LOGIN正人がレーシングスーツ姿で現れたとき、ちょうど利明の車が目の前をものすごい勢いで駆け抜けていった。正人は思わず目を丸くする。「……飛ばしすぎじゃね?」陸は、あっという間に遠ざかっていくテールランプを見ながら顎を上げた。「溜まってんだよ。しかも酒も飲めないからな」正人が続ける。「さっきここの責任者に言われたんだけど、18時半には全員出てくれって。オーナーが使うらしいぜ」陸は眉をひそめる。「竹内社長が来るのか?」正人が驚いた。「ここって竹内社長のところなの?」「お前、ずっと国内にいるのに知らなかったのか?」「知らないって。ひと口に金持ちって言っても格が違うだろ。うちなんてお前んちにも及ばないんだから、そんなの知るわけないじゃん」陸は正人を一瞥した。「じゃあ、時間ないし早く走ろう」正人はまた利明の車へ目をやる。「でも神谷さん、あの走り方……死にたい人みたいだけど。何があったのか?」陸はヘルメットをかぶりながら答えた。「詳しくは知らないけど、今日の午前中、刑務所に柚葉さんに会いに行って、戻ってきたらああなってた。俺が迎えに行ったのも感染症の検査を受けるところだったし」「病院」という単語を聞いた正人は、何とも言えない表情で毒づいた。「俺たち、被害者の集まり?」「知らねえよ」陸は長い脚を車内へ滑り込ませた。ちょうど利明が2周目を回って戻ってきたので、そのまま後ろにつく。正人の言うとおり、本当にここで事故でも起こされたら洒落にならないため、何度か前へ回り込んで速度を落とさせようともした。一方の正人は、車に乗った途端すっかり上機嫌だった。レーシングカーと美女が好きな男である。二人のことなど構っていられない。ところが3周目、利明の車が防護柵へ突っ込み、ようやくエンジン音が止まった。陸は慌てて車を降り、駆け寄った。フロントはぶつけているものの、運転席の利明に目立った怪我はなさそうだ。ただ、利明は車内でじっと座ったまま、出てこようとしない。どう見ても大丈夫には見えなかった。ようやく強引に利明を引きずり出した陸は、腹立たしげに吐き捨てる。「何かあるなら言えよ。友達いないみたいな顔すんなって」ヘルメットを外した利明の髪は汗でびっしょり濡れ、胸がゆっくり上下していた。あれだけ爆音の中を走っていたのに、柚葉の声は消えず、アクセル
医療機関を出たあとも、利明の耳には医師から受けた説明が残っていた。感染の可能性が完全に否定できるまでは、身の回りの物を他人と共有せず、時期を分けて何度か検査を受ける必要がある。梅毒には感染直後、検査で正確に判定できない期間があるため、今回が陰性でもそれだけでは安心できない。まず4週間後、その後も8週間、3か月と経過を見ながら再検査し、最終的には半年後まで確認するよう言われた。柚葉に噛まれた、たった一度の出来事。それだけで、利明はこれから半年も感染の不安を抱えて過ごすことになった。「くそっ……!」医療機関を出たところで、利明は石柱へ拳を叩きつけた。拳の皮が擦れ、血が滲む。ちょうどそこへ、陸の車がやって来た。ドアを閉める音が響き、陸が眉をひそめながら近づいてくる。「何やってんだよ、利明。俺、絆創膏も何も持ってないぞ」「触るな」利明が鋭く言った。しかし、陸を見る目は複雑だった。今は精神的にも最悪の状態で、どうしても声に苛立ちが出てしまう。自分でもそれに気づき、すぐに言い直した。「……しばらく、半年くらいはあんまり僕に近づかないほうがいい。ここ、何の施設かわかるだろ」「感染症の……」そこまで言って、陸が固まった。目が徐々に見開かれる。「え、お前らやったの?は?いや、でももう刑務所だろ?どうやって……待て、正月ごろはまだ二人で……」「してない。今日の午前中、面会に行ったら……」下唇の内側が、まだじんじん痛む。「噛まれた」「……は?」陸は言葉を失った。驚きが収まると、今度は何とも言えない顔になる――そもそも、なんでわざわざ面会なんか行ったんだ?そんなの、噛まれに行ったようなものじゃないか!まあ、いいか。さすがに今、それを言うのは酷だろう。二人の女に散々振り回された挙げ句、今度は身体の心配までしなければならないなんて、さすがに少し気の毒になった。「……飯でも行くか」二人は昔からよく使っている店へ向かった。席につき、陸が酒のメニューを手に取ると、利明が止める。「酒、飲めない」本当は飲みたかった。できることなら泥酔して、何も考えず眠ってしまいたい。だが医師から、しばらくは飲酒や夜更かしを避け、体調を崩さないようにと言われている。だから今夜は、酔って逃げることさえできない。それは利明にとって、静かな拷問に近かった。
柚葉は、利明の唇から滲む血を見て声を上げて笑った。「運が悪ければ、あんたもそのうち私と同じ。人に気持ち悪がられる側になるわね」利明の顔からさっと血の気が引き、身体まで震え始める。唇を手で拭うと、すぐさま踵を返した。一刻も早く医療機関へ行って、感染予防の処置を受けなければならない。その背中に、柚葉がさらに声を浴びせた。「お爺様を告発したの、美雪だから!美雪は私を利用して凛を潰そうとした!私を焚きつけて、凛を殺させようとしたのよ!凛があんたの本当の妹なんでしょ?前に見せた私の検査結果、どうして異常がなかったと思う?そんなの、美雪に言われて偽造したからに決まってるじゃない。ずっとあの子が私のことを隠してくれてたんだから!ねえ、どうしてだと思う?利明、あんたは私を気持ち悪いって顔してるけど、美雪に利用されてた自分だって同じじゃないの?それに、私みたいな女だと知ってて、あんたのそばに私を送り込んだのも美雪だよ」刑務官は本来なら柚葉を連れていくところだったが、まだ面会時間は残っているため、柚葉はその場に残され、遠ざかる利明の背中へ好きなだけ叫び続けた。利明は早足で廊下を進んだ。ときおり足元さえもつれる。感染するわけにはいかない。この病気には感染のリスクがある。すぐに医療機関へ行って検査を受け、必要な予防措置を取ればいい。早く対処すれば大丈夫だ。必死にそう言い聞かせても、耳の奥では柚葉の言葉が何度も繰り返されていた。そのひとつひとつが、呪いのように利明にまとわりつく。美雪……自分の目を曇らせていたのは、美雪だった。自分は美雪と柚葉に、いいように騙されていた。なぜこんなことになった?美雪から聞いていた話とは違う。だが、自分に都合の悪い事実を隠していたのは間違いない。さっき柚葉はほかに何を言っていた?混乱した頭で、利明は必死に記憶を辿る。英樹を告発したのも美雪。あの告発文を書いたのも、美雪。柚葉を焚きつけて凛を襲わせたのも……美雪。そして、凛こそが自分の本当の妹……頭が割れそうだった。何を信じればいいのか、考えがまとまらない。利明は車に乗り込むと、すぐに医療機関を検索し、検査と処置を受けられる場所へ向かった。運転中も、さっきの光景が何度も蘇る。柚葉が捨て身の勢いで飛びかかり、唇に噛みついた。し
一方、柚葉は房へ戻ってからも、美雪への怒りが収まらなかった。まるで、その紙が美雪本人であるかのように、握り潰した資料に何度も歯を立てる。これまで自分は、何人もの男を思いどおりに動かしてきたし、谷口家を利用し凛を陥れようともした。それなのに最後は、あれほどか弱そうに見えた美雪に足元をすくわれたなんて。そもそも以前の二人には、大した付き合いなどなく、利明がいる場で会えば挨拶を交わす程度だったはずなのだが、いつから変わってしまったのだろう?思い返せば、去年の冬の始まりの頃、美雪が凛と知り合ってからだ。それまで自分と距離のあった美雪が急に親しげになり、自分と利明をくっつけようとし始めた。すべては「兄のため」だと言って、弁護士まで手配し、利明の前では柚葉を庇い、味方として振る舞う。しかし、その利明は美雪の本当の兄ですらなかった。美雪は神谷家の人間ではなく、偽物だったのだ。そして、本物は凛。どうしてあの女ばかり、こんなに運がいいのか。美雪が自分と手を組んだのは、凛を潰すためだったことが、ようやく柚葉にもわかった。ならば、あの裁判で徹底的に追い詰められ、まともに反論もできなかった弁護士も、美雪があらかじめ何か仕込んでいたのではないのか?もし祖父の告発さえなければ、凛に金を返し、しばらく姿を消していればよかった。別の街でも、海外でもいい。智也や凛との騒ぎが世間から忘れられるまで身を潜め、病気を治してから戻ってくれば――自分はまだ、あの華やかな小林柚葉でいられたはずで、こんな囚人服を着て、刑務所にいることなどなかったのに!今の柚葉の胸には、美雪に対する殺意に近い恨みが渦巻いていた。けれど逃げ出す手立てはない。叫び声を上げ、上訴を求めた。殺し損ねたのも美雪に唆されたせいだと、刑務官にしつこく言い張るしかなかった。控訴できるかどうかの返事は来なかったが、代わりに利明が面会にやって来た。面会だと告げられたとき、柚葉は一瞬きょとんとした。「誰?」この数日、ろくに食べられず、眠れてもいないし、日中は刑務作業もある。心身ともに追い詰められた今の柚葉は、妙に静かな狂気をまとっていた。刑務官には「行けばわかる」とだけ言われ、柚葉が面会場所へ向かうと、遠くからスーツ姿の利明が見えた。「……利明?」一瞬だけ、柚葉の胸に希望が灯った。もし
「ずいぶんがっかりした顔してるね」凛は淡々とうなずいた。「つい最近、私は神谷家に戻ったの。美雪さんが神谷家の本当の娘じゃないことは、もうみんな知ってる。あなたはここにいるから、外の情報が入ってこなかっただけ」柚葉は凛を睨みつけた。その目には、隠しきれない強い嫉妬が渦巻いている。以前の柚葉は、自分のほうが凛よりずっと優秀だと思っていた。凛なんて所詮、家に入って夫を支えるだけの女――そう見下していたのに、気づけば自社開発チッププロジェクトの総責任者という、誰もが羨む立場にいる。家柄だけは自分のほうが遥かに上だと思っていたのに、今度は、凛がB市の神谷家の本当の娘だと?怒りを通り越して、笑えてくるほどだった。まるで神様が自分を弄んでいるようにしか思えない。20年以上、何不自由なく華やかに生きてきたのに、それが一夜にして何もかも崩れ、今では刑務所で服役する身だ。両親には縁を切られ、あんなに可愛がってくれた祖父の評判も地に落ちてしまった。柚葉はしばらく黙って怒りを噛み殺していたが、やがてもう一度資料をめくり直した。「お爺様を告発したの、本当にあんたじゃないの?」「私じゃない」凛は柚葉をまっすぐに見据える。柚葉の手の中で、資料がぐしゃりと潰れた。「美……雪!やってくれたわね……私を利用したってことでしょ?私をいいように使って……」そこで突然、声が止まった。柚葉は何かを思い出したらしい。「弁護士を探すくらいならできる。でも、それ以上は本当に無理」「私も少しこの件を追ってみたけど、告発内容が事実なら……それでもやりたいなら止めないけど。まあ、少なくとも、自己満足くらいにはなるからね」「私なら……元凶になった相手に、きっちり代償を払わせるけど」柚葉の顔から、すっと血の気が引いた。「……元凶になった相手に、きっちり代償を払わせる……」呆然と呟いたかと思うと、突然、柚葉は今にも食らいつきそうな目で凛を睨みつけた。だが海斗の冷たい視線を何度も見てきた凛にとって、その程度の視線など恐れるに足らない。柚葉は凛の手を掴もうと必死になったが、もちろん届くはずもない。「美雪に唆されたの!私があんたを殺そうとしたのは、美雪に唆されたから!」凛の表情がわずかに変わった。柚葉の凄まじい形相ではなく、その言葉に引っかかったのだ。「どういうこと
2ヶ月ぶりに会った柚葉は、かつての華やかさを失っていた。まるで枯れたバラのように、ぶかぶかの囚人服に身を包み、銀の手錠をはめられていた。それでも、凛の前に座った柚葉の目には、以前と変わらない憎しみがあった。ただ、かつてのように感情を剥き出しにして噛みついてくるようなものではなく、もっと暗く、深く沈んだ憎悪……この憎しみを3年間も抱え続けたら、出所したあと何をするかわからない。海斗が警戒するのも無理はなかった。「久しぶり」凛は普段と変わらない顔で声をかけた。柚葉は歯を食いしばる。「よく私の前に顔を出せたわね!」「不倫だと知ってて関係を続けたうえに、法律まで破ったあなたが言う?」凛は平然と資料の束を取り出し、自分の前に置いた。柚葉は、そんな凛を見るだけであの日の法廷を思い出した。凛と弁護士に次々と証拠を突きつけられ、逃げ道を一つずつ塞がれ……そして、最後にはすべてを失った。「いい男を捕まえたら、ずいぶん偉そうな態度をとるのね」柚葉は離れた場所へ目を向けた。そこには、海斗が座っている。ただ待っているというより、凛の背後に控える絶対的な後ろ盾のようだった。「彼と出会って、自分を取り戻せたのは確かね」凛は柚葉の嫌味を否定しなかった。「でも今日は、そんなことじゃなくて、松田さんが告発された件について話があるの」その名前が出た瞬間、柚葉は机を叩いて立ち上がった。「何を今さら!あんたが裏で告発したんでしょ!」すぐに刑務官に押さえられ、椅子へ戻される。物音を聞いた海斗も柚葉に視線を向け、冷え切った目が彼女を捉えた。その視線だけで、柚葉の身体がびくりと強張る。「私じゃないよ」凛は資料を柚葉の前へ押し出した。「私が何を言っても、あなたは信じないと思ったから、証拠を調べてもらったの。誰が裏で全部仕組んでたのか、読んでみて」柚葉は凛を睨みながら、乱暴に資料を奪った。「また何か企んでるわけ?」凛は淡々と言った。「松田さんが告発される前日、B市で美雪と二人で会ったよね?松田さんがあなたに14億円を渡したこと、本当に私と海斗しか知らなかったと思う?」柚葉は疑いの目を向けながらページをめくっていた。だが読み進めるにつれ、その手つきはどんどん荒くなっていく。信じられない……いや、信じたくない。「美雪ちゃん?そんな馬鹿な……どうして彼女
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい







