二人の姿が扉の向こうに消えてから三分後、給仕がおずおずと足を踏み入れた。「あの……お料理をお持ちしても、よろしいでしょうか?」震え声での問いかけに、冬真の低い声が返された。「どうして部外者を勝手に入れた?」その一言で、個室の温度が一気に下がったかのような錯覚に陥る。給仕の声が震えながら答える。「身分証明書を……提示されましたので」そう言いながら、給仕は恐る恐る冬真を盗み見た。警察に連行されていないということは、何も罪を犯していないのだろう。だからこそ料理の件を尋ねたのだが、一刻も早くこの客を見送りたいというのが本音だった。「料理を持ってこい」冬真の短い返答に、給仕は慌てて退室した。やがて二十皿近い料理が卓上に運ばれ、色とりどりの料理が眼前に並んだ。会社近くでも屈指の名店、一流の料理人が腕を振るった逸品ばかり。それなのに冬真が箸をつけても、まるで砂を噛むような味気なさしか感じられない。「水餃子を作ってくれ……夕月」独り言が空しく響く。誰も答える者はいない。冬真は冷笑を浮かべ、ナプキンを放り投げて個室を後にした。*黒い巨体のジープが舗装路を駆け抜けていく。まるで漆黒の駿馬のように、前方の小さな車両を軽々と追い抜いていった。夕月は肘を窓枠にそっと預け、午後の熱風が頬を撫でていく。風は暖かいのに、頭の中はどこまでも冷静だった。「橘冬真の性格を考えれば……これからは少しは大人しくなるでしょうね」「いっそ豚箱にぶち込んでやりたいところだが」天野の声が響く。夕月の唇が薄く弧を描いた。「押さえつけるより、諦めさせた方が効果的よ。それに、あの男は簡単に檻に収まるような相手じゃない」「まったく、ハエみたいな奴だ」天野が吐き捨てる。「無視すれば無視するほど、ブンブンうるさく飛び回って。見てるだけで虫唾が走る」天野の毒舌に、夕月の喉から小さな笑い声が漏れた。「目の前に飛んできたら、叩き潰してやるまでよ。一発で仕留められなければ二発。いつかは必ず、ぺしゃんこにしてやる」その時、携帯電話が鳴り響いた。画面に映る見知らぬ番号を一瞥し、夕月は迷わず通話拒否ボタンを押す。間もなく再び振動が始まる。同じ番号からだった。夕月は携帯を脇に置き、無視を決め込んだ。「しつこい営業電話か?」「でしょうね。知らない番号には
冬真の視線が夕月の顔に釘付けになり、口元に愉悦の笑みが浮かんだ。「それなら君が、この火を消してくれるのか?」夕月の一挙手一投足が、これほどまでに彼を魅了するとは。氷河のように冷え切っていた心臓から、今や灼熱の溶岩が噴き出している。以前の夕月なら、決してこれほど逆らうことはなかった。食事に誘えば快く応じ、気遣わしく料理を取り分け、海老の殻を剥き、彼の好物を丁寧に茶碗に盛ってくれた。それが今では、同じテーブルに座ることさえ拒んでいる。だが夕月の激しい反発を目の当たりにして、冬真の血管を駆け巡る血潮が煮えたぎり始めた。自分は究極のマゾヒストなのかもしれない。夕月が刃を突き立てれば突き立てるほど、興奮が高まっていく。夕月は携帯を取り出し、画面の時刻を確認すると、心の中で秒読みを始めた。「こんな手口で、私を閉じ込められるとでも思っているの?」もう彼女は、牢獄のような橘邸に身を置いて冬真が振り返ってくれるのを待ち続ける、あの頃の橘夫人ではない。「ガンッ!」扉が勢いよく蹴破られ、黒いタイトな上着と迷彩のカーゴパンツに身を包んだ天野が、殺気立った様子で現れた。天野の姿を認めると、夕月は迷わず出口へと向かう。長身の天野がドアフレームに立ちはだかる様は、まさに聳え立つ山のようで、入口を完全に塞いでいる。彼の巨体が落とす影が個室内に伸び、圧倒的な威圧感を放っていた。天野が眉根を寄せ、冬真のいる方角へと視線を向ける。喉の奥から軽蔑に満ちた笑い声が漏れた。「懲りない男だな、橘冬真。橘博士に監禁されていた時のことは、もうお忘れか?」天野がその暗黒の日々に触れた瞬間、まるで鋭利な刃で胸を切り裂かれたかのように、冬真の内なる汚濁が白日の下に晒された。あの監禁された時間を忘れるなど、あり得ない。真夜中に目覚めては、あの日々を何度も何度も反芻している。「それで?お前も私を檻に閉じ込めるつもりか?」冬真の唇に嘲笑が宿り、暗い瞳の奥底に僅かな期待の色が揺らめいている。もし監禁されれば夕月と頻繁に会えるのなら、喜んで用意された檻の中に身を投じよう。天野が鼻を鳴らす。「これ以上夕月に付きまとい、勝手気ままに生活を荒らすようなら、俺が代理で接近禁止令を申請してやる」夕月が天野を促した。「行きましょう」天野の内に宿る怒
夕月の行動は冬真を怒らせるどころか、むしろ興味深いものだった。かつて二人の結婚生活は、誰も手を触れようとしない淀んだ沼のようなものだった。少しでも波を立てれば、その静寂な水面が一気に濁ってしまうことを、互いに理解していたからだ。しかし今は違う。二人の間に横たわるのは沼ではなく、広大な海原だった。夕月のひとつの行動が巨大な波濤を起こし、冬真を呑み込もうとするかのようだ。厚顔無恥と言われようが、真性の変態と罵られようが構わない。自分が欲望を解放する姿を夕月に見られたところで、何ということもない。以前だって、夕月は見ていたのだから。夕月の向かいに座る冬真の瞳に、金属的な冷たい光が宿る。目の前の女を興味深そうに見つめながら、次にどんな驚くべき手を打ってくるのかと期待していた。「ただ、大人しくしていてもらいたいだけ」夕月はパソコンを閉じた。事務的で冷淡な口調で冬真に告げる。「こんな映像が海外のサイトに流出して、桜国人に見られ、あなたの正体がバレて評判に影響するのが嫌なら……私の生活から距離を置いてちょうだい」「脅しているつもりか?」冬真の問いかけが響く。その低く深みのある声音に、挑発的な調子が絡みついていた。「その通り、脅迫よ」夕月は冷然と認めた。「いい元夫というのは死んだも同然の存在でいるべきなの。二日に一度も私の生活圏に現れて、ドローンまで使って部屋に侵入するなんて論外」一字一句をはっきりと刻みつけるように、夕月は言い放った。「冬真、あなたは見下げ果てているのよ」男は否定も肯定もせず、軽く顎を上げた。夕月の言う通りだ。確かに自分は見下げ果てている。「優秀な元夫になるつもりもなければ、模範的な前夫の見本になるつもりもない」冬真の声が響く。「まずは祝福しよう。私の評判を落とせる盗撮映像を手に入れたことを。その映像を海外サイトに流したところで、訴えるつもりはない。むしろ多くの人に、私がどれほど元妻を慕っているかを見せつけることになるだろうからな」冬真の言葉を聞いても、夕月の胸に何の波も立たない。むしろ可笑しささえ込み上げてくる。「それで、離婚したことを後悔しているの?」夕月が問いかけた。男は首を振る。「離婚していなければ、私たちの結婚生活は相変わらず死んだ水のように退屈なままだった。ある意味、今のお前を作り上げたのは私
「ちょっと待ってくれ」冬真が給仕を呼び止めた。「橘社長、何かご用でございますか?」給仕が丁寧に尋ねる。言葉が喉まで出かかったが、夕月が何を好んで食べるのか思い出せない。普段夕月が作っていた料理は何だったか……?だが、あれらは全て冬真と子供たちの好みに合わせたものだった。夕月のことを、自分は驚くほど知らない。冬真はメニューを置いて給仕に告げた。「お店の看板料理を七品追加してくれ」給仕が了承し、追加した料理の確認を取った。円卓に腰を下ろした冬真は、このような状況に慣れていなかった。いつもなら客が全員揃って自分の到着を待つのが常だというのに、今は一人でがらんとした個室に座り、何をすべきかわからない。心拍が早くなり、頭の中では勝手に様々な想像が駆け巡った。個室の入口に夕月の姿が現れた。淡いブルーのシルクシャツにデニム色のワイドパンツという装い。実用的で動きやすい服装を好む彼女らしく、風を切るような足取りで歩いてくる。夕月が入室した瞬間、冬真は反射的に息を止めた。視線は一度も夕月の顔から逸れることがない。まるで初めて夕月を見るかのように、男は何度も何度も彼女を見つめ直した。なぜ離婚後にも関わらず、疲労や落ちぶれた様子が微塵も見えないのか。彼女は丸みを帯びた真珠のように、薄暗い光の中でも煌めきを放っている。夕月は冬真から最も遠い席に腰を下ろした。向かい合ってはいるが、その距離は果てしなく遠い。「橘社長のお時間を無駄にしないよう、手短に済ませます」夕月はビジネスライクな口調で切り出した。向かいに座る男の唇に、薄い冷笑が浮かんでいる。その高慢で距離を置いた演技を、いつまで続けられるか見ものだ。夕月はバッグからノートパソコンを取り出し、画面を開いて冬真の方へ向けた。画面に映し出されたのは、紛れもなく冬真の顔だった。映像の背景と左上角に表示された日付から判断すると、昨夜寝室で行っていた就寝前の「運動」が撮影されていた。カメラの一部が遮られているため、映像の中の彼の顔は曖昧でどこか非現実的に映っている。だが、彼の荒い息遣いや低い呻き声は、鮮明に録音され、冬真の目の前ではっきりと再生されていた。長年凍てついていた冬真の瞳に亀裂が走る。氷河が溶け出す時、大量の冷気が放出されるように、個室の気温が一瞬にして氷点
冬真はそのメッセージを三度読み返し、確実に夕月から送られてきたものだと確認した。握りしめた拳に力が込められ、青白い指の骨が皮膚を突き破りそうなほど浮き上がる。夢を見ているわけではない。夕月が本当に自分から連絡してきたのだ。突然の連絡——一体何の魂胆があるのか。今さら二人の間に何を話すことがあるというのか。量子科学で行き詰まったのか。自動運転プロジェクトが頓挫して、ついに夕月も頭を下げる気になったのか。それなら、このわがままな女を寛大にも受け入れてやるべきか。冬真は携帯を手に取り、画面を何度も見つめ直した。やはりそうだ。夕月一人で外の世界と戦い続けるには限界があったのだ。口角がゆっくりと上がり、そしてまた元に戻る。気づくと、自分が既に夕月にメッセージを打っていた。「忙しい」せっかく勇気を振り絞って面会を求めてきた夕月に、絶望というものを味わわせてやろう。会うか会わないかは、全て自分次第なのだから。自分は夕月の召使いではない。呼ばれれば駆けつけ、振り回される犬ではないのだ。「頼むなら十分だけ時間をやる。十一時、願叶亭の一号個室で食事をする。勘違いするな、お前を食事に誘うつもりはない。どうしても会いたいなら、その時間に来い。十分だけ時間を割いて、顔を見せて話を聞いてやる」自分が送ったメッセージを見つめながら、冬真の唇に薄い笑みが浮かんだ。夕月の負けだ。彼女の方から連絡してきた瞬間、夕月が自分に反抗し、張り合おうとしていた戦いは完全に決着がついた。もう少し粘れるかと思っていたが、所詮その程度だった。冬真は秘書に電話をかけた。「今日の十一時、願叶亭の一号個室を予約してくれ。ランチは最高級のコースで。誰かを招くわけじゃない、ただ一人で贅沢に食事がしたいだけだ」電話を切って携帯を机に置くと、冬真の指先が机上を軽やかにトントンと叩き始めた。しばらくして秘書が社長室に入ってきた時、冬真の機嫌が異常なほど良いことに気づいた。その上機嫌ぶりといったら、願叶亭の最高級個室を一人で貸し切って豪華な食事を楽しもうというほどだった。秘書は首をかしげた。一体何があったのだろう。十時半になると、冬真は時間きっかりに社長室から姿を現した。「橘社長、他のフロアの視察でございますか?」秘書と
翌朝、ダイニングで冬真は上品な手つきで朝食を口に運んでいた。佐藤さんがコーヒーを運んできて、ふと気づく。今日の冬真はなぜか機嫌が良さそうに見えた。内心で佐藤さんは驚いた。夕月と冬真の離婚以来、橘邸全体が重苦しい雲に覆われたようになっていた。冬真が家にいない時はまだましだが、彼が帰宅すると、使用人たちは息をするのも辛く感じるほどだった。心の中で佐藤さんは神に祈った。この好機嫌が少しでも長く続いてくれますように。でなければ、本気で辞表を叩きつけたくなってしまう。階段から悠斗が降りてきて、佐藤さんは慌てて明るく迎えた。「坊ちゃま、今日は随分早起きですね。お声をかけなくても、もうお目覚めで。坊ちゃまもだんだん大人になられて」佐藤さんは必死に褒め言葉を並べる。悠斗は典型的な寝起きの悪い子で、しかも相当な寝起きの機嫌の悪さを見せる。以前は悠斗を起こし、身支度の世話をするのは全て夕月の仕事だった。後にその役目を引き継いだ佐藤さんにとって、それは言葉にならない苦痛だった。「坊ちゃま、お身支度はもうお済みですか?そちらにお掛けになって、お食事をご用意いたします」佐藤さんがダイニングを出ようとした時、悠斗が口を開いた。「昨夜、僕が眠ってる間に誰か部屋に入ってきた?」「まさか、そんな方はいらっしゃいませんよ」佐藤さんは反射的にそう答えたが、はっと思い出した。深夜、悠斗の部屋から出てくる冬真の姿を見かけたことを。あの時刻なら、悠斗は確実に眠っていたはずだ。佐藤さんの視線が思わず冬真へと向かうと、当の本人は何事もないかのように優雅にナイフを動かしている。悠斗の言葉に微塵も動揺した様子はない。「坊ちゃま、夢でも見られたのでは?」佐藤さんは慌てて取り繕う。悠斗はテーブルに着くと、冬真に向かって言った。「ママの服の匂いが変わってる」冬真は聞こえないふりを続けた。「廊下の防犯カメラを調べたい。僕が寝てる間に、誰かがママの服をこっそり替えたんじゃないかって」冬真はあっさりと応じた。「好きにしろ」廊下のカメラには既に手を回してある。悠斗がいくら調べようとしても、何も出てこないはずだった。悠斗の頬がぷっくりと膨らみ、怒りで真っ赤になった。「服をすり替えた悪い奴を絶対に見つけ出してやる!むかつく!せっかく瑛優から貰った大切な服な