LOGIN凛は耳まで熱くなるのを感じ、ちらりと前の運転手を見た。少し身を引き、海斗から距離を取ろうとする。「海斗、車の中なんだから……」そう言い終わるのとほぼ同時に、前席との仕切りが静かに上がった。「……」少し緊張して、困ったような顔をしている凛を見て、海斗は声を立てずに笑った。結局、それ以上は何もせず、唇の端にそっとキスを落とす。夜の車内で交わすには、ひどく優しいキスだった。凛も海斗の唇の端に軽く口づけを返す。「これで満足?」「ああ」海斗は楽しそうに笑っている。今夜はやけに機嫌がいい。「何かいいことでもあったの?」「ある」だが、それが何なのかまでは言わなかった。凛も無理に聞き出そうとはしない。なぜなら、自分だって、今夜なぜこんなに嬉しいのかを海斗には話していないのだから。指輪を買ったことは、まだ秘密だ。買ったはいいものの、いつ渡すかまでは決めていない。誕生日プレゼントではない。ただ、自分と海斗のために贈りたいと思った指輪なのだ。考えるだけで、少し緊張する。それは、これまで感じたことのない種類の緊張だった。海斗は今まで知らなかった感情をいくつも教えてくれた。凛は、今使ったカードがいつも自分で使っている黒いカードではなく、先日、海斗がカードケースの中身を整理してくれた際に、こっそり忍ばせておいたブラックカードの「家族カード」だったことなど知る由もなかった。しかも名義は凛本人になっており、暗証番号まで普段使っているものに合わせて設定されていたのだから、違和感を覚えず、そのまま自分のカードだと思い込んでしまっても無理はない。早紀からもらったカードケースは、思いがけず役に立った。その夜、凛が眠りについたあと、海斗は指輪を依頼しているデザイナーとのやり取りを開いた。ゴールデンウィークまでに完成品を届けられないかと尋ねる。海の向こうとは時差があり、向こうはまだ起きていた。デザイナーからは、完成し次第、自分で直接届けると返事が来た。海斗は満足して携帯を置き、凛を抱き寄せて眠った。翌朝、海斗はまたベッドから出ようとせず、起き上がろうとした凛を腕一本で引き戻し、そのまま胸元に抱え込む。凛は海斗の背中を軽く叩いた。「梓たちが待ってるから。A大にも行かなきゃいけないし、康平を学校にも送らないとで、今日はやることが多いの
千晴は目を輝かせ、そのまま凛を連れて店に入った。店員は二人を見るなり、ペアリングを探しているのかと尋ねてきた。どうやら千晴と凛が恋人同士だと思われたらしい。千晴はおかしくなって、いつもの癖で携帯を取り出し、策とのトーク画面を開いた。この話を竹内社長にしたら、あの偉そうな男も少しは妬くだろうか?そんなことを策に聞こうとして、ふと手が止まる。以前なら、きっとすぐに返事が来た。竹内社長に何を言われても平気なら、話してみれば……そんなふうに。「千晴さん?」凛に呼ばれ、千晴は二度目でようやく我に返った。すぐに携帯をしまい、何事もなかったように笑う。「気に入ったのあった?でも、こういうのって普通は彼氏と選ばない?まさか凛さんから竹内社長にプロポーズする気?凛さんにいきなりプロポーズされた竹内社長がどんな顔するのか、それはそれで見てみたいけど」「はいはい、もう行くよ」凛は千晴の背中を軽く押し、そのまま店を出た。実はさっき、普段使いできそうな、あまり目立たないデザインのもので、一組だけ気になる指輪があったのだが、一度は手に取ったものの、結局その場では戻してしまっていた。だがその日一日、頭の中には時折、あのペアリングのことが浮かんでいた。それなのに、その日は買い物をしている間も、何度となくあの指輪が頭に浮かんだ。そして千晴と別れたあと、結局、凛は一人で店へ引き返し、閉店間際、もう一度ガラスケースの前に立ち、昼間見ていた指輪を指さす。「すみません。これ、ペアでください」昼間、一度戻してしまったのは、結婚することへの怖さがまだ残っていたから……それでも戻ってきたのは、海斗のことを思ったからだった。自分には結婚も離婚も経験があるが、海斗には無い。だったら今度は、自分からプロポーズしてもいいのではないか?凛は嬉しそうに指輪を眺めた。店員が決済端末を用意している横で、凛はバッグの内ポケットから、白い本革のカードケースを取り出す。それは早紀から贈られたものだった。昨日カードケースを開けたとき、凛はそのまま使わずに取っておくつもりだった。すると海斗が、「せっかくもらったんだから、使ったほうがいい」と言って、凛が普段使っているカードを整理し、彼がカードケースに入れてくれたのだ。凛はカードケースの一番手前に入っていた黒いカードを抜
「3枚」海斗は観念して身体をずらした。凛がシンクを覗き込み、割れた皿を見て小さく首を振る。「大丈夫。明日、千晴さんと買い物に行くから、そのとき新しいのを買ってくる。破片は貼り合わせてから捨てるから、海斗、テープ持ってきて」海斗は素直にキッチンを出たが、すぐそこで美穂子がテープを差し出してきた。なぜ割れた破片を貼り合わせるのか、海斗にはよくわからなかったが、それでも凛に言われたとおりにしておけば間違いないと思っている。洗い物を終えると、美穂子は家の中を片づけてゴミを捨てに行き、康平はリビングでダイトとコマキの相手をしていた。凛と海斗は少し昼寝をしたあと、午後はそれぞれ溜まっていた仕事を片づける。夕食後は4人で犬の散歩に出たものの、いつの間にかダイトとコマキを連れて歩いているのは美穂子と康平だけになっていた。凛と海斗は川沿いへ出て、心地よい夜風の中を並んで歩く。海斗がふと歩調を緩め、少し先を行く凛を見つめた。隣にいたはずの海斗が遅れたことに気づくと、凛も足を止めて振り返る。海斗はゆっくり追いつき、その手を取った。それから二人は、手をつないだままのんびりと夜道を歩いた。こんな夜なら、プロポーズするのにも悪くないのだが、ただ残念ながら、海斗が特注で作らせている指輪は、まだ完成していなかった。……翌日、目を覚ました凛は千晴と待ち合わせの時間を決め、出かける支度を済ませた。ところが家を出ようとしたところで、海斗に呼び止められる。海斗は一度クローゼットへ入り、茶色のストライプ柄のネクタイを持って戻ってきて、何をするのかと思えば、それを凛のブルーのデニムの腰に巻き、ベルト代わりに結んだ。「これは?」凛は海斗を見て、それから腰のネクタイへ目を落とした。「俺の」「それは見ればわかるけど」海斗はそれ以上説明せず、凛のバッグを持つと、空いた手で彼女を連れて家を出た。そのまま自分でショッピングモールまで送り届ける。ちょうど千晴も着いたところだった。凛が海斗に手を振って見送ると、そばまで来た千晴が呆れたように言う。「竹内社長って、あなたの前だとほんと素直よね。相性ってあるんだなって、二人見てると本当に思うよ」凛は振り返って言った。「行こう」凛が歩き出すと、そこで千晴は、凛の腰に巻かれたネクタイに気づいた。「竹内
こんな海斗の姿を見られるのは、ごく限られた人だけ。凛もこのひとときがたまらなく好きだった。海斗と同じようにソファへ深くもたれ、首の後ろを背もたれに預ける。すると海斗がふいに手を伸ばし、凛の頭をくしゃりと撫でてから離した。「星、まだ見に行くか?」凛は少しだけ唇を開いた。「行く。海斗、ゴールデンウィーク休める?」竹内グループ自体は当然休みになるだろうが、海斗本人が休むかどうかは別だ。グループを引き継いでからというもの、海斗には週末も祝日もないようなもので、休みと呼べるのは、せいぜい夜眠っている時間くらいだろう。そんなふうにゴールデンウィークの予定を尋ねられた海斗は、まるで学生同士の会話のようだと思い、ふっと笑った。「休むよ」誰に許可を取る必要もない。自分で休みにすればいい。凛もつられて口元を緩めた。「じゃあ、ゴールデンウィークに星を見に行こう」「乗馬は?」海斗が横を向く。深い眼差しが、ソファにもたれて上を向く凛の横顔をゆっくりとなぞった。凛も顔を向けると、その視線とぶつかった。「海斗が教えてくれる?」「教える」凛が覚えたいことなら、何だって教える。ただし、教えるのは自分がいい。そのとき、ダイトとコマキが二人の脚に身体を押しつけてきた。二人が姿勢を起こすと、ちょうど康平が茶碗と箸を手にやってくる。「ご飯、だよ」凛は立ち上がり、康平の頭を撫でた。「康平も美穂子さんもありがとう。今日の洗い物は私がするね」「俺もやる」海斗も当然のように続けた。大事に育てられてきた海斗に皿洗いの経験などほとんどない。それでも凛がやるなら、自分も一緒にやるつもりだった。食後、二人で洗い物をしていると、凛が海斗に尋ねた。「美穂子さんもいるし、食洗機もあるのに、どうしてお皿洗いをするのかって理由を聞かないの?」「康平くんに見せようとしているんだろ?自分でやるところを見せて、当たり前の感覚を身につけさせたいんじゃないのか?」海斗自身は幼い頃から、人に任せるべきことは任せるよう教えられてきた。それでも凛がこれまでどう生きてきたのかを知ってからは、彼女なりの考えがあってすることなら、その一つ一つを尊重している。凛の目がぱっと明るくなる。凛は皿を洗いながら、話を続けた。「康平は普通に生活していく子だから。大人になれば食
飛行機は雲を抜け、やがてA市に降り立った。海斗と手をつないだ凛が先を歩き、最後尾には利明と陸。その間を歩いていた千晴は首を軽く回すと、大股で凛の隣まで追いついた。「今日は帰ってゆっくり休んで、明日買い物でも行かない?」凛は千晴と目を合わせた。何か話したいことがあるらしい。「いいよ。起きたら連絡する」千晴はOKのサインを作ると、誰よりも先に迎えの車へ向かった。迎えに来ていたのは悠真で、彼は凛を見つけた途端、目を輝かせて車の窓から顔を出す。手まで振ろうとしたところで、千晴に頭を押し戻された。次の瞬間には千晴に押し戻され、たしなめられていた。「はいはい、そのへんにしときなさい。脈のない相手をいつまでも追いかけないの」悠真は、姉が妙に沈んでいることにすぐ気づいた。きちんと座り直し、顔を覗き込む。「姉ちゃん、どうしたの?ずいぶん後ろ向きなこと言うじゃん」千晴が眉を顰めた。「うるさい。子どもは黙ってて」ホシゾラ・テクノロジーでは毎日、若き社長らしく澄ました顔をしている悠真も、外へ出ればまだ少年っぽさが残っている。「はいはい、俺はどうせ子どもですよ。で、何があったの?」千晴は答えず、目を閉じて寝たふりをした。悠真は諦めるどころか、今度は窓の外へ声を張る。「姉ちゃんの彼氏は一緒に帰らないの?」次の瞬間、千晴の目がぱっと開いた。「何勝手なこと言ってんの?」弟を睨みつけると、すぐ運転手に車を出すよう告げる。車はそのまま走り去っていった。悠真は不思議そうに呟く。「もう婚約の話し合いが進んでるんじゃないの?」千晴がまた黙り込んだため、悠真は肩をすくめるしかなかった。つい今しがた「姉ちゃんの彼氏と呼ばれた陸は、遠ざかる車にのんびり手を振っている。隣にいた利明が尋ねた。「千晴さんとはどうなってるの?」「普通に婚約して、結婚するつもりだけど」陸は笑って利明の肩を軽く叩いた。「婚約式の日が決まったら知らせるし、結婚式も友人代表として来てくれ。もちろん竹内社長と凛さんも、ぜひ」凛と海斗は顔を見合わせた。二人の頭に浮かんだのは――策。そこへ黒いカリナンが滑り込んでくる。凛と海斗はそのまま後部座席に乗り込み、車は二人を残して走り去った。利明は遠ざかる車をいつまでも目で追っていたが、隣から陸のため息が聞こえ、そちらへ視
早紀は口を開いた。「うん。私にとっても大事なことだし、利明くんにとってもそう。でも、こんなに急に行っちゃうとは思わなかったから、ここで聞くね。私たちの結婚の話なんだけど……茂さんから、私がどう考えてるか聞いてる?」利明は一瞬間を置いてから答えた。「聞いてる」なら、改めて自分から説明する必要はない。「利明くんはどう思ってる?」利明は腕時計に目を落とした。出発まであと40分……まだ少し時間はある。「早紀さん、どこかカフェにでも入ろう」二人は空港のカフェに入り、人のいない隅の席に腰を下ろした。お互いの時間を無駄にしたくなかった利明は、単刀直入に切り出す。「さっきは人が多かったから言わなかったけど……早紀さん。前にも話したとおり、僕は家同士で決める結婚をするつもりはない。それに君も、本当はこの結婚をそこまで望んでないんじゃない?」早紀は頷いた。「ええ。でも私は、結婚によって踊ることに支障が出なければいいと思ってるの。だから、家同士の結婚そのものには、利明さんほど抵抗はないかな」二人の育った環境では、家同士の結婚など珍しくもない。利明は早紀を見つめた。「以前なら神谷家と折原家は釣り合ってたけど、今は、そうとは言えない。でも、君が他の縁談相手とは結婚したくないっていう気持ちもわかる」候補に挙がっている男たちがどんな人間か、利明も知っている。早紀はバレエのことばかり考えて生きてきたような女性だ。あの中の誰と結婚しても、苦労するだろう。だが、自分を選べば幸せになれるとも思えない。「僕が断る理由は、君じゃない。僕自身の問題なんだ。僕には、ずっと思いを寄せていた人がいた。あとになって付き合えたけど、結果は最悪だった。君が知ってるより……ずっとね。彼女には性感染症があって、僕も感染している可能性がある。今のところ検査では感染は確認されてないけど、医師からは6か月後の最終検査までは確定できないって言われてて。だから今の僕は、親密な関係になる相手にとって、感染のリスクが完全には否定できない。だから君にそんな賭けはしないでほしいんだ。それに、僕たちには恋愛感情もないから、このまま結婚したって、形だけの夫婦になってしまう。僕と父さんはA市に移って、一からやり直すつもりだ。父さんはもう神谷観光の社長じゃないし、僕も神谷家の跡取
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活







