LOGIN凛は康平の名前を聞いて、すぐさま質問を重ねる。「どこへ引っ越したか知ってる?」彼らは一様に首を振った。一人が凛に尋ねた。「あんたたちは何なんだい?」凛は答えた。「私は康平の姉なの」「あんたはあの、あほの子のお姉ちゃんだったのかい?」そう言った女は自分が無神経なことを言ったと気づき、慌てて言い繕った。「康平はね、最初の頃は新しい服を着ていたんだけど、白いダウンジャケットだったから、すぐに真っ黒になっちまってね」別の誰かが、先ほどの問いに答えた。「どこへ行ったかなんて、誰も知らないよ。岡田さんちは頑として言わなかったからね。あの数日、彼らは妙に機嫌が良くて、康平のおかげで幸せになれるなんて、口々に言っていたよ。まあ、でも本当に康平のおかげだなんて思っていたら、康平にあんな態度は取らないと思うけどね。今の時代、新しい服が買えないってわけじゃないのに、康平に着せるのは、お下がりか拾ってきた服ばっかり。それに、毎日康平にきつい仕事を押し付けていたんだ。ごみ捨てくらいならまだしも、下の子たちの世話までさせて、何かできないとすぐに平手打ちを食らわせて。康平だって自分のことで精一杯なんだから、まともに面倒を見られるわけがないのにさ。あんなのいじめみたいなもんだよ。岡田家も何を考えていたんだか。まともに育てる気がないなら、施設から連れてこなきゃよかったのに。施設の方がよっぽど政府の手厚いサポートが受けられたんだから。それに、知ってるかい?康平には身体障害者手帳があるから、毎月補助金が支給されていたんだよ」「何言ってるんだい。もらってるったって、たいしたことないでしょ」すると、誰かが言った。「康平は親指が一本足りないんだ。だから、あの子は知的障害だけじゃなくて、身体障害も認定されてるから、結構な額が入ってきてるんだよ」凛は話を聞きながら、康平のこの2年の生活を思い浮かべていた。家事の手伝い、弟や妹の面倒、叔父一家からの虐待、そして手帳の取得……どれも彼女の予想の範囲で、こういったケースは地方の村では珍しいことではない。しかし「康平の指がない」と聞いて、彼女は瞬時に目を見開き、一歩前へ出て問い詰めた。「康平の指がない?一体どうして?」康平が施設を出た時、その手には五本の指がちゃんと備わっていた。彼にあったのは、自閉症という障害だ
凛が海斗に目的地を伝えると、携帯はすぐに場所を特定し、ナビを起動した。凛は鞄からタブレットを取り出し、今後の作戦を話し始める前に念を押した。「ここから目的地まで高速で30分。G県はカーブとトンネルが多いし、慣れない道だと思うからゆっくり運転してね」そう言った直後、車はトンネルに入った。凛は続ける。「今は16時40分だから、予定通りなら17時半には着く。食事をしてから、かつて康平の住まいがあった場所へ向かって隣人に聞き込みの予定。夜7時や8時なら皆家にいると思うから。それが終わったら、夜9時を狙ってこの町の3つの中学校を回りたいの。この町には大通りが一本しかなくて、学校は道にそってある。もし今夜分からなければ、明日続けて聞きに行くつもり。それから、最後にホテルにチェックイン。これで大丈夫?」凛は海斗の疲れを少し心配していた。海斗は隣に座る凛の横顔をちらりと見た。真剣なその表情が、深く彼の脳裏に焼き付く。「君の指示通りにする。だって、俺は君が雇った、日給1万6000円の助手だからな」凛は日給1万6000円という言葉から、日和が言っていたホストの話を思い出し、少し考えた末にこう言った。「日給1万6000円っていうのは、あんまり良くない気がするの」海斗は直接聞いた。「じゃあいくらにする?」「2万円?」海斗はその深い瞳で彼女を見つめ、「ああ」と短く返事をした。それでいい。海斗にとって2万円も20万円も200万円も特に変わらない。ただ、それが凛から受け取るお金であるということに、特別な意味があるのだ。二人は予想より5分早くレストランに到着した。店内は明るく、ちょうど夕食時で多くの客で賑わっている。スーツ姿の海斗が入ってきた瞬間、店員たちが思わず振り返った。客の視線も次々と集まっていく。芸能人が来ているのではないかと囁き合う客もいて、海斗の存在だけで、安っぽい店が一気に高級感のある場所に変わったかのようだった。凛も全く同感だった。二人は店の隅の席へ座る。人目も少なく、話もしやすい。メニューを開いた凛は、あまり重くない料理を次々と注文していく。海斗が声をかけた。「凛、時間は貴重だ。食事や寝ることなど気にしなくていい。目的を達成することだけに集中しろ」海斗へのそんな気遣いをしなくていいのだと分かり、凛は少
そういう世界では、大人になってから新しく親しい友人をつくることは珍しい。「院長先生、夜にダウンを配る件は、やはりお任せしていいですか?時間もまだ早いので、康平の情報を探しに行こうと思っています」凛は少し不安を感じていた。凛が焦っていることを柑奈は知ってはいたが、目の前の男が信頼できるかどうかは判断できずにいた。すると突然……海斗が自分自身のマイナンバーカードを取り出し、柑奈の前に置いたのだ。「安心してください」柑奈は呆気に取られた。凛も同じく固まった。続いて、海斗は名刺を一枚取り出し、そっと押し出した。「もし何かあったら、ここに載っている電話番号のどれかに連絡してください。俺のせいで凛に何かあれば、竹内グループが全責任を持ちますので」竹内グループは数え切れないほどの企業を抱える巨大グループだ。本社ビルを見上げれば、まるで一つの巨大な王国のように街を支配している。だからその名前の重みは、何十棟もの高層ビルに匹敵する。凛の瞳がわずかに揺れた。柑奈はふと笑みを浮かべ、マイナンバーカードと名刺を預かった。「それでは、お任せしますね。海斗さん」海斗が頷く。柑奈は心の中で思う。智也と海斗は、まるで正反対だ。智也は口では優しいことを言うけれど、肝心な場面では動かない。海斗は愛想こそないが、必要なことは誰より先に行動で示す。柑奈は自ら二人を見送り、この辺りの治安が悪いため、気をつけるよう凛に言い含めた。凛は頷いた。再び顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる美雪が見えた。おそらく、騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。美雪が笑顔で話しかける。「海斗さん、どうしてここにいるの?」海斗は冷たくあしらった。「お前には関係ない」そんな態度にはもう慣れているのか、美雪は笑みを崩さずに、凛へと視線を移す。「二人とも仲がいいんですね」海斗は淡々と言う。「目が見えてて何よりだ」美雪は言葉を失った。彼女は歯を食いしばり、言葉を重ねた。「どこに行くの?」「帰ります」凛は美雪を強く警戒していた。「着いたばかりなのに?」三人の空気が険しいことに気づいた柑奈は機転を利かせ、笑って答えた。「ちょっと急ぎの用があって凛を呼んでいたのよ。もう済んだから、部屋に戻るところなの」美雪は柑奈まで自分を警戒していると
凛は言葉を失った。プップー。クラクションの音が聞こえた。凛が振り返ると、施設の入り口に黒ワゴンが停まっていた。車から降りてきた海斗の、モデルのように長い脚が、凛の視界に入る。日和の言葉通り、確かに神様が作ったような、完璧な顔立ち。「日和さん、ごめん。電話切るね」「どうしましたか?」凛は思わず言ってしまった。「ホストが来たの」「あはははは!」もう、私のせいで凛さんまでこんなこと言うようになっちゃったよ。やばい!最高に面白い!豪快に笑い飛ばす日和との通話を切り、今しがた自分が放った「ホスト」という言葉と、目の前の海斗を見比べて、凛は少し気まずく思った。急いで海斗のもとへ歩み寄り、警備員に向かって声をかける。「私の友達。私を迎えに来てくれたの」警備員が門を開けてくれた。空いているスペースに車を誘導する凛の髪を、風が激しく靡かせる。凛が髪を耳にかけたことで、顔全体があらわになり、冷たい風で赤くなった鼻の先が海斗の目に入った。海斗はわずかに眉を寄せ、凛の隣に立つと自らが風除けになった。乱れていた凛の髪がようやく落ち着く。「マスクをしろ」「忘れてた」凛は続けて言う。「まずは院長先生のところへ行こう。私が一人で康平を探しに行くのは心配ってことで、信頼できる人と一緒に行けって言われてるから。それより、疲れてない?」その言葉から、海斗は凛が急いで康平を探しに行こうとしていることを悟った。「大丈夫だ」海斗は落ち着いた声で答える。凛は海斗を見上げながら、美雪もここにいることを思い出した。そのことを聞いた海斗は鋭い目をさらに細め、警戒心を露わにした。それでも冷静を装い、凛を見つめた。「ボロを出すなよ」ボロ?ああ、恋人のフリのことか。少し考え込んだ凛は、海斗を見つめて尋ねた。「それって、アフターってこと?」海斗はじっと凛を見つめる。どこでこんな奇妙な言い回しを覚えたのだ?それでも、彼は頷いた。「ああ」まあ、本来であれば200万もする海斗を1万6000円の日給で雇えたのだ。彼女のふりをするくらい、どうってことない。この施設の環境や設備を観察しようとしていた海斗だったが、凛に急かされるようにして、柑奈に会うため奥へ進んだ。凛からその施設について聞かされていた海斗は、
軽く近況を交わしたあと、美雪は本題に入った。「撮影の仕事でG県に来てるんだけど、そこで凛さんを見かけたわ。彼女、いま施設に戻ってるみたい。凛さんがA市にいない今、彼氏さんとの仲も少しは邪魔されずに済むんじゃない?」美雪の話し方には特徴があった。相手のためを思っているように聞こえる言葉を選びながら、その中へ自然に自分が伝えたい情報を織り込み、さらに相手から欲しい情報を引き出していく。案の定、柚葉は驚いた声を上げた。「凛さんが施設に?だからね……」だから智也は、彼女が今は裁判に持ち込まないと言ったのか。「ん?どうかしたの?」美雪は、まるで心配しているかのような声色で尋ねる。柚葉が答えた。「最近ちょっとしたことがあってね。あの人が私たちのことを追い詰めてきたかと思えば、急にやめたの。たぶん、もっと優先すべきことができたんだと思う」「なるほどね」と微笑んだ美雪。「柚葉さんたちが追い込まれなくなったんだったら良かったわ。あなたが無事ならそれでいいから」「ありがとう、美雪ちゃん」「気にしないで」そこで、美雪は探りを入れるように尋ねた。「でも、そんなに大切な用事って何だと思う?わざわざ飛行機でG県まで戻ってくるなんて」もしかして、本当の親を探そうとしているのか?すでに、何か手がかりを掴んでいるのだろうか?美雪の胸が大きく波打つ。もともと心臓に持病がある彼女は、緊張すると鼓動が人一倍速くなる。必死に呼吸を整えようとした。それに、G県の標高は高い。ただでさえ心臓の弱い彼女にはかなり過酷な環境だった。柚葉も詳細なことは知らないと分かると、適当な理由をつけて電話を切った。柚葉もまた、不思議に思った。裁判を一旦遅らせるほどの緊急事態とは一体何なのか。裁判には、本人でなくても弁護士が出席すればいいはずなのに。一体何が起きているのか智也に聞こうと考え、柚葉は携帯を手に取った。自分だけが蚊帳の外に置かれるのは嫌だ。携帯を耳に当てたちょうどその時、祖父の怒声が飛んできた。「またあの男と連絡してるのか?!そんな暇があるなら、わしが言ったことをさっさと終わらせろ!財産リストは整理できたのか?終わったなら、こっちで売却の手続きを進めるから。目に入らなければ、未練もなくなるだろう」柚葉は不満げに唇を尖らせる。「今やるよ
皆、施設の歴史については話したが、もう一つの質問については特に思い当たることがなかったそうだ。唯一、保育担当の女性だけがこう言った。「凛ちゃんについて少し話したよ。唐沢院長が私に凛ちゃんについての記事を見せてくれたことがあって、それを子どもたちに読んであげたんです。前は秘密にしておけってことだったけど、今は記事にもなっているし話してもいいのかなって思って……つい、全部話しちゃったよ」凛は眉をひそめた。「いつ話したの?」「一昨々日」「一昨々日……」しかし、自分がここで育ったことを今朝知ったようだったあの反応には、説明がつかない。思い込みで疑うのはよくない。そう考えた凛は、さらに細かく確認した。「記事は見せたの?」「見せてない」「名前は教えた?」「私は言ってないけど、子供の一人が『凛姉ちゃんだ!』って言っちゃって」「その後、彼女に何か聞かれたりした?」「聞かれてないわ。その後の彼女は子どもたちと遊んでいて、子どもたちも美雪ちゃんにとてもなついていた感じだし」凛は、美雪のことがますます分からなくなった。海斗のことで自分に複雑な感情を抱いているとしても、柚葉のようにあからさまに敵意を向けてくるわけではない。性格の違いなのか?それでも、自分のことを妙に気にしているようにも見える。凛が周囲に美雪を見なかったか聞くと、ある一人が、資料室の方向を指さした。凛がその方へ向かうと、美雪がカメラを持って撮影しているのが見えた。一度だけ資料室へレンズを向ける。シャッターを切ると、何事もなかったように別の場所を撮り始めた。まるで偶然通りかかっただけのように。「美雪さん」美雪が振り向いてカメラを下ろした。「凛さん、私に何かご用ですか?」そう言ってカメラを軽く持ち上げる。「私のモデルになりませんか?」凛はカメラを見つめながら言った。「撮影したデータを見せてもらってもいいですか?」「もちろんですよ」美雪はためらいなくカメラを差し出した。笑顔のまま、一切動じない。ひと通り確認したが、プライベートなものはなかったため、凛はカメラを返した。「最近、施設の歴史や、ここを巣立った人たちのことをいろいろ調べているんですか?美雪の目が一瞬だけ揺れた。その聞き方はあまりにも遠回しだった。施設中の職員に話を聞き、
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」