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第7話

枝月ゆい
俗世に染まらぬ清らかな人でも、人並みの想いを抱くことはあるのだろうか。

「花音」明臣が低くかすれた声で彼女の名を呼ぶ。その声には抗いがたい誘惑が滲んでいた。

彼はゆっくりと距離を詰め、花音を壁際へと追い込んでいく。

花音は思わず顔を上げ、目の前まで迫ってくる明臣の顔を見つめた。その瞬間、胸の鼓動が抑えきれず速くなる。「……何をするの?」

明臣は彼女の目の前、一センチにも満たない距離で足を止めた。温かな吐息が頬をかすめる。

彼はわずかに動きを止め、何かを必死に抑え込むように目を伏せる。

しばらくしてからゆっくりと身を起こし、花音を閉じ込めていた腕を離した。「俺の花嫁を見ていただけだ」

その声はいつもの冷たく澄んだ響きに戻っていた。瞳に宿っていた欲の色も一瞬で消え去り、さっきまでの出来事が幻だったかのようだった。

花音は視線を落とす。長いまつげがかすかに震え、その奥にある複雑な感情を隠していた。「……似合う?」

明臣は彼女をじっと見つめ、深い眼差しのまま指先で一房の髪をすくう。「綺麗だよ、花音。

世界で一番綺麗な花嫁だ」

ウエディングドレスをまとった花音は、本当に美しかった。

まるで彼女が身に着けた純白のドレスのように、穢れひとつない。

だからこそ。

こんなにも神聖で、こんなにも無垢に見える彼女だからこそ、彼はその衣装を剥ぎ取り、美しい仮面を引き裂き、桐谷家の人間がその美しい皮の下にどれほど醜く穢れた心を隠しているのかを、世間にさらけ出したい衝動に駆られる。

詩織はいまもベッドに横たわったままだ。

なのに、あの一家だけが何事もなかったように幸せでいられるはずがない。桐谷家は、全員が償うべきなんだ。

明臣の目尻がうっすらと赤く染まる。

本来なら俗世の感情とは無縁であるはずのその瞳には、狂気にも似た執着が宿っていた。

理性が感情に飲み込まれた瞬間、もはや自分を抑えることなどできなかった。

彼は花音の細い腰を抱き寄せ、そのまま壁へ押しつけた。

そして、激しい雨のように唇を重ねる。

有無を言わせないほど強引で、容赦のない口づけだった。

突然のことに、花音は息をするのも苦しくなる。

胸に手を当てて押し返そうとしても、明臣はびくともしない。それどころか、さらに深く彼女を求めてきた。

どうして突然、こんなにも理性を失ったのか。

あの夜でさえ、明臣は自分に惹かれていたわけではない。ただ、自分のいちばん惨めな姿を描き残したかっただけなのに。

考える暇もないまま、熱く激しい口づけが降り注ぎ、まるで彼女を自分の身体へ溶け込ませようとしているかのようだ。

「んっ……」花音はぎこちなく息を継ぐ。

その小さな吐息ひとつが、明臣の心の奥深くに触れた。

彼の大きな手が花音の背中へ回る。

ドレスのファスナーがゆっくりと下ろされ、露わになった素肌を指先がなぞるように滑り、腰のくぼみで止まった。

ビスチェタイプのウエディングドレスは、ファスナーを下ろした途端、華奢な身体を隠すものがなくなってしまう。

周囲を囲む鏡には、さまざまな角度から映る花音の姿が映し出されていた。

白磁のようになめらかな肌。美しい身体のライン。

鏡に映る自分の姿が目に入り、ほとんど何も身につけていないことに気づいた花音は、恥ずかしさと緊張で胸が締めつけられる。

明臣は彼女を鏡へ押しつけた。

背中が冷たい鏡に触れた瞬間、花音は思わず身を震わせる。

無意識に彼の腕へしがみついた。

明臣の呼吸はますます荒くなり、漆黒の瞳には炎のような熱が揺らめく。

彼は再び顔を近づけ、花音の唇を奪った。

今度はさっき以上に遠慮がなく、彼女の息さえすべて奪い去ろうとするかのようだった。

花音の頭は真っ白になり、彼の腕の中に閉じ込められたまま、されるがままになってしまう。

身体は小刻みに震えていた。

緊張のせいなのか、それとも拒絶したい気持ちからなのか。

あるいは、心の奥底に、ほんのわずかな期待があったのか。

どうせ、もうすぐ二人はそれぞれ別々の道を歩むことになる。

二度と交わることのない運命なのだから。

だが、明臣が彼女を抱き上げ、そのままそばのソファへ横たえ、覆いかぶさろうとした。

花音は、その瞬間にはっと我に返った。

だめ……

彼女は細い手でとっさに彼の手首をつかみ、それ以上近づくのを止める。

頬を真っ赤に染めた花音は、戸惑いを滲ませながら言った。「だめ……ここでは……」

きっと、自分はどうかしている。

この人がケシの花のように美しくも危うい存在で、復讐という目的を抱いて近づいてきた男だと分かっているのに、それでも彼を拒みきれなかった。

しかし、ここまで来た明臣に引き返す気はない。

耐えるつもりも、彼女のために思いとどまるつもりもなかった。

彼は強引に花音の手首をつかみ、その手を彼女の頭の横へ押さえつける。

その瞬間、花音はとっさに膝を跳ね上げた。膝が明臣に当たり、彼が一瞬ひるんだ隙に、思い切り突き飛ばした。

ほんの一瞬で、彼の瞳を満たしていた欲望は潮が引くように消えていった。

代わって戻ってきたのは、いつもの冷静な眼差し。

まるで、さっきまで我を忘れていたのが別人だったかのように。

「花音……俺を拒んだんだな」淡々とした声が、花音の耳元をかすめる。

明臣は目を細め、唇をきつく結んだ。その瞳には探るような色が宿っている。

問いかけではない。確信だ。

付き合っていた三年間で、自分が花音に触れたのは一度きり。それでも花音は、自分の願いを拒んだことがなかった。

なのに今は、自分が近づくことも、自分に触れられることも拒もうとしている。

――まさか、本当に何かを知ってしまったのか。

伏せられた長いまつげの下で、明臣の瞳は深く静まり返り、まるで彼女の答えを待っているかのようだ。

花音の胸が大きく波打った。

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