ログイン事務所の中に、重たい沈黙が落ちた。
窓を打つ雨音だけが、静かに響いている。
桜井唯はモニターを見つめたまま、動けなかった。
雨に濡れた黒崎涼。
スーツの肩まで濡れているのに、まるで気にもしていないようだった。
その表情は暗く、疲れ切って見える。
けれど――。
唯の胸には、不安の方が強く広がっていた。
どうして、ここまで来るの。
離婚したのに。
もう終わったはずなのに。
櫂が静かに唯の隣へ立った。
「出なくていいですよ」
低く落ち着いた声だった。
唯は小さく息を飲む。
確かに、出る必要なんてない。
でも。
このまま帰ってくれるだろうか――。
そんな不安が胸をざわつかせる。
インターホンが、もう一度鳴った。
短く。
けれど、どこか切迫した音だった。
唯の肩が小さく揺れる。
雨粒が、傘を静かに叩いていた。桜井唯はスマホの画面を見つめたまま、動けなくなる。――黒崎グループ・広報部。胸の奥がざわついた。こんな時間に、どうして。隣で、高倉櫂が静かに唯を見ている。唯は迷った末、小さく息を吸って通話ボタンを押した。「……はい」『夜分遅くに失礼いたします。 黒崎グループ広報部の西田と申します』事務的な女性の声だった。唯は無意識に肩へ力を入れる。『桜井様に、一点ご確認したいことがありまして』「確認……ですか?」『現在、SNS上で拡散されている件についてです』唯の胸が冷える。やはり、その話だった。雨音がやけに大きく聞こえる。『一部メディアからも問い合わせが入り始めておりまして……』唯は息を飲んだ。そこまで広がっているなんて思わなかった。『会社としては、事実確認を進めている段階なのですが』女性は少し言い淀む。『高倉秘書に関する憶測も出ておりますので、念のため状況確認を――』その瞬間。隣にいた櫂が、静かに唯の手からスマホを取った。「高倉です」低く落ち着いた声。唯は思わず目を見開く。櫂はそのまま淡々と続けた。「桜井さんへ直接確認を取る必要はありません。 今後の件は、僕を通してください」電話の向こうで、何か説明するような声が聞こえる。櫂は短く息を吐いた。「ええ。 状況は理解しています」数秒後、通話が切れる。雨音だけが静かに残った。唯は不安そうに櫂を見上げる。「……大丈夫なんですか?」櫂はスマホをポケットへ戻し、小さく苦笑した。「広報部も混乱している
雨は、少しだけ弱くなっていた。高倉櫂はスマホをポケットへ戻し、小さく息を吐く。「……すみません。 今日はもう帰りましょう」その声に、桜井唯は小さく頷いた。これ以上ここにいても、落ち着かない気がした。唯はバッグを手に取り、静かに立ち上がる。櫂は自然な動作で傘を取った。「駅まで送ります」「え……でも」「この時間ですし、雨もありますから」穏やかな口調だった。断らせない強引さはないのに、不思議と安心してしまう。唯は小さく「ありがとうございます」と呟いた。二人は並んで事務所を出る。夜の街は雨に濡れ、アスファルトが淡く光っていた。櫂が傘を開く。自然に肩が近づき、唯の心臓が小さく跳ねた。こんな距離に慣れてしまっている自分が怖い。少し前までなら、男性と並んで歩くだけで緊張していたのに。雨音が静かに響く。しばらく、どちらも何も言わなかった。けれど沈黙は、不思議と苦ではない。唯はそっと隣を見る。櫂は前を向いたまま歩いていた。その横顔はいつも通り穏やかなのに、どこか疲れて見える。胸が少し痛んだ。「……高倉さん」「はい」唯は迷うように視線を落とす。「その……最近、私に付き合わせてばかりで……」言いながら、自分でも変な言い方だと思った。でも、他にうまく言葉が見つからない。櫂は少しだけ笑った。「気にしなくていいですよ」「でも」唯は小さく唇を噛む。「私、高倉さんに助けてもらってばかりです」SNSの件も。クライアント対応も。今日のことも。
雷の音が遠ざかり、事務所には再び雨音だけが残った。桜井唯は小さく息を吐きながら、窓の外へ視線を向ける。街はすっかり夜の色に沈んでいた。高倉櫂はスマホを確認したあと、静かに言った。「少し雨脚が弱くなってきました」「本当ですか……?」唯も窓へ近づく。確かに、さっきまでより雨粒は細かくなっていた。ほっとしたような気持ちになる一方で。なぜか胸の奥に、少しだけ寂しさが落ちる。その感情に気づいて、唯は戸惑った。帰れる方がいいはずなのに。どうしてそんなふうに思うのだろう。櫂はそんな唯に気づいていないように、穏やかに続ける。「もう少し様子を見て、大丈夫そうなら送ります」「……ありがとうございます」唯は小さく頭を下げた。そのとき。机の上に置かれていた櫂のスマホが、短く震えた。櫂は画面を見て、わずかに眉を寄せる。その小さな変化だけで、唯の胸は落ち着かなくなる。さっきから、何度も連絡が来ている。きっと簡単な状況ではないのだろう。唯は小さく視線を落とした。「……私のこと、怒られてませんか」櫂は一瞬だけ目を瞬かせた。けれどすぐに、小さく苦笑する。「桜井さん」「だって……」唯は言葉を探すように続ける。「今日も、私を庇ってくれましたし……」涼を止めたこと。社長室から何度も連絡が来ていること。全部が繋がって見えてしまう。櫂はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開く。「確かに、社長はかなり感情的になっています」低く落ち着いた声だった。「でも、それとあなたは別です」唯は小さく唇を噛む。櫂は穏やかに続けた。「僕は、自分で動いています」
雨は、まだ静かに降り続いていた。高倉櫂が通話を終えたあとも、事務所の空気には落ち着かない緊張が残っている。桜井唯はソファへ座ったまま、無意識に指先を握りしめていた。櫂はそんな唯を見て、小さく息を吐く。「……やはり、かなり雨が強くなっていますね」唯も窓の外へ視線を向けた。街灯の光が、滲むように揺れている。こんな時間まで事務所に残るつもりではなかった。けれど。涼が突然現れて。そのあとも落ち着かないまま、気づけば終電に近い時間になってしまっていた。唯は小さく立ち上がる。「私、そろそろ帰ります」そう言いながらバッグへ手を伸ばした、そのときだった。櫂のスマホが再び震える。また、社長室からだった。櫂は画面を見て、わずかに眉を寄せる。唯は胸がざわついた。「……出なくていいんですか?」「大丈夫です」そう答えながらも、櫂は少しだけ疲れたように息を吐く。唯はその横顔を見つめ、小さく唇を噛んだ。自分のせいで、また会社で立場が悪くなっているのではないか。そんな不安が消えない。すると。櫂はふと窓の外を見て、静かに言った。「この雨だと、今日はタクシーも捕まりにくいかもしれません」唯はスマホを確認する。確かに、配車アプリには“混雑中”の表示ばかり並んでいた。櫂は少し考えるように沈黙したあと、穏やかに続ける。「送ります」唯は慌てて首を振った。「そんな、大丈夫です」「でも」「高倉さんこそ、今日はもう帰った方が……」その言葉に、櫂は少しだけ苦笑した。「僕は慣れてますから」低く穏やかな声だった。唯は視線を落とす。まただ。この人はいつも、自分のことを後回しにする。
雨は、深夜になっても止まなかった。事務所の窓に落ちる雨粒を見つめながら、桜井唯は小さく息を吐く。高倉櫂のスマホは、机の上で静かに伏せられたままだった。けれど、さっきから何度も通知が入っている。そのたびに、唯の胸も落ち着かなくなる。「……本当に、大丈夫なんですか?」遠慮がちに尋ねると、櫂は少しだけ困ったように笑った。「心配しすぎです」穏やかな声だった。けれど、その表情にはわずかな疲れが滲んでいる。唯は視線を落とした。「でも……社長室から、何度も連絡が来てますよね」櫂は数秒だけ黙る。そして、静かにスマホへ視線を向けた。「社長が、かなり苛立っているみたいです」低い声だった。唯の胸が小さく痛む。やはり、さっきのことが原因なのだろう。涼は昔から、感情を表に出す人ではなかった。けれど一度怒れば、周囲が凍りつくほど空気が変わる。その姿を、唯は何度も見てきた。櫂は静かに続けた。「今日みたいに、社長の行動を止める人間は社内にほとんどいませんから」唯は小さく目を見開く。そうかもしれない、と思った。黒崎グループの中で、涼に正面から意見を言える人間は少ない。だからこそ。櫂の存在が、今は余計に目立っているのかもしれない。唯は唇を噛んだ。「……私のせいで」「違います」櫂はすぐに否定した。その声は穏やかだったが、迷いがない。「社長と衝突するのは、今に始まったことじゃありません」唯は驚いたように顔を上げる。櫂は少し苦笑した。「昔から、仕事の進め方でぶつかることはありました」「そうだったんですか……?」「はい」櫂は窓の外へ視線を向ける。「社長は結果を優先する人です。
雨は、まだ静かに降り続いていた。黒崎涼が去ったあとも、事務所の空気はどこか張り詰めたままだった。桜井唯はソファに座り、両手でカップを包み込む。高倉櫂が淹れてくれた紅茶は温かいのに、胸の奥のざわつきは消えてくれない。『俺は、簡単に諦められない』最後に聞いた涼の声が、まだ耳に残っていた。唯は小さく息を吐く。「……すみません」ぽつりと零れた声に、櫂が静かに視線を向けた。「また、高倉さんに迷惑かけてしまって」櫂は少し困ったように笑う。「だから、どうしてそうなるんです」穏やかな声だった。責めるような響きはない。唯は視線を落とした。「でも……」その先が続かない。雨音だけが静かに部屋へ響く。しばらくして、唯は小さく呟いた。「……苦しそうでした」櫂の表情が、わずかに止まる。唯は慌てたように続けた。「あ……ごめんなさい。 こんなこと、高倉さんの前で言うことじゃ」「謝らなくていいんです」低い声だった。櫂は静かに息を吐く。「簡単に割り切れるなら、三年も一緒にいませんよ」唯の胸が、小さく揺れた。その言葉が、不思議なくらい胸に染みる。責められなかった。否定されなかった。それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。唯はカップを見つめたまま、小さく言った。「……最近、自分でもよくわからなくて」櫂は何も言わない。急かさず、ただ静かに待っている。唯は少し困ったように笑った。「戻りたいわけじゃ、ないんです。 もう、あの頃には」そこまで言って、言葉が途切れる。三年間の孤独を思い出すだけで、胸が苦しくなる。でも。今日の涼は、あまりにも苦しそうだった。