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第5話

作者: 青ノ序
仕事が終わり、綾は親友の明里と夕食の約束をしていた。

二人は2週間も会っていなかったので、話したいことがたくさんあった。

「本当に湊と離婚するって決めたの?」

明里と綾は幼馴染で、綾のことは何でも知っていた。

「凪親子まで家に住み着いてるのに、これで離婚しなかったら、私、この家で何の存在なの?」

明里はクスっと笑った。「その子供のおばさんってとこかしら?」

綾が怒りそうになるのを見て、明里は慌てて折れた。

「離婚して正解よ。とっくにそうすべきだったんだから。結婚して5年にもなるのに、まだ処女なんてありえないでしょ?

お隣のご主人が寝たきりのお宅だって、その奥さん、二人目がお腹にいるのよ。湊は何を気取ってるわけ?まさか、二宮さんのために操でも立ててるつもり?」

綾は黙っていた。湊がもう凪の部屋で寝ていることは、言えなかった。

あまりにも惨めで、口にはできなかったのだ。

「もう好きにさせてる。どうせ今更、私だって湊を受け入れられないし」

自分の中で、湊はもう汚れてしまっていた。

体だけじゃなくて、心も。

汚れたものは、いらない。

明里は安心したような顔をした。「それでこそ私の知ってる綾よ。湊も、離婚には同意してくれるでしょ?」

「同意してくれない」

ドン。

明里が持っていたコップが、テーブルに強く叩きつけられた。木製でよかった。

「湊って、もしかして変人?それに、いつの時代の人よ?」

綾はティッシュを抜き取り、顔に飛び散った水滴を拭いてから、テーブルの上を拭いた。

「明里、もう少し静かにして。別に、人に自慢できるような話じゃないんだから」

落ち着いてテーブルを拭く綾を見て、明里はますます腹が立ってきた。

「湊は、あなたが何でも言うことを聞くから、こうやってあなたにつけこんでるのよ」

綾は結婚指輪を回した。「おばあさんと、約束したの」

指輪は、和子が嫁入り道具として実家から持ってきたもので、とても価値のある骨董品だった。それを5年前、綾にくれたのだ。

綾にとって、この指輪は和子との思い出の品であって、結婚とは関係なかった。

明里はため息をついた。怒りは諦めに変わっていた。

17年前の寒い冬。まだ小さかった綾は親戚に道端に捨てられ、凍え死にそうになっていた。そんな彼女を家に連れて帰ったのが、和子だった。

和子は、綾に最高の生活と教育、そして、たくさんの愛情をくれた。

その和子が亡くなる直前、綾にお願いしたのだ。当時の状況では、綾に選ぶ余地はなかった。

湊が忘れられないわけじゃない。和子との約束を、裏切ることができないのだ。

綾は落ち着いた様子で微笑んだ。「私を縛っているのは、湊じゃない。私の心、おばあさんへの恩よ」

結婚という形がなければ、湊は今も綾の兄であり、和子が最も可愛がった孫なのだ。

5年前、綾は自分の意志ではどうにもならないことがあるのだと悟った。

今の状況が、5年前よりも辛いということはない。

凪が帰国したことで、綾の心はむしろ自由になった。

和子との約束は守らなければならない。でも、湊に誠実である必要はもうない。

明里はコップを回しながら、どこか残念そうな目をしていた。

「覚えてる?高校三年生の時、あなたが高熱で入院したでしょ。湊、海外で大事な大会があったのに、わざわざ夜中の便で帰ってきたじゃない。ベッドのそばで、あなたに冗談を言い続けて。うるさいって言っても、やめなかった。あなたが眠ったらどうしようって、怖かったのね」

綾は箸を握る手に力を込めた。そして、小さく「うん」と頷いた。

もちろん、全部覚えている。昔、湊が自分に優しかったことは、否定できない。

「あの頃の彼は、あなたのことを本当に妹として大切にしていた。優しくて明るい兄。実は私も、ちょっとだけ好きだったんだから」

ここまで言って、明里は口をへの字に曲げた。「それが今じゃ、あんなに頑固でわけの分かんない男になるなんてね」

綾は何も言わず、お皿に残っていた最後の野菜を口に運んだ。

そして、ティッシュで口を拭うと、微笑んで言った。「もう、終わったことよ」

かつてのささやかな温もりは本物だった。でも、今の息が詰まるような溝も、また本物なのだ。

久しぶりに会った二人は話が尽きなかった。綾が家に帰った時には、もう11時を過ぎていた。

いつもならもう寝ているはずの湊が、一人でリビングで本を読んでいた。

黒のルームウェアを着て、膝には薄いブランケットをかけている。柔らかい光に照らされたその横顔は、上品で、どこか冷たい印象を与えた。

両手で本を広げてはいるけれど、ページをめくる気配はなかった。ただその姿勢のまま、うつむいて、眉間にうっすらと憂いを浮かべている。

事故の後、湊はまるで人が変わってしまった。何を考えているのか、全くわからない。

綾は時々思う。今の湊は、この世をさまよう影に過ぎないのではないか、と。水面に映る三日月のように儚く、触れればすぐに砕けてしまいそうだった。

「どこへ行っていた?」

湊は低い声で尋ねた。視線は本に向けられたままだ。

「明里と食事に」

綾はハイヒールを脱ぎ、ふかふかのスリッパに履き替えた。

久しぶりに一日中ハイヒールを履いていたので、足がパンパンに張って痛かった。

「2階まで、押していこうか?」

リビングを出る前に、綾はそう尋ねた。

湊は本を閉じた。それが、同意の合図だった。

「明里に、どうすれば俺と離婚できるか相談しに行ったのか?」

湊は突然、からかうような口調でそう言った。

綾は車椅子をエレベーターに押して乗せ、淡々とした表情で言った。「知ってるでしょ。誰に相談したって無駄だって。あなたが……」

湊は冷たい声で遮った。「そんなこと考えようとも思うな」

「俺たちは17年の付き合いだ。俺が手に入れたものを、簡単に手放さないことは知っているだろう」

もちろん、知っていた。そのせいで、幼い頃の湊はとてもわがままに見えた。

出会ったばかりの頃は、そのせいで少し湊が怖かった。

事故の後は、その執着がさらにひどくなった。

綾は真剣な顔で答えた。「私は人間よ。モノじゃない」

何より、自分は自分自身のものなのだ。

エレベーターが静かに昇っていく。ガラスの壁に映る二人の姿は、一人は座り、一人は立ち、ひどくよそよそしく見えた。

エレベーターを降りると、ドアの前に立つ海斗が見えた。綾は何も聞かず、湊をそちらへ押していった。

凪はこんな風に自分を警戒しているが、本当に余計なことだ。

湊とは結婚して5年、何もなかった。今さら何かが起こることはなおさらありえない。

湊は、部屋に戻っていく綾の後ろ姿を見送り、うつむいて眉間を揉んだ。

「海斗、先に君のママのところへ行っておいで。俺は仕事があるから」

湊はエレベーターで最上階へ向かった。ヘルパーの隆は静かについてくる。

最上階は広々としたホールになっていた。テーブルとソファの他には、数台の天体望遠鏡と、二列の本棚があるだけだ。

壁の二面がガラス張りになっていて、空の月も、地上の街の灯りも、この場所に差し込んでくる。

湊は車椅子から立ち上がると、ガラスの壁の前に立ち、きらめく東都の夜景を見下ろした。

車の往来が絶えない街の喧騒も、最上階までは届かず、あたりは静寂に包まれている。

隆は少し離れた暗がりの中に立ち、時折、警戒するようにドアの方を見ていた。

湊は光を背にして立っている。黒い服に包まれたその細長いシルエットは、まるで松の木のようにまっすぐだった。

両脚はまっすぐで力強く、足が不自由だという様子は全くなかった。

「お前も俺のことを、二人の女を騙すような、卑劣なクズだと思っているだろう。

凪と海斗には、大きな借りがある。俺がこうして足が悪いふりをしなければ、凪たちはこんなに哀れな思いをしなかっただろう。

綾については……」

湊は言葉を止め、タバコに火をつけた。そして、それを指の間で弄んだ。

「彼女とは、これから一生分の時間がある。いつか、俺の苦悩を分かってくれるはずだ」

ドアの外にいた綾は話し声を聞き、ドアノブにかけた手をぴたりと止めた。

眠れなくて、星を見にここへ来たのだが、まさか、湊がいるとは思わなかった。

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