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第178話

Author: こふまる
楓は悠斗を連れて少し離れた場所に座った。幸い着替えは持参していた。

アルパカの唾液で汚れた服を脱ぎ、嫌そうな顔で脇に放り投げる。

自分の着替えに夢中になっていると、「僕の服も汚れちゃった」と悠斗が小さな声で言った。

折りたたみ椅子に座ったまま、楓はあごを少し上げて答えた。「バッグの中に入ってるわよ」

悠斗は頬を膨らませて不満気に呟いた。「着替え、自分でするの?」

家では使用人が身の回りの世話をしてくれる。だから外でも、親しい楓が着替えを手伝ってくれるはずだと思っていた。

楓は髪をウェットティッシュで必死に拭きながら、顔をしかめている。今の彼女の頭の中は、早くシャワーを浴びて髪を洗いたいという思いでいっぱいだった。

悠斗の相手をしている余裕などなかった。

周りを見渡すと、他の園児たちは皆、親に面倒を見てもらっていた。水を飲ませてもらったり、汗を拭いてもらったり、着替えを手伝ってもらったり。

夕月は瑛優の髪を優しく整えている。

悠斗の胸に複雑な感情が込み上げてきた。

去年の親子行事。汗をかいた時は、夕月が優しく着替えを手伝ってくれた。汗取りパッドを背中に当ててくれて、顔も綺麗に拭いてくれた。

喉が渇いたと言う前に、水筒を口元まで持ってきてくれた。

でも楓は、そんなことは何一つしてくれない。

悠斗は首を垂れて、汗と唾液で臭くなった服と、汚れた靴を見つめた。

夕月がいた時だけ、自分はいつも清潔な子供でいられた。

楓には、自分の面倒の見方さえ分からないんだ。

「パパ、着替え手伝って?汗かいちゃった……」悠斗は冬真に声をかけた。

「自分でやれ」冷たい一言が返ってきた。

父親を怖がっている悠斗は、首を縮めて諦めたように小さなリュックから着替えを取り出した。

楓が身なりを整え終わると、だらしなく声を上げた。「ねぇ悠斗、ポテチ開けてくれない?」

悠斗は「自分で開けたら?」と言いかけて、ふと思い出した。

楓を親子行事に誘った時、あの嫌な母親を怒らせる作戦を立てていたことを。

楓の説明によると、夕月を怒らせるには、みんなの前で楓に対して優しく、献身的に振る舞えばいいのだという。

楓が何を頼んでも、すぐに応えること。

だって、夕月にはそんな態度を見せたことがないから。

夕月が、楓に甘えまくる悠斗を見て、楓の言いなりになる悠斗を見たら、きっ
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