INICIAR SESIÓN約束の時間ぴったりに、事務所のインターホンが鳴った。
唯は席を立ち、ドアを開ける。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
高倉はいつもと変わらない穏やかな表情で軽く頭を下げた。
けれど、その目には仕事の話をするとき特有の真剣さが宿っている。
応接スペースへ案内すると、高倉は鞄から一枚のクリアファイルを取り出した。
「先ほど、週刊プライムの編集担当者と話をしてきました」
唯は息を呑む。
「編集担当者と……ですか?」
「向こうから会社へ来ました」
驚きのあまり、唯は思わず言葉を失った。
そこまで動いていたとは思っていなかった。
高倉は淡々と説明を続ける。
編集担当者が訪ねてきたこと。
美咲への接触を控えるよう正式に伝えたこと。
そして、今のところ美咲と高倉の間には特別な関係はない、と事実だけを説明したこと。
唯は黙って耳を傾
「もう少しね」唯は小さく呟き、肩を回した。午前中の仕事がようやく一区切りつく。パソコンの画面には確認中の書類が並び、机の上には赤字を書き込んだ資料が積まれていた。時計を見る。昼休みまではあと二十分ほど。ひと息つこうと、マグカップへ手を伸ばした。コーヒーはすっかりぬるくなっている。ひと口飲んで、小さく息を吐いた。静かな事務所だった。キーボードを打つ音も、電話の音もない。以前なら、この静けさを心地よく感じていた。けれど最近は違う。少し静かになるだけで、余計なことを考えてしまう。美咲のこと。週刊プライムのこと。そして、高倉のこと。昨日、高倉は編集担当者と直接会ってきたと言っていた。美咲への接触は控えるよう、正式に伝えたとも。それでも、「終わったとは思っていません」と静かに話していた姿が忘れられない。高倉があそこまで慎重になるのには、理由があるのだろう。そう思うと、胸の奥がざわついた。――考えすぎ。唯は小さく首を振る。今は仕事中だ。目の前の仕事へ集中しなければ。気持ちを切り替えようとした、そのときだった。事務所の電話が鳴る。「はい、桜井です」受話器を取ると、取引先からの問い合わせだった。新しい案件についての確認や、契約書の細かな修正点。十分ほど話し込み、メモを取り終える。「承知しました。それでは、修正版を本日中にお送りいたします」電話を切ると、唯はふうっと息を吐いた。ようやく一段落だ。肩の力を抜きながら、何気なく窓の外へ目を向ける。事務所の向かいには、小さな喫茶店がある。昼時が近いこともあり、店内は会社員や学生で賑わっていた。窓際の席にも何人か座っている。
「桜井唯、か」週刊プライム編集部。石田は机の上に広げられた資料を静かに眺めていた。派手な経歴はない。ごく普通の会社員。離婚を経験し、現在は小さな事務所で働いている。以前の記事で調べた内容ばかりだ。新しい情報はほとんど増えていない。「もう一度、一から洗い直しますか」若い記者が口を開く。石田はすぐには答えなかった。高倉と話したあと、考えが少し変わっていた。美咲ではない。おそらく中心にいるのは桜井唯だ。では、高倉はなぜ彼女を守ろうとするのか。そこだけが、まだ見えない。「派手なことはするな」石田は静かに言った。「まずは行動を確認する」「張り込みですか」「ああ」石田は資料を閉じる。「思い込みで記事は書けない」その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。◇◆◇翌日。唯は事務所へ向かう途中、小さく肩をすくめた。朝から蒸し暑い。駅前では蝉が鳴き始めている。いつもと変わらない景色。いつもと変わらない朝。それなのに。高倉の話を聞いたあとでは、どうしても周囲が気になってしまう。信号待ちをしている人。スマートフォンを見ながら歩く会社員。ベンチへ座る老人。誰も自分を見ていない。そう思う一方で、視線を探してしまう自分がいた。「気にしすぎ、だよね」小さく笑って歩き出す。その姿を、通りの向かい側から一人の男が眺めていた。若い記者だった。スマートフォンを耳へ当て、小さく報告する。「今、事務所へ向かっています」電話の向こうで石田が短く答えた。
約束の時間ぴったりに、事務所のインターホンが鳴った。唯は席を立ち、ドアを開ける。「お疲れ様です」「お疲れ様です」高倉はいつもと変わらない穏やかな表情で軽く頭を下げた。けれど、その目には仕事の話をするとき特有の真剣さが宿っている。応接スペースへ案内すると、高倉は鞄から一枚のクリアファイルを取り出した。「先ほど、週刊プライムの編集担当者と話をしてきました」唯は息を呑む。「編集担当者と……ですか?」「向こうから会社へ来ました」驚きのあまり、唯は思わず言葉を失った。そこまで動いていたとは思っていなかった。高倉は淡々と説明を続ける。編集担当者が訪ねてきたこと。美咲への接触を控えるよう正式に伝えたこと。そして、今のところ美咲と高倉の間には特別な関係はない、と事実だけを説明したこと。唯は黙って耳を傾けていた。「では……」ようやく口を開く。「もう美咲は大丈夫なんでしょうか」その問いに、高倉はすぐには答えなかった。ほんのわずか、視線を伏せる。その沈黙だけで、唯には答えがわかってしまった。「残念ですが」高倉は静かに言う。「そう簡単には終わらないと思います」唯の指先に力が入る。「どうしてですか?」「記者は、一つの仮説が崩れると、別の仮説を立てます」高倉は机の上で指を軽く組んだ。「今回は、おそらく美咲さんへの疑いは薄れました」「じゃあ……」「次は」高倉は唯を見つめる。「桜井さんです」部屋が静まり返る。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。唯はその言葉をすぐには飲み込めなかった。「私&he
「筋が通りすぎている、ですか?」エレベーターを降りると、若い記者が首を傾げた。石田は歩きながらネクタイを少し緩める。「高倉専務の話は矛盾がなかった」「じゃあ……」「だからこそだ」石田は足を止めることなく続けた。「こちらが聞きたいことを、あらかじめ整理して待っていたようだった」若い記者は黙って耳を傾ける。「ああいう人は厄介だ」石田は苦笑した。「感情では動かない。こちらが一つ質問すれば、必要な答えだけ返してくる」余計なことは一切言わない。嘘をついているようにも見えない。だから反論の糸口が掴めない。「ただ」石田は視線を前へ向けたまま言った。「一つだけ収穫はあった」「何です?」「桜井唯だ」若い記者が目を瞬かせる。「専務は終始、美咲さんではなく桜井さんを基準に話していた」「基準?」「『美咲さんは桜井さんの友人です』と最初に説明しただろう」石田はゆっくりと言葉を選ぶ。「つまり、高倉専務の中では、美咲という人物は桜井唯を介して認識している存在だ」若い記者は腕を組んだ。「じゃあ、本当にただの友人なんですかね」「その可能性は高くなった」石田は頷く。「少なくとも、美咲さん本人との特別な関係は見えなかった」若い記者は小さく息を吐く。「じゃあ、振り出しですか」「いや」石田は静かに笑った。「違う」高倉が本当に守ろうとしている相手。それは美咲ではない。では、誰なのか。答えは自然と一人しか浮かばなかった。「桜井唯か……」石田は誰に聞かせるでもなく呟いた。
応接室のドアを開けると、男はすぐに立ち上がった。「お忙しいところ恐縮です」四十代半ばほどだろうか。落ち着いた口調だった。名刺には『週刊プライム編集部 編集次長 石田』とある。高倉は一瞥しただけで席に着いた。「本日はどういったご用件でしょうか」単刀直入だった。石田は営業用の笑みを浮かべたまま口を開く。「少し誤解があるようでして」「誤解、ですか」「ええ」石田は頷く。「弊誌の記者が、ご友人にご不快な思いをさせてしまったようです」高倉は表情を変えなかった。「その件についてお話に参りました」「そうですか」短い返事だった。感情は何も読み取れない。石田は続ける。「もちろん、必要以上にご迷惑をお掛けするつもりはありません」「でしたら」高倉は静かに言葉を挟んだ。「今後、美咲さんへの接触はお控えください」石田は苦笑した。「取材という仕事柄、そう簡単には——」「取材対象ではありません」高倉の声は穏やかだった。だが、その一言で部屋の空気が変わる。「美咲さんは今回の記事の当事者ではありません。会社関係者でも、公人でもありません」石田は少しだけ姿勢を正した。「ですが、事実関係を確認する上で——」「どの事実ですか」高倉が尋ねる。石田は一瞬、言葉に詰まった。高倉は続ける。「確認したい事実とは何でしょう」静かな問いだった。責める口調ではない。だからこそ逃げ道がない。石田は咳払いを一つしてから答えた。「専務と親しいご関係だと伺っています」高倉はゆっくりと石田を見つめた。「ど
「何もありません」若い記者は資料を閉じた。デスクが顔を上げる。「本当にか?」「はい」机の上には、美咲について集めた資料が並んでいた。勤務先。学歴。家族構成。交友関係。どれもごく普通だ。芸能人でもなければ、会社役員でもない。SNSもほとんど更新していない。休日は学生時代の友人と会う程度。派手な生活を送っている様子もない。「面白いくらい普通ですね」若い記者は苦笑した。「借金もない。男関係も派手じゃない。高倉専務と繋がりそうな接点も見つかりません」デスクは黙って資料をめくっていた。普通。それがかえって引っ掛かる。高倉ほど慎重な人間が、偶然ここまで一般人へ肩入れするだろうか。「桜井唯との関係は?」「十年以上の付き合いらしいです」「親友か」「ええ」デスクは椅子へ深く腰掛けた。そこだけは事実らしい。ならば。高倉と美咲を繋ぐものは何だ。答えはまだ見えない。「焦るな」デスクが静かに言う。「見えないものほど、追う価値がある」若い記者は頷いた。その言葉を疑わなかった。◇◆◇その頃。唯は事務所で美咲と向かい合っていた。「本当にごめん」また謝ろうとした唯を見て、美咲は呆れたように笑う。「だから、それ禁止」「でも……」「でもじゃない」美咲は紙コップのコーヒーをひと口飲んだ。「高倉さんにも言われたんでしょ?」唯は苦笑する。図星だった。「もう三回くらい言
会議室を出たあとも。高倉櫂の頭の中には、週刊プライムの記事のことが残っていた。広報と法務は対応に追われている。記事の内容そのものは問題ない。事実ではない以上、いずれ対応できる。だが。それとは別の問題があった。櫂は廊下を歩きながら、小さく息を吐く。唯は大丈夫だろうか。その考えばかりが頭をよぎる。記事を見てしまっただろう。SNSも見ているかもしれない。あの人は昔から、一人で抱え込む。自分
ドアが閉まったあとも。桜井唯はしばらく、その場から動けなかった。高倉櫂がいた空気だけが、まだ静かに残っている気がする。美咲はそんな唯を見つめながら、呆れたようにため息を吐いた。「……もう好きじゃん」唯の心臓が、大きく跳ねる。「ち、違……」反射的に否定しかけて、言葉が止まった。本当に、違うんだろうか。唯は視線を落とす。胸の奥が落ち着かない。櫂が来ると安心する。
事務所の空気が、一気に重くなった。美咲はスマホを見つめたまま、小さく舌打ちする。「最悪……。 もうまとめアカウントが拾い始めてる」桜井唯の胸が冷たくなる。櫂は落ち着いた表情のまま、美咲のスマホ画面へ視線を向けた。そこには、SNSの投稿が並んでいる。『黒崎グループ社長、離婚の裏に秘書との関係?』『元妻と社長秘書の親密写真入手か』唯の顔色が、目に見えて青ざめた。「写真……?」掠れた声だった。美咲は眉を寄せる。
事務所の中に、静かな緊張が走った。突然のノック音。桜井唯は思わず息を止める。高倉櫂が唯を安心させるように、小さく「大丈夫です」と言った。その声だけで、少しだけ胸のざわつきが落ち着く。櫂は静かにドアへ向かった。唯は無意識に、マグカップを握る手へ力を入れる。もしまた記者だったら。あるいは、涼だったら。そんな不安が頭をよぎった。櫂が慎重にドアを開ける。そして、次の瞬間。「……あ