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第6話

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静真心から「お前は優秀だ」と褒めた。

霞は、男の目に濃い賞賛の光を見た。

この反応は、完全に彼女の予想通りだった。

入江グループと田中研究室が提携し、浩のプロジェクトが成功すれば、当然入江グループにも利益がもたらされる。

今回帰国した霞は、コア技術攻略のキーパーソンになりたかった。彼女には、それができる自信があった。

今や、世間知らずの令嬢が幅を利かせる時代ではない。手料理を振る舞ったり、甘えたりするだけで男心を掴めるほど、世の中は甘くない。

実力がある女こそ、男の目線を捉えることができるのだ。

霞は、実力のある女になりたかった。

……

月子は午前中ずっと忙しく、休憩時間に給湯室でコーヒーを入れ、ついでに同僚の分も入れた。

その時、中村秘書から電話がかかってきた。

彼女は静真の秘書だった。

月子が彼女と接点を持ったのは、静真のスケジュールを尋ねた時だけだった。

月子は静真に関わる誰とも接触したくなかったが、中村秘書はとても心優しい女性だったので、少し迷った後、電話に出た。

「月子さん、大丈夫ですか?」中村秘書の声はとても小さかった。

「ええ、大丈夫」月子は、なぜ彼女がそう尋ねるのか分からなかった。

中村秘書の声は心配そうに震えていた。「入江社長が今、ある女性を連れて会社を案内しているんです。すごく大騒ぎで、役員の方々は皆、彼女を未来の奥様だと思っているみたいで……月子さんがこのことをご存知なのか分からなかったので、一応お知らせしておこうと思って。その女性は、夏目……」

中村秘書の声は突然途切れた。

続いて、少し怯えたような小さな叫び声が聞こえた。「鈴木……さん、私は……」

彼女は角に隠れていたので渉が背後から歩いてくるのに気づかなかったのだ。

渉は中村秘書の携帯を奪うと、画面を見て眉をひそめた。

「また入江社長のスケジュールを聞き出そうとしてきたのか?」

中村秘書は渉の後ろにいる入江社長と霞の姿を見て、恐怖で頭が真っ白になり、何も言えなくなってしまった。

渉は中村秘書の返事を待たずに、事務的に報告した。「社長、月子です。また社長のスケジュールを聞き出そうとしていました」

渉は電話を切らなかった。月子に聞かれても構わなかった。

月子は眉をひそめた。

彼女は渉の中傷など気にせず、電話を切ろうとした。しかし、静真の冷淡な声がすでに聞こえてきていた。「放っておけ」

これは、静真がいつも自分に取る態度だった。

月子は驚かなかった。

ただ、事実確認もせずに自分を誤解していることが悲しかった。

昔の月子なら、必ず説明していた。静真に誤解されるのも、怒らせるのも怖かったからだ。

しかし、離婚は離婚だ。もう静真の気持ちを考える必要もないし、ましてや彼と霞の情報を聞き出すなどする必要もないことだ。

次の瞬間、静真のさらに冷たい声が聞こえた。「明日から、仕事に来なくていい」

月子は驚いた。彼は中村秘書をクビにするつもりなのか?

そうだ。初めて中村秘書に連絡を取った後も、静真は彼女をクビにしようとしていた。

月子が何度も頼み込んだおかげで、中村秘書は入江グループに残ることができたが、彼は「二度としないように」と警告していた。

やはり、二度目は許してもらえなかった。

それに静真が、自分に情けをかけるはずもないのだ。

「静真、秘書のことくらいで、そんなに怒らないで」

それは、霞の声だろう。

とても優しい感じだ。

彼女の名前のように。

霞は宥めるように言った。「そうだ、今日のランチは私がおごるわ。もう怒らないでくれる?私の顔を立てて」

2秒後、「ああ」

静真の声のトーンは軽くも重くもなかった。

前の冷酷な言葉と比べると、ずっと優しくなっていた。

霞は軽く笑った。「じゃあ、行こう」

その後、静真と霞の声は聞こえなくなった。

月子は自嘲気味に唇を引きつりながら、内心では言葉にできないほど切なさが溢れていた。

彼女はいつも、静真は機嫌を直すのが難しいと思っていた。なぜなら、以前は機嫌を直してくれるまで何日もかかったからだ。

月子にとって、この過程は精神的な拷問だった。そうなると彼女はいつも食欲がなくなり、夜も眠れず、静真の機嫌が直らない限り、他のことにも集中できなかった。

だけど、それは霞にとってたった一言で十分なくらいあまりにも簡単なことだった。

渉は通話中の携帯を見ながら、月子がすべて聞いていることを知っていた。

月子は人に迷惑をかけることを嫌う。中村秘書は彼女のせいでクビになったことで、きっと罪悪感に苛まれるだろう。

罰を受けるのは中村秘書だが、月子にとっては精神的な懲罰だ。

こうすれば、彼女は二度と陰でこそこそ動き回ることはしないだろう。

悪いのは、いつも入江社長のスケジュールを調べている月子だ。

それに、何をするにもその女に監視されてしまうなんて、入江社長の立場になってみると、考えただけでも息苦しい。

渉は手を振ると、待機していた首席秘書が近づいてきた。

首席秘書「退職の手続きは、今日中に済ませます」

渉は冷淡に「ああ」とだけ言って、立ち去った。

水曜日は霞の誕生日だ。彼は入江社長の指示通り、シーベイ・スターライトレストランを貸し切り、霞のサプライズ誕生日パーティーについてオーナーと相談をすることになっていた。

忙しいので秘書の退職のことなど構っていられないのだ。

首席秘書は渉から渡された携帯を受け取り、中村秘書に返そうとした時、不意に発信者名が表示されているのを見た。【月子さん】

彼女はすぐに眉をひそめ、数秒かけてこの人物を思い出した後、あきれたように言った。「あなたもバカね。彼女はただの入江社長の家政婦でしょう?彼女のために社長の機嫌を損ねることないじゃない」

中村秘書は社長に直接見つかってしまい、すっかり怯えてしまっていた。ようやく口を開くことができたが、それでも震える声だった。「彼女は……彼女は、家政婦じゃありません。社長の奥様なんです……」

「あなたの目は節穴なの?社長と霞さんがペアリングをしているのが見えてないわけ?霞さんはきっと将来の社長夫人よ、間違いないわ」

「違います……」

「もういいから、早く仕事の引継ぎをしろ!」

中村秘書は何も言えず、黙って自分の携帯を受け取った。

首席秘書が去った後、携帯を見ると、なんとまだ通話中だった。

彼女は全身に衝撃が走った。「あ、月子さん!大丈夫ですか!今の話、聞いてませんでしたよね!」

中村秘書は月子に聞いてほしくなかったが、それは不可能だった。

「彼女たちの言うことなんか気にしないでください。月子さんは、家政婦なんかじゃありません……ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

静真は結婚していることを隠しており、月子が彼のオフィスに行くことを許さなかった。

月子は毎回お弁当を届け、秘書に渡していたため、家の家政婦と誤解されても仕方がないのだ。

月子はそのこと自体は気にしていなかった。ただ、ほとんど結婚指輪をしていなかった静真が、まさか霞とペアリングをしていたとは思わなかった。

静真の手はとても綺麗だった。すらりと長く、白くて指の関節がはっきりとしていて、上品でありながら力強さもあった。長い薬指にダイヤモンドの指輪をつけると、言葉にできない魅力があった。

チャンスがあれば、月子はいつも長い時間見つめていた。

しかし、静真が結婚指輪をしている回数はごくわずかだった。

彼女は、静真はアクセサリーによる束縛感が好きではないのだとばかり思っていたが、それは考えすぎだった。彼はただ単に結婚指輪をしたくなかっただけなのだ。

月子は申し訳なさそうに「ごめん。もうあなたの仕事を挽回することはできないわ」と言った。

中村秘書は月子と一度しか話したことがなかったが、彼女がとても良い人だと感じていた。

入江社長が他の女性にこれまでにないほど夢中になっていることが心配で、月子に知らせに来たのだ。彼女にもっと用心深くなってほしかった。

しかし、結果的に失敗してしまった。

中村秘書はひどく申し訳なさそうに言った。「大丈夫です、大丈夫です。前に言ったとおり、私は実家に帰って両親を手伝うつもりでしたから、クビになっても大したことではありません。退職願はもう半分くらい書いてありましたし!」

彼女の話しぶりは自分を慰めているようには聞こえなかったので、月子はほっとした。

その後、中村秘書は少し小さな声で言った。「でも、どうしてでしょう。月子さんが社長の奥様なのに、社長はどうしてこんなひどいことを……」

入江社長は月子を彼のオフィスにすら入らせなかった。

なのに、霞は簡単に入れる。なぜ?

たとえ結婚を隠したかったとしても、「親戚や友人だ」と一言説明すれば、誰も詮索したりはしないだろう。

それに、月子が苦労して作ったお弁当を、お昼休みにわざわざ届けに来たのに、門前払いするなんて、入江社長の態度はあまりにもひどい。
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