ログイン海斗はしゃがみ込み、何も言わずに、凛の足元にそっと靴を履かせた。それから椅子を一脚引き寄せ、自分自身も静かに腰を下ろす。海斗が座ったのは、凛の少し斜め後ろ。彼女が振り返ればすぐ視線が届き、海斗からも、凛の様子がひと目で分かる位置だった。康平が目を覚ますまで、凛が本当の意味で安心することはないと、海斗には分かっていた。凛と康平の絆が、どれほど深いものなのかまでは海斗にも分からないが、その関係が深ければ深いほど、自分のせいで康平が怪我をしたという事実が、凛にとっては一生癒えない傷になってしまう。たとえ絆がそこまで深くないとしても、凛の心に苦しみが刻まれることは変わらず、自責の念に押し潰されてしまうだろう。そして、こんなふうに悪夢に囚われる夜が、この先も何度となく訪れるのかもしれない。責任感が強く、良心に従って生きる人ほど――この世界では、どうしても人一倍、生きることが苦しくなってしまうのだ。海斗は恵にラインを送り、ホテルで休むよう指示した。そもそもホテルだって4部屋予約してある。凛のそばには、自分がついていればいい。翌日警察へ行かねばならなかった恵は、二人の邪魔をするのも気が引けたため、そのままホテルへと戻った。病室はひっそりと静まり返っていた。ベッドで眠り続ける康平を見つめる凛の視線が、時折、隣の海斗に向けられる。海斗が体を支えてくれた記憶と、目覚めて海斗に抱きついたあの感触が、脳内で何度も再生された。まるで海を漂流する流木のようだった。しかし凛は、こうした感情を抱くことを快く思っていなかった。なぜなら、かつての智也もまた、凛にとっては流木のような存在だったから。ただ……ここ数日、海斗はずっと自分に付き添って、山奥の小さな町を駆け回ってくれている。ろくに食事も取れず、満足に眠ることもできないのに、それでも、一度も文句を言っていない。竹内グループの社長である彼が、そんな生活を黙って受け入れている。どれほど頑なな心でも、何も感じないわけがなかった。ふと視線を落とすと、自分の足元には海斗に履かせてもらったばかりの靴がある。有無を言わせない口調だったけれど、その手つきは驚くほど優しかった。その瞬間、凛の脳裏に、ある夜の記憶がよみがえる。智也に頬を打たれ、ホテルへ飛び込んだあの夜。ホテルのマネージャ
康平が手術室から運び出されてきた。全身が血まみれになっている康平。顔色は土のように青白く、その手にはあのお守りとキッズ携帯が握りしめられていたが、もう息はしていなかった。直接手は下していないが、自分のせいで命を失わせてしまったも同然。心臓からすべての血が引いていくような感覚。現実を受け入れるまで、少し時間がかかった。凛は康平の顔に触れようと手を伸ばし、康平の名前を叫ぼうとした。しかし、喉からは声がまったく出ない。どれほど叫ぼうとしても、声はどこかへ消えてしまう。どれだけ必死に叫ぼうとしても、康平を呼ぶことができなかった。焦りだけが募っていく。すると、海斗が力いっぱい抱きしめてくれ、耳元で自分の名前を呼びながら、「大丈夫だ」と言ってくれていた。凛の力は抜けるように失われ、その場に崩れ落ちそうになる。海斗もその動きに合わせてしゃがみ込み、片膝を床についたまま、決して彼女を離さなかった。凛は震える手で何度も海斗の背中を叩く。何かを伝えたいのに、喉が詰まり――もう、海斗の名前さえ呼べなかった。頬を伝った涙が、唇に触れて口の中に塩辛い味が広がった。「凛、凛?」海斗がまだ自分を呼び続けている。しかし、凛は口を開こうと試みるが、どうしても声にならない。何より、康平が霊安室へと運ばれる姿をただ見ているしかなかった。「海斗、海斗……康平が……」「凛、起きろ。凛……」病院に駆けつけた海斗の目に飛び込んできたのは、うなされ涙でぐしゃぐしゃになっている凛だったのだ。付き添っていた恵も目を覚まし、緊張した面持ちでその横に立っている。海斗は凛の顔をそっと叩きながら、名前を呼び続けた。ついに……凛の涙に濡れた大きな瞳が開いた。目の前には海斗がいる。夢の中で見たのと同じあの姿。夢と現実の境界が曖昧なまま、凛は勢いよく起き上がり、海斗に抱きついた。「海斗……」ようやく、声が出せた。「海斗、康平……康平を連れて行かせないで。ごめんなさい、全部私が悪いの。全部、私のせいなの。海斗……私が悪いの……」凛の瞳からは涙が次から次へと溢れ出し、嗚咽でほとんど過呼吸のようになっている。恵は凛が心配だったが、二人が抱き合っているのを見て、やはり黙って外へ出ることにした。しばらく固まっていた海斗だったが
柚葉は再び頷いた。医師は時計に目をやり、少し困ったように言った。「今日はもう診察時間が終わってしまいましたので、また日を改めて来てください。先ほどの下腹部の痛みは、急激な精神的ストレスが原因だった可能性もあります。ですが、念のためにも一度きちんと検査を受けてくださいね。それがお母さん自身のためでもありますし、お腹の赤ちゃんのためでもありますから」柚葉は明日にでも来ると伝えた。帰宅の道すがら、柚葉は両親になんて伝えようかと考えを巡らせた。そのまま正直に話せば、激怒されるのは目に見えている。そこで柚葉は、腹部を押さえながら家に入った。急に帰ってきた柚葉を見て、隆平と百合は一瞬驚いたが、腹を押さえて苦しそうな柚葉を見て、すぐさまこう聞いた。「まさかお父さんに妊娠を知られて、中絶させられたの?なんでこんな大事なことを私たちに相談しなかったのよ!?お父さんが世間体を気にすることは知ってたけど、まさかここまで酷いなんて」百合はそう小言を言いながらも、急いで柚葉にブランケットをかけ、隆平にすべての窓を閉めさせた。隆平も、柚葉の苦しむ姿に胸を痛めたが、結局のところ、「いっそ中絶できて良かったんじゃないか」と漏らした。柚葉は、ひどく気分が悪くなった。「お父さん、お母さん。子供を堕ろしてなんてないから。ただお腹が痛いだけ」柚葉の言葉を聞いた瞬間、両親の表情が変わった。二人は一瞬だけ押し黙ったものの、すぐにどうしたのか、病院には行ったのかと、心配そうに問いかける。「先生は、精神的なショックでお腹が張ったんじゃないかって。お父さん、お母さん……私、お爺様を怒らせてしまったの……それで、瞳さんからも松田家から出ていけって言われて」先ほど両親が見せた反応を思い出し、柚葉は結局、自分が訴えられたことを口にはできなかった。何せ20億円以上の賠償額だ……それにしても、本当にそんな額になるのだろうか?柚葉自身、お金を湯水のように使ってきたから、何にいくら使ったのか、もうほとんど覚えていないのだ。それに、凛の弁護士はどう計算してあの数字を出したのだろう?それに、たとえ一審で敗訴しても、控訴して二審で争うことはできるはず。絶望の中に沈みかけていた柚葉の胸に、かすかな希望が灯った。時を同じくして、病室で待機する凛と海斗は、謙介と短いオン
英樹の息子の松田俊介(まつだ しゅんすけ)であろうと、その妻として20年も松田家にいた瞳であろうと、英樹がここまで怒ったのを見たことはなかった。普段、家族が何か問題を起こしても、せいぜい睨みつけたり注意したりする程度で、こんなに声を荒らげたりなどはしない。あまりの怒声に、柚葉は手から携帯を落としてしまった。「お、お爺様……私もどうしてこうなってしまったのか分からないの。どうして凛さんが突然、こんな……急に……」柚葉は気が気でなかった。本当に裁判沙汰になってしまっては、これから国立中央研究所に入るという夢も絶望的になってしまう。「お爺様、私は本当にどういうことか分からない」「お前が知らないというのなら、誰が知っているんだ?」英樹の顔は、怒りで赤を通り越し、もう土色になっていた。前回のように英樹が心臓発作で運ばれはしないかと肝を冷やした俊介夫婦は、急いで英樹に駆け寄り、背中をさすり始める。もし本当にこのまま亡くなってしまったら、自分たちとしても胸の痛む話だ。普段は陰で「親父は柚葉ばかりひいきする」と愚痴をこぼすことはあっても、本気で英樹を憎んでいるような薄情者ではない。「ここまで父さんを激怒させるなんて、柚葉は何をしたんだ?何かをしでかしたといっても、そこまで悪いことは起きないだろうに」支えられながらソファに座った英樹は、これまで俊介夫婦の前では決して口にしなかった事柄を、頭に血が上りすぎて思わず話し始めてしまった。「自分で直接聞いてみろ!こいつは既婚者と付き合っていた上に、相手に大金を貢がせていたんだ!」英樹が言わなくても、俊介夫婦には薄々察しがついていたため、それほど驚きもせず、呆れたような視線を柚葉に向ける。瞳は英樹をなだめようと、「まあ、まあ」と声をかけた。「お義父様、そんな貢がせたって言ったって、大した額にはならないでしょ?それに、貢いでもらったものを売って、お金にして返せばいいじゃない?」英樹が言った。「20億円以上だ!」瞳は絶句し、声を張り上げた。「20億円以上!?愛人の分際で20億円も取るなんて、頭がおかしいにも程があるでしょ!柚葉、今まで勉強してきた脳みそをどぶにでも捨ててきたの?愛人だったら愛人の立場をわきまえるべきなのに!」柚葉は顔を青くしたり白くしたりしながらも、その罵声を黙って受けるし
電話を切った凛は、皆が自分を見ていることに気づいた。恵が艶やかな唇にふっと笑みを浮かべ、意味ありげに眉を上げる。そして、策は一言だけ「おめでとう」と口にした。一方、海斗は淡々と言う。「訴訟を提起しても、裁判所が受理するまでには、一定の期間が必要になるから、それでは、谷口に時間を与えすぎることになってしまう」そこで海斗がこんなアイデアを出した。「SNSに投稿するんだ」凛はSNSでスノウ・セミコンダクターの担当者ソーレンや、悠真とも繋がっている。凛はすぐに合意し、A市から止むことなくかかってくる電話を無視して投稿をした。【私は、2週間前に谷口智也さんと離婚しています】そして、離婚届受理証明書の写真も添付する。海斗が一番に「いいね」をした。続いて、恵、策、理央、拓海、日和、克哉、梓、雅美、杏、仁、涼太……凛のインスタがこれほど賑わったことは今までなかった。「いいね」や祝福のコメントが続々と寄せられる。そんな中、一つだけ皆とは違うコメントがあった。ソーレンから書き込まれたクエスチョンマークのコメント。【翻訳がおかしいのでしょうか?】【私の翻訳が間違っているみたいです!】凛は顔を上げ、海斗を見た。「ソーレンさんからコメントがきた」「何だって?」凛が携帯を渡すと、海斗はちらりと見ただけでこう言った。「英語で返しておけ」凛はキーボードを英語に切り替え、流暢な文章を打ち込んだ。翻訳は間違っていない。本当は智也ととっくに離婚しており、あの晩のパーティは強要されたものだと説明した。そして、ソーレンへの謝罪の言葉も添える。すでに仕事を終えていたソーレンはそのメッセージを見て、すぐに智也へと事実を確かめるための電話をしようとした。だが、智也の携帯はすでに問い合わせの電話で鳴りっぱなしになっていた。策は凛の投稿にいいねを押すと、その投稿のスクリーンショットを撮って千晴に送った。【谷口社長が凛さんを脅すために使った子はもう見つかったよ。しかも、怪我をして入院中。凛さんはすでにSNSで離婚を発表したし、共有財産返還の裁判の提訴もした。具体的な金額は言えないけど、相当な額だよ。千晴、俺でも多いと思うほどだから、お前も自分で想像してみて。景山グループを守りたいなら、早く動いた方がいい。これ以上言ったら
凛は再び頷いた。すると、恵がすかさず言った。「では、充電器を買ってきますね」恵は充電器だけでなく、新しいキッズ携帯も買ってきた。凛はまず古い方のキッズ携帯を充電する。電源が入ると、再び椅子に座り、康平に視線を向けた。「これ見てもいいかな?」康平は小さく頷き、まばたきをして了承の意を伝える。どうしてそうなったのかは分からないが、そのキッズ携帯が最新機種にも関わらず、傷だらけで画面にもひびが入っていた。凛がアドレス帳を開くと、登録名のない番号が一つあるだけで、それは間違いなく智也の番号だった。発着信履歴を確認してみると、昨日の深夜に、康平が智也へ何度も発信した形跡が残っている。しかし、智也は一度も出ていない。凛の表情にじわりと怒りが滲んだが、次の瞬間、康平がそっと手を伸ばしてきた。康平はその手で凛の指をぎゅっと握り、また「姉ちゃん」と呼ぶ。「昨日、本当は私に電話したかったんだよね?」康平は小さく頷き、再び姉ちゃんと言った。凛は優しく言い聞かせる。「もうその番号じゃ私にはつながらないの。だから、新しいのを用意して、私の番号を登録しておくからね。ちゃんと『姉ちゃん』って名前で登録するから、もう他の人なんて信じちゃだめだよ」康平はどんなことを伝えるにも、「姉ちゃん」としか言えないようだったが、凛にはその意味が手に取るように分かった。恵が新しいキッズ携帯を凛に差し出した。凛は自分の番号を登録し、自分の携帯へ発信してから康平に画面を見せる。康平の目の前で自分の携帯に彼の名前を登録し、キッズ携帯を康平に持たせた。そうして、もう一度キッズ携帯から自分の携帯に電話をかけると、康平の手の中で「姉ちゃん」の文字が光った。凛はドアの方へ歩き、自分の携帯にかかってきている電話に出る。「もしもし、康平?姉ちゃんだよ」端末越しに凛の声が響くと、康平は新しいキッズ携帯をしっかりと握りしめ、凛に向けて笑った。その笑顔を見た瞬間、凛の目頭が熱くなった。そのまま凛が康平の元へ戻ると、今度は古い方のキッズ携帯が鳴った。このキッズ携帯にかけてくる人間は、智也か浩しかいない。凛の表情が瞬時に冷たいものに変わる。着信を受けると、音量を最大にして、病室にいる全員に聞こえるようにした。「康平か?俺だよ、康平の姉ちゃ
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける