズマリーは、戸惑うクミンに近付き『消毒』の説明と必要性を説明した。

「子供達は元気だが、同時に風邪を引きやすい。私達が守ってあげないとな」

「……守る……こんな事で、守れるのか?」

「当然だ。バイ菌から子供達を守るには、これが一番効果的なんだぞ」

「ばいきん……」

 クミンはローズマリーのスプレーを受け、言われた通りに手指全体に消毒液を馴染ませる。『消毒液』という物に興味を唆られたのか、自分の手を嗅いだクミンは次亜塩素酸ナトリウムの独特な匂いに思わず「うっ」と身体を仰け反らせた。

 それを見ていたユズリハが、小さく微笑んだ。

「ローズマリー、彼女は『何処』へ?」

「年長組さんだ。歳が近い方が学べる事も多いし、おままごとに混ぜてもらえたら社会勉強になる」

 ユズリハは「成る程」と唸る。確かに、おままごとは子供達にとって『人生で最初のコミュニティ』だ。クミンにとっては、最高の疑似生活が体験できるだろう。

「リンは外遊び担当、ユズ君と私は、年中、年少組さんを中心に屋内担当だ」

「了解した。フェンネルは今回も?」

「アイツほど乳幼児組が得意な人間もそうは居ないからな」

 ローズマリーは少し得意げに笑った。

 ユズリハが視線を向ければ、既にフェンネルは長い髪を後頭部に結い直し、事務室に常備してある簪でしっかりと固定している。

 その脇ではリンデンが中庭で走り回る子供達を見つめて目を輝かせており、何も分からないクミンはそっとユズリハに近付き、彼のエプロン裾を掴む。

「……『こっち』も個性豊かだな」

 苦笑するユズリハに、ローズマリーもつられて微笑んだ。

「さぁ聞け、みんな」

 準備を終えた船員達を集めて、ローズマリーは受付で貰った勤務表を片手に割り振りを始めた。

「今回メインの乳幼児組は、今までで一番多い十七人だ。保育士さん全員集めても大変だから、幼学部は私達と保育士さん二人で看る事になる。上の子達がお昼寝に入ったら、リンとユズ君もフェノンと交代で乳幼児組のお手伝いに行ってくれ」

「分かった!」

「了解だ」

「……交代とか要らねぇ」

「じゃあ休憩だな。休憩は取れ」

「俺、先行ってくる!」

「私は……?」

「俺が案内しますので、付いてきてください」

 屋内、中庭共に、元気で可愛い怪獣達が騒ぐ明るい声が響き渡っている。

 其々に確認し合い、一行はいざ『決戦の地』へ足を踏み入れていった。

 多目的教室に突然入ってきた青い肌の大男に、賑わっていた教室は一瞬にして静まり返る。

「こ……こんにちは。先週振りの子もいますが……」

 覚えていますか?

 ユズリハがそう問おうとした瞬間、教室内は瞬く間に阿鼻叫喚の『大合唱』が始まってしまった。

 ユズリハはがっくりと肩を落として俯く。

「……やっぱりなぁ……」

「な、何故……」

「毎月の恒例行事なんですよ」

 毎月、というのは、月初めに必ず、新しく入所してくる『新入生』がいる為だ。彼等が一人、二人と泣き出すと、皆がつられてパニックを起こしていく。

 どうしてユズリハがこんなに怯えられるのか分からず、背後にいたクミンも戸惑った様子で彼の背後からその光景を覗く。そんな時、後ろから入ってきたローズマリーがユズリハに座るよう促すと、突然子供達に向けて声を張り上げた。

「皆、見ろ! 皆が泣くから、ユズ君も泣いてるじゃないか!」

「!?」

 その言葉にクミンが驚いてユズリハの顔を覗き込むが、ユズリハは「またかー……」とうんざりした顔でカーペットの床に腰を下ろす。

 その間にもローズマリーはユズリハを指差し、子供達に向けて芝居がかった口調で訴えている。

「早く友達になってあげないと、ユズ君は『独りぼっち』になってしまうぞ!」

 すると、その言葉を聞いた子供達は、少しずつ声を抑えて泣き止んでいく。鼻を啜る子、しゃくり上げる子、皆が様々に心を落ち着かせ、ユズリハを見つめている。

「な……何が起こってるんだ?」

「彼等も元は『独りぼっち』でした。この孤児院で信頼できる大人や友達と出会えたからこそ、『独りぼっち』がどれほど悲しく辛い事なのか、ここにいる子供達で知らない者はいません」

 ユズリハの説明を受け、胸を締め付けられるような息苦しさを感じたクミンは思わず胸元を掴む。

 一方、「ユズ君が『寂しがって』るぞ!」と子供達を煽るローズマリーは、ぱっとユズリハに顔を向けた。

「何してるんだ、ユズ君! 早く泣いたフリしろ!」

「やっぱりかー……」

「ほら照れてないで、早く!」

 急かすローズマリーの言う通りに、意を決したユズリハは俯いてわざとらしく目を擦り始めた。

「……『えーん、寂しいよー』」

「!?」

 突然泣き真似をし出したユズリハにギョッとしたクミンを他所に、ローズマリーは子供達の反応を見ながら「もっと大きい声で!」とユズリハに演技指導を入れる。

「ほらユズ君! 大袈裟に、感情込めて!」

「『えーん、みんなと仲良くしたいよー』!」

 顔を手で覆う彼の耳は赤い。ローズマリーは、ユズリハを静かに観察している子供達を見て、「よしよし」と満足そうに口角を上げた。

 しかし、意外にも棒読みの演技が一番効いたのは、隣でユズリハを見ていたクミンだった。

「ユズリハ……!?」

 彼女は慌てて彼に寄り添い、その広い背に触れて心配し始める。

「どっ、どうした!? 何故泣くんだ!?」

「……見ないで下さい」

「ユズリハには私がいるではないか! 『寂しい』などと言うな!」

「本当にやめて下さい」

 真面目に慰めてくれる必死な彼女に、余計に羞恥心を煽られたユズリハはいよいよ顔を見られなくなる。

 声も無く、腹を抱えてカーペットに撃沈しているローズマリーの気配に気付いたユズリハは、「お前は笑うなよ」と真っ赤になった顔で身体を震わせ蹲る船長を睨んだ。

「いやっ……ふふっ……す、すまな……っ」

「おいコラ」

 だが、クミンがユズリハに寄り添った事で、子供達が少しずつ二人に集まり始める。三歳、四歳程の小さな身体で、彼等なりに勇気を出して、ユズリハの大きな腕に触れる。

 ゆっくりと集まってきた子供達に気付いたクミンは、少し驚いて身を引いた。

「……な、何だ貴様等……っ」

「クミンさん、今は静かに」

 その時、最初の子がユズリハに「ごめんね」と呟いた。

「……泣いちゃって、ごめんなさい」

「ごめんね、ユズくん」

「一緒にあそぼう」

「ユズくん、さびしくない?」

 次々と声を掛け始める子供達に、ユズリハは優しく微笑み、一人ひとりの頭を柔らかく撫でていく。

 大きな掌に触れられ、子供達は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「……みんな、ありがとうございます。もう寂しくありません」

「ほんとう?」

「さびしくない?」

「はい」

 子供達がユズリハに心を許し、慰めるように背や肩を撫でる姿は、ローズマリーも寝転がりながら微笑ましく眺めていた。

 しかし。

「……何だ、これは……?」

 照れ臭そうな、しかし確かに嬉しそうに笑うユズリハと、さっきまで泣いていたのに突然楽しそうに彼と遊びだす子供達に、クミンは開いた口が塞がらなかった。

「クミン。おいで」

 呆然とユズリハや子供達を眺めている彼女に、起き上がったローズマリーが歩み寄って隣に並ぶ。

「何だか困ってそうだな。どうした?」

 声を掛けるとクミンは戸惑ったように目を泳がせたが、すぐに再び子供達に視線を戻す。

 ユズリハは子供達を順番に軽々と抱き上げ、ただ持ち上げて下ろすを繰り返している。『高い高い』でもない屈伸運動だが、それでも、子供達は誰もが楽しそうに笑い声を上げ、「もう一回!」と彼に強請っている。

「……ユズリハは、分かった」

「ふむ?」

「泣いたフリ、だったんだよな。子供達を騙して、彼等の気を引くための……」

「んー、言い方が悪いなぁ」

 しかし、ある意味では間違っておらず、ローズマリーは思わず苦笑を漏らした。

 クミンは至って真面目に言葉を続ける。

「皆、ユズリハが怖かった筈だ。なのに……何故、彼等は歩み寄ってきたんだ? 怖いと思う相手に近付く理由は? 相手がもし、ユズリハのように優しい男でなかったら? あんな風に簡単に近付いては、それこそ簡単に殺されてしまうぞ」

「そうか……確かに、そういう捉え方も出来るな」

「敵に容赦など無い。彼等のような幼子こそ、『己の身の守り方』を教えるべきだ」

「うん、うん」

 少し不満げに意見するクミンの言葉を否定せず、ローズマリーは受け止める。そして、そっとクミンの肩を抱き寄せた。

「よく聞け、クミン。教える必要が無いから、教えていないんだ」

「……何?」

「私が若い頃は、そんな教育が必要だった時期もあった。大人達がは皆疲弊し、彼等を守る人間がとても少なかったからな」

「………………」

「でも、今は違う。あの子達は何に怯える事もなく、のびのびと暮らせている。危険から身を守る方法は中学部でも習うから、今のあの子達にはまだ必要無い。それだけの事なんだ」

 避難訓練は欠かさず週二で行っているけどな!

 そう胸を張ったローズマリーを、クミンは訝しげな目で見る。

 同時に、クミンは少しだけ悲しくなった。自分が何故『身を守る術を学ぶべき』と思うのかも、どういう経緯でそう思うようになったのかも、自分自身には全く分からないのだ。

 ローズマリーの言うように、この世界ではそれを学ぶ必要が無いほど平和なのだという事なのに、自分はどんな生活をしていて、どのように生きていたのか。

 ……もっと純粋で何も知らない子供だったなら、あの子供達のように、ユズリハに「一緒に遊ぼう」と強請る事もできたのだろうか。

「………………」

 視線の先には、楽しそうに笑う彼等の姿がある。いくら考えてみても答えは出ず、ただ静かにカーペットへと視線を落として、クミンは俯いた。

「……クミンも、一緒に遊んできたらどうだ?」

「……知らないんだ。どうすれば良いのか……」

「皆が教えてくれるさ」

 すると、二人の下へ数人の女の子達が声を掛けてきた。

 彼女達の内、一番背の高い子がローズマリーの袖を軽く引く。

「院長先生」

「やぁヒナゲシ。どうした?」

「その子は、『どこ』の子なの?」

 どこ、というのは、三つの孤児院の内、何処に所属しているかを問う質問だ。

 指を差されたクミンは目を丸くし、ローズマリーは幼い少女の頭を撫でる。

「ヒナゲシ、この子はクミンだ。リンと同じで、『友達に怪我をさせない訓練』をしなくちゃいけなくてな」

 それを聞いた少女達は、クミンを見上げて少し悲しげな顔をした。

「大変だね。リンちゃん、泣いてたの知ってる」

 少女の言葉に、今度はクミンが戦慄する。

「……『友達に怪我をさせない訓練』とやらは、そんなに厳しいものなのか……?」

「気にするな、クミン。リンが泣くのは大抵フェノンが相手してくれなかった時だから」

「えぇ……?」

「じゃあ、ミンちゃんね」

「ミンちゃん」

「な、何だ、お前達。私は『クミン』だ」

 スカートの裾を掴まれたクミンは、戸惑った様子で少女達を訂正する。しかしローズマリーは子供達に笑いかけ、膝を着いて「頼みがあるんだが」と優しく言った。

「実は、ミンちゃんは皆との遊び方を知らなくてな。教えてあげてくれないか?」

「ろ、ローズマリー、私は……!」

 しかし、少女達は満面の笑みで「いいよ」と快諾した。

「ねぇ、お姫様ごっこしようよ」

「私おけしょう屋さん!」

「ドレス作ろう、どうぐ持ってくる!」

「ミンちゃんお姫様ね!」

「あっ、ちょっ、ちょっと待て……!」

 腕を引かれ、ローズマリーに助けを求めるクミンだったが、あっという間に部屋の隅にある子供達のドレッサーへ座らされている。されるがままになっているクミンに、ローズマリーは彼女の素直さと優しさに微笑んだ。

 内心、彼女が抵抗したら、どうしようかとも考えてはいたが。

「……要らない心配だったな」

 遠目から様子を見ていたユズリハが隙を見てクミンに声をかけようとした時、少女達に「男の人は来ないで」と追い払われているのを見てしまったローズマリーは、再び腹を抱えて笑いを堪えていた。

 一方、外では壮絶な鬼ごっこが繰り広げられていた。

「きゃーっ!」

「リンちゃんが鬼になったぞ!」

「にげろー! リンちゃんだー!」

 子供達が騒ぎ立て、リンデンはニヤリと悪い顔で口角を上げる。

「俺が鬼だぞーっ!」

 総勢20人程の子供達が、蜘蛛の子を散らすように一斉にリンデンから逃げ出していった。

 リンデンの身体能力の高さが尋常でない事は孤児院の職員達も周知の事実ではあるが、実際、彼の能力で最も恐ろしいのは、その驚異的な『持久力』にあった。

 リンデン程のフィジカルならば、子供達の走る速さなど一瞬で追い付けてしまう。しかし、絶妙な距離とスピードを保ちつつ皆を平等に追い掛け続ける事が出来るとなると、子供達の休む時間は二十秒と取れず、五分ほど逃げ回った頃に子供達が音を上げ始めてしまう。

 休憩し始めた子を見定め、今度はまだ走れそうな体力のある子を選んで追い掛け始めたリンデンは、最終的に一番逃げ続けた男の子に近付き、壁に追い詰めて躙り寄った。

 少年にとっては、息も絶え絶えに逃げてきた筈なのに、少しずつ近寄ってくる青年は呼吸を乱すどころか汗一つ掻いていない。

「り、リンちゃん、バケモノすぎるよ……!」

「へっへっへ〜、観念して次の鬼に……」

 しかしその時、リンデンの服を掴み、動きを封じようとした少年が叫んだ。

「逃げろ、ホップ!」

「トチ……!」

「え、何っ? や、やだぁ、動けないぞっ?」

 驚いたリンデンだったが、咄嗟に機転を利かせて動きを封じられたフリをする。その様子に、休憩で身体を休めていた子達が今が好機と言わんばかりにリンデンに飛び掛かった。

「みんな、かかれー!」

「きゃーっ、お助けーっ!」

 腰や背中、腹に膝など、子供達は数人掛かりでリンデンを抑えつける。追い詰められた男の子も加わり、リンデンは子供達を敷いてしまわないよう位置に気を付けながら、芝生の地面に寝転がった。

「わーっ!」

「どうだ、まいったか!」

「リンちゃんの負け!」

「あっはっは、降参、降参! やられたーっ!」

 皆で寝転がり、笑い合う。そしてまた起き上がり、誰かが叫んだ「ダルマさんが転んだ」にリンデンは「俺、鬼ね!」と笑った。

 彼が疲れた子供達からブーイングを貰う様子を、乳幼児用のベビールームから赤子の尻をゆっくりと叩きながら眺めていたフェンネルは、呆れたように小さく笑みを零した。

「……元気な奴等だ」

 抱いていた赤ん坊を、そっとベッドへ戻す。ミルクを飲んで満腹になった赤ん坊は、反射で起きる事もなく、ぐっすりと眠っている。

 一通りのミルク、オムツ替え、寝かしつけを終えて、フェンネルは赤子のベッドが並ぶ壮観な景色を眺めて一息吐いた。

「フェンちゃん、今なら休憩なさって大丈夫ですよ」

 いつまで経っても聞き馴染まない呼び名に、その都度フェンネルは苦い顔をする。

「……他に呼び方あるだろ」

「ローズマリー様が『そう呼ぶように』と仰っていますので」

 あのクソババアめ。

 絶対に口には出さないが、フェンネルは腹の中で盛大に悪態を吐く。

 職員の女性は優しく微笑み、「いつもありがとうございます」と頭を下げてベビールームを出て行った。

 ベビールームにはモニターもセンサーも完備されているため、大人達も安心して休憩が出来るのがこの孤児院の強みだ。職員である彼女達も、紅茶で一服しようと事務室へと移動していく。

 一人残ったフェンネルは、直射日光が当たらないよう設計された薄暗い室内の中で、レースカーテンが優しく風に靡く窓に歩み寄った。

 開かれた出窓の枠に腰掛け、桟に凭れ掛かった彼は持参した水筒の蓋を開けて一口だけ緑茶を含む。その時、中庭を挟んだ向こうの棟に、フェンネルはクミンの姿を見つけた。

「………………」

 緊張した様子で玩具のドレッサーに座らされ、子供達に囲まれてあれこれと髪を弄られ飾り立てられている。

 完全に遊び道具と化した彼女を見て、フェンネルは複雑な表情で目を細め、その眉間にきつく皺を寄せた。

 戸惑いながらも、彼女は心から楽しそうに微笑んでいる。ついさっき知り合ったばかりの子等と対等に会話し、驚いたり、相談したり、年下の少女の指示にすら素直に従う。

 その笑顔に、彼女の優しさに、他の子供達と何の違いがあろうか。

「……後は、俺だけか」

 再び茶を呷り、飲み下す。深く息を吐き、空をゆっくりと流れる雲を見上げた。

 心地良い。春の日差しに、フェンネルはそっと目を閉じる。自分に駆け寄ってくる気配を感じながら、彼はスッと出窓から降りた。

 そっと静かに窓を閉めようとした時、「いや待って待って」と苦笑しながら中庭を走ってきたリンデンが止める。

「うるせぇ。仕事しろ、サボり魔め」

「俺も休憩中なの! お話しようよ」

「何が『休憩』だ、体力無尽蔵のくせに」

「子供らの体力は有限だからね。お昼前でいい感じに疲れさせたから、砂場遊びは先生方が変わってくれるって」

「役立たずが」

「いやいや、まだ遊べますけど?」

 リンデンは出窓の横にある花壇に腰掛け、フェンネルは呆れた様子を見せながらも、出窓の枠に座り直す。フェンネルが持っていた水筒をリンデンに渡すと、彼は心から嬉しそうに水筒を受け取った。

 礼を言い、茶を飲んだリンデンは息を吐きながら「うめーっ」と小声で叫ぶ。

「赤ちゃん達は? 元気?」

「一応、次のミルク補給は十二時十五分の予定だ。その前にオムツ交換が何人かあるだろうな」

「そのスケジュール通りにいくからスゴいよねぇ」

「統計が取れれば大体把握できるだろ」

「無理無理、赤ちゃんにも個人差ってあるじゃん。俺は泣かせないようにするので精一杯だからさぁ」

「阿呆リンデンめ。担当職員が赤子個人の『記録(ログ)』取ってんだから、三日分もあれば一人ひとりのタイミングと回数の統計ぐらい計算できるだろうが」

「フェンちゃん、普通の人はそんな事出来ないからね? 俺がバカだからとか関係無いからね?」

「テメェが『フェンちゃん』言うな」

 お昼の給食の準備が始まるまで、あと五分。二人は昼食を知らせるチャイムがなるまで、ベビールームの窓際で和やかな休憩時間を過ごしていた。

「さぁ、みんな! 手を合わせて!」

 ローズマリーの号令に、子供達も職員達も一斉に「いただきます」と叫ぶ。『チャーチグリム』の船員達も続いて手を合わせ、この二日間で食事の挨拶に慣れてきたクミンも一緒に頭を下げた。

 今日のメニューは訪問日恒例のカレーライスで、お腹が空いた子供達はまるで飲むようにカレーライスを口に掻き込んでいく。

「おかわり行ってこよー」

「テメェは遠慮しろ阿呆」

 真っ先に立ち上がったリンデンに、向かいに座るフェンネルが小声で野次を飛ばす。慣れている子供達もクスクスと笑いながら、彼に続いて『おかわり』を所望する子達が順番に鍋の前に並び始めた。

 ふと、クミンは目の前のグラスが空になっているのに気付く。子供向けの味付けではあるが、意外と辛さを強く感じていたのか知らぬ間に手が進んでいたらしい。隣のユズリハに頼もうかとも思ったが、麦茶の入ったピッチャーは自分の右側、左側に座る彼とは反対側にある。

 ピッチャーに一番近いのは……。 

「行くなら早く行けよ、鬱陶しい」

 子供達に先を越されて尻込みするリンデンの脚裏を引っ叩き、叩かれた本人は「やぁん」と気色悪い声を出して子供に笑われている。

 フェンネルが手を伸ばしてくれれば簡単に届く距離だが。

「!」

 その時、あまりに見つめてくるクミンの眼差しにフェンネルが気付く。再び視線がかち合い、やはり、クミンは戸惑ったように視線を泳がせ始めた。

 しかし、フェンネルは彼女の空になったグラスや、皿に残るカレー、彼女の反応から瞬時にクミンが何を望んでいるのかを察知する。

 欲しいのは『これ』か。フェンネルは自分の斜め前にある麦茶のピッチャーを見て、小さく溜め息を吐いた。

 手を伸ばしてピッチャーを手に取ると、「あっ」と困った様なクミンの声を聞く。無表情を貫きつつ自分のグラスに麦茶を注いだ彼は、ピッチャーを元あった場所の反対方向へ置くと、更にその先へと押しやった。

 突然手元にやって来たピッチャーに、クミンは目を輝かせ、次にわたわたと焦り、そっと立ち上がって両手でピッチャーを持ち上げた。

 クミンはフェンネルを見る。相変わらず彼は自分から視線を背け、無表情のままグラスの麦茶を啜っている。

 彼が持つグラスは、波々と注がれた麦茶が今にも溢れてしまいそうだった。

「……あ、ありがとう……!」

「………………」

 フェンネルは答えない。しかし、一瞬だけ此方を向いた彼の視線に、自分に対する敵意はもう感じなかった。

 クミンは嬉しさに満面の笑みを浮かべ、麦茶をグラスに注いで席に着く。直後に口に運んだカレーは、先程よりもずっと美味しく感じられた。

 当然、その一部始終を見ていたユズリハが、驚愕に目を見開いたまま動けなくなっていたのは言うまでもない。

「リンちゃん、おかわり無いってー」

「ええぇーーーーっ!!」

 午後四時。

 子供達は、涙ながらに『久々に会った友達』を引き止めていた。

 リンデンに至っては子供達と一緒に抱き合い、「また会おうねぇ」と目を潤ませている。

「大袈裟だな、来週も会うだろう?」

「ユズさん酷い! 来週は『カマリア』じゃん、『マーガレット』と『ガーベラ』は来月になっちゃうでしょ!」

「はっはっ、そうだったな。悪かった」

 そんなユズリハも、最初は怖くて泣かれていたが今は別れを惜しんでしゃくり上げる子供達に、苦笑しながら頭を撫でて回っていた。

 フェンネルが今日の記録を事務室に提出している間、ローズマリーはクミンを連れて『マーガレット学習院』の室長に挨拶を述べる。室長はローズマリーと同じ緑色の瞳を細め、優しくお微笑んでいる。

「今日もありがとう、パキラ」

「いえ、こちらこそです。ローズマリー様のお陰で、皆が健やかで優しい子達に育っています」

「次に来る時は、小学部や中学部の子達とも会いたいな」

「もちろん、いつでもいらして下さい。ここにいる皆が、貴女の『子供達』なのですから」

 ニコッと微笑んだ室長に、ローズマリーも嬉しそうに微笑む。その様子を不思議そうに見ていたクミンは、室長の表情が、リンデンやフェンネルに近いものを感じ取った。

「……室長も、ローズマリーの『子供』なのか?」

 その言葉に、二人は静かに微笑んだ。

「クミン、実はパキラも孤児だったんだ」

「!」

「もう何年も前になります。革命戦争で家族を失い、ローズマリー様が保護してくださった。今の学習院の前身である施設で暮らし、今はこの『マーガレット』を任せて頂いています」

 皆に今日があるのは、全てローズマリー様のお陰です。

 そう言い切った室長にローズマリーも照れたように「んもー」と苦笑している。ローズマリーがここの院長であり一番権力がある事はユズリハから聞いて知ってはいたが、それよりも、クミンは室長が放つ清らかさに眩しさを感じ、思わず目を細めた。

 ユズリハやローズマリーに対してとは、少し違う感情。その『憧れ』という感情が、彼女の心を掴んで離さなかった。

「……なれるだろうか?」

「ん?」

「私も、室長のような立派な人間になれるだろうか」

 ローズマリーと室長は、彼女の言葉に顔を見合わせる。室長は嬉しそうに目を潤ませて口元を抑え、ローズマリーも「そうかそうか」とクミンの頭を撫でた。

「きっとなれるさ! クミンは優しいからな!」

「……室長のような、清らかな人間には程遠いかも知れんが……」

「何を言いますか、ミンちゃん。貴女ほど清らかな人など、そうはいませんよ」

 二人に褒められ、クミンは照れ臭そうに頬を赤らめて俯く。その時、書類を全て書き終えて提出したフェンネルが「終わったぞ」とローズマリーに告げた。

 皆で礼を言い、見送りに出てきてくれた子供達に手を振る。帰り道、名残惜しい一時を皆で振り返り、リンデンが鼻を啜りながら「今日も楽しかったな」と呟いた。

「ちっちゃい子の可愛さは本当無限大だよね。赤ちゃん、もっと抱っこしたかったなぁ」

「テメェが昼寝時に真っ先に寝なけりゃ、触るぐらいは出来ただろうがな」

「やだぁ、言わないでぇ?」

 ローズマリー、ユズリハと共に先を行くクミンが、後ろから付いてくる二人の会話に静かに振り返る。ローズマリーと、自分と手を繋ぐユズリハは明日の予定を話し合っているらしく、案を出し合って「どうしようか」と相談しているようだ。

「………………」

 クミンは、先程の室長の笑顔を思い出す。彼女の様な清らかさは無くとも、少しでも、彼女に近付く事が出来るなら。

 貰った愛を、愛で返す。彼女は決意に空いた拳を握り締め、ユズリハの手をすり抜けて走った。

「クミンさんっ?」

 驚いて振り返ったユズリハの声に、ローズマリーもクミンを視線で追う。駆け出した彼女が行き着いた先に、追い掛けようとしたユズリハも、クミンを引き留めようと口を開きかけたローズマリーも目を見張った。

「っ!」

 何より、誰よりも驚いたのはフェンネルだ。

「お、どしたの?」

 リンデンはフェンネルの前で立ち止まったクミンに声を掛けるが、同時に、隣に並ぶフェンネルが自分のシャツを掴んだのに気付く。脇腹から背中の布をしっかりと握り締めるその手は、緊張で固くなっているが、やはり何処か小さく震えているようだった。

 彼の見開かれた瞳は、一歩先の位置から見上げてくるクミンを緊張した様子で凝視している。

「………………っ」

「……フェンネル」

 クミンが名を呼べば、服を掴む手がグッと強くなる。俯くクミンは自分のスカートの裾を掴み、決意を込めてフェンネルを見上げた。

「……朝ご飯を、ありがとう。すごく美味しかった」

 彼女の赤い瞳に、他意は感じない。フェンネルは戸惑った目をゆっくりとクミンから逸らし、隣に立つリンデンに、助けを求めるような眼差しを送った。

 目が合ったリンデンは、微笑んで頷く。眉を下げてぐっと唇を噛んだフェンネルは、リンデンの服を掴んだまま、反対側の手でウエストポーチの中から何かを取り出した。

 その様子に嬉しそうに笑ったリンデンが、クミンに向き直る。

「クミン、手ぇ広げて」

「……?」

 言われるまま、クミンは両手を広げてリンデンに見せる。するとその小さな掌に、両端を捻って包まれた白い球体が乗せられた。

 クミンは、目を丸くして顔を上げる。そこには、顔を背けすぎて殆ど後ろを向いているフェンネルの姿があった。

「くれるって。そのキャンディ、フェンネルの手作りなんだぞ」

 満面の笑みで、リンデンが言葉を添えた。

「い……いいのか?」

「………………」

「……いいってさ」

 やはりリンデンが答える。しかし、何の反応も見せない事が、彼なりの『肯定』なのかも知れない。

 しかし、クミンが礼を言おうとした瞬間、フェンネルは此方を見る事無く、来た道を戻るように走り出してしまう。

 クミンは戸惑い、リンデンは唖然と口を開く。

「なっ……」

「あ」

「逃げた!」

 叫んだのはローズマリーだった。

「リン、捕まえろ! バスに乗り遅れちゃうぞ!」

「分かった!」

 リンデンが踏み込んだ途端に強い突風を感じ、クミンは砂埃を避けようと腕で顔を覆う。風が止み、目を開けるとリンデンの姿は遥か彼方だった。

 数百メートル先で微かに声が聞こえる。どうやらフェンネルはすぐに捕まったらしい。

「……………」

 キョトンと目を丸くするクミンに、後ろからユズリハが声を掛けた。

「先に行きましょうか、クミンさん。バスが来るまでには、アイツ等も追い付くでしょう」

「……うん」

 再び彼に手を引かれ、クミンは目的の方向へと向き直った。

「……ユズリハ」

「はい?」

「お礼、言えた。フェンネルに『ありがとう』って言えたぞ」

「……そうですね。見ていましたよ」

 待っていたローズマリーと合流し、再び三人で

歩き始める。ユズリハがローズマリーに説明すれば、彼女もまた、「勿論見てたぞ」と微笑んだ。

「頑張ったな、クミン。フェノンに何を貰ったんだ?」

「キャンディだそうだ。リンデンは、フェンネルの手作りだと言っていた」

 瞬間、ユズリハとローズマリーが顔を見合わせた。

「まさか、あの『ハーブキャンディ』か……!?」

「……まぁ、クミンさんも『試し』で一度は食べてみるのもアリだとは思いますが……」

「な、何だ、毒か? 毒なのか?」

「いえ、毒どころか身体に良いものしか入ってないんですがね」

 クミンが包みを開ける。中には、黒々とした歪な形の飴玉が入っていた。

 ミントのような香りの中に、嗅いだ事のない甘さや苦さ、酸味など、よく分からない匂いを感じる。

「フェンネルにとっては、好物の一つなんですがね……如何せん、俺には少し合わなくて」

「何がだ? 味がか?」

「リンは暫くお腹を壊してたなぁ。私は匂いが苦手でな……」

「……それはもう、毒じゃないのか……?」

 クミンはもう一度匂いを嗅ぎ、そっと舐めてみる。甘みを感じて口の中に入れると、少し口の中で転がして味わってみた。

 「……どうだ?」

 しかし、心配そうなローズマリーやユズリハの心配を他所に、クミンは両頬を押さえて目を輝かせた。

「……んまぁ……!」

「そ、それは良かったじゃないか……!」

 顔を引き攣らせながら笑うローズマリーに、クミンは「また礼を言わねば」と心から嬉しそうに微笑み返す。二日前、目覚めた直後に食べたチョコレートと同じ反応を見せたクミンに、ユズリハは彼女の味覚をほんの少しだけ心配した。

 船に帰還後、フェンネル特製のハーブキャンディをいたく気に入ったクミンは、逃げ回るフェンネルを追い掛けながら、ひたすらキャンディを強請っていた。

「あの飴はもう無いのか?」

「クミン、ダメだって! フェンネルがビビってるから!」

「び……ビビってねぇ……!」

「無くなったら、また作るのか? 次はいつ頃に作る予定なんだ?」

「フェンネル……お前、まさかあの飴に変な薬草入れてないよな……?」

「入れてねぇし! ってかユズさんもアレの監督なら捕まえといて下さいよ!」

「じき慣れるさ」

「なぁフェンネル、一個ぐらい残ってないか?」

「く、来るな……!」

「あぁん、マリーさぁぁん!!」

 結局、クミンは行き過ぎたコミュニケーションとして、ユズリハと共にローズマリーにしっかりと注意を受けた。

「すみませんでした」

「なんで俺まで」

「監督不行き届きだ。フェノンから訴えがあったぞ?」

「悪かったよ……」

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  • 僕達のマザーランド   #『小茴香』

    「おやすみー。じゃあユズ君、後は頼んだぞ」「おう。お疲れさん」 ローズマリーが、「ユズリハが寝るまで起きている」と駄々を捏ねるクミンを引き摺って、異ビングのハッチを廊下へと出ていく。 ソファにはフェンネルが腰掛け、黒い布を広げて縫い合わせた糸を切っている。その足元には、床に直接リンデンが転がって寝息を立てていた。「コイツは『邪魔になる』って事を学ばないもんかね」 キッチンから氷を持ってきたユズリハが、床に転がるリンデンを見て苦笑を零した。 フェンネルは視線を手元に落としたまま、こちらに寝返りを打ってきたリンデンを脚で蹴って押し返す。「そりゃ学べんでしょ。『言い出しっぺ』が真っ先に寝こけてる様じゃあ」 呆れるフェンネルに、ユズリハは吹き出して笑った。 孤児院から戻ってきた時、リンデンはとても機嫌良さげに「今日は飲みたい!」と言い出した。いつもなら皆で宴を楽しむが、疲れているであろうクミンの体調を考え、ローズマリーとクミンは先に部屋で休む事になったのだが。 二人が部屋に戻る前に、腹一杯に夕飯を食べてからソファで寛いでいるとそのまま眠ってしまったらしい。 寝返りでソファから落ちても起きない彼は、幸せそうな顔でむにゃむにゃと何かを言っている。「楽しみにしてたのになぁ。どうする、起こすか?」「やめときましょう。余計にウザくなる」「はっはっはっ! さすが気遣いの出来る男は違うな」「……こんな奴に気遣いなんざ必要無いでしょ」 疲れているだろうから、そのまま寝させてやろう。 そんな真意を汲み取ったユズリハは、不機嫌そうに眉根を寄せる彼の前に、琥珀色の酒を注いだグラスを差し出す。フェンネルがグラスを一瞥すると、グラスの中では大きな氷が一つ、澄んだ音を立てて動いた。「……良い色だな」「だろ? リンデンが『今日に』と選んだ酒だ」「銘は何です?」「あの時の地酒だ」 フェンネルは、糸を切る手を止める。 ローズマリーぼ知り合いが独自で作ったこの地酒は、二年に一度、春に送られて来るものだ。アルコール度数も分からない、手作り感満載のきつい酒だった。 あの日の『祝賀会』でも、この地酒をユズリハやリンデンと共に飲んだ。「……まったく……」「本当に、気遣いが下手な奴等だよ。二人共な」 あの日は、『家族』を『呪い』から救った。 今日は、本当の意味で

  • 僕達のマザーランド   #2『墓守犬』

    「ねぇマリーさん、今日ってどうするの?」 クミンが保護されてから二日後の、午前七時。  ユズリハが朝食の洗い物をしている隣で、食器を拭いていたリンデンが問い掛けた。  リビングのソファの上で、クミンとタオルを畳んでいるローズマリーは当然のように「行くぞ」と答える。「もちろん、今日も十時に予約が入ってる。準備が出来次第、すぐに出発するからな」 「どこかへ行くのか?」 続いてクミンが問えば、ローズマリーは頷き笑顔を見せた。「ああ。毎週末、私達は子供達のお世話を手伝いに孤児院へ出向いているんだ」 「コジイン?」 「そう。身寄りの無かった子供達が、生きていくために必要な全てを学べる場所だ」 ローズマリーの説明を聞いても、クミンは不思議そうに首を傾げる。苦笑するローズマリーは「一緒に行こうな」とクミンに微笑み、食器を洗うユズリハに振り返る。「ユズ君、今日は何処だっけ?」 「『マーガレット学習院』だ」 「ん? でも今日って遠足じゃなかったっけ。確かカレンダーに入ってたけど」 リストベルのスケジュールを確認したリンデンの言葉に、何故かユズリハの顔が若干暗くなる。「……小学部と中学部だけな。それも、『ガーベラ』と『カマリア』も合同で行くそうだ」 「すげぇ、大人数だ。何処行くの?」 「旧皇家の博物館と樹立公園らしい」 「ほえー、みんな賢いねー……ん?」 ふと、リンデンは気付く。「待って待って、じゃあ『ガーベラ』と『カマリア』の幼学部は誰が看るの?」 「……合同で『マーガレット』に集まるんだと……」 「マジで!?」 ユズリハの言葉を聞いたリンデンは、両手を上げて喜んだ。「やったー! 赤ちゃんがいっぱいだー!」 「……また『大合唱』か……」 高身長と強面の顔のせいで毎度乳幼児に泣かれてしまうユズリハは、天井を見上げてどんよりと肩を落とす。  そんな彼に、ローズマリーも楽しそうに笑いながら彼に慰めの言葉をかけた。「ははは、いつも最初だけじゃないか。すぐ仲良くなってるのに」 「向こうが妥協してくれてんだよ……」 「そんなに器用な幼児は居ないぞ。大丈夫だ」 ふとローズマリーがクミンを見れば、彼女は落ち込むユズリハを心配そうな眼差しで見つめている。そんなクミンに、ローズマリーは「今の内だけだから」と説明

  • 僕達のマザーランド   #1『始まり』

    『#俺たちのマザーランド』 「みんな、そろそろ着くぞー」 沢山ある液晶画面の内、手前の小さなモニターに映し出された目的地の座標を指でなぞり、確認した彼女は耳に装着したイヤホンマイクを押さえて他の船員達に告げる。腕時計型の通信端末を通して全員の耳元へ届いた少女の声に、彼女の耳にも低い声が疎らに返ってきた。  今回の目的地には『瘴気』と呼ばれる有毒ガスが濃い区域のため、全員がガスマスクの着用を余儀なくされている。そんな物々しい雰囲気の中、鼻歌を唄いながら操縦感を握るのは見目にして十二、三の少女だった。  彼女が皆に声を掛けた数秒後、そのイヤホンマイクから「前方注意」の言葉が聞こえる。それは見張り台にいた船員の声で、少女の「見つけたか?」という問いに、彼は呆れたように鼻で笑った。《おいおい、またガセネタ掴まされてんじゃねぇか》 「またぁ? 今度は何だった?」 《四足大型が二頭》 ガスマスク越しにスナイパーマントを深く被り、双眼鏡を覗く彼は辺りを注意深く見回しながら、感じ取れる気配までの距離をおおよそで測る。「正面一五〇〇メートル、あとは10時方向一二〇〇メートル先の森ん中だ。どっちもまだ目視は出来ない」 《面倒臭ぁ……まぁ、別に偽情報でも良いけどもー?》 「良い訳あるか、このアホ船長。風向きが北西から西へ移動、風速も上がってる」 《了解、風下へ避けるぞ》 見張り台の青年の報告に応え、少女は操縦桿を小さく回してペダルを踏む。船の速度を落とし、ゆっくりと旋回する。  少女が座る操縦席の右後ろにあるコントロールパネルの前では、回転椅子に座る体格の良い男性が「こっちにも反応が出た」と少女に声を掛けた。彼は袖から覗く夜明け前の空のような青い肌の腕を伸ばし、モニターの角度を変えてカメラの切り替えスイッチを入れる。「レーダーに入ったか。映像を回してくれ」 「了解。左のは結構なデカさだ」 座標とは別のモニターに映ったレーダー映像に、少女はいよいよ溜め息を吐く。「……んもー……」 「ローズマリー、指図書には何と?」 「二足小型が三頭」 「まったく、『上』は俺達を余程殺したいらしい」 見張り台の青年とまったく同じ嘲笑を零した彼に、少女は「帰ったら文句言ってやる」と可愛らしく遺憾の意思を見せた。「しかし、どうしようか……装

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