LOGIN彰菜が自室でぼんやりしていると、ドアをノックする音がした。返事をすると、香織が入ってくる。「奥様、旦那様がお戻りになられましたよ」それまで沈んでいた彰菜の目に、一気に光が戻った。勢いよく立ち上がり、香織を振り返る。「茂が帰ってきたの!?」「はい。先ほどお車が入ってきましたから、もうリビングにいらっしゃると思います」「利明は?」彰菜はすぐに髪を整え、嬉しそうに笑った。「利明も一緒よね?よかった。あとで早紀さんのお母様にも連絡しなくちゃ。明日にでも早紀さんを家にご招待しましょう」そう言いながら部屋を出た彰菜は、階段を下りかけたところで茂の姿が見え、思わず足を速めた。「おかえりなさい」茂が顔を上げる。妻は昔と変わらず穏やかな笑みを浮かべていたが、目の下にはうっすらと隈ができ、顔にも疲れが滲んでいた。「ただいま」コートを脱いでソファに掛け、そのまま腰を下ろす。すぐに香織がお茶を運んできた。彰菜は香織に果物を用意するよう頼むと、何度も玄関のほうへ目をやった。「利明は?」茂の隣に腰を下ろしたところで、ふと夫の髪に白いものが混じっているのに気づく。彰菜は無意識に、自分の髪にも触れた。茂はお茶を一口飲んでから答えた。「利明ならA市だ」彰菜の胸に、かっと熱いものが込み上げる。それでも表情には出さず、いつもと変わらない優しい声を保った。「どうしてまだA市にいるの?一緒に帰ってくればよかったのに。二人がずっと家を空けてるから……本当に寂しかったのよ」昨日、利明から突きつけられた言葉には一切触れずに、何もなかったかのように振る舞っている彰菜。夫に愛され、子どもたちにも慕われる妻。上品で穏やかな神谷家の奥様。家族は仲がよく、何も問題などない……そんな日常が今も続いているかのようだった。茂は黙って妻を見つめた。薬が効いていないのか、それとも、今のこの平静さ自体が危ういものなのか。「A市で神谷観光の事業を担当させることにしたから、利明はしばらく戻らない。向こうの案件がまとまって、契約まで終わらない限り、帰ってくることはないだろうな」その言葉が終わると同時に、彰菜の顔から笑みが少しずつ消えていった。膝の上に置いた手も震え始める。彰菜は指をきつく握り込み、親指の爪を何度も人差し指に食い込ませた。それで
美雪の嘘を暴いて以来、彼女から利明に連絡が来ることはなくなっていた。利明は陸に言った。「今回A市に来て、そのあとG県にも行って……いろいろ知ったよ」それ以上は話さなかった。いくら陸が親しい友人でも、神谷家の内情をすべて打ち明けるわけにはいかない。利明の声に滲む疲れや葛藤を察したのか、陸も深くは聞かなかった。「まあ、どこの家にもいろいろあるよ。それより、話変わるけどさ、俺、千晴と婚約することになったんだ。結婚式には来てくれよな」「そうなんだ。おめでとう」利明は心から祝福したあと、ふと思い出して尋ねた。「そういえば、千晴さんって凛と仲よかったよな?」「ああ」「じゃあ……凛に何かあったら、僕にも教えてくれないか」陸は少し笑って、「わかった」と答えた。電話を切った利明は、家の使用人に尋ねる。「父さんは書斎にいる?」「はい」利明が書斎へ入ると、茂はすぐに向かいの椅子を示した。「ちょうど話したいことがあったんだ」「僕も。凛と美雪について」茂が意外そうに顔を上げた。偶然にも、茂が話そうとしていたのも美雪のことだった。剛の調べで、美雪が以前、密かにDNA鑑定をしていたことがわかった。それも、茂が凛の正体に気づくよりずっと前のことだ。「先に話せ」利明は、刑務所で柚葉と面会したときのことを話した。ただし、噛まれて感染症の検査を受ける羽目になったことや、美雪と柚葉の二人にいいように騙されていたことまでは言わなかった。さすがに情けなさすぎて、父親には話せない。「松田さんを告発したのは凛じゃなくて、美雪だった」その一言で、茂の眉間に深い皺が寄った。「美雪はそれを利用して柚葉を煽ったんだ。柚葉は松田さんが捕まった怒りを凛にぶつけて、車で轢こうとした。あのとき海斗がいなかったら……凛は本当に事故に遭ってたと思う。まさか、美雪がここまでやるとは思わなかったよ」自分をずっと兄として慕ってきたはずの妹が、その兄さえ騙し、利用していた。思い返すほど、怒りが込み上げる。茂は言葉を失った。しばらくして、自分が剛から聞いたことを利明に伝える。「美雪は去年の12月には、もうDNA鑑定をしていたんだ」利明が目を見開いた。「じゃあ、ずっと前から自分が神谷家の娘じゃないって知ってたってことか?凛が俺の本当の妹だ
ブランケットを持って戻ってきた海斗は凛の肩にそっと掛けると、テーブルの携帯を手に取り、少し離れたところで話そうとする。凛はその手首をつかんだ。海斗は一瞬凛を見たものの、何も言わずそのまま隣に腰を下ろす。電話の向こうでは、拓海が黙り込んでいる。どうやら、最初に電話に出たのが海斗ではなかったと気づいたらしい。「続けろ」海斗も凛が声を出さないとは思っていなかったし、拓海もてっきり海斗が出たものと思い、そのまま報告を始めてしまったのだった。凛はテーブルの携帯をじっと見つめる。「ただ、神谷観光と行政側との話は、まだまとまっていません」それでも先に市内中心部のオフィスを1フロア丸ごと押さえたということは、A市への進出は本気なのだろう。「わかった。引き続き見ておいてくれ」「少し手を貸しますか?」海斗が凛を見る。ちょうど凛も海斗を見ていて、どういう意味、と目で問いかけていた。「今はいい」そう答えて電話を切ると、海斗はすぐに説明した。「神谷家が凛に何かしてこないとも限らないから、動きだけは見てもらってたんだ」凛は海斗の指を軽く握った。「分かってる」視線を落とし、少し考えてから遠慮がちに尋ねる。「さっきの話……神谷家がA市に来るってこと?」「神谷家じゃない」海斗は凛の手を握り返した。一瞬迷ったものの、隠すことでもないため正直に話す。「茂さんがA市で仕事を始めるつもりらしい」凛は小さく頷いた。「そっか」凛はそれ以上何も聞かなかった。ただ海斗の肩に頭を預け、そのまま再び目を閉じる。凛の頬をそっと撫で、静かに寄り添う海斗の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。しばらくすると、携帯が震え始めた。今度は電話ではなく、日和からの立て続けに送られてくるメッセージだった。【ほんっと、お兄ちゃんにはもったいない】【もったいなさすぎる!】【凛さん、あんなにしっかりしてるのに、どうしてお兄ちゃんにこんなにハマっちゃったんだろうね。とうとう一緒に住み始めちゃうなんてさ!】【これからちゃんと休ませてもらえるのか本当に心配……】最後の一文に、海斗は「?」だけ返した。日和からすぐに返信が来る。【だってお兄ちゃんのその体格でしょ?凛さんがもたないって!】【別に無茶してない】【嘘つけ!】【そん
昨日は引っ越してきたばかりで、部屋をゆっくり見る余裕がなかった。ちょうどいい機会なので、凛はダイトとコマキを連れて中を見て回ることにした。書斎は特別宿舎のをそのまま移したような雰囲気だった。三方の壁を本棚が埋め、残る一面は大きな窓。広々としたデスクが二つ並び、ソファを置いた休憩スペースには、新しいコーヒーメーカーとジューサーまで用意されている。ウォークインクローゼットは二つあった。片方には海斗の服や靴、ネクタイがきれいに並んでいたが、それでも使っているのは二面だけ。そして残る一面を見て、凛の足が止まる。女性ものの下着がずらりと並んでいて、どれもまだタグがついたままだが、デザインや種類が一通り揃っていた。そのすぐそばには、昨日持ってきた凛のスーツケースが手つかずのまま置かれている。もちろん、海斗がほかの女性のものをここに用意するはずがない。自分だけが特別だと自惚れているわけではなく、単純に海斗がそんなことをする人ではないと知っている。ということは……これは全て、自分のために用意されたものなのかもしれない。コンコン、と入口から軽い音がした。ドアは開いているのに、海斗がわざわざノックして立っている。凛が振り返ると、海斗も彼女の視線を追い、壁一面の下着を見た。「凛のだよ」予想はしていた。それでも本人の口から聞くと、妙に鼓動が速くなる。「お店ごと買ってきたの?」「最初は南山ヒルズ1号棟に届けてもらって、昨日こっちに移した」店ごと買ってきたことは、否定しなかった。凛は一度深く息を吸った。「先に着替えて。私は他の部屋を見てくるから」海斗は楽しそうに笑う。凛はさっさと部屋を出ると、丁寧に自分でドアまで閉めた。もう一つのウォークインクローゼットは、対照的に何も入っていなかった。だが昼過ぎになると、理央が大勢のスタッフを引き連れてやってきた。季節ごとの服に靴、バッグ、アクセサリー。次々と運び込まれ、空だったクローゼットがあっという間に埋まっていく。凛は途中から、ただ呆然と眺めることしかできなかった。「じゃあ、またね」にこやかに理央がスタッフを連れて帰っても、凛はまだ現実についていけていない。そんな凛の顎を、海斗が指先で軽くつまんだ。「好きなのを使えばいい。美穂子さんがお昼作ってくれたから、先に食べよう」
利明と智也は違う。智也は凛を本当の意味で傷つけた。容赦のない言葉を浴びせ、追い詰めるような態度を取り、気づかないうちに心まで支配しようとした。利明も以前は凛にずいぶん酷いことを言ったが、それ以上のことはしていない。もちろん言葉だって人を傷つけるけれど、凛は最初から利明に何の期待もしていなかったから、何を言われても、本当の意味では傷ついていなかった。凛は初めから利明が好きではなかったし、自分が神谷家の娘だと知ったあとも、彼を兄だと思ったことはない。施設では、ずっと自分が年下の子たちを守る側だった。幼いころなら、兄という存在を欲しいと思ったこともあったのかもしれないが、そんな時期はとっくに過ぎている。智也に対して冷たくいられるのは、彼が凛にとって、もう許す余地のない相手だから。その一方で利明は、今さらながら自分の過ちに気づき、凛の人生に関わろうとし始めた。それどころか、凛を傷つけた智也を殴り、そのせいで警察沙汰にまでなった。だからといって、昔の暴言をなかったことにはできない。今さら向けられた善意を素直に受け取る気にもなれないし、突然できた「兄」を受け入れるつもりもなかった。なのに……たったそれだけのことで、なぜか心が落ち着かない。無視してしまえるはずの小さな出来事が、胸の奥に波紋を残していた。凛はわずかに眉を寄せた。ランニングを終えた海斗がリビングへ戻ってくる。海斗はタオルで汗を拭きながら凛の表情に気づくと、少し離れたところで足を止めた。「具合悪い?」少し息の上がった声に、凛は顔を上げる。海斗の短い髪は汗で濡れ、上半身には何も着ていない。肌にもまだ汗が残っていた。「ううん」凛は首を横に振り、妙に距離を取っている海斗に気づいて、隣の座面を軽く叩いた。「そこに立ってないで座れば?疲れたでしょ?」それでも、海斗は距離をとったまま。「汗かいてるから」凛は海斗を見上げた。「私なんて、この前3日もお風呂入ってなかったよ」そんな自分に対しても、海斗は一切嫌がったりはしなかった。凛の言いたいことを察したらしい海斗が、ざっと汗を拭いてから隣に腰を下ろしたので、凛は千晴から届いたメッセージを彼に見せる。海斗は一通り目を通すと、凛の顔へ視線を戻した。なるほど、これで凛はあんな顔をしていたのか。利明のことで
美雪は母の顔を見つめながら、ふと違和感を覚えた。目の前にいるのは自分なのに、母は自分を通して別の誰かを見ているような気がする。その「誰か」が誰なのか、考えるまでもなかった――28年前、母が捨てた凛。ちっ。美雪は内心舌打ちしたものの、顔には出さず、彰菜を支えて二階へ連れていった。母が眠りにつくまでそばに付き添い、階下へ戻ると、香織がすぐに声をかけてきた。「奥様、お薬は飲まれたんですが……最近、飲むことが増えたせいでしょうか。前ほど効いていない気がするんです。明日、お医者様に相談してみましょうか?」美雪は香織の手にある薬瓶をしばらく見つめ、それを受け取った。「私が行くわ。内野さんは家にいて、お母さんを見ていて」「わかりました」美雪は薬瓶を指先で転がしながら、一粒だけ掌に出した。そして誰にも見られていないのを確かめると、口に放り込み、無表情のまま噛み砕く。医者に相談する必要なんてない。薬なら、自分で替えればいいのだ。父はかつて、母のために公職を離れ、別の道を選んだ。そんな父が、母の気持ちを無視して自分を追い出せるだろうか?いや、母の状態がまた悪くなれば、きっと放っておけなくなる。28年前と同じように、何よりも母を優先し、つきっきりで支えるはずだ。……まだ夜が明けきらないうちに、凛は目を覚ました。昨夜は早く寝たせいか、自然と目が覚めてしまったらしい。身体は温かな腕の中にすっぽり収まっている。ぼんやりと部屋を見回すと、まだ見慣れない家具や景色が目に入った。そうだった。昨日から、海斗と一緒に暮らし始めたのだ。ここはリヴェール月影。凛は海斗の腕の中から抜け出さず、そのまま窓のほうへ目を向けた。昨夜はカーテンをきっちり閉めなかったため、外が少しずつ明るくなっていくのがわかる。しばらく眺めてから、凛は海斗のほうへ寝返りを打った。指先で彼の顎にそっと触れる。「海斗、起きて」それは、囁くような、小さな声だった。本気で起こしたいわけではない。ただ、隣にいる海斗に触れたくなったのだ。そのまま顎を撫でていると、腰に回っていた腕に力がこもり、さらに深く抱き寄せられる。海斗がゆっくり目を開けた。「……今日、休み」寝起きの掠れた声で、それだけ言った海斗。だから起きなくていい、と言いたいらしい。頷き
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」