Se connecter凛には神谷家へ戻ることにも、神谷を名乗ることにも興味がない。彼女はただ、なぜ自分が大雪の日に捨てられ、拾われたのかその理由だけが知りたかった。どうやら将希はそのことまでは知らないらしい。結局、凛と日和が丁寧に一礼して車で立ち去るのを、黙って見送るしかなかった。そばにいた運転手が、「実の父親である茂さんからお話しになったほうが、凛さんも受け入れやすいのでは」と進言する。一理あると思った将希は、せっかく外へ出てきたのだからと、その足で美雪の様子を見に病院へ向かうことにした。もっとも、美雪の容体について主治医が言うことは何度聞いても同じで、本人に強い刺激を与えないでくださいということだけ。美雪は先天性の心臓病を抱えていて、一生完治しないという意味では重い病気だが、普段から気をつけ、きちんと体調管理をしていれば日常生活を送ることはできる。ただ、心臓の発作はいつ起きるか分からないし、場合によっては突然命を落とすことさえある。美雪は青白い顔でベッドに座っていた。家族は誰も口を開かず、朝に美雪が投げかけた問いにも、いまだ誰も答えていない。けれど、答えなど分かりきっている。茂はあんな冗談を口にする人ではない。何より不可解なのは彰菜が何も言わないことだった。利明にも美雪にも、なぜ母親が黙っているのか分からない。その重苦しい沈黙を破ったのは将希だった。病室へ入ってきた彼を見て、美雪が弱々しく呼ぶ。「将希お爺様」将希は簡単に体調を気遣った。「何があってもまず落ち着きなさい。自分の身体のことは、自分が一番分かっているだろう?」そして茂を見る。「茂、少し外へ来なさい」茂の頬に残っていた平手打ちの痕は、冷やして薬も塗ったため、かなり薄くなっていた。近くで見なければほとんど分からない。「お前は前から、凛と海斗くんの関係を知っていたんだな?それに、凛がどれほどの人間なのかも」この短い言葉で、茂は全身から血の気が引いた。目に動揺が走る。誰だ?誰が凛のことを当主に知らせた?自分は間違いなく口止めはしていたはずなのに。秀明もあの場にはいなかった。なら誰が?楷か……草壁家で靖が凛の研究開発プロジェクトについて口にしていた時、凛のことについても触れていた。その二つを手掛かりに調べれば、凛に辿り着くまで大して時間はかからないだろう
海斗は彼女の後頭部を優しく撫でる。「余計なこと考えるな。今日は分科会があるんだろ?そこは凛の独壇場だ。今はそっちに集中しろ」凛は彼の温もりと匂いから力をもらうようにして身体を離し、海斗に見送られながら会場へ入った。途中で翼たちと合流すると、梓が思わず口にする。梓が思わずこぼした。「なんか竹内社長、子供を学校まで送りに来たお父さんみたいですね」凛には、親に学校まで送ってもらった経験がない。だからこそ、その言葉が妙に新鮮で、胸の奥が温かくなった。凛が振り返ると、海斗はまだそこに立っていた。真っ直ぐこちらを見つめる彼に、凛は笑いかける。普段の凛は笑ってもどこか控えめで、唇を閉じたまま歯を見せることがほとんどない。今もそれは同じだったが、上がった口角と細く弧を描いた瞳は、三日月のように柔らかかった。すぐに海斗から携帯にメッセージが届く。【あんまり煽るな】冗談めかしている海斗だったが、今朝からすでに散々心を乱されている。辛いとき、自分の腕の中へ潜り込んできて、そこで傷ついた心を癒やそうとする彼女を断れる彼氏などいるのだろうか?そしてそこには、自分への甘えや信頼があると同時に、それでいて、彼女自身で立ち直ろうとする芯の強さもあった。他の男ならどう思うのか、海斗には分からない。ただ、自分はそんな凛を見たらたまらなく愛おしくなるし、離れていても頭から離れなくなる。凛はもともと、仕事となれば余計なことを頭から追い出せる性格だった。まして今日は昨日のような問題も起こらず、神谷家の人間も会場には現れなかったため、最後まで集中して分科会に参加することができた。そして、分科会は参加者全員での記念撮影をもって無事に幕を閉じた。梓はB市の乾燥した空気と、屋内外の激しい寒暖差がどうにも合わなかったらしく、終了するとそのまま新幹線の駅へ向かった。A市とB市を結ぶ最速の便は途中で1駅しか停まらず、よく出張する人たちの間では「社畜列車」と呼ばれている。翼はB市に旧友がいるため、あと数日滞在する予定だった。当然、涼太も祖父に付き添う。そして凛については、誰もが海斗と一緒にいるものだと思っていた。一同が道路沿いまで出ると、日和がすでに車で待っていた。凛の姿を見つけるなり扉を開け、小走りで駆け寄ってくる。「凛さん!」「日和さん、そんなに急がなくて
美雪が夜中に発作を起こして病院へ運ばれたことは、翌朝早くには神谷家の本家にも伝わっていた。一家が食堂で朝食を取る中、楷は眉をひそめる。「毎日あれだけ大事にされてるのに、発作を起こすなんて何があったんだ?」上座に座る将希は、何やら考え込んでいた。茂の娘の件を知る者は神谷家の中でもごくわずかで、秀明でさえ詳しい事情までは知らない。そもそも表沙汰にできるような話ではないため、知る者は少ないに越したことはなかった。楷は将希の息子だが、神谷家の当主でもある将希は、何事も一族全体の利益を考えて判断する以上、息子だからといって何もかも話すわけにはいかない。将希が黙ったままでいると、楷は続けた。「うちと草壁家の縁談……厳しいな」将希が目を上げ、楷を見た。楷は将希の視線を受け止める。「海斗くんはもう、とっくに親の言いなりになるような人間じゃないから、草壁家でも押さえられないと思うよ。ましてや、瑶子さんと隆さんまで海斗くんの味方で、二人とも海斗くんの彼女を相当気に入ってるみたい。俺も少し調べてみたけど……まあ、無理もないって感じだな」楷は用意させた資料を将希へ渡した。「容姿も申し分ないし、才能もある。名声も地位もこれからついてくるだろう。強いて欠点を挙げるなら家柄くらいだけど、海斗くん本人が惚れてるなら大した問題じゃない。あの子ほどの人間なら、金も人脈も資源も惜しまず注ぎ込んで、あっという間にもっと上まで押し上げられるから。しかも政略結婚みたいなしがらみもない。どっちを選ぶかなんて考えるまでもないんじゃないかな」将希の手元に資料が渡ったのを見て、楷は付け加える。「凛っていう人らしい」将希の背筋がわずかに強張った。楷を一度見てから、手元の薄い紙へ視線を落とす。きちんとまとめられた調査資料ですらなく、新聞やネット記事から抜き出した情報を、一枚にまとめただけのものだった。将希は昔から電子機器が苦手で、今でも新聞や雑誌を読む習慣が抜けない。そのため、周囲もこうして紙で用意している。文字は大きく、写真も拡大されていた。そのせいで画像が少しぼやけており、楷自身も50代ということもあって、写っている凛が若い頃の茂にどことなく似ていることには気づかなかった。「凛……」将希がその名を呟く。「G県の施設で育って、今はA市にいるっていうあの子か
海斗の片手がソファから垂れている。長身の彼だけあって腕も長く、手の甲は床につきそうだったが、この部屋は全面に絨毯が敷かれているわけではないため、冷えるだろうと思い、凛はその手をそっと握り、ソファの上へ戻して毛布を掛けた。すると、その手を逆に握り返される。しかし、海斗は目覚めたわけではなく、無意識のうちに凛の手を離すまいとしているだけのようだった。その温もりに触れた瞬間、凛の中で何かが切れた――抱き締めてほしい。どうしようもなく、海斗に抱き締めてほしくなったのだ。凛はソファへ上がり、その腕の中へ潜り込もうとした。そこで海斗が目を覚ます。「……凛?」寝ぼけた声で名前を呼ばれ、凛は一瞬動きを止めたが、それでもやめなかった。そのまま海斗の懐へ入り込み、胸に向き合うように横になる。そして海斗の腕を自分で引き寄せ、腰に回した。傷ついた小さな動物が、ようやく安心できる場所を見つけたようだった。温かな場所で身体を丸め、誰にも見られないように自分の傷を癒やしている。そんな凛が、海斗にはたまらなく愛しかった。海斗は腕に力を込め、凛をさらに胸元へ引き寄せた。自分の身体で包み込むように抱き、ブランケットも二人まとめて掛け直す。まるで一つの繭のようだった。凛は結局、泣かなかった。ただゆっくり目を閉じ、その腕の中でもう一度眠りについていく。一方で、海斗は眠れずにいた。神谷家を徹底的に潰してやりたい…………昨夜の神谷家は表向きこそ静かだったが、中では嵐が吹き荒れていた。彰菜は夫の頬に残る平手打ちの跡を見た瞬間、何かを悟ったらしく、手足が震え始める。そんな彼女を見かねて美雪が部屋へ連れていこうとしたが、彰菜はそれも拒んだ。一方、利明も父親の頬に残る跡と、母親の苦しげで動揺した様子を見比べ、嫌な予感を覚えていた。この件だけは、絶対にはっきりさせなければならない。父子そろって頬に平手打ちの跡を残したまま、二人は書斎へ入った。使用人からもう休む時間だと促されても、美雪に眠れるはずがなかった。何もかも知られてしまったのではないか、そんな不安が拭えない。書斎に入るなり、利明は父親に詰め寄った。「父さん、さっきのあれはどういう意味だよ。凛さんが俺の本当の妹?凛が若い頃の父さんに少し似てるのは俺だって知ってるけど、だからって外で勝手に娘だなんて
これだけのことがあった以上、海斗は凛を一人にしておく気にはなれなかった。しかも明日のシンポジウムは予定通り開催される。朝、自分で会場まで送り届けないと安心できそうにない。同じ屋根の下で過ごすのは初めてではない。年末に事故に遭った際、凛は南山ヒルズ1号棟に数日だけ身を寄せた。ただ、その時は美穂子や策、それに日和が一緒で、隆たちも時々様子を見に来ていた。今日のように完全な二人きりというわけではない。付き合う前なら、まだ一線を引く理由もあった。だが今は正式な恋人同士だ。海斗だって健全な男で、目の前にいるのはずっと想い続けてきた女性。しかも今の凛はひどく傷ついている。そんな状況で何も考えるなというほうが無理だった。海斗が一人で葛藤しているうちに、心身ともに疲れ切った凛はソファにもたれたまま眠りかけていた。海斗は横目で彼女を見る。自分の前では、本当に無防備だ。それだけ信頼されているのだと思うと、胸の奥が温かくなった。「凛、寝るならベッドで寝よう」「……うん」返事も半分寝ぼけていた。昼間は頭を使いっぱなしで、夜にはずっと引っかかっていた出生の問題まで突きつけられた凛は、もう完全に電池切れだった。その「うん」を了承と受け取った海斗は、腰を屈めて凛を抱き上げ、寝室のベッドへ運んだ。布団を掛けて立ち去ろうとすると、指をつかまれる。振り返れば、凛が夢と現実の狭間を漂うような目で海斗を見ていた。海斗の胸が跳ねた。まったく、この女は無自覚に人を煽る。「俺は隣にいる」そう告げて布団を掛け直し、海斗は部屋を出た。夜中に凛が目を覚ましたとき、知らない場所で分からず不安にならないようにと、枕元には小さな照明を一つだけ灯しておく。寝室の扉を閉めた途端、海斗の目から温度が消えた。人の行き交う宴会場の外で、利明が凛に浴びせた言葉。親もいない、家族もいない……あれだけは、一生許さない。海斗はそのまま拓海へ電話をかけた。「窪田先生の助手に連絡して、明日の午後に時間を取ってもらえ」拓海の声がすぐに引き締まる。どうやら神谷家の御曹司は、本気でうちの社長を怒らせたらしい。草壁家にも神谷家にも話を通さず、直接、利明の上司である窪田達朗(くぼた たつろう)に会うつもりだ。完全に利明を潰しにかかっている。「0時までにお返事します」「頼む」電話を切った海斗は
「そんなに言いにくいってことは、かなり重い話なんだね」大丈夫だと伝えるつもりで笑おうとした凛だったが、浮かんだのはひどく寂しい笑みだった。「海斗。私の出生の話なのに、どうして海斗のことみたいに苦しそうなの?」海斗はたまらず、凛を抱き寄せた。つらいくせに、平気な顔をしようとする凛を見ていられなかった。胸が痛い。「凛、俺たちは二人で一つだ」片手で凛の後頭部を包み、髪を優しく撫で、もう片方の腕を腰に回すと、さらに自分の胸へ引き寄せた。凛が海斗の首元に顔を埋めると、くぐもった声が返ってきた。「二人で一つっていうのは、夫婦になってからでしょ」「そうだな」それは、迷いのない返事だった。どうやら、この男には夫婦になる気しかないらしい。凛もゆっくりと腕を回し、海斗を抱き締めた。「話していいのか、俺にも分からないんだ」仕事なら、海斗がここまで迷うことはない。起こり得る結果を頭の中でいくつも想定し、利害を比較して、最も利益の大きい選択をする。だが凛のことになると、それができなかった。合理的に考えるなら、今は話さないほうがいい。まだ全貌が分かっていない以上、中途半端な真実はかえって凛を傷つけるだけ。それでも、凛に求められれば拒めなかった。日和の言う通りだ。凛の前で自分はとことん弱くなってしまう。けれど凛には、その迷いさえ嬉しかった。自分が海斗にとってどれほど大切な存在なのか、痛いほど伝わってくる。今も温かな身体に包み込まれているうちに、冷え切っていた心が少しずつ温もりを取り戻していった。「話して」海斗はしばらく黙ったあと、ようやく口を開いた。「おそらく、凛が彰菜さんの本当の娘だ。28年前、何があったのかは分からないけど、君は捨てられてしまった……」そこで言葉が詰まった。そこには、児童遺棄に関する法律の改正と政界入りの審査が関わっている。本当に、ただ捨てられただけなのか?海斗自身、そうは思えなかった。それでも続きを口にする。「凛が生まれたあの年、ある法律が改正されてる。施行されたのは君が生まれる前で、そして君が生まれたあと、茂さんの弟の秀明さんは、ちょうど政界入りに関わる重要な審査を控えていた」凛はすぐに核心を突いた。「何の法律?」海斗の喉がひどく乾いた。低い声で答える。「児童遺棄に関する法律だ」その言葉を口に
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?







