LOGIN凛は首を横に振った。海斗は一歩を踏み出し、人が多い方へと歩き出すと、振り返った。「ついて来い」「今行くわ」凛はすぐに後を追った。混雑してはいたものの、人の流れ自体は比較的整っていた。少しずつ前へ進み、上の展望スペースまで行けば、ここまで窮屈ではなくなるはずだ。途中、引き返してくる人がいた。人の流れに逆らいながら、何度も「すみません」と謝って人が下りてくると、周囲の人々も責めることなく、自然と身体を横へずらした。そのたびに密集度が増し、押し合ううちに、凛と海斗は離れ離れになりそうになる。凛の胸に、小さな不安が生まれた。自分でもなぜそうしたのか分からないまま、反射的に海斗を振り返る。視線が重なった瞬間、手を握られた。大きく温かな手が、少し冷えた凛の手をしっかりと包み込む。海斗は身体を横に滑り込ませるようにして凛の隣へ戻り、その手を引いたまま、人の流れに合わせてゆっくりと進んだ。凛は海斗を見上げた。見えるのは、すっきりとした後頭部と、横顔の半分だけ。高く通った鼻筋、無駄のない輪郭。薄い唇はわずかに引き結ばれ、首筋で上下する喉仏までも、はっきりとした鋭い線を描いている。海斗が振り返った。深い瞳に、夜に沈む海のようでただ視線を向けられただけなのに、凛はその瞳の中へ丸ごと引き込まれたような感覚に陥る。トクンッ。周囲には人々の声があふれているのに、それでも凛には、急に速くなった自分の鼓動がはっきりと聞こえた。広い展望スペースへ出ると、人々はそれぞれの方向へ散っていった。周囲には一気に余裕ができたはずなのに、凛の身体は混雑していた時と同じように強張ったままだった。なんだか、息もしづらい。海斗は、まだ手を離していなかった。凛は口を開き、離してほしいと言おうとした。だが喉が渇き、出てきたのは名前だけ。「海斗……」海斗は、凛に名前を呼ばれるたび、全身の細胞が沸き立つような衝動を覚えた。海斗は凛に名前を呼ばれるのが好きだった。凛にまっすぐに見つめられることも好きだった。そのあと何も言わなくても構わない。「ん?」海斗は分かっていながら尋ねた。そして凛の視線を追うように、二人の重なった手へゆっくりと目を落とす。海斗は繋いでいる凛の手を持ち上げると、しっかり握り合っていた形から、今度は彼の手のひらが凛の指先だけを
柚葉は、これほど人の多い場所で凛と海斗に会うとは思ってもいなかった。凛はもう、昔の地味な主婦ではなく、地位も名声も金も手に入れている。特許料を抜きにしても、自分が返還した10億円があるはずだ。それがあれば、川沿いの高級ホテルを貸し切って、イルミネーションを楽しみ、この街の夜景を眺めるくらいなど余裕だろう。ましてや、凛の隣にいる海斗ときたら、名家の後継者であり、巨大企業を率いる男。それなのに、よりによってこんな場所で鉢合わせるなんて。柚葉は元々こんな所へ来るつもりはなかった。だが、利明から1億8000万円を渡された以上、彼を放っておくわけにもいかない。そんなことをすれば、さすがに愛想を尽かされてしまう。しかし、柚葉の手持ちの金は底をつき、神谷家から利明に与えられていたカードも止められてしまった。そのため仕方なく、一般の人たちと同じように混雑した川沿いを歩き、イルミネーションを見ることになったのだ。だが凛は、なぜこんな場所へ来ているのだろう?結局、貧乏臭さは身体に染みついているのだ。金も地位も手に入れたところで、昔と何も変わらない。来られるのは、せいぜいこんな場所なのだろう。では海斗は?まさか、御曹司が庶民の暮らしを体験しに来たのだろうか。本当に凛が好きなら、レストランやクルーズ船を貸し切り、大金を使って喜ばせるものではないのか?どうやら、そこまで好きというわけでもなさそうだ。ほんの一瞬視線を交わしただけで、柚葉の頭の中ではそこまでの物語が出来上がっていた。ただ、傍目には、ただ呆然としているように見える。「柚葉?」と利明がそっと名前を呼ぶ。「大丈夫。僕がいるから、あの二人に柚葉のことを好き勝手言わせたりしないよ」「利明、あっちに行こう」柚葉には凛や海斗と向き合う勇気などなかった。どちらか一人にでも残りの金をすぐ返せと言われれば、大勢の前で面目を失うことになる。怖がらないで、と言おうとした利明だったが、柚葉はすぐに彼の手をつかみ、引っ張るようにして背を向けた。利明は、自分の手を握る彼女の手を見下ろして一瞬固まる。しかし、やがてゆっくりと、その手を握り返した。逃げるように立ち去る二人を見て、海斗はまるで負け犬が尻尾を巻いて逃げていく姿を見るように、冷ややかに口元を歪めた。凛は視線を戻し、脇の階段を見上げた。
海斗が半歩前へ出ると、凛の背中が再び彼の胸に触れた。周囲には人々の話し声が渦巻いている。それなのに凛には、海斗の胸の奥で力強く脈打つ心臓の音が聞こえた気がした。「あの」隣にいた女性が意を決したように海斗を見上げ、礼儀正しく尋ねる。「よかったら連絡先を教えてもらえませんか?」「無理だ」女性は唖然とした。なんてクールな人だろう。「分かりました。突然すみません」「好きな人がいる」女性はあっけにとられた。そんなことまでは聞いていない。だが海斗の視線が前にいる女性へ向けられていることに気づき、すぐに事情を察した。自分と同じく一人で来ていて、人混みに押されてたまたま身体が触れているだけだと思っていたのだ。女性は凛へ目を向け、真剣な顔で言った。「お姉さん!お幸せに!」きょとんとした凛。すると、海斗が答えた。「ありがとう」「いえいえ!」凛はますます状況が分からなくなった。身体も緊張で強張り、伏せた睫毛がかすかに震えている。人混みが少し落ち着いたので、凛は一歩前へ出て海斗との距離を空けると、振り返って日和たちを捜した。だが、どこにも姿が見えない。さらに遠くへ目を凝らして、ようやくほかの皆がまだ道路の向こう側にいることに気づいた。凛が瞬きをすると、日和が手を振りながら携帯を指さしている。凛は携帯を取り出した。日和からのメッセージによると、人が多すぎて一度に渡りきれず、結局全員で足止めを食らったという。次の青信号を待つしかないそうだが、ここの信号は時間がかかるため、先にどこかで待っていてほしいとのことだった。海斗は道路の向こうを一度見ただけで、すぐ前へ視線を戻した。「行くぞ。後ろの人の邪魔になってる」海斗に促されて、凛もようやく歩き出した。人の流れに乗って広い場所まで移動し、ようやくひと息つけ、海斗との間にも少し距離を取ることができた。「みんなをここで待とう」「ああ」と海斗は答え、携帯を一瞬だけ操作して、再びポケットへ入れた。そのわずかな時間で、策にはすでに意図が伝わっていた。青信号に変わり、日和が一歩踏み出した瞬間、策がその腕をつかみ、横へ引いた。日和は反射的に茜の手もつかみ、一緒に端へ寄る。拓海と理央も察しがよく、すぐに後に続いた。日和が策に聞いた。「青になったのに、なんで
「うん、今はね。昔のことは……」そこまで言って、恵は笑った。「社長の過去について私たちがああだこうだ言う権利はないから、本人に直接聞いてみて」海斗は、川辺へ向かう車に乗るまで、凛から何も聞かれなかった。不機嫌そうに目を閉じ、眠るふりをする。隣に座る凛も、それを見て目を閉じた。同じ車に乗っていた日和は、後ろを振り返って二人を見る。自分も目を閉じた方がいいのだろうか?うん。したほうがいいだろう。日和も目を閉じた。そして、車が目的地に停車し運転手が到着を告げると、3人は示し合わせたかのように一斉に目を開けた。策と梓たちも合流した。地下駐車場で7人が揃い、エレベーターで地上へ上がった瞬間、押し寄せる大勢の人の波を見て、凛は一瞬立ちすくんだ。「すごい人」梓が言う。「ここは祝日じゃなくても人が多いので、特に今日みたいなイベントがある時は、前が見えないほどの人が集まるんです」凛にとって、このようなイベントは初めての経験だった。今まで余裕がなく、こうしたことを心から楽しむ機会もなかったのだ。凛は海斗と日和を見る。二人とも裕福な家に生まれた御曹司と令嬢だ。このような人混みへ来た経験など、ないのではないか?「下調べしておけばよかった。人が多すぎる」拓海と理央は苦労の多い会社員だったため、凛の言葉の意味をすぐに理解した。自分たちなら人混みなど気にしない。だが海斗と日和が、これほど人の密集した場所を経験したことがないのは確かだろう。もし自分たちが予定を立てるなら、川沿いの高級ホテルのテラスでイルミネーションを眺め、さらにはA市の夜景を見下ろすようなプランになるだろう。二人は何も言わなかった。「下調べ?そんなもの必要か?」海斗は少し顎を上げて、道の向こう側を指差した。「何歩か歩いて信号を渡り、階段を少し上るだけだろ?」普段と変わらぬ、淡々とした態度だった。日和も同意する。「そうですよ。あそこまで歩けばいいだけじゃないですか。あんなに人が集まってるなら、きっとすごく見やすい場所なんですよ!ただ、人が多すぎて最前列までは行けなそうですけど」「最前列は多分写真目当ての人で溢れてるんだと思います。あそこからだと、川と夜景とイルミネーションが全て写真に収められるので。私たちも後で一緒に撮りに行きますか?」と梓が聞いた。
日和もにこりと笑う。「私も!」策も加えた。「俺はどこでも大丈夫」あとは海斗だけだったが、彼が口を開くより先に、日和が言った。「お兄ちゃん、私たちと一緒に過ごさなかったら、一人ぼっちで帰ることになっちゃうよ?」策も同意する。「確かに」海斗は二人へ冷ややかな視線を向け、最後に凛の顔を見ると、黙ってうなずいた。料理を運んできた美穂子が、賑やかなリビングに向かって声をかけた。「凛さん、お食事の準備ができましたよ」凛は皆をダイニングへ案内した。途中、部屋のあちこちを簡単に紹介していく。小さな家だ。間取りは一目で分かるけれど、説明する凛の瞳は澄んでいて、静かな声には温もりがあった。ダイニングへ着くと、日和が数日前に開けなかったワインを一本取り出し、テーブルの上へ置く。「今夜は皆さんラッキーですよ。お兄ちゃん秘蔵の白ワインですから!」千晴の目が輝いた。酒が好きで、中でもほろ酔いになる感覚を好んでいる。これまでにも上質な酒は数多く味わってきたが、海斗が大切に保管していた酒となれば、飲まないわけにはいかない。できれば、できるだけ多く飲みたい。策は横目で彼女を見て、笑いながら言った。「みんなほどほどにな。夜は川の近くのイルミネーションを見に行くんだから、酔っ払って川にでも落ちたら、一生忘れられないくらいの恥をかくぞ」その一言で皆が酒を飲みすぎないようにしようと思ったが、ただ一人、策が最も止めたかった千晴にだけは、一切効かなかった。千晴は一口、また一口と味わい、満足そうに目を細める。さらに凛と乾杯しようとしたところで、海斗から氷のような視線が飛んできた。「凛は飲めないんだ」有無を言わせぬ口調だった。千晴は不満そうに言い返す。「凛さんのことに、何でもかんでも口を出すわけ?」海斗は言った。「何にでも口を出しているわけじゃない」ただ、心配なだけなのだ。「凛は1杯で酔って、2杯で潰れる」凛は黙り込んだ。千晴も一瞬、言葉を失う。なんだ、凛さんは酒に弱いのか。それなら仕方がない。それに、酔わせた結果、竹内社長の都合のいい展開になってしまっては困る。千晴はそれ以上、凛へ酒を勧めなかった。それでも凛は、引っ越し祝いに来てくれた皆へ感謝を伝えるため、グラスを掲げなければならない。海斗がすぐに注意する。「一口だけにし
その光景を見た一同は、それぞれ違う表情を浮かべた。凛の後ろ姿と、口元をわずかに緩める海斗を見比べながら、皆の視線が行ったり来たりする。そして、誰も口にはしないが全員が同じことを思っていた。千晴は小さく舌打ちをした。海斗のあからさまな勝ち誇った態度を見て、悠真に胡蝶蘭を贈るなんて機転が利かなかったかと、内心苦笑する。「天下の竹内社長が胡蝶蘭だけなんて、少し地味すぎないかしら?」海斗は千晴を一瞥し、本来なら相手にしないのだが、彼女が凛に招かれた友人だと気づき、淡々と口を開いた。「凛が好きで、必要なものだから」千晴は思わず吹き出した。「竹内社長って、いつも皮肉ばかり言う人かと思ってたけど、ちゃんと人間らしいことも言えるんだ」「コホン!」策が急いで咳払いをした。本気でこの二人が言い争いにならないか心配だった。「あれは結構高価な胡蝶蘭なんだぞ。見る限り、一株で十万円単位は下らないだろうな」「へえ、そうなんだ。でも加湿器のほうが実用的でしょ?」ちょうど出てきた凛に向かって千晴は話しかける。「凛さんは、加湿器どうですか?すごく実用的だと思いません?」日和はこそこそと海斗の隣へ移動し、背伸びして耳打ちをする。「千晴さんが贈ったのはコーヒーカップのセットで、加湿器は悠真さんのプレゼント」さっきまでは加湿器と胡蝶蘭を比べられても気にも留めていなかった海斗だったが、それが悠真からの贈り物だと聞いた途端、表情が少し険しくなった。視線は自然と凛へ向かう。凛は千晴を見て、それから海斗を見る。どちらも立てようと少し考えてからこう答えた。「……どちらも使います」勝敗は付かなかったが、二人がこれ以上言い争うこともなかった。凛を困らせたくないという思いは共通していたのだ。二人が言い合いをやめたのを見て、凛はほっと胸をなで下ろし、皆に席に着くよう勧める。梓は知り合いが凛しかいないため、自然と凛の隣に座る。いつも凛にべったりの日和ももう一方の凛の隣の席に座り、恵と理央もその隣に並んだ。拓海は理央の隣に腰を下ろした。海斗は座らず、凛の書斎に向かった。海斗は、普段凛が本を読んだり仕事をしたりしている椅子に座り、長い脚を組んでデスクに手を置く。本を軽くめくりながらも、視線は度々リビングへと流れていた。正確には、凛の顔へ。その熱い視線を、凛は
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も