INICIAR SESIÓN茂は、道雄の件について確証があったわけではない。道雄が将希の指示だけで動いていたのか、それとも秀明まで関わっていたのか……そこだけは、ずっとわからずにいた。だからこそ、さっきはあえて秀明に鎌をかけたのだ。そして今、ようやく答えが出た。将希の指示もあった。そのうえ秀明まで、道雄を金で買収していた。その理由は怖かったから。そして、兄を超えたかったから。幼いころから自分の前では素直で、よく言うことを聞いていた弟がまさかそんな思いを抱えていたとは……茂は目の前の秀明を呆然と見つめた。「秀明、お前、何を言ってるんだ?」秀明ももう若くはない。今の地位からこれ以上先へ進むのは難しいことも、兄の力を借りたところで今さら状況が変わるわけではないことも、本人が一番よくわかっていた。ならば、もう隠しておく意味もない。秀明は子どものころから胸の奥に溜め込んできた思いを吐き出した。「父さんも母さんも、兄さんばかり可愛がってた。親戚だってみんなそうだ。誰もが兄さんに期待して、次に神谷家を背負うのは兄さんだと思ってた。子どものころから、何度言われたかわからないよ。兄さんを見習え、兄さんみたいになれって。少し大きくなってからは、誰に会っても『茂の弟』だった。俺にだって名前があるのに、誰も俺自身を見ようとしなかった。兄さん。俺は人生の半分をずっと兄さんの影の中で生きてきたし、このまま一生そうなんだろうと思ってた。でも兄さんは結婚相手を間違えた。彰菜さんを選んだ。あのとき、神谷家が勧めていた和江のお姉さんと結婚していれば、娘を失うこともなかったし、今ごろ神谷家の当主になっていたのも、兄さんだったはずだ」神谷家が用意した縁談には目もくれず、家柄の釣り合わない彰菜を選んだ茂。それまでずっと茂の陰に隠れていた秀明にとって、それは初めて巡ってきた好機だった。そして、翌年、秀明は和江と結婚した。神谷家と妻の実家である唐沢家との繋がりを保ったことで、将希からも目をかけられるようになった。その後、彰菜が生まれたばかりの娘を捨てたと知ったときは、まず自分の将来まで巻き添えにされることを恐れた。だが同時に思ったのだ――これで、兄を引きずり下ろせるかもしれない。ずっと手の届かなかった兄を超えられる、最初で最後の機会かもしれない、と。ところが、そこまでして自分の道を守った
仕事から戻った秀明は、上着を脱いで妻の和江に渡した。和江は受け取った服をハンガーに掛けながら言う。「茂さんのところ、大変なことになってるみたいよ」「何があったんだ?」秀明は和江に視線を向けた。「詳しくはわからないんだけど、茂さんが帰ってきた直後に美雪ちゃんが荷物をまとめて出ていったらしいの。将希さんまでわざわざ来たみたいで、そのあと、茂さんは本家に行って……向こうの人の話だと、今は仏間にいるって」秀明の胸がざわついた。茂はもう若くないし、神谷家での立場だって、かなり上の方だ。そんな茂が今さら仏間で謹慎するなんて何があったのだ?「夕飯はいらないから、先に食べててくれ。俺は兄さんのところへ行ってくる」運転手に車を出させ、本邸へ向かう。着いてすぐ楷に会うと、「茂も困ったものだ。A市へ本格的に拠点を移すつもりらしいぞ」とだけ聞かされた。嫌な予感を抱えたまま、秀明は茂のいる仏間へと急いだ。中には背筋をまっすぐ伸ばし、正面を見据える茂がいた。その横顔には少しの迷いも見えない。足音に気づいた茂がわずかに視線を動かす。秀明は茂のそばまで来ると、まず先祖の仏壇に線香を供え、それから口を開いた。「兄さん、いったい何をするつもりなんだ?A市に行くって……凛はもう神谷家に戻ってきたんだろ?」「凛のためじゃない」茂は前を向いたまま答えた。「何でもあの子のせいにするのはやめろ。これは俺自身のためだ。自分の人生を今からでも正したいんだ」「正す?」秀明は思わず聞き返した。「兄さんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったよ。じゃあ、今までの生き方が間違ってたって言うのか?」「間違っていたかどうかは、俺にもわからない」そこで茂は、初めて弟である秀明へ顔を向けた。「ただ、今日は亡くなった父さんと母さん、それから神谷家の先祖の前だ。秀明、嘘をつかずに答えてくれ」秀明の表情が強張る。「あのとき、自分の将来を守るために他人まで巻き込んで、俺が娘を捜すのを邪魔したか?」その瞬間、轟音とともに雷が鳴った。稲妻が中庭を白く照らす。今年最初の春の雨が来るらしい。開け放たれた仏間の入口から差し込んだ一瞬の光が、茂の背中を照らした。少し脇に立つ秀明の姿は、なお薄暗がりの中にある。秀明の肩がびくりと揺れた。突然の雷に驚いたのか。それとも、兄
茂の前では、美雪もまるで歯が立たなかった。結局、大量の荷物と一緒に車へ乗せられ、そのまま神谷家を追い出された美雪。車の中で、美雪は不安のあまり指先を噛みそうになる。茂の言葉によって、彰菜を頼る道まで先回りして塞がれてしまった今、どうすればいいのか分からない。そして何より、父が母を見限るかもしれないなんて、美雪には信じられなかった。茂がどれほど彰菜を大切にしてきたかは、家族だけでなく周囲の誰もが知っているのに、どうして突然こんなことに?もしかして、母は何か隠してるのか?夫婦仲が冷え込んでいたのなら、何かしら前触れがあったはずだ。少しずつ距離ができていったのなら、自分が気づかないはずなんてない。だが美雪の知らないところで、彰菜と茂は何度も衝突を繰り返し、今では寝室まで別にしていた。ただ、彰菜がそれを誰にも話さなかっただけ。たとえ自分が育てた娘であっても、言えるはずがなかった。何十年もの間、夫に愛され、誰もが羨むような結婚生活を送ってきた彰菜だからこそ、その幸せがもう形だけのものになっていたとしても、自分からそれを認めることなどできなかったのだ。家中がようやく静かになると、家政婦たちは顔を見合わせた。茂も美雪もいなくなった今、ようやく小声で話すくらいはできる。「旦那様ったら、本当に美雪様を追い出しちゃったのね」「もう美雪様って呼ぶのも違うんじゃない?この家のお嬢様は、もう凛様だけなんだし」「でも、旦那様って普段ほとんど怒らないのに、美雪様、いったい何をしたのかしら?奥様みたいにわかりやすく可愛がる方じゃなかったけど、旦那様だってずっと大事にしてたでしょ?」「もうやめようよ」香織が聞いていられず、口を挟んだ。「旦那様が縁を切ると言ったからって、あなたたちまで急に手のひらを返すことないでしょ?美雪様は今まで、私たちに嫌なことをした?家のことで困ったときだって、助けてもらった人はいるんじゃない?それなのに、こんなときだけ他人みたいに言うのは薄情よ」使用人たちはすぐに黙り込んだ。確かに、美雪から酷い扱いを受けた者はいない。むしろ困ったときに助けてもらった者もいて、中でも香織は大きな恩を感じていた。以前、娘が病気で入院したとき、美雪が手を回して受け入れ先を探し、腕のいい医師に手術を担当してもらえるよう助けてくれたのだ。
茂は、まさか将希が自ら美雪をかばいに来るとは思っていなかった。俯いたままの美雪を一度見てから、険しい顔をしている将希へ視線を戻す。「美雪と何か取引でもしました?それとも、何か弱みでも握られてるんですか?」将希という人間を、茂はよく知っている。何よりも神谷家の利益を優先し、損得で物事を判断する男。そんな将希がわざわざ出向いて美雪をかばい、神谷家に残そうとするからには、絶対に何か理由があるはずだ。利益になる何かがあるか、さもなければ弱みを握られているか……茂がそう言った瞬間、将希だけでなく美雪まで驚いたように顔を上げた。どうして茂がここまで冷たくなれるのか、美雪には理解できなかった。28年間「お父さん」と呼び続け、28年間、そばで娘として寄り添ってきたのは自分なのに。本当の娘が現れただけで、これまで積み重ねてきた親子の情をすべて切り捨て、ここまで容赦なく自分を追い詰められるものなのだろうか?胸の奥に重苦しいものが溜まっていく。一方、将希は眉をひそめていた。先日ここへ来たときのことを思い出す。茂が神谷家を離れようとしていることを彰菜に伝えたあと、美雪が見送りに出てきて、28年前の真相をすでに知っていると、将希に明かした。しかも、彰菜が生まれたばかりの凛を捨て、それをきっかけに茂が公職を離れたことまで、全て知っていたのだ。そして、この秘密を外に漏らさない代わりに、一つだけ条件を出した美雪。その条件とは――自分をこれからも神谷家の人間として扱い、誰にも追い出させず、神谷家との縁も切らせないこと。28年間隠し続けてきたスキャンダルを守るため、将希はその条件を呑んだ。そして今日、美雪から「父に家を追い出される」と連絡を受け、慌てて止めに来たのだ。だが茂には、すでに見抜かれている。将希は茂を見据えた。「わしがしていることは、すべて神谷家のためだ」「将希さんには将希さんの考えがある。それはわかっています」茂も真っ向から答えた。「でも、俺にも俺の考えがあります。俺は美雪をこの家から出すだけですから、将希さんが神谷家に残したいなら、好きにしてください。どこに住まわせようが、どう扱おうが俺には関係ない。ただし今後、俺の養女を名乗ることだけは許しませんので」美雪が目を見開いた。「お父さん、それ……どういう意味?」「黙れ」茂は冷え
「お父さん」美雪が書斎へ入ってきた。茂の隣まで歩み寄り、同じように窓の外の花壇を眺めると、何かを思い出したのか、やがて彼女の目が赤くなった。「もう、お父さんって呼ぶこともできないのかな?」声もわずかに震えていた。けれど茂には、その涙も震えも、どこまで本当なのかわからない。「自分がしたことを考えれば、いつかこうなることくらいわかっていたはずだ」美雪の手に力が入る。利明からあの電話があった以上、父にも何かしら伝わっているとは思っていた。ただ、どこまで知られているのかは、まだ定かではない。「わざとじゃなかったの、お父さん……」曖昧に逃げようとした美雪に、茂の鋭い声が届く。「松田さんを匿名で告発したことも、柚葉さんを煽って凛を車で轢かせようとしたことも、わざとじゃないのか?」美雪の顔が強張った。「小さいころからずっとお前の面倒を見てきた利明を、柚葉さんと一緒になって騙したことも?俺たちより先にDNA鑑定をしていたのに、わざとじゃないって言えるのか?」立て続けに突きつけられ、何も言えなくなってしまった美雪。無意識に足がわずかに後ろへ下がる。どうして、もうそこまで調べられているの?一瞬だけ美雪の目に浮かんだ動揺を、茂は見逃さなかった。「凛が戻ってきたからといって、お前を追い出すつもりなんてなかった。なのにお前は、俺たちより先に凛が本当の娘だと分かってから、陰であの子を排除しようとしたよな?遺言書はもう書き換えたから、お前になんか俺個人の財産は一切残さない。スタジオの家賃も今後は自分で払ってもらうし、毎年出していた資金援助も打ち切る。それから、お前がもう俺の養女ではないことも公表するから、今後、神谷家の名前を使って仕事をすることも許さない。今日中に、この家を出ていけ。これが、俺にできる最後の情けだ」茂はそれだけ言い残し、書斎を出ていく。一人残された美雪は、その場に崩れ落ちた。涙が次々と頬を伝う。「お父さん!」胸元を押さえ、必死に声を上げた。「心臓が痛い……」家族なら誰もが放っておけなかった言葉。案の定、茂の足が止まった。美雪の目に、一瞬だけ希望が宿る。やっぱり、父は自分を見捨てられない。父は昔から誰よりも情の深い人だから……「凛が車に轢かれかけたと知ったときのほうが、俺はよほど胸が痛かった
「茂、どうしてそんな言い方するの?美雪は私たちの娘でしょ?」「違う。美雪は俺が連れてきた子で、俺たちの娘じゃない」茂はきっぱり訂正した。「何もせず普通に暮らしていたなら、神谷家の養女としてこれからも面倒を見るつもりだった。でも、美雪は欲を出しすぎた……それに、やることがあまりにも酷すぎる」美雪が陰で人を操り、凛を排除しようとしていたこと。兄として慕い、幼いころから面倒を見てくれた利明さえ、平然と騙して利用していたこと。考えるだけで背筋が寒くなる。それも、将暉と秀明が他人まで巻き込み、自分を欺いていたと知ったときと同じくらいの衝撃だ。彰菜は目を赤くしたまま眉を寄せた。「何の話をしてるの?」茂は、美雪がこれまで陰でしてきたことを隠すつもりはなかった。口を開きかけたそのとき、「お父さん、お母さん」背後から声がした。茂が振り返り、彰菜も顔を上げる。すると、いつからそこにいたのかはわからないが、美雪が静かに立っていた。「お父さん、おかえりなさい」美雪は何事もなかったように入ってくると、ティッシュを取り、彰菜の涙を優しく拭った。それから茂を見る。「お母さん、最近ずっと体調がよくないの。だから、今日はもう休ませてあげてくれない?話があるなら、あとで私が聞くから。これ以上お母さんを追い詰めないで」彰菜は美雪の手を握り、すがるような目を向けた。美雪は彰菜の手を優しくさすってから、茂に言った。「お父さん、書斎で待ってて。お母さんを部屋まで連れていくから」そう言って彰菜を支え、二階へ上がっていった美雪。茂はその後ろ姿を黙って見送った。以前なら、こんな状況でも取り乱さず、彰菜を気遣えるなんて、よくできた娘だと思ったかもしれない。だが今は、その振る舞いすら素直に信じられなかった。幼いころから周囲の顔色を読み、自分をどう見せればいいのかを知っていたのだとしたら……美雪が割って入ったことで、彰菜との話も中断された。しかし、茂はもともと、家族で感情をぶつけ合い、収拾のつかない言い争いをするような性格ではない。ひとまず書斎へ向かい、美雪を待つことにした。美雪は彰菜を寝室まで連れていき、ベッドに寝かせた。「お母さん、お父さんのこと怒らないであげて。お父さんだって、本当の娘にそばにいてほしいだけなんだと思うから」彰菜は凛
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って