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第8話

枝月ゆい
明臣は頭の切れる男だ。少しでも不自然なところを見抜かれたら、もう二度とここから逃げ出せなくなるかもしれない。

花音は頬を真っ赤に染め、ぱちりとまばたきをした。怯えた小動物のような瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。

唇を軽く噛みながら、小さな声で言った。「ここでは……だめ。誰かに見られちゃうよ」

震える声は甘えるように耳へ届く。

どうやら照れているらしい。

結局のところ、まだあどけなさが残っている。

明臣の瞳に宿っていた鋭い視線はゆっくりと和らぎ、立ち上がると彼女を解放した。

花音はようやく許されたように慌てて立ち上がり、床に落ちていたウエディングドレスを拾って身につける。

ドレスは重く、一人ではファスナーを上げられない。胸元の生地を手で押さえるしかなかった。

耳元にかかる数本の髪が動きに合わせて揺れ、やがて静かに頬へとかかった。

明臣はしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと背後へ回る。

ドレスを整えながら、数珠をつけた手で花音の背中をなぞるように指先を滑らせた。数珠の飾りが、背骨の上をひとつひとつ優しくかすめていく。

くすぐったい感触に、花音は思わず肩をすくめた。

その瞬間、背後から伝わる吐息が熱を帯びた気がした。

明臣はファスナーを半分まで上げたところで手を止め、低い声で言う。「禅室では、こんなに緊張していなかったはずだけど」

この三年間、花音は何も身につけず禅室で跪き、彼とともに座禅を組み、修行に付き添ってきた。

それなのに、今日はただウエディングドレスを着ているだけで、こんなにも恥ずかしがっている。

花音は息をのみ、鏡越しに彼の冷たい眼差しを見つめた。

明臣の表情は深い水面のように静まり返り、その瞳には淡い光が宿っているようだった。

全身から漂うのは禁欲的な空気だけで、邪な欲など微塵も感じられない。

まるで、さっきの出来事など最初から存在しなかったかのように。

夢から覚めれば、彼はまた俗世の欲望を遠ざけた姿へと戻り、高みから見下ろすその眼差しは、まるで品定めでもするようだった。

花音はうつむき、瞳の奥に浮かんだ冷たい感情を隠す。

そう……あの頃の自分は彼を愛していた。

だから彼を信じ、これが彼の修行の助けになるのだと思い込んでいた。

けれど今は違う。

あれが屈辱だとわかっているのに、恥ずかしさを感じないはずがない。

かすれた声で、ゆっくりと答える。「家の中だったから。こことは違う」

明臣の指先がわずかに止まり、その瞳に探るような色がよぎった。

そのとき、不意に部屋のドアが勢いよく開いた。同時に、明るい女性の声が響く。「明臣」

明臣は動きを止め、入口へ視線を向けた。

花音も彼につられて振り返り、そこに立つ人物を見た瞬間、瞳がわずかに揺れた。

里奈が白いドレス姿で、穏やかな笑みを浮かべながら自然な足取りで部屋へ入ってくる。

花音は気づいた。里奈が着ているドレスは、自分のウエディングドレスとどこかよく似ていた。

里奈は、明臣の手が花音の腰に添えられているのを見ると、一瞬だけ目を伏せる。

その瞳に嫉妬がよぎったが、それはすぐに消えた。

すべては花音への復讐のためだとわかっていても、二人が親しげにしている姿を目にするのは、やはり気分のいいものではなかった。

それでも胸の奥の憎しみを押し込み、里奈はにこりと笑う。「ドレスの試着に来たんです。お二人も来ているって聞いたので。花音さん、まだお着替えの途中だったんですね。お邪魔しちゃいましたか?」

明臣は花音のドレスに添えていた手を静かに離した。「別に構わない。ちょうどよかった。君も女性なんだし、彼女の着替えを手伝ってやってくれ」

花音はわずかに眉をひそめた。

里奈とは親しい間柄ではない。少し前に一度、食事の席で顔を合わせただけだ。

そんな相手にウェディングドレスを着せてもらうなんて、少し距離感がおかしくないだろうか。

だが里奈は迷いなく歩み寄ると、まるで誰もいないかのように明臣の腕へ自然に抱きつき、冗談めいた口調で言った。「いいよ。その代わり、あとでご飯をごちそうしてね」

明臣は冷ややかな声で、短く「うん」と返す。

それでも里奈の腕を振り払おうとはしなかった。その仕草を受け入れたも同然だった。

花音の瞳がわずかに曇る。「だいたいイメージはつかめたから、もう試着しなくていいです」

そう言って背中へ手を回し、ドレスを脱ごうとした。

しかし次の瞬間、手首をつかまれた。

里奈は口元に笑みを浮かべたまま言う。「花音さん、明臣が私にご飯をごちそうするって聞いて、まさか嫌な気分になったりしてませんよね?着替えるの手伝わせてください。私も花音さんのウェディングドレス姿、見てみたいですし」

その言い方はあまりにも当然で、自分が見たいと言えば、花音は見せるのが当たり前だと言わんばかりだった。

明臣は軽く咳払いをし、穏やかな声で言う。「花音、せっかくドレスも着てるんだから、もう少しちゃんと試してみよう」

断っても聞き入れてもらえず、花音は里奈がカーテンを閉めるのを見届けた。

抵抗する気にもなれず、うつむいたまま彼女に身を任せる。

だが、背中のファスナーに触れた里奈の手が、不意に止まった。

視線は花音の右肩へ吸い寄せられる。

白い肌には、小さいながらも目を引くキスマークが残っていた。

その瞬間、里奈の脳裏には、更衣室で二人が熱を交わしていた姿が浮かんだ。

無意識に指先へ力が入った。瞳は少しずつ暗さを増し、毒を含んだような色へと変わっていく。

明臣と花音は、この更衣室で……いったい何をしていたの?

力が入りすぎたせいで、花音は思わず小さく息をのんだ。「っ……」

次の瞬間には、里奈の目からその陰りは消え、柔らかく笑う。「花音さん、ごめんなさい。うっかりファスナーを壊しちゃったみたいです。スタッフさんを呼んできますので、少しここで待っててください」

そう言いながら手を離し、さりげなくバッグからスマホを取り出して何度か操作すると、わざと休憩用のソファに置き忘れた。

「ちょっと行ってきますね」

笑顔のままカーテンをくぐった里奈だったが、その瞳には冷たい光がよぎっていた。

確かに明臣とは、花音をうまくなだめながら詩織の復讐を果たす手助けをすると約束している。

だからといって、自分の婚約者がほかの女と本当に親密な関係になっているのを、平気で見ていられるわけではない。

ウェディングドレスの裾を持ち上げながら、何も知らない顔をしている花音を見て、里奈は唇の端をゆっくりと吊り上げた。

――花音。私のスマホの中身を見れば、自分が私たちにとってどんな存在なのか、嫌でも思い知ることになるわ。

里奈がカーテンを開けて出ていくのを見送り、花音はあきれたようにため息をつくと、ソファへ腰を下ろした。

静まり返った試着室に、不意にスマホの通知音が鳴り響く。

自分のスマホとは違う着信音だったため、花音は反射的にそちらへ目を向けた。暗い室内で、ローズピンク色のスマホが画面を光らせている。

花音は近づき、画面へ視線を落とした。

そこにはグループチャットの新着メッセージが表示されていた。【あははは、マジでウケる!花音、今日もきっと明臣の花嫁になれるって浮かれてるんだろうね。でも残念、これからもっと盛大に恥をかかせてやるんだから!】

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