LOGINコスプレイヤーである清水明里(しみず あかり)は、松田穂花(まつだ ほのか)から、ある男性キャラクターのコスプレ依頼を受けていた。撮影のため、レストランで穂花の肩に腕を回してポーズを取っていたのだが、突然、頭からワインをかけられたのだった。 「その汚い手をどけろ!」 明里は言い返そうと思い顔を上げた。しかし、そこにあった怒りに満ちた鋭い眼光を見た瞬間、言葉を詰まらせる。 そこには、半年前から冷戦状態にある夫、清水正人(しみず まさと)の姿があったのだ。 そして今日は、二人の結婚5周年記念日。 半年もの間、明里はずっと正人から歩み寄ってくれるのを待っていたのに。 目の前にいる怒りで我を忘れている正人を見て、明里は思った。もしかして、冷戦状態に嫌気がさしたから、こんな荒療治で自分の気を引こうとしているのか? 明里は軽く鼻で笑うと、胸元に忍ばせてあるボイスチェンジャーを使用し、低い男性の声で揶揄うように言った。 「今日ここにわざわざ来たのは、ちゃんと話したかったから?」 しかし、明里が言い終える前に、正人は穂花を抱き寄せると、ナイフのように鋭い視線を明里に向けた。 「お前のことは半年前から知っているんだからな!お前みたいにアニメの格好で女に取り入るようなやつが、こんな純粋な穂花に近づくなんて。そんなこと俺が許さない」 どうやら、正人は目の前の相手が自分の妻だとは気づいていないらしい。 この男はただ、明里のことを「大切な人」に付きまとう、何処の馬の骨とも分からない男だと勘違いしてるのだ。
View More電話の向こうから、返事は返ってこなかった。……月日は流れ、季節は巡る。二宮家が完全に没落した時、明里の兄たちはすべての資産を売却した。それは、先祖代々の墓も、そして母親の墓でさえ……明里は慎吾と数日間探し回り、ようやく母の遺骨を取り戻すと、新しく納骨した。写真の中の母は、いつだって優しく微笑んでいる。年を取らないままの姿で。「今日はお母さんの60歳の誕生日だよ」明里がろうそくを立てる。「だから、私と慎吾、二人でお祝いに来たんだ」ふいに吹いた風で、ろうそくの炎が消えた。温かな風が首筋を撫で、まるで母が優しく触れているようだった。「お母さん、ようやく私を分かってくれる人が見つかったの」明里は胸が熱くなった。「誰かに合わせるんじゃなくて、今のままでいいんだって、彼が教えてくれた」風が枯れ葉を巻き上げ、ササッと音を立てる。まるで母が無言で答えてくれているみたいだった。帰り道、明里は慎吾と手をつないで歩き、ブーちゃんは尻尾を振ってその後をついてきた。地面に伸びる3つの影が、まるで仲の良い家族のように見えた。角を曲がると、車の側に祐介が静かに立っていた。「奥様……」祐介が明里に声をかける。慎吾は眉をひそめたが、言い返すことはしなかった。祐介は大きなダンボールを抱えていた。そして、明里の後ろをついてくるブーちゃんを見て、ふと呟く。「社長がいつもおっしゃっていました。奥様は本当に冷徹な方だ、と……結局、愛犬まで連れて出て行ってしまって、社長のことなど端から眼中になかったんだ、と」「正人にそれを伝えて来いって言われたの?」明里は問いかけた。「いいえ、私の勝手な判断です」祐介の声は震えていた。「ですが、もし社長も分かってくれるはずです」祐介は箱を強く抱きしめ、指先をわずかに震わせる。「事故の後、社長の体は治りましたが、心を病まれてしまったようでした。毎日奥様のために償いをしたいと言って、写真を加工してウェディング写真を作ったり、ドレスを山のように買い込んだりして……さらには、偽物の婚姻届までも繰り返し見ていました。私から会いに行くよう諭しても、あっても余計恨まれるだけで、許してくれるはずなんかないと、おっしゃって……その後、飲食店を始めて、チャリティにも力を入れるようになってからようやく落ち
慎吾は病院で2週間過ごしていたが、一向に退院しようとはしなかった。「先生、足がまた痛くて……嘘じゃないよ!」「腎臓でも悪くしたかな?痛い、痛いんだ……」「今日はめまいがするんだ。脳震盪の後遺症かもしれない」慎吾は毎日あれこれと理由をつけて医者を困らせた。「だって、君の元夫さんに轢かれそうになったぞ。治療費をもっと請求して当然だろ?」慎吾は悪びれずにそう言った。明里は剥いていたみかんを、彼の口に押し込んだ。「口は災いの元。事故の前、どうせあなたが挑発していたんでしょ?」慎吾は自然に明里の手を握り、おどけて笑った。「幸せだって口から入ってくるんだ。それに、君に心配してもらえるなら、何度だって死んでも……痛っ!」明里は容赦なく慎吾の頭を叩いた。「馬鹿なことを言わないで!」笑い合っている二人は、入り口に誰かが立っていることに気づかなかった。「気楽なもんね……」穂花の声が響き、二人は驚いて顔を上げた。明里が見た穂花の姿は無残だった。切断された両脚、顔中に走る傷跡、手首に付けられた重々しい手錠。かつての姿は見る影もなかった。「哀れむような目で私を見ないで!」穂花が叫んだ。「負けてなんかない!あんたには私の人生なんて理解できないんだから!私がしてきたこと……」「あなただって私のことは分からないわ」明里は静かに話を遮った。「SNSで暴露された二宮家のあれこれなんて氷山の一角。本当の痛みなんて、本人にしか分からないものなの」明里は穂花を見据えて、はっきりと言った。「この言葉を返させてもらうよ。どんな事情があっても、それが罪を犯す理由にはならない」「うるさい!」穂花は激しく震え、手錠をガチャガチャと鳴らした。「ここから出たら……人生をやり直してみせるから!絶対に幸せになってやる」穂花の叫び声が廊下に虚しく響いた。慎吾は首を振った。「あいつ、もう完全に狂ってるな」「愛に溺れて、それでもあきらめきれなくて、自分を壊してしまったのんだね」明里は静かにつぶやき、慎吾と顔を見合わせた。互いの目にあったのは、もう迷いではなく確かな答えだった。……1週間後、慎吾は退院し、明里のスタジオもようやく軌道に乗ってきた。常連客も戻り、新規の仕事も増え、チームは忙しさに追われていた。明か
明里は、まさか自分がどちらかを選ばなければならない局面に立たされるとは思ってもいなかった。橋の上で止まった車の中には事故で身動きが取れなくなった正人が座り、車のボンネットには跳ね飛ばされて動けない慎吾が横たわっていた。「もし車の中の人を先に助ければ、フロント部分のバランスが崩れて車ごと川に落ちます。かといってフロントの人を先に助ければ、車体が川に沈んでしまうんです。車は今、奇跡的なバランスで止まっています。どんな力も加えられません。どちらか一人しか、助けられないんです。誰を救うかは、あなたが決めてください」吹き荒れる強風のせいで救助隊員の声もよく聞こえないし、明里には二人が自分をどう見つめているのかなんて、もっと分からなかった。心に絡みつく蔓が、感情をずたずたに引き裂いていくようだった。一人は5年間連れ添った元夫。もう一人は、8年間ずっと自分を想い続けてくれた友人。どうすればいいのだろうか?明里の迷いを見ていた正人は、言いようのない皮肉を感じていた。自分が明里の第一優先ではなかったこと、その事実が胸を突き刺す。明里は何があっても自分を一番にしてくれていたはずだった。「あなたは初めて私に無条件の優しさをくれた人。このことは、一生忘れないよ」と言っていたのに。それから、二人は衝突を繰り返した。「誰からも愛されて育った人は、他人に愛情を分ける余裕があるわ。でも、私にはこのわずかな温もりしかないの。それなのに、どうして私に『我慢して譲れ』なんて言えるの?私か穂花か、はっきりして」あの時の自分は、明里と穂花どちらも残そうとするあまり明里の心を無視し、修復不可能な亀裂を生んでしまった。似た歴史が今、繰り返される。生死のボタンが明里に委ねられた今、自分を迷わず選んでほしいと願うあまり、明里の見せた迷いに心を痛める。あの頃の明里も、こんなに苦しかったのだろうか?その考えが浮かぶと、正人の胸は水を含んだ綿のように沈み、痛みに締め付けられた。「死にたくない。一生をかけて償いたいんだ。でも、俺を恨んでるというのなら、こいつの命を選んだっていい。ただ、俺を許してほしいんだ……」出血多量で消え入りそうな正人の声だったが、その言葉の一つひとつが明里の心に突き刺さる。「昔の俺は、お前の気持ちに気づけなかった。もし
明里が父親と兄に拉致された事件がSNSで話題になり、二宮家の保守的な考え方がネット上で厳しく非難された。健太は亡くなり、豪は逮捕され、二宮家は没落した。残された8人の兄弟も遺産を巡って争い、自滅していった。事件に加担した穂花は交通事故で重傷を負い、両足を切断。現在も入院して治療を受けている。スタジオのメンバーたちが明里の様子を見に来た際、慎吾は先ほどの話をもう一度繰り返した。明里は聞き飽きていたので、慎吾に黙るように促す。「もう終わったことでしょ?いつまでそんなこと言ってるの?」「痛快じゃないですか?これからみんなは命を懸けて、清水さんについていきますから!」調子の良い上田真司(うえだ しんじ)が真っ先にそう言うと、周囲もそれに同調した。「そうですよ!一生についていきますから!」「わかった。みんなの気持ちは伝わったから。スタジオが落ち着いたら、また一緒に頑張ろうね」慎吾は箸でテーブルを叩き、明里を囲む誓いの場を遮った。「会議は終わりだ。みんな集まってくれ、飯にするぞ」真司は料理を一口食べると大絶賛した。「わあ、陣内さんって独り身なのに料理上手いんですね。見た目も味も最高です」「黙って食え」慎吾が手元の唐揚げを真司の口に詰め込むと、ふと視線を感じた。自分を見つめる明里と目が合い、思わず顔をそらして自分も食べることに集中する。機嫌のよかった明里にとって、その食事は正月を祝う宴のように楽しく思えた。食後、メンバーたちが帰った後も慎吾は残り、厨房の掃除を手伝い始めた。ふきんでテーブルを拭いていた手をふと止め、慎吾は口を開く。「なあ、これだけ飯を作って片付けもしたんだから、少しくらい愛想良くしてくれてもいいんじゃねえの?」「慎吾。今日は偶然にも全てが私の好物で、どれも作り方を知っていたみたいね」明里の探るような言葉に、慎吾は心が落ち着かなくなった。慎吾は苦笑いをしてごまかそうとしたが、追及の手を緩めない明里に詰め寄られる。「この食器も、ずっと前から目を付けてたものなの。偶然にしてはできすぎだと思わない?」「本当に!君には情緒のかけらもくそもない!」慎吾はふきんを放り投げ、開き直った態度をとった。「アプローチしてくるなって口うるさく言うのはまだしも、好きになることまで制限するなよな!