Share

第6話

Penulis: 青ノ序
「彼女は、俺の辛さを分かってくれるはずだ」

階段を上がってきた綾は、そんな言葉を耳にした。

家の中で湊が夜更けに本音で話せる相手なんて、凪しかいない。

湊が言う「彼女」とは、間違いなく自分のことだろう。

湊に、一体どんな辛さがあるっていうの?

理解できなかったし、理解したいとも思わなかった。

綾はドアノブにかかっていた手を引っ込め、くるりと背を向けて階段を下りた。

立ち聞きするつもりはなかったし、中に入って二人の邪魔をする気にもなれなかった。

翌日、綾はいつも通り早く家を出て出勤したが、通勤ラッシュの渋滞は本当にいらいらする。

でも、家のあのめちゃくちゃな状況を思うと、あちこちから聞こえるクラクションの音さえ心地よく感じられた。海斗の泣き声なんかより、ずっとましだ。

オフィスに着くと、細いフレームの眼鏡をかけた中年男性が社長室から出てくるところだった。

男は仕立ての良い黒いベストと同色のネクタイを締め、白いシャツには金のカフスを付けていた。腕時計も同じ色合いのシャンパンゴールドだ。

体型はよく維持されていて、着こなしは清潔感があり洗練されている。まさに品格がある人だ。

裕也が紹介した。「中野さん、こちらが社長です」

綾は急いでお辞儀をして挨拶した。「はじめまして、中野と申します。よろしくお願いいたします」

樹はうなずき、ゆっくりと階段を下りながら言った。

「これから何かあったら遠慮なく俺に言ってくれ。いつでも頼ってくれていいから」

その立ち居振る舞いは、物腰が柔らかく、とても上品だった。

綾は、樹はビジネスマンというより、まるで昔の学者や貴族のように感じられた。

「ありがとうございます、社長」

樹の視線に気づいた綾は、不思議に思って見返した。見れば見るほど、どこかで会ったことがあるような気がした。

でも、こんなにすごい人と知り合いのはずがない、と綾は確信していた。

オフィスにいる誰もがパソコンの陰からこっそり様子を窺い、目配せを交わしている。社長があんなに親しげに人に接するのを、皆初めて見たからだ。

樹は視線を外し、大股で外へ歩き出すと、裕也と他の3人の秘書が後に続いた。

裕也は綾に手招きし、ついてくるように合図した。

綾はノートパソコンを手に取り、早足で彼らを追いかけた。

エレベーターで数階下り、裕也は樹と共に広くて明るい会議室に入っていった。3人の秘書は隣の部屋へ向かった。

綾も後について隣の部屋に入り、空いている席に座った。

女性秘書の平野杏奈(ひらの あんな)が机のヘッドホンを指差して綾に言った。「これから社長が青菊グループの社長と提携の話をされます。私たちは会議の内容を記録してまとめるのが仕事ですよ」

「ありがとうございます」

綾は笑顔でお礼を言うと、ヘッドホンを装着し、パソコンを開いた。

10分後、ヘッドホンから魅力的な男性の声が聞こえてきた。

その聞き慣れた声はまるで電流のように体を貫き、綾の心臓は一瞬止まった。脳裏には、ある人の顔と声がよぎる。

しかし、ぼんやりしたのはほんの一瞬だけ。すぐに気持ちを切り替えて、記録を続けた。

仕事の初日だ。失敗は許されない。

2時間後、会議は終わった。

綾はノートパソコンをひっつかむと、真っ先に部屋を飛び出し、閉ざされた会議室のドアをじっと見つめた。

杏奈も後から出てきた。「中野さん、早く戻って会議の要点をまとめないと。後で社長が見ますから」

綾は歩きながら何度も振り返ったが、エレベーターに乗る時になっても、会議室から誰も出てこなかった。

自分の席に戻ると、綾は青菊グループについて検索した。

このグループに関するネット上の情報は、驚くほど少なかった。

ここ半年で急成長した多国籍企業で、社長はフランチェスコというI国人らしい。

綾はその名前に聞き覚えがなく、憂鬱な気分でウェブページを閉じた。

声が似ている人なんていくらでもいる。湊と彼の兄の誠の声だって、ほとんど区別がつかないくらいだ。

この日は一日中忙しく、余計なことを考える暇はなかった。

仕事が終わる前、裕也から、会議での専門知識のまとめ方を社長が高く評価していたことと、これからはもっと技術部門と関わるようにと言われたことを伝えられた。

この嬉しい知らせに、綾の疲れは一気に吹き飛んだ。結婚してからというもの、誰かに認められることなんて、一度もなかったから。

終業までまだ10分ほどあった。綾は手持ち無沙汰に、裕也が机に置き忘れていった雑誌をぱらぱらとめくった。

雑誌の最初のページには、今夜7時半から文化芸術センターでオークションが開かれると書いてある。綾は興味を引かれ、出品リストに目を通した。

和子は生きていた頃、花瓶やアクセサリーを収集するのが大好きだった。

その影響で、綾も色々なオークションに興味を持つようになった。

3ページ目をめくると、金の糸で形作られ、ルビーがはめ込まれたバラのブローチが目に飛び込んできた。

綾は息を飲んだ。鼻の奥がツンとして、胸の奥をぎゅっと掴まれたような、様々な感情がこみ上げてきた。

薔薇の心――それは母が生前一番大切にしていたブローチで、父が母に贈った愛の証だった。

両親が事故で亡くなった後、何人かの親戚が家に来た。それから、家の物がたくさんなくなり、このブローチまで消えてしまった。

綾がまだ8歳の頃。覚えているのは、両親の遺体が見つからなかったことだけだ。

小さな綾は二つの遺骨箱を必死に抱きしめ、やっとのことで立っていた。そんな彼女を、大きな体の親戚たちが自分の方へと引っ張り合った。

叔母は自分についてくるように言い、叔父も綾を家に連れて帰ると言って、奪い合いになった。

それからたった半年で、あれほど綾を取り合った親戚たちは彼女を邪魔者扱いし始め、たらい回しにするようになった。

綾は大人になってから、ある言葉を知った。「遺産目当て」だと。

彼らが欲しかったのは財産で、当時お荷物だった自分ではなかった。

綾は雑誌に載っているブローチを食い入るように見つめ、苦しくて息もできなかった。

まるで8歳のあの日に戻ったかのようだった。親戚たちが、自分の両親の骨壺をぞんざいに扱うあの光景が目に浮かぶ。

綾は急いでタイムカードを切り、渋滞を避けるため、シェアサイクルで文化芸術センターへと向かった。

親戚の家を半年間転々とした挙句、両親が遺したものは何一つ綾の手元には残らなかった。

「薔薇の心」だけは、絶対にこの手に取り戻さなければ。

このブローチは骨董品ではない。ただ作りが精巧で、ルビーに多少の価値があるだけ。大金を払って競り落とそうとする人はいないはずだ。

綾は文化芸術センターに駆けつけ、身元確認の手続きをした。

スタッフは綾が中野グループの社長夫人であることを確認すると、保証金の支払いを求めなかった。

「奥様、中野社長は既にオンラインで予約され、保証金もお支払い済みです。こちらが番号札になります」

綾は122番の札を受け取った。湊が予約して保証金も払ったということは、自分がいくらで落札しても、支払いは湊の口座から引き落とされるということだ。

綾は番号札を手に、特別に設えられた会場へと足を踏み入れた。母の形見は、必ず手に入れると心に誓った。

仕事帰りの服装のままだったので、案内係は綾を社長の代理で来た雇われの身だと思ったのだろう。後ろの方の隅の席へと案内された。

30分もすると、会場は続々と人で埋まっていった。

ドレスを着たオークショニアが壇上に上がると、会場は静まり返った。

雑誌によれば、「薔薇の心」は9番目の出品物だ。

綾は焦りと不安の中で、ただひたすら待っていた。それまでの出品物が何だったのか、ほとんど覚えていない。

オークショニアが「薔薇の心」という言葉を口にした瞬間、綾は背筋を伸ばした。番号札を持つ手は、かすかに震えている。

「これは単なる宝飾品ではございません。ご覧いただいている花びら一枚一枚は、金の糸を幾重にも巻きつけて形作られております。

そしてその中心には、5.21カラットもの『ピジョンブラッド』のルビーが、その純粋な輝きを放ちながら完璧に埋め込まれております。まさにこの黄金のバラに脈打つ心臓であり、決して壊れることのない愛の力を象徴しているのです……」

綾は息を殺して、「薔薇の心」を食い入るように見つめた。母の形見が、また自分の目の前から消えてしまうのではないかと恐れていた。

最後に、オークショニアは会場全体を見渡し、厳かで重々しい口調で告げた。

「皆様、『薔薇の心』は、4000万円からのスタートです」

「4200万!」

綾は迷わず札を上げた。手には冷たい汗がにじみ、心臓が早鐘のように鳴っている。どうか誰も競ってこないようにと、心の中で祈った。

最前列に座っていた湊が、その声に気づいて振り返った。凪も、湊につられて視線を送る。

「湊、綾が来るなんて聞いてなかったわ」

「俺も知らなかった」

湊はブローチに目をやり、口の端を少し上げた。綾が宝石を欲しがるなんて、珍しい。

その時、隣にいた凪が札を上げた。

「5000万!」
Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第15話

    「病院に来てそんなに経ってないのに、どうしてあなたのご実家が知ってるの?」「誰かがお父さんに告げ口したみたい。昨日私が湊をさんざん罵倒したってね」綾はただ事ではないと察して、湊の秘書に電話をかけた。「もし誰かに聞かれたら、湊は私と海外旅行に出かけたと答えて。会社で何か急ぎの用件があれば、直接私に連絡してちょうだい。私が代わりに決断するわ」次に中野家に電話をかけた。電話に出たのは幸子だった。「山下さん、凪に代わって」すぐに電話の向こうから、凪の不機嫌な声が聞こえてきた。「湊はどうなの?」「あなたの目的が何であれ、湊が入院したことは絶対に誰にも言わないでちょうだい。もしこのことが漏れたら、湊が目を覚ましたときに許されるとは思わないで。彼は5年前とは違う。そのことはよく覚えておきなさい」綾の口調は冷たく厳しかった。そして最後に、一言付け加えた。「自分の息子のためだと思って、余計なことは言わないことね」明里は事の重大さに気づき、急いで実家に電話して口止めをした。「じゃあ、うちに告げ口したのは二宮さんだったってこと?」綾はうなずいた。「湊は突然倒れたの。考えられるのは彼女だけよ。井上さんも山下さんも、中野家に長年仕えている人たちだから。言っていいことと悪いことの区別はつくはずだわ」「器が小さい女ね。昨日のことで、こんな大問題を引き起こすなんて。まあ、うちに伝わっただけで済んでよかったけど」明里はふと話題を変え、声をひそめて尋ねた。「会社の株価への影響を心配してるだけじゃないでしょ?何か他に警戒してるの?」綾は深刻な表情になった。「湊はあの体で社長の座に就いたの。どれだけ大変だったか、想像できるでしょ。取締役会の人たちは、みんな腹に一物あるような人たちばかりよ。湊が集中治療室にいるなんて知れたら、この機に乗じて権力を奪おうとするに決まってるわ」明里は考え込むように言った。「でも、湊のお兄さんの誠さんは会長でしょ?自分の弟なんだから、きっと守ってくれるんじゃないの?」「親子の間でさえ計算が働くことがあるのに、兄弟ならなおさらよ。昔から、権力争いのために兄弟が殺し合うなんて話は珍しくないじゃない」綾は誠とあまり接点がなかった。口数が少なく、誰に対しても心を閉ざしている、というのが綾の抱く印象だった。

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第14話

    それから30分後、意識を失った湊は集中治療室へと運ばれた。「どうしてこんなにひどいの?」綾はドアのガラス越しに、たくさんの管に繋がれた湊の姿を見ていた。足に力が入らず、立っているのもやっとだった。「交通事故の後遺症がひどすぎる。あの時、命が助かっただけでも奇跡だったんだ」達也はカルテにびっしりと指示を書き込み、看護師に手渡した。ここは黒崎家が経営する病院で、東都でも指折りの施設だ。達也が院長であり、湊の主治医でもある。その達也が深刻だと言うのなら、状況は決して楽観視できないということだ。「秋になって肌寒くなってきたんだから、もっと注意するべきだったのに。高熱を出すなんて……ここ2年はずっと元気だったじゃないか?」達也の言葉には、明らかに責めるような響きがあった。達也は湊の友人で、この数年間、綾がずっと湊の面倒を見てきたことを知っていた。「凪親子が家に住み始めてから、湊はずっと付きっきりだったから。たぶん、それで疲れてしまったんだと思うわ」綾は、その濡れ衣を着せられるつもりはなかった。その言葉を聞いて、達也は少し気まずそうにした。「今日の山を越せるかどうかだ。この階に、君のための部屋を用意しておくよ」「ありがとう」綾は頭が真っ白で、ゆっくりと廊下の椅子に腰掛けた。あまりのことに、どうしていいか分からなかった。昨日の夜は、一緒に星を見ていたばかりなのに。まだ、お互いにすねていたのに。大きな恐怖が流砂のように、少しずつ綾を飲み込んでいく。この世界で、自分に残された身内は湊ただ一人だ。この5年間、湊の世話をすることが、生活のすべてであり、当たり前の責任だった。二人の間にはすれ違いや、やりきれない思い、そして憎しみさえあった。でも、湊がどんなにひどい男でも、彼の死なんて一度も考えたことはなかった。達也が戻ってくると、綾が隅でうずくまっていた。壁に額を押し付け、大粒の涙が床に落ちて染みを作っていた。達也はしばらく綾の後ろに立っていたが、何度か口を開きかけては、かける言葉が見つからずに閉じてしまった。病院で人の生死を見慣れている達也でも、親友が死の淵に立たされているのを見ると、胸が締め付けられるようだった。ましてや、綾にはあんな出生の秘密があるのだから……「私って、本当

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第13話

    綾は、凪親子を忘れられないくせに、自分をこんな風に縛り付ける湊が憎かった。いい加減、離れようと決心したのに。湊が弱っている姿を前にすると、どうしても突き放せない自分が憎い。「屋上で、少し星を見ないか」綾は何も言わず、エレベーターは最上階へ直行した。スイッチを押そうとして、湊が明かりを嫌うことを思い出し、手を引っ込めた。綾は車椅子をガラス窓の前まで押すと、自分は少し離れた一人用ソファに腰掛けた。いつも座っている、座り心地の良いソファだ。子供の頃、中野家に来たばかりの時は、綾はまだ慣れなくて両親が恋しかった。同じく両親を亡くした湊は、綾の両親は空の上で星になったんだ、と教えてくれた。それは子供をあやすための嘘だったけど、当時の綾はそれを信じて、毎晩、夜空をただひたすら見上げていた。大人になって、生きることと死ぬことがどういうことか分かっても、星を見る習慣だけは残った。空に星がまたたいているのを見ると、心が落ち着くのだ。和子が亡くなってから、綾と湊はここに引っ越してきた。湊は屋上を展望台として特別に設計してくれた。夜、何もすることがなくて晴れている日には、一緒に星を見に来てくれる。今夜はあいにくの天気で、空にはただ暗い雲が広がっているだけだった。綾は眠くてたまらず、あくびが止まらなかった。「もう寝るわ」「先に休んで。俺はもうしばらくここにいる」ガラス張りの壁の向こうに広がる夜空の下で、湊の姿はどこか頼りなく、小さく見えた。綾は黙って湊を見ていたが、結局何も言わずに一人でその場を去った。もういくら星を眺めても、二人の関係は元には戻れない。翌朝、綾は幸子に起こされた。湊が高熱を出したのだ。綾は驚いて一気に目が覚め、靴も履かずに裸足のまま凪の部屋へ駆け込んだ。湊は体を丸め、熱で意識が朦朧として、うわごとを繰り返していた。「兄さん、兄さん……綾、怖くないよ。俺がここにいる。おばあさん、お願い、どうか……」綾が湊の額に触れると、火傷しそうなほど熱かった。綾は急いで隆に湊を背負わせて車に乗せ、剛はすでにエンジンをかけていた。助手席に座ると、幸子が持ってきてくれた服と靴を急いで身につけた。凪が車のドアに手をかけ、「私が行くわ」と言った。「どいて!」綾は力任せに

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第12話

    「どうしたの?」明里は綾の視線を追って、ものすごい人だかりを見た。「なんでもない」綾は首を振って、視線を戻した。最近どういうわけか、幻覚を見ることがよくある。「湊が二宮さんたちを連れて試合を見に来てたよ。でも、表彰式の前に帰っちゃった。あなたが選手だって知らなかったみたい」「湊もずいぶん変わったよね。昔は私が観劇に誘っても、付き合ってくれなかったのに」綾は助手席に座った。久しぶりに運動したせいか、試合に出ただけで手首がひどくだるい。「今夜はうちに泊まっていきなよ」明里が誘った。「私はいいや。フェンシングの道具だけ、持って帰ってくれる?」綾は、湊が和子を言い訳にするのを聞きたくなかった。でも、どうせ同じベッドで寝るわけじゃないし、大きな問題はないだろう。明里は綾を玄関まで送った。「綾、おやすみ!」明里は心の底から綾を気の毒に思った。人生はままならないものだ。「おやすみ。気をつけて帰ってね」綾は明里の車が見えなくなるまで見送ってから家に入った。こんないつも味方でいてくれる親友がいるなんて、自分は幸せ者だ。時には、好きという気持ちよりも、友情がもたらす力の方が心強いものだ。湊は綾を見るなり、開口一番こう言った。「綾、明里には今後、言葉に気をつけるよう言っておけ」綾は聞かなくても分かった。試合を見に来た時に、明里が何か本当のことを言って凪の機嫌を損ねたのだろう。「明里が何を言おうと、彼女の自由よ」湊は苛立ちを隠さなかった。「お前が凪をいじめるのはもう見たくない。お前が凪をいじめるほど、俺の彼女への負い目は増していくんだ」湊の眉間には疲れの色が滲んでいた。素直だった綾が、なぜ急に変わってしまったのか理解できなかった。いじめる?なるほど。湊から見れば、ずっとこっちが凪をいじめている、ということなのね。綾はソファに腰掛け、華奢な手首を揉んだ。「離婚して凪と結婚すればいいじゃない。そうすれば、もう負い目を感じることもなくなるわ」綾の口調は柔らかく、恨み言ひとつない。むしろ、二人の仲を取り持つ仲人のようだった。その言葉を聞いて、湊の目は氷のように冷たくなり、その奥に冷たい光を宿した。「たかが、凪たちがこの家に住み始めたというだけで、どうしても離婚すると言うのか?」綾は少しだ

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第11話

    最近、綾はすごく口が達者になった。きっと明里とばっかり一緒にいるからだ。人をやり込めるようなことばっかり覚えてる。明里は、海斗が自分をにらみつけて、中指を立てているのに気づいた。湊と凪が話しているすきに、明里はさっと海斗の手をつかむと、その中指を彼の口にぐいっと押し込んだ。「おえっ!」海斗は指を引っ込めるのが間に合わず、中指がのどを突いてしまった。えずいて、目に涙を浮かべていた。「次やったら、その指、剣で切り落とすからね」凪は海斗をぐっと抱き寄せると、怒ったように言った。「なんてことするのよ、子供相手に!」「しつけを手伝ってあげただけよ。お礼は要らないわ。『親が親なら子も子』って言うもんね。親がこれじゃあ、子供もかわいそう」明里はちっちっと舌を鳴らしながら、同情するように海斗を見つめた。湊はうんざりしたように眉をひそめ、スタッフを呼んだ。「席を替えてもらえますか」人混みが嫌いだし、フェンシングにも興味はなかった。ここにきたのは凪と海斗に付き合うためだったのに、まさかこんな騒ぎになるとは思っていなかった。一行がいなくなると、明里は空気がすんだような気がして、試合に集中することにした。試合は勝ち抜き戦形式だ。勝者はステージに残り、次の挑戦者を待つ。勝ち残った回数で点数が決まるから、体力も精神力もすごく試される。前の選手たちは、最高でも3回戦までしか勝ち残れなかった。そして、ついに綾の出番がきた。白いマスクをつけているから顔は見えない。でも、明里には綾のオーダーメイドのフェンシングウェアが分かった。審判の合図とともに、5年の時を経て、綾が再び剣を構えた。鮮やかなカウンターで、相手の剣をはじき返した。でも、練習から長く離れていたせいか、綾の動きは少しぎこちなく、すぐに劣勢に立たされた。それでも綾は冷静さを失わなかった。剣さばきは相変わらずしなやかで鋭い。最後は意表をつく技で点数をひっくり返し、ステージに勝ち残った。だけど、残念ながら5回戦を勝ち抜いたところで体力が尽きてしまい、惜しくも負けてしまった。試合が終わるころには、もう夜も遅かった。司会者がステージに上がる。「それでは、上位3名の選手を発表します……」湊は眉間を押さえた。「海斗はもう寝る時間だ」海斗を抱き上げると、自分

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第10話

    綾はドキッとして凪の方を向き、絵に手を伸ばそうとした。でも、その前に湊がひょいと取り上げてしまった。絵に描かれた人物を見ると、湊は冷たく笑った。「どうりで最近、俺に突っかかってくるわけだ。昔の男を思い出してたってことか」湊は、綾にハーフの元カレがいたことを知っていた。二人は中学からの知り合いで、同じ大学に進学して付き合い始めたのだ。でも、若さに任せた恋なんて、儚くて当てにならないものだ。もう5年も経ったのだから、綾はとっくにその男のことなど忘れていると思っていた。湊はA4用紙を力任せに丸めると、ゴミ箱に投げ捨てた。「今後、家の中で二度とその青い目を見たくない」綾はその絵を拾い上げた。そして、湊の目の前で丁寧にシワを伸ばすと、折りたたんでハンドバッグにしまった。「あなたの元婚約者がこの家に住んでるのに、私の元カレの絵がここにあっちゃいけないわけ?」綾の声は淡々としていた。でも、体は何とも言えない不快感に襲われていた。まるで、15、16歳の頃に飲んだレモネードが、胃の中で苦く酸っぱく発酵しているみたいだった。その言葉を聞いた湊の眼差しは、凍りつくように冷たくなった。ダイニングの空気は一気に重くなる。「それは違う、綾。俺を試すような真似はするな」綾は眉間にしわを寄せ、胸が一瞬痛んだ。湊はこんな陰険で偏屈な人ではなかったはずだ。綾は車を運転して家を出た。今日は土曜日で、仕事は休みだ。綾は明里に連絡を取り、「薔薇の心」を明里の家に届けに行くことにした。明里は広々としたマンションに住んでいた。猫を一匹、犬を二匹飼っていて、ペット専門の家政婦を雇っている。「ハルちゃん、ナツちゃん、アキちゃん、遊びに来たよー」綾は猫を撫で、二匹の犬の背中を掻いてあげた。ハルちゃんはクールで、大きなあくびを一つすると、窓際で毛づくろいを始めてしまった。綾が熱心に構おうとしても、完全に無視している。一方、ナツちゃんとアキちゃんは、しっぽを振って綾の周りを嬉しそうにくるくる回っている。明里は「薔薇の心」を金庫にしまい、時間を確認した。「今日の予定は?」綾は床に座り込み、左手でナツちゃんを、右手でアキちゃんを抱きしめた。「今夜、試合があるんだけど、観に来る?」「うそでしょ?結婚してから、そういう趣味は全部やめち

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status