LOGIN道端で狂犬に遭遇した。 咄嗟のことに、夫の神崎輝和(かんざき てるかず)は私、雨宮恵瑠(あまみや える)を力任せに突き飛ばし、重度のうつ病を患う松本舞香(まつもと まいか)をその腕に抱きしめた。 私が狂犬に噛みちぎられるのをただ見殺しにした。 輝和は手を伸ばし、彼女の目を覆った。 「よしよし、見ちゃだめだ。夜、悪夢にうなされるからな」 息子の神崎陽太(かんざき ひなた)でさえ、そばでヘラヘラと笑い、手を叩いて興奮気味に言った。「ママが犬に噛まれてる!あははは!」 私は狂犬に地面へ引きずり倒され、お腹を石の車止めに強く打ち付けた。目の前が真っ白になるほどの激痛に神経が張り詰める。 私は必死に哀願した。「お腹に赤ちゃんがいるの。お願いだから助けて、本当にお腹が痛いの……」 しかし、輝和は鼻で笑って言い放った。「本当に、どんどん演技が上手くなるな」 そして、三人は一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。 その結果、私は流産し、病院へ運ばれた。 あの父子は私のことなど心配すらしないどころか、病室に乗り込んで私を責め立てた。 「お前が犬に噛まれた血生臭い場面のせいで、舞香のうつ病が悪化したじゃないか!お前はどうしてそんなに底意地が悪いんだ?なんで彼女を刺激しなきゃ気が済まないんだ?」 私が底意地が悪いって? いいわ、なら私が身を引いてあげる。 でも、私が死んだ後、どうしてあなたたちは揃いも揃って泣きながら私に「帰ってきてくれ」ってすがりついてるの?
View Moreようやく軌道に乗り始めていた輝和のIT企業は株価が暴落し、瞬く間に倒産の危機に瀕した。一方の舞香は人身売買の容疑で警察に逮捕された。その日の夜、涼子のスマホに一本の電話が入った。輝和からだった。彼女は鼻で笑いながら応じた。「輝和、恵瑠は私の親友なの。配信の動画を削除するなんて、あり得ないから」だが、電話の向こうの男は震える声でこう問いかけてきた。「……恵瑠は、本当に死んだのか?」涼子は心の底から呆れ果てた。「じゃあ何だっていうの?あなたの気を引くための、ただの狂言だとでも思ってたわけ?」それからというもの、輝和と陽太は、私がどこに埋葬されているのかを聞き出すため、毎日のように病院へ押し掛け、涼子を待ち伏せるようになった。涼子は冷笑して吐き捨てた。「お墓に行く資格なんて、あなたたち恩知らずの親子にあると思ってるの?今の生活があるのは全部恵瑠のおかげじゃない。それなのに、たった二百万円すら出し渋ったくせに!」輝和は慌てて弁解した。「本当に忙しくて忘れていたんだ……俺はてっきり、彼女が……」陽太は目を真っ赤に腫らし、涼子の袖を強く引っ張って泣きじゃくった。「お願いだよ、ママがどこにいるか教えて!ママが死ぬわけないよ。僕、ちょっとママを怖がらせたかっただけなんだ。そうすれば、これからお菓子もくれるし、ゲームもさせてくれると思って……ママがいらないなんて、言ってないよ……!」涼子は彼を冷ややかに見下ろした。「あなたのママは死んだわ。あなたが何度も『死ね』って悪意の言葉をぶつけた、あの時にね。新しいママが欲しいって言ってたじゃない。だったら、その新しいママが刑務所から出てくるのを、首を長くして待ってなさいな。それから輝和、今さら悲劇のヒーローを気取るのはやめて。誰かに脅されて他の女と寝たわけでも、無理やり不倫させられたわけでもないでしょう。恵瑠が本当はどんな人間か、あなたが気づいていなかったなんて絶対に信じないわ。あなたが舞香の根拠もない嘘を信じ込んだのは、そうすることでしか自分の不倫への罪悪感を拭えなかったからよ。あなたたち親子は揃いも揃って救いようのないクズよ。少しでも羞恥心があるなら、もう二度と恵瑠を探さないで。彼女だって、絶対にあなたたちの顔なんて見たくないはずだから」輝和と陽太は逃げるようにそ
涼子はずっと、ある機会を待ちわびていた。そしてついにその日が来た。輝和と舞香が籍を入れ、あろうことか私宛てに結婚式の招待状を送りつけてきた。涼子はそのタイミングを見計らい、ライブ配信を開始し、私が長年着せられてきた無実の罪を、ありのままに語り始めた。「私にはとても優秀な親友がいました。彼女は彼氏が金も地位も、何一つ持っていなかった頃、朝から晩まで身を粉にして働き、起業の資金として二百万円を彼に渡しました。その後、二人は結婚し、子供にも恵まれました。しかし、その夫も実の子供も、誰一人として彼女を信じなかったのです。ある日突然、見ず知らずの女が現れ、親友を『いじめの加害者』だと糾弾しました。自分が高校を中退したのは、すべて親友のせいだと……当時の高校に赴いて調べれば、すぐに真実が分かるはずなのに、彼はそれすらしようとせず、あろうことか親友に『罪を償え』と強要したのです。その女の名前は松本舞香と言います。彼女はいじめの被害者どころか、むしろ加害者でした。高校を中退したのも、妊娠したからに過ぎません。その時に産んだ子供も、赤ちゃんのうちに他人に売り飛ばしています。そして、舞香が患っているという『うつ病』すらも……すべて真っ赤な嘘だったんです。こんなにも腹黒く、悪辣な女がうつ病になんてなるわけがないでしょう?」涼子は配信を見守る大勢のネットユーザーたちの目の前で、迷うことなく警察に通報した。さらに、これまで整理し、完璧にまとめ上げたすべての証拠資料を画面越しに公開した。配信の最後に、涼子はこう言った。「私の親友は夫の不倫が明白な事実であったにもかかわらず、慰謝料も財産分与も一切求めず、身一つで家を出ることを選びました。ただ一つ、かつて起業資金として渡したあの二百万円だけを返してほしいと、それだけを求めたんです。なぜなら、親友はすでに不治の病に侵されていたからです。そのお金は彼女が自分自身のお墓を買うための最期のお金でした。それなのに、親友が息を引き取り、帰らぬ人となった今に至るまで、そのお金が振り込まれることは、決してありませんでした」この配信はネット上にすさまじい大嵐を巻き起こした。その日の夜、関連ワードは瞬く間にトレンドの一位に躍り出た。激怒したネットユーザーたちによって、関係者全員の身元が即座に特定され
父はベッドの傍らに力なく座り込み、まるで子供のように顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。「父さんが悪かった……すまなかった。でも、これだけは信じてくれ。父さんは命に代えてもお前を助けるから」私は震える声で彼を遮った。「……もういいよ。治らないから。そのお金は、自分の老後のために取っておいて。お酒もタバコも控えて、少しでもマシな老人ホームを見つけて、これからの人生、ちゃんと生きてよ。もう、あんな自堕落な真似はしないで」父親は恐る恐る、私が学生時代に使っていたクマの柄の弁当箱を取り出し、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。「お前が小さい頃に好きだったおかずを作ってきたんだ。一緒に食べようと思って……今でも好きかどうか分からないが。病気の時こそ、たくさん食べなきゃいけない。昔から言うだろう、『食べられるうちは生きられる』って」私が窓の外を見たまま、一向に返事をしないのを見て、彼はいたたまれなくなったように立ち上がった。「じゃあ、父さんはこれで帰るよ」何か言いかけたようだったが、自分にはもう説教する資格などないのだと気づいたのだろう。私を深く見つめた後、背を向けて病室を出て行った。しばらくして、私は病室を出て、病院の長い廊下に立った。そこにはもう彼の姿はなかった。振り返ると、サイドテーブルの上にあのクマの弁当箱がポツンと置かれている。調子のいいことばかり言って。一緒に食べようって言ったくせに、自分だけさっさと帰っちゃうんだから。蓋を開けると、中には子供の頃よく食べた家庭料理が詰まっていた。甘い卵焼きに、鶏の唐揚げ……私は涙を拭いながら、それを口に運んだ。口の中は血の味がして、喉は引き裂かれそうに痛かったけれど、それでも残さずすべて平らげた。「食べられるうちは生きられる」――父のその言葉のせいで、ほんの少しだけ、死ぬのを先延ばしにしたくなってしまったから。でも、彼はまた私に嘘をついた。その夜、頭を割られるような激しい痛みに襲われ、私は「ああ、いよいよ最期の時が来たのだ」と直感した。最後の力を振り絞り、整理しておいた資料をサイドテーブルの上に整然と並べる。涼子なら、きっと私の意図を汲み取ってくれるはずだ。次の瞬間、目の前が真っ暗になった。耳元で響くのは、無機質な医療機器のアラーム。再
涼子のところへ向かおうと振り返った瞬間、酒瓶を握りしめた父が血相を変えて突進してきて、私の頬を思い切り張り飛ばした。避ける間もなく、頭の中でガンッという鈍い耳鳴りが響き渡る。目の前が真っ暗になり、私は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。遠のく意識の中で、彼の取り乱したような声が聞こえた気がした。私は再び、救急救命室に運び込まれた。今回は中にいた時間が途方もなく長く感じられた。あやうく、あの扉の向こう側から二度と帰ってこられないのではないかと思うほどに。消え入るような最後の一息をかろうじて繋ぎ止め、私は救急救命室から運び出された。確実に死に至る不治の病に罹って初めて気づいた。あっさりと死ぬことさえ、そう簡単には許されないのだと。今回、ベッドの傍らには涼子だけでなく、父の姿もあった。私は信じられなくて、思わず自分の目をこすった。消えない。幻覚ではなかった。人は死の間際、自分にとって都合のいい夢を見るものなのかもしれない。自分はまだ誰かに愛されているのだという、甘い夢を。だが、父のしゃがれた声が響いたことで、それが現実だと悟った。「恵瑠……こんな大変なことになっているのに、なぜ父さんに黙っていたんだ」私は視線を逸らした。ああ、本当に彼がいる。振り返れば、私がまだ幼かった頃、彼もかつては「まともな父親」だった。私を肩車してくれたり、一番お気に入りだったぬいぐるみを買ってくれたり、たくさんの写真を撮ってくれたりした……いったい、いつから変わってしまったのだろう。確か、彼が仕事を失ったあの頃からだ。それ以来、彼は酒に溺れ、私と母に暴力を振るうようになった。父はベッドの傍らに座り、言葉を続けた。「家は売ったよ。二千万円ほどになった。病院の近くに小さなアパートを借りたんだ。家賃はたったの六千円だ。酒も、もうきっぱりやめる。明日から仕事も探すつもりだ。工事現場の作業員でも警備員でも、体を使って稼げる仕事なら何だってやるよ」昔から、彼を前にすると私はどうしても喧嘩腰になってしまう。「何?私が死んだらもうお金をせびれなくなるから、いい歳してようやく自活する気になったの?」彼はティッシュを取り出し、溢れる涙を拭った。「涼子から聞いたよ。お前が入院しなかったのは……金がなかったからなんだろう?心配するな。父さん