中原邸の門を抜けたとき、礼司の頬に冷たい風が触れた。
秋の始まりの空気は昼間の名残をわずかに纏いながらも、肌を撫でる感触には確かな夜の気配が混じっていた。沈みかけた夕日が庭の植え込みを斜めに照らし、蔦の絡む塀に長い影を落としている。十四になった礼司の背丈は、大人の上衣を借りても違和感のないほどに伸びていた。肩幅はまだ線が細いが、姿勢はまっすぐで、どこか触れることをためらわせるような静けさを纏っている。
まだ声変わりの途上で、言葉には柔らかさが残っていたが、目元の陰影は同年の子供たちとは違っていた。玄関にいた女中に案内を告げられる前に、礼司は軽く頭を下げて「自分で行きます」と答えた。
昔から中原家は彼にとって馴染みのある場所だった。けれど今日の邸内は妙に広く、音が吸い込まれていくように静かだった。廊下をひとりで進む。
壁に沿ったランプの灯りがぽつりぽつりと等間隔に点いており、その明るさが逆に、奥へと伸びる影を濃くしていた。絨毯の上を歩く礼司の靴音はほとんど聞こえず、衣擦れの音と、廊下の先にある小窓から吹き込む風が、時折木の葉の音を運ぶのみだった。薫の部屋は、廊下の最奥にある。
幼い頃は一緒に押し入れに入ったり、庭で鬼ごっこをしたりもした。だが、あの頃と比べると薫は変わった。いや、変わったのはどちらなのだろう。礼司は扉の前に立ち、軽く息を吐いた。この夜の訪問は、礼司の父が中原家からの申し出に応じたものだった。薫が風邪を引いて寝込んでいると聞き、兄のように懐いている礼司を見舞いに行かせれば励みになるだろう、という。それ以上の意味は、きっと誰も込めていない。
だが、扉の前に立ったままの礼司の中には、説明しようのない感情が渦巻いていた。ノックをしようとした指が、一度止まった。
しなくてもいいような気がした。音を立てることが、この夜の空気を壊してしまいそうだった。結局、礼司は無言のまま、そっと取っ手を回した。部屋の窓には、まだ夜の帳が残っていた。障子越しに差す光はひとつもなく、外の空気すら感じさせない密やかな暗さが、室内の輪郭を溶かしていた。礼司はそこに、目を凝らしていた。布団の中、薫は静かに眠っている。熱は幾分引いたのか、額の汗も引いており、頬の紅潮もいくぶん薄れているようだった。だが呼吸は浅く、まつげの隙間からわずかに熱の名残を感じさせた。その頬の上に、礼司はそっと手を伸ばした。まだ冷たさの残る氷嚢を傍らに置き、代わりに自分の掌で薫の額を覆う。熱の有無を確かめる仕草としては自然だった。けれど、指先が頬の輪郭に沿って移動した瞬間、礼司の中に妙な引っかかりが生まれた。生え際に触れたとき、そこにあったのは熱よりも、柔らかさだった。子どもの髪の密度は細かく、絹糸のように繊細で、皮膚の上を流れる感触が微かに残った。その感触が、なぜか礼司の指先に“熱”として残った。熱とは逆の性質を持つものが、逆に火照りを伝えてくるような錯覚。指をそっと首筋に滑らせると、脈打つ動きが皮膚の下で震えた。そこに生命が在るというあまりに生々しい事実が、礼司の呼吸を浅くした。「……」声にならない音が喉の奥で渇いた。手を引けばよかった。目を逸らせばよかった。だが、引けなかった。逸らせなかった。薫の体温は、礼司の掌を通して、心臓の奥にまで染みてくるようだった。体は小さいのに、その存在は礼司の思考を圧迫するほどに大きくなっていた。少年の肩をなぞったとき、礼司の指先ははっきりと“柔らかさ”を知った。筋肉とは違う、皮膚と骨のあいだにある水分を含んだような、言葉にしがたい質感。抱きしめたときにはわからなかったものが、今は指先だけで理解できてしまう。その感触が、礼司の意識の中で輪郭を持ち始めたとき、背筋がぞっとした。手を引こうとした瞬間だった。薫が、目
布団の中で、薫が静かに寝返りを打った。かさ、と乾いた音が微かに布と空気の間をすべり、礼司の腕の内側に小さな背中が触れた。指先が、わずかに揺れた。寝入っているはずの薫は、そのまま動きを止め、ぴたりと背中を礼司に預けたかたちになる。無言のまま、子どもの呼吸がゆるやかに繰り返されていた。礼司は、その背を見下ろすようにして少し体を起こしかけた。だが、やめた。代わりに、そっと腕を伸ばした。誰かを抱くという行為が、こんなにも慎重なものだったかと、自分で驚いた。腕が触れたのは、薫の肩甲骨のあたりだった。きゃしゃな骨の起伏の下に、微かな温もりと脈動があった。一度だけ、彼は弟の発熱に寄り添ったことがある。だがそのときの感覚とは違っていた。これは慰めでも、見舞いでもない。礼司自身の意思で伸ばした手だった。そのまま、そっと引き寄せる。薫の背が腕の内側にすっぽりと収まり、軽く抱きしめるような体勢になる。細い背骨の線をなぞるように、掌にぴったりと身体が密着する。その感触に、礼司は自分の心臓がわずかに跳ねるのを感じた。「……あつく、ないかな」囁いた声は返ってこなかった。薫は眠ったままだった。肩がわずかに上がり下がりするたび、髪がふわりと揺れて、額のあたりに触れた。その髪の匂いが、思いのほか近かった。微かに汗と、紙のような乾いた香りが混じる。それがなぜか、礼司の胸の奥で引っかかった。ほんの少しだけ、腕の位置をずらそうとしたときだった。薫が小さく、ため息をついた。その吐息が礼司の喉元にかかった。…それだけのことだった。なのに、喉が鳴った。呼吸が、うまくできなかった。体内の空気が一瞬止まり、脳に音がなくなった気がした。額に汗が滲んでいるわけでもないのに、礼司は首筋を拭いたくなった。けれど、動けなか
灯りは落とされていた。スタンドの光だけがベッド脇でぼんやりと揺れ、薫の寝顔を柔らかく浮かび上がらせている。室内は深く静まり、空気に溶けるほどの温度で時間が流れていた。礼司は窓辺の椅子から立ち上がり、そっと水差しと氷嚢を手に取った。閉じきったカーテンの内側には、夜の匂いがかすかに漂っていた。濡れた葉の香り、ひやりとした布団の冷たさ。すべてが、遠い記憶をなぞるように繊細だった。氷嚢の中の氷はすでに半分ほど融けており、表面がしっとりと濡れている。布の端を持ち替え、そっと薫の額からそれを外した。熱を帯びた額が、ひどく柔らかく思えた。触れた指先にじわりと伝わる熱の輪郭に、礼司の胸がわずかにざわめく。新しい氷嚢を水にくぐらせてから布で包み、また静かに額の上に置く。その動作の間も、薫は目を開けなかった。睫毛は濃く、頬に落ちるその影はまるで絹の糸のように微細だった。布団からのぞく細い首筋、胸元にあたるシャツの第一ボタンは、眠っている間に緩んでいた。小さな喉仏が上下し、微かな寝息が漏れるたび、礼司は不思議なほど自分の呼吸を意識した。額に手を当てたのは、ほとんど無意識だった。氷嚢の下から外側へ、熱がきちんと下がっているか確かめるためだったはずなのに、指先は自然と薫の額をなぞっていた。薫の肌はひどく白い。病に伏しているせいなのか、それとももとからこうだったのか。皮膚の下で血の通う気配を感じるほどの近さに、礼司の意識は吸い寄せられた。そのとき、不意に睫毛が震えた。「……れいじ…くん……?」声はかすれていた。けれど、それが確かに自分を呼ぶ声だとわかった瞬間、礼司の胸の奥がきゅっと縮んだ。「……起こしてしまったか?」思わずそう問いかけながら、指を額から離そうとした。だが薫の目が、まっすぐに礼司を見つめていた。眠気を含んだ光がその瞳の奥に揺れていて、まるで水の底からこちらを覗いているようだった。
中原邸の門を抜けたとき、礼司の頬に冷たい風が触れた。秋の始まりの空気は昼間の名残をわずかに纏いながらも、肌を撫でる感触には確かな夜の気配が混じっていた。沈みかけた夕日が庭の植え込みを斜めに照らし、蔦の絡む塀に長い影を落としている。十四になった礼司の背丈は、大人の上衣を借りても違和感のないほどに伸びていた。肩幅はまだ線が細いが、姿勢はまっすぐで、どこか触れることをためらわせるような静けさを纏っている。まだ声変わりの途上で、言葉には柔らかさが残っていたが、目元の陰影は同年の子供たちとは違っていた。玄関にいた女中に案内を告げられる前に、礼司は軽く頭を下げて「自分で行きます」と答えた。昔から中原家は彼にとって馴染みのある場所だった。けれど今日の邸内は妙に広く、音が吸い込まれていくように静かだった。廊下をひとりで進む。壁に沿ったランプの灯りがぽつりぽつりと等間隔に点いており、その明るさが逆に、奥へと伸びる影を濃くしていた。絨毯の上を歩く礼司の靴音はほとんど聞こえず、衣擦れの音と、廊下の先にある小窓から吹き込む風が、時折木の葉の音を運ぶのみだった。薫の部屋は、廊下の最奥にある。幼い頃は一緒に押し入れに入ったり、庭で鬼ごっこをしたりもした。だが、あの頃と比べると薫は変わった。いや、変わったのはどちらなのだろう。礼司は扉の前に立ち、軽く息を吐いた。この夜の訪問は、礼司の父が中原家からの申し出に応じたものだった。薫が風邪を引いて寝込んでいると聞き、兄のように懐いている礼司を見舞いに行かせれば励みになるだろう、という。それ以上の意味は、きっと誰も込めていない。だが、扉の前に立ったままの礼司の中には、説明しようのない感情が渦巻いていた。ノックをしようとした指が、一度止まった。しなくてもいいような気がした。音を立てることが、この夜の空気を壊してしまいそうだった。結局、礼司は無言のまま、そっと取っ手を回した。
庭に足を踏み出した瞬間、礼司の頬を夜の冷気が撫でた。夏が過ぎたばかりの夜気は、すでに秋の匂いを孕み始めており、草木の湿り気と、どこか煙たい土の香りが肺の奥に沁みていく。アトリエの扉が閉まる音はなかった。振り返ることはなかったが、その背中にはまだ薫の気配が色濃く残っていた。まるで、誰かに追われているような感覚すらあった。だが、それは追う者ではなく、見送る者の沈黙だった。庭の小道には夜露が降りていた。礼司の靴底が土と擦れ合うたびに、ひそやかな音が生まれる。けれどその音は風に紛れ、すぐに闇の中に消えていった。彼は胸元に手を当てるように、右手をそっと持ち上げた。指先から掌まで、何かがまだ残っているようだった。熱。薫の手に触れかけたあの瞬間。たった一寸の距離だった。けれど、その一寸がどれほど遠かったかを、今さらのように思い知らされていた。触れてはいない。だが、触れなかったからこそ、その熱は皮膚の下に沁み込んだまま、まだ冷めずにいる。手のひらが焼けつくようだった。誰のものでもない、誰にも知られない熱。その余韻に、自分の呼吸すら濡れているように感じる。視線。あの静けさの中、薫はひとことも発しなかった。だが、何度もこちらを見ていた。礼司の輪郭を、骨格を、沈黙の中でなぞるように。礼司もまた、薫の視線に触れていた。それがただの目の動きではなく、感情を宿した熱源そのものだと知ってしまった今、もう視線をただの視線として受け流すことなど、できなかった。薫の瞳が、自分を“見ていた”。理解ではなく、欲望でもない。それは、もっと手前にあるものだった。名づけることのできない渇きのようなもの。足元に落ちた葉に、ふと目をやる。夜露に濡れたそれは、柔らかく光を帯びていた。濡れた地面に、靴の跡が浅く残る。だが、その道がどこへ続くのかを、礼司は知らない。「…まだ、届かない」誰にも聞かせるつもりのない声が、唇から零
アトリエの空気は沈黙の膜で覆われていた。ひとつ前の鼓動が、まだ身体の内側に反響しているようだった。鉛筆の擦れる音はすでに途絶え、代わって、遠くの路地から聞こえる犬の鳴き声が、薄く夜の輪郭を示している。礼司は、椅子の上で姿勢をわずかに崩した。脱力ではなかった。むしろ、それは緊張の解放ではなく、張りつめすぎた糸が一瞬だけ、軋むように揺れたものだった。視線を落とせば、足の指先にまで意識が届く。だが、最も鋭く熱を持っているのは、手のひらだった。対面にいた薫が、ようやく動いた。スケッチブックをゆっくりと閉じ、その表紙の上に両手を重ねる。どこか息を飲むような仕草で一拍の間を置き、それからふと礼司の方に視線を移した。「…見てみますか?」低く柔らかい声だった。まるで手渡すものが“紙”ではないと知っているかのように、その声音は慎重で、なおかつどこか試すようだった。礼司は立ち上がった。膝の裏にわずかな汗が滲んでいたことに気づく。椅子の影が床に長く伸び、薫の肩までかかっていた。光はすでに薄闇に包まれはじめ、電球の灯りだけがふたりの輪郭を淡く切り取っていた。薫はスケッチブックを胸元まで持ち上げた。両手で、そっと差し出すように。その動きに、礼司の喉がひとつ鳴った。近づく。ただそれだけの動作に、全身が神経を研ぎ澄ませていく。歩幅を一歩、二歩。あと一歩で、薫の手が届く距離になる。薫の手は、細く白い。男の手ではある。だが、どこか儚さがあった。皮膚の薄さが際立ち、骨の節々が浮き上がるほど繊細だった。その手が、今、礼司のために一冊のスケッチブックを抱えている。まるで、それを差し出す行為自体が告白のようにも見えた。礼司は、右手を上げた。指先が、ほんのわずか空気を押し分ける。その手が、スケッチブックに向かって伸びていく。あと一寸。たったそれだけの距離。手を伸ばせば、届く。触れら