LOGIN茂が彰菜との結婚を望んでいると知ったとき、神谷家は騒然となった。家が選んだ相手の何が不満なのかと、誰もが反対した。そんな中、秀明だけは兄の味方をした。「福井家だって、別に悪くないだろ。それに彰菜さん、背も高くて美人だし、気も利くじゃないか。兄さんなんて何年も飴なんか食べてなかったのに、もらったやつ最近ずっと舐めてるだろ?煙草や酒に逃げる人でもないんだし、疲れたときに飴くらい食べたっていいじゃないか」そのころの茂は深く考えずに、ただ、家族の中に自分の気持ちをわかってくれる弟がいることを、素直に嬉しく思っていた。茂自身が譲らなかったことに加え、秀明が間に入ってくれたこともあり、両親も次第に折れていった。そして彰菜のもとへ一通の手紙が届き、ほどなくして正式に結婚の申し入れがなされたのだ。それから結婚までの半年間、茂は不思議なほど心が軽かった。神谷家の人間でも、両親の息子でもなく、誰かに想われる一人の男になったような気がした。やがて婚約者になり、夫になる。自分の家庭を持ったことで、初めて「神谷家の茂」ではなく、ただの茂として、自分の家族を守っていけるような気がしていた。結婚してからは、彰菜と話をし、一緒に食事をし、散歩にも出かけた。夜になれば、同じベッドで寄り添って眠る。彰菜は優しく、ときには拗ねたりわがままを言ったりもしたが、それくらい誰にでもある。茂はむしろ、そんなところも含めてごく普通のことだと思っていた。根は優しい女性でもあった。周囲から疎まれていた幼い真佑が泥だらけでいても、彰菜は嫌がることなく抱き上げ、服についた土を払ってやった。この人なら、自分と同じ側に立って家庭を守っていってくれる。一方で、彰菜は茂の友人たちを前にすると、家柄の違いを気にして引け目を感じることがあった。だが、自信というものも環境の中で少しずつ育っていくものだから、そこは夫である自分が認め、支えていけばいい。朝は彰菜に見送られて家を出て、夕方になれば、家の前で待つ彼女のもとへ帰る。そんな結婚生活は穏やかだった。もちろん、ときには小さな喧嘩もしたが、どれだけ仲のいい夫婦でも意見がぶつかることくらいある。だから、それも含めて、ごく普通の幸せなのだと茂は思っていた。最初に歯車が狂い始めたのは、結婚から半年ほど経ったころだった。両親や一族の年長者
「よかったら、これ。少しは喉が楽になると思いますよ」彰菜がそう言って缶を差し出した直後、誰かが近づいてきた。彰菜は慌てたように茂の腕を取り、その手に缶を押しつけると、頬を真っ赤にして逃げるように去っていった。やってきたのは秀明だった。「兄さん、こんなところで一人で何してるの?」そう聞かれたはずなのに、茂にはろくに耳に入っていなかった。腕に触れた柔らかな指先の感触と、恥ずかしそうに赤くなった彰菜の顔ばかりが頭に残っている。「それ、何?」秀明にキャンディーの缶を指さされると、茂は反射的に握りしめて隠した。「拾った」「嘘つけ。兄さんに近づきたい女の子からもらったんじゃないの?」幼いころから、言葉の裏まで読むよう教えられてきた神谷家の人間にとって、それは十分すぎるほど露骨な指摘だった。もちろん茂にだって、彰菜が自分に好意を持っていることくらいわかっていた。ただあのキャンディーは、喉だけでなく気持ちまで甘くしてくれた。秀明には、昨日会った見合い相手の中に気に入った女性はいなかったのかとも聞かれたが、誰にも心は動かなかった。容姿が気に入らなかったわけでも、話が合わなかったわけでもない。ただ、どこか決め手に欠けていたのだ。もっとも、茂自身が誰を気に入るかなど、神谷家にとってはさほど重要ではなかったのかもしれない。見合いを始める前から、家族はある家の令嬢の写真を示して「この人がいい」と口にしていたから、誰と結婚させたいのか、意図は明らかだった。それからしばらくして、今度は街で偶然、彰菜と再会した。茂は母に付き合って、生地を選び、仕立て屋に家族の服を頼みに来ていた。一方の彰菜は両親と一緒に既製服を見に来ていたらしい。淡い水色の服に着替えた彰菜が、両親の前でくるりと二度回った。「どう?似合うかな?」嬉しそうに彰菜が尋ねたものの、彼女の両親の反応は素っ気なかった。その瞬間、彰菜の顔から笑みが少しずつ消えていく。それでもすぐに表情を整え、「そうだよね、お父さんとお母さんの言うとおり」と、従順な娘の顔に戻った。その直後、また二人の目が合った。親の機嫌を取るような自分の姿を見られたのが恥ずかしかったのだろう。彰菜は一瞬で顔を赤くし、気まずさと腹立たしさが入り交じったような表情で、両親を急かしてその場を離れようとした。だが彰菜の両親
彰菜には、茂が何を考えているのかわからなかった。ただ、否定しないということは、わざと利明からの電話にも出ず、息子まで自分から遠ざけようとしているのだとしか思えない。そう考えると、また涙があふれてきた。彰菜のすすり泣く声に、茂はようやく思考を引き戻された。目の前には、目を真っ赤にした彰菜。彼女と夫婦になって、もう30年以上になるが、自分の髪には白いものが増え、彰菜の顔にも年々皺が目立つようになった。確かに二人合わせれば100歳をとうに超えている今、何をするんだと言われればそのとおりかもしれない。だが、今さらだからと何もせずにいれば、このまま過ちも後悔も抱えたまま人生を終えることになる。彰菜は、茂がこちらを見ていることに気づいて眉を寄せた。最近、茂は時々こんな顔をする。目は自分に向いているのに、どこか遠いものを見ているような瞳。けれど、ほかの女を思い浮かべているとは考えにくかった。茂は昔から女性関係には潔癖なほど真面目で、結婚してからもよそに女を作ったことなど一度もない。彰菜が唯一、気にしたことがあるとすれば瑶子だった。結婚してしばらくの間、自分より若い瑶子を疑い、二人の様子を何かと気にしていた時期があるが、むしろ二人とも隠すものなど何一つないような、あまりにもさっぱりとした付き合いだった。それでも、彰菜には気になって仕方がなかったのだ。彰菜が茂と結婚するより前、草壁家と神谷家がどれほど親しかったかは周囲でもよく知られていた。草壁家の一人娘である瑶子と、当時、神谷家の後継者として最も期待されていた茂。二人はいずれ結婚するのではないかと、周囲ではまことしやかに囁かれていた。だがあるとき、両親に連れられてB市を訪れ、父の上司だった人物の家へ挨拶に行った際、彰菜はその人から意外な話を聞いた。どちらも勢いのある家だからこそ、結びつきが強くなりすぎれば、かえって周囲の警戒を招くから、草壁家と神谷家が縁組することは、少なくとも当面はないだろう、と言うのだ。初めから二人に結婚の可能性は低いと知っていたし、実際に茂と結婚したのも自分だった。それに、瑶子と茂の間に後ろめたいものがないこともわかっていたが、それでも彰菜が心から安心できたのは、瑶子が結婚してからだった。しかも竹内家が暮らしているのはB市ではなく、遠く離れたA市だったことも、彰菜
彰菜は茂の前まで来ると、座っている彼を見下ろした。「どうして神谷家を出ようなんて考えるの?神谷家を離れたら、私たちに何が残るのよ。お金だけあったって意味がないでしょ!」これまでの2、30年間、「神谷家の茂の妻」として扱われてきた彰菜は、どこの家の夫人と顔を合わせても、相手から気を遣われる立場にあった。だから、彰菜にとって家柄と影響力は金よりも価値のあるものだったのだ。「神谷家を離れたら、折原家の娘さんが利明との縁談を受けてくれると思う?私はあなたたちのため、この家族のために言っていることなのに、どうしてわかってくれないの?」茂はゆっくりと顔を上げ、久しぶりに口を開いた。「そこまで神谷家が大事なら、お前は残ればいい。俺は止めない」彰菜の両手が震えた。「何を言ってるの?私たちは夫婦なのよ?あなたと利明だけ出ていって、私だけここに残れっていうわけ?」茂は黙って彼女を見た。その茂の目を見た瞬間、彰菜の瞳が揺れる。今度は唇まで震え始めた。「どういう意味……?茂、どういう意味なの?まさか私と……私と……」最後の言葉だけは、どうしても口にできなかった。「茂!私たち、もうすぐ60なのよ!今さらそんなことをして、周りに笑われると思わないの?それに、あなたは……」本当の娘のために。その言葉も、彰菜には言えなかった。「私たちには美雪だっているのに、どうしてそこまでしなきゃいけないの?どうして……」やがて顔を両手で覆い、彰菜は泣き始める。指の隙間から、涙がこぼれ落ちた。彰菜は力が抜けたようにソファへ座り込んだ。目の前の茂は、髪に白いものが一気に増えている。だが、彰菜自身も似たようなものだった。肌は以前より弛み、皺も増えたし、ここしばらくは昼も夜も心が休まらず、苛立ちに苛まれている。一度だけ鏡を見たことがあるのだが、映っていた自分の姿が信じられず、それ以来、鏡を見ることすら避けるようになった。「彰菜。薬はちゃんと飲んでるのか?」今の状態は、やはりどこかおかしい。以前は薬である程度落ち着いていたし、今は以前より治療も進んでいるはずなのに、むしろ不安定さが増しているように見える。久しぶりに茂が自分を気遣ったのだが、彰菜はその言葉さえ悪い意味に受け取った。「あなたまで私がおかしくなったと思ってるの?」と、声を荒らげる。「あ
「わかってる」海斗はそう答えると、一度に二つを崩せるやり方を口にした。「利明が小林に何をされたのか、その経緯を全部明らかにするうえで、裏で糸を引いてたのが美雪だって証拠を出せばいい。そうすれば、彰菜さんも美雪を庇いきれなくなる。ただし、凛がそれをして後悔しないならだけど」凛は逆に聞き返した。「証拠を出して、本当のことを話すだけでしょ。何を後悔するの?」海斗は満足そうに目を細めた。それならいい。もっとも、やられたら必ずやり返す海斗にとって、それだけではまだ足りなかった。美雪も彰菜も、結局のところ神谷家がもたらす地位と金に執着している。だが、それが成り立つのは、美雪が「茂の養女」で、彰菜が「茂の妻」だからだ。二人にはいつだって茂の存在が必要だ。なら、その茂自身が神谷家を離れてしまえば、話は根底から変わる。利明が「父に中身を見せてもらえないまま書類へ署名させられた」と話したときから、海斗にはある程度の予想がついていた。茂は本気で神谷家を出るつもりなのだろう。それなら海斗としても、背中を押すことにためらいはない。凛が美雪と彰菜を庇う気はないことも、今のでわかった。ならば、茂がA市で神谷観光の足場を築こうとしているところに、竹内グループが手を貸して何が悪い?その日のうちに、海斗は拓海へ連絡を入れた。「竹内グループの名で、神谷観光を支援してくれ」同じ日の夜、日和から電話がかかってきた。「もしもし、お兄ちゃん?お父さんたち、茂おじさんがどこにいるかはわかったって。でも、お父さんとお母さんはあくまで友人だから、神谷家と病院側に『家族以外は面会できません』って言われちゃったみたいで、それ以上は無理みたい。強引に会おうとしたら、竹内家と神谷家の揉め事になっちゃうから……おじいちゃんとおばあちゃんは、昔、神谷家のご先祖にお世話になって、お兄ちゃんも知ってるでしょ?だから、二人がいるうちは、うちと神谷家が表立って揉めるわけにはいかないんだって」最後の方の日和の声は、次第に小さくなっていった。「わかった。大丈夫」海斗はそれ以上言わせず、電話を切った。しばらく沈黙が続いたあと、凛がぽつりと言った。「その理由で止められるのは、家族じゃないからだよね」海斗が凛を見る。「でも、私は違う」凛の声は静かだった。「私が茂さんに
28年前、そのレバーを握っていたのは茂だった。暴走するトロッコを別の線路へ向かわせ、凛一人を犠牲にする道を選んだ。凛の呼吸がわずかに止まる。「功利主義で考えれば、少数を犠牲にして多数を救う。全体の利益を最大化する選択ではあるけど、倫理的には非難されるよね」「答えのない問題だからな」トロッコ問題は、そもそも簡単に正解を出せるような問いではない。ただ、当時の茂はある意味で、第三の道を選ぼうとしていた。ひとまず別の子どもを連れ帰って目の前の混乱を収め、自分が公職を辞して身動きを取りやすくなったところで、人知れず本当の娘を捜し出し、見つかれば誰にも知られないように元へ戻す。そうすれば、すべてを取り戻せる、茂はそう考えていた。だが茂は、自分のすぐそばにいる人間たちが敵に回っているとは考えなかった。彼らは茂に選択を迫っただけではない。そのあとも捜索を妨げ、茂を騙し、娘は見つからないという偽りの現実を作り上げた。もし、あのとき犠牲にされた一人である凛が自らの力でここまで生きてこなければ、茂は一生、その嘘の中で生きていたのかもしれない。けれど、海斗は凛を見つめた。「俺がトロッコ問題の話をしたのは、レバーを引いた人にも事情があったとか、騙されていたんだから仕方ないとか、凛にそう思ってほしいからじゃない。凛のいる線路にトロッコを向かわせたやつには、その責任があるが、そもそもトロッコを暴走させた人間に、もっと大きな責任があるんだ。向こうが勝手に凛を犠牲にする選択をしたなら、凛にはそれを責める権利があるし、許さないと決める権利だってある。だから、利明が何を言ったからとか、茂さんにも事情があったからとか、そんな理由で無理に許す必要はない。許すかどうかは、凛が決めることだからな」海斗は指先で、凛の胸元をそっと示した。「今、凛は窮地にいる茂さんを助けようとしてる。でも、それは許したからじゃない。凛がそうしたいと思ったからだ」海斗が少しだけ笑う。「人間なんだからしょうがないよ」情があるから、心が揺れる。でもそれは、許すこととは別の話だ。凛は振り向き、そのまま海斗に抱きついた。「海斗って、いつからそんなに人の気持ちがわかるようになったの?」海斗も腕を回し、凛の頭に顎を乗せて笑う。「俺がわかるのは、凛の気持ちだけ」それから少し真面目な
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい