共有

第4話

作者: 青山米子
病院でのリハビリの一ヶ月余り、一葉は決して時間を無駄にしなかった。彼女と法律上の夫、そして優花との関係について、徹底的に調べ上げていた。

言吾との結婚は恋愛結婚だった。純粋な愛情で結ばれたと一葉は信じていた。

この男のために、一葉は全財産を投じて彼の起業を支え、彼の健康を第一に考えて学業も断念し、専業主婦になったのだった。

まさか、彼の愛情は打算的な嘘だったなど、想像もしていなかった。

本当に愛していたのは、一葉の義妹の優花だったのだ。

優花が戻ってきてからというもの、状況は一変した。

結婚記念日に、言吾は優花とオーロラ観賞に出かけた。

一葉の誕生日には、優花と桜都で桜吹雪を楽しんでいた。

バレンタインデーには、優花に一軒家いっぱいの赤いバラと、鳩の卵ほどもある大きさのダイヤの指輪を贈り、一葉には優花へのプレゼントを買った時のおまけ程度のものしかくれなかった。

そして冷たく一言、「騒ぐな」と言い放った。

それなのに、一葉はまるで恋に盲目な女のように、離婚を考えるどころか。

傷つく度に、より一層献身的に彼の世話を焼き、お茶を淹れ、料理を作り、完璧な妻を演じ続けた。

この結婚を守ることだけを願いながら。

今回の誘拐だって、敵対する企業が言吾の命を狙っていて、一葉は彼を守るために連れ去られたというのに。

結局、尽くせば尽くすほど、彼女の手元には何も残らなかった。

彼のために命さえ投げ出せたのに、言吾は優花のために躊躇なく一葉を見捨て、そして一葉が九死に一生を得た後も、ただひたすらに優花への謝罪を彼女に強要し続けた。

人としての心すら持ち合わせていない、最低な男だった。

かつての自分があまりにも恋に溺れ、一人の男のためにここまで自分を貶め、命も尊厳も投げ出すほど愚かだったことは、一葉には受け入れ難かった。でも、もう後悔したところで何も変わらない。

このダメ男を捨てることこそが正解なのだと、一葉は確信していた。

この二人、最低な男と腹黒い女、まさに運命の出会いというべきね。

一葉の唇に皮肉な笑みが浮かんだ。

心から願うわ、一生このまま縛り付けられてればいいって。

「一葉、また何を馬鹿なことを」言吾が眉をひそめた。「三ヶ月以上も反省する時間があったのに、まだ自分の非が分からないのか」

そんな言葉まで!

一葉の口元に思わず笑みが零れた。自分の惨めさを噛み締めるような笑いだった。

全てを捧げ、死にかけても、返ってきた言葉は「まだ自分の非が分からないのか」なのか。

「ちゃんと反省したわ。だから、お二人のお祝いに来たんじゃない」

眉目秀麗の言吾の顔が、一瞬にして険しく歪んだ。さっきまでの優しい表情は影も形もない。

愛情の有無なんて、こうもはっきりと分かるものなのね――一葉はそう思った。

不思議だった。言吾への愛情の記憶は失くしているはずなのに、このクズ男を振り払いたい気持ちでいっぱいなのに。

その冷たい眼差しと向き合った瞬間、一葉の胸が鋭く疼いた。

「お姉さん、誤解しないで。私と言吾さんの間には何もないの。さっきはただの罰ゲームで、ゲームだけだったの......」

か細い体つきの優花が、慌てた様子で一葉に駆け寄ってきた。

まるで本当に誤解されて困っているかのような、か弱げな仕草を見せながら。

優花が一葉に抱きつこうとした瞬間、一葉は咄嗟に身を躱した。

見た目は普通に見えても、今の一葉の体は内部が金属プレートとボルトで支えられているだけだった。

退院時、医師からは厳重な警告を受けていた。完治するまでは細心の注意を払い、骨に負担をかけないようにと。もし再び怪我でもすれば、取り返しのつかない後遺症が残る可能性があると告げられていた。

一葉の体は今や高級な磁器人形よりも脆弱で、優花の「か弱い」抱擁など、とても受け止められるものではなかった。

入院中、両親も兄も夫も見舞いに来なかったが、この義妹は頻繁に顔を出していた。一葉の状態を誰よりもよく知っているはずなのに。

「お姉さん、そんなに私のことが嫌いなの?」空振りした優花は床に倒れ込み、瞬く間に涙を瞳に溜めた。今にも零れ落ちそうな涙は、見る者の同情を誘うように揺れている。

言吾は優花を心配そうに見つめ、すでに険しかった表情がさらに冷酷さを増した。

「一葉、今日優花に謝罪するつもりがないなら、すぐに出て行け。二度と俺の前に姿を現すな」

その声は骨まで凍えそうな冷たさだった。

高い地位にある者特有の威圧感が、まるで空気を吸い上げるような重圧となって襲いかかってくる。

でも......

これは願ってもない話じゃない?

謝罪せずに済む上に、この汚らわしい男にも二度と会わなくて済む?

顔を上げ、一葉は笑みを浮かべた。「どうやら私の考えと同じようね。謝罪するつもりなんてないわ。じゃあ、失礼するわ」

そう言って背を向けた。

まるで霊安室のような静寂が個室を包んだことなど、一葉はまったく気にしていなかった。

だが、一歩も踏み出せなかった。腕を強く掴まれ、骨まで砕けそうな痛みが走る。

その激痛に、一葉の全身が一瞬にして冷や汗で濡れた。

「一葉、今の言葉の意味が分かってるのか?」

「どんなに駄々をこねるにしても限度というものがある!」三ヶ月以上も続いた騒動が収まるどころか、エスカレートする一方なことに、言吾の声は苛立ちを帯びていた。

一葉は彼をじっと見つめた。これほどはっきり言っているのに、まだ自分が駄々をこねているだけ、わがままを言っているだけだと思っているのか。正気なのか、それとも本当に分かっていないふりをしているのか。

「私が駄々をこねてるだけだと思うなら、試してみる?」

「何を試す?」言吾は本能的に、これから聞く言葉が自分の望まないものだと悟っていた。

真っ直ぐに彼の目を見つめ、一葉は言った。「離婚届を出しに行きましょう。本当に私が駄々をこねてるだけかどうか、確かめられるでしょう」

その言葉が部屋に響いた瞬間、個室内の全員が目を見開いた。まるで一葉が何か得体の知れない異星人にでも取り憑かれたかのような目で、彼女を見つめている。

かつての一葉なら、どんな状況でも決して口にしなかったはずの言葉——言吾との離婚など。

静寂が個室を支配した後、あちこちから嘲笑の声が上がった。

「一葉さん、そんなこと言ったら、言吾さん本当に離婚しちゃいますよ?」

「ほんとに市役所行く時になって、言吾さんの足にすがって泣き叫ばないでよね」

「言吾さん、甘やかすのはもう止めましょう。さっさと離婚してやれば?」

「そうよ、離婚すればいいのよ!本当にやる勇気あるのかしら?言吾さんなら、あなたより百倍も素敵な女性が見つかるわ。でもこの女ときたら、どうせ売春婦にでもなったって、誰も見向きもしないでしょうね」

「自分を何だと思ってるの?言吾さんを離婚なんかで脅すなんて」

「三ヶ月以上も入院してたのに、言吾さんは一度も見舞いに来なかったでしょう?少しは察しなさいよ」

「三浦さん、笑わないで。この愛情乞食に、そんな察する能力があると思う?」

言吾が一葉を好きではない。だから彼の友人たちも一葉を嫌っている。まるで言吾に食い下がる野良犬でも見るような、軽蔑の眼差しを向けてくる。

周りから「離婚すれば」という声が繰り返される中、言吾の表情は次第に険しさを増していった。

「一葉、もうふざけるのは止めろ」彼は警告するような声音で言った。

周りの全員が言吾と同じように考えていた。一葉がただ離婚を盾に取って駄々をこねているだけだと。そりゃそうだろう。一葉が言吾をどれほど愛していたか、彼らは知っているのだから。たった一晩帰らないだけで、過呼吸で救急搬送されるほど取り乱していた一葉が、まさか本気で離婚を口にするはずがないと。

ただ一人、双子の兄だけが一葉の本気を見抜いていた。

双子だからこそ、誰よりも妹のことを分かっているのだろう。

「一葉、どうしたんだ?相手は言吾さんだぞ?お前が命より大切にしていた男だろう!」一葉の決意の固さを悟った兄は、困惑した様子で声を上げた。なぜ妹がこれほど愛していた言吾との離婚を望むのか、理解できないといった表情だった。

兄の言葉には答えず、一葉は言吾を見つめ返した。ただ腕を離すよう求めるだけの冷たい視線。

言吾は、一葉の態度に怒り狂って笑ったのか、それともやっとこの重荷から解放されると喜んで笑ったのか。「いいぞ!実に結構!一葉、随分と成長したじゃないか!」

「離婚が望みか?いいだろう!やってやる!」

満足げに立ち去ろうとした一葉の前に、また優花が涙を浮かべながら飛び出してきた。「お姉さん、言吾さん、やめて!私のせいでこんなことに......」

「お姉さん、私と言吾さんの間には本当に何もないの!さっきはただのゲームだったの!こんなことで離婚なんて......信じてくれないなら、私の命を賭けて証明するわ!」そう叫んで、優花はテーブルの果物ナイフを掴むと、自分の首筋に突き付けた。

周りの人々は一斉に優花を心配そうに諭し始めた。冷静になるように、一葉のような困った女のことなど気にしないでいいと。

一葉は冷ややかに笑みを浮かべた。「ええ、いいわよ。死んでみなさい。そうしたら、私も信じてあげる」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
コメント (1)
goodnovel comment avatar
おいかわまみ
えーー兄って双子だったの…??!ショック…
すべてのコメントを表示

最新チャプター

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第681話

    彼女は未来の、二人のための盛大で幻想的な結婚式について、目を輝かせながら語っていた。あの時、彼女を力強く抱きしめながら、将来必ず君に最高の結婚式を贈る、と誓ったことを、言吾は鮮明に覚えていた。今、彼女の夢見た盛大な結婚式は、現実のものとなった。だが、それを贈ったのは、彼ではなかった。言吾は、そっと目を閉じた。涙が、頬を伝って流れ落ちる。それは幸福の涙ではなく、ただひたすらに痛みを伴う滴だった。一歩、道を誤れば、すべてが狂う。その悔恨は、一生涯続く。彼はこうして、永遠に失ってしまったのだ。あれほどまでに、自分を愛してくれた人を。眠らない街、本港市……悪夢など見たことのなかった慎也が、その初夜、ひどく恐ろしい夢にうなされた。夢の中で、彼は生涯をかけても一葉を、最愛の人を手にすることができず、ただ孤独のうちに一生を終えたのだ。悪夢から飛び起きた慎也は、隣で眠る一葉を、ただ夢中で抱きしめた。きつく、きつく。一葉が息苦しさに身じろぎするまで、彼はそれに気づかなかった。慌てて腕の力を緩めると、彼女が心配そうに「どうしたの」と尋ねてくる。見てしまった悪夢のことをどう話せばいいのか分からず、彼はただ、とても恐ろしい夢を見た、とだけ答えた。一葉は、大の男が夢に怯えたことを笑ったりはしなかった。それどころか、優しく彼を抱きしめ、その背中をゆっくりと撫でながら、大丈夫、私がいるわ、と囁いてくれた。これまでに誰かから、こんなにも優しい温もりを与えられたことがあっただろうか。慎也はたまらず、再び彼女を強く抱きしめた。しばらくして、彼は腕の中の一葉を見下ろし、掠れた声で尋ねた。「一葉……俺と結婚して、お前は本当に幸せか?心から、嬉しいと思ってくれているか」夢の中の彼女は、言吾との間に愛らしい双子をもうけ、満ち足りた暮らしを送っていた。自分との間に、あんなにも可愛い双子が生まれるだろうか。彼女を、本当に幸せにしてやれるのだろうか。迷信など信じない。だが、自分は『凶星』の宿命を背負い、誰かを幸せにすることなどできはしないのではないか――そんな心の澱が、どうしても消えなかった。そして何より、彼女を愛しすぎるが故に、自分の愛が十分ではないのではないか、彼女を最高に幸せにすることはできないのではないかという不安に苛まれる。どれほ

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第680話

    そう分かっていながらも、慎也は口にせずにはいられなかった。彼は、これほど純粋に、心から誰かを好きになったことがなかった。だからこそ、彼女への愛はどこまでも真実で、どこまでも純粋なものでありたかった。その愛に、一片の曇りもつけたくなかったのだ。彼が欲しいのは、彼女の身体だけではない。彼女の心からの愛だった。一葉は顔を上げ、男の真摯な愛に満ちた瞳と視線を交わした。心臓が、とくん、と音を立てて跳ねるのを確かに感じた。桐生慎也という人間は、本当に、とてつもなく魅力的な人だ。特に、まるで人間界を気ままに遊ぶ神のように、誰に対しても超然と振る舞う彼が、ただ自分一人のために頭を垂れ、持てるすべてを差し出してくれる。その特別さに抗うことなど、到底できそうになかった。こんな慎也を前にして、一葉は思う。本当に、前を向くべきなのだ、と。もう一度だけ勇気を奮い起こし、全身全霊で、誰かを愛してみるべきなのだ、と。そんな想いを抱き、慎也との未来を望むようになってから。一葉の彼に対する感情は、確かな変化を遂げようとしていた。その変化に気づかない慎也ではなかったが、彼はここぞとばかりに攻め立てるような真似はしなかった。むしろ、これまで以上に穏やかに、ゆっくりと、時間をかけて彼女の心に寄り添った。ほんの少しのプレッシャーも、彼女に与えたくなかったからだ。その後、言吾はあるルートから、紫苑が身籠っている子が自分の子ではないという事実をやっとのことで突き止めた。あの夜、彼が肌を重ねたのが紫苑ではなく、一葉であったことも。狂喜にも似た一縷の望みを胸に、言吾が一葉のもとへ駆けつけた時――彼女の心は、すでに慎也のものだった。もはや、どんなにあがいても彼女を取り戻すことはできなかった。一葉が慎也に向ける、かつては自分だけに向けられていたあの笑顔を。星を散りばめたように瞳をきらめかせながら、慎也を見つめる彼女の姿を。かつて彼女がくれた、たった一つの特別な想いが、今ではすべて慎也へと注がれているという現実を目の当たりにして。かつては自分だけを映していた彼女の瞳に、今では慎也しかいない光景を見つめながら、言吾はその場に立ち尽くす。心臓を無数の獣に食い千切られるような、息もできないほどの激痛が全身を苛んでいた。以前の彼であれば、この耐え難い苦痛にきっと狂乱

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第679話

    これ以上、一歩も踏み出す資格など、自分にはないと思った。慎也と一葉の結婚の裏に、どのような真実が隠されていようと、関係ない。慎也は、一葉が何よりも大切に想う祖母を救い、そして、あの犯罪組織という脅威をも、彼女のために取り除いてみせたのだ。それに引き換え、自分は……何もしていない。俺は、なんて無力なんだ。この数日、言吾が死に物狂いで働き、獅子堂家の実権を一日も早く掌握しようと足掻いてきたのは、何よりも、一葉を守るための、より大きな力を手に入れるためだった。彼女を脅かすあの犯罪組織を、この手で排除するために。だが、自分が何かをする間もなく、その脅威は慎也によって取り払われてしまった。それどころか、紗江子が攫われ、危険に晒された時ですら、俺はそばにいなかった。身を挺して彼女の祖母を救ったのは、慎也だ。こんな俺に、何の資格がある?彼らの邪魔をする権利など、あるはずがない。挙句、これほどの一大事に、一葉は俺に連絡しようとさえ思わなかった。認めたくはない。だが、認めざるを得ないのだ。かつて、誰よりも近しい存在だった俺たちは、今や、完全に袂を分かってしまったのだと。これから先、二人の道が交わることはなく、ただ離れていくだけ。そして最後には、何の繋がりもない、赤の他人になる。その想像が、言吾の心臓を、まるで切れ味の悪い鈍器のようなもので、滅多打ちにする。一打ち、また一打ちと、死にたくなるほどの痛みが襲うのに、死ぬことさえ許されない。その痛みに、もはや耐えきれない。だが、耐えられないからといって、どうなるというのだ?この状況を招いたのは、すべて自分自身。すべては、自業自得なのだ。……紗江子は、もともと旭のことがたいそう気に入っており、一葉が彼と結ばれることを心から望んでいた。だが、慎也に命を救われてからは、そのお気に入りの座はすっかり彼のものとなっていた。紗江子の目には、慎也が、見れば見るほど、知れば知るほど魅力的な青年に映った。何から何まで非の打ち所がなく、この世に彼以上に素晴らしい殿方はいないとさえ思うほどだった。その心境の変化は、かつて一葉に旭との仲をせっついたのと同じ熱量で、今度は慎也と一緒になるよう勧めるという行動に繋がった。とりわけ紗江子を感服させたのは、その後の慎也の振る舞いだった。自分が彼

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第678話

    目の前で慎也が倒れるのを目の当たりにした紗江子は、驚きのあまり、その場に立ち尽くしていた。慎也のことは知っている。自分の孫娘に好意を寄せていることも。でなければ、あれほど孫娘を想う甥の気持ちを振り切ってまで、結婚などしまい。だが、いくら好かれていると知っていても、まさか、これほどまでとは……あれほどの地位にある男が、孫娘のために、この老婆を、命を賭して守るなど。こ、これは……とっくに死ぬべきだったこの老婆に、それほどの価値など、ありはしないというのに。慎也のやり方は、常に二重三重の安全策が講じられている。今回の件でも、彼は自らの部隊に加え、石川の部隊とも連携していた。潜入時は発見を避けるために少人数で行動したが、一度中にさえ入ってしまえば、その制約はなくなる。彼らが潜入を開始するのと同時に、第二陣はいつでも出動できるよう待機していた。そして、慎也たちが突入に成功したのを確認すると、すぐさま現場へと向かったのだ。慎也が倒れてから、仮面の男の部下たちが取り囲むよりも早く、慎也の増援部隊が周囲を包囲した。瞬間、戦局は再び、劇的な逆転を遂げる。もはや一葉たちを殺している場合ではない。仮面の男は、慌てて撤退を命じた。しかし、彼らの拠点は国外にある。ここは、彼らにとって完全なアウェイだ。そして、敵は慎也だけではない。彼らのような犯罪分子に対して、一切の容赦をしない国の特殊機関もまた、敵に回っている。彼らは死に物狂いで抵抗したが、結局、望むものは何一つ手に入れられず、一人残らず殲滅された。関係する犯罪分子が全員逮捕されたという知らせを受けた時、一葉は緊急治療室の前を、不安げに行き来していた。この数日で心身ともに疲れ果てているはずの紗江子もまた、休むことを頑なに拒み、治療室の扉の前でじっと待ち続けていた。一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、そして三時間が経っても、治療室の緊急ランプは灯ったままで、手術が終わる気配はない。手術時間が長引けば長引くほど、リスクは高まる。その事実が、一葉の呼吸を少しずつ奪っていくようだった。今のこの気持ちを、どう表現すればいいのか分からない。ただ、息苦しさだけが、刻一刻と増していく。慎也は最初から、明確に告げてくれていた。「お前が好きだ」と。結婚を望んだのも、その気持ちからだと。だが、彼女は

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第677話

    一葉の、体の両脇で握り締められた拳に、さらに力が籠もる。十分では、慎也は到底間に合わない。しかし、この十分間で成果物を渡してしまえば、自分も祖母も間違いなく殺される。何としても、時間を稼がなければならない。だが、どれだけ頭を高速で回転させても、これ以上時間を引き延ばすための有効な手立てが、どうしても思いつかなかった。「青山さん、そんなにぐずぐずしてんのは、先にその婆さんを始末してほしいってことか?」仮面の男の言葉が終わると同時に、傍にいた角刈りの黒服の男が、再び紗江子の首に刃を突きつけた。一葉の目が真っ赤に充血し、握りしめた掌を爪が突き破らんとした、その瞬間だった。突然、紗江子を押さえつけていた黒服の男が、ドサリと床に崩れ落ちた。そして、現場の者たちが何事かと反応する暇もなく、特殊装備に身を固めた一団が雪崩れ込んできた!状況のあまりの激変に、不意を突かれた仮面の男は言うまでもなく、慎也の計画を知っていたはずの一葉でさえ、驚きのあまり一瞬呆然としてしまった。慎也がこれほど速いとは、まったくの想定外だったのだ。誘拐犯どもは慎也を辱めようと、これみよがしに紗江子の居場所を漏らしたが、彼らが知る由もなかった。慎也がとっくに計画を練り上げていたこと、そして、彼らの突発的な行動さえも、即座に自らの計画の一部へと組み込んでしまったことを。彼らが最初から一葉と共に突入しなかったのは、ただ一つ、戦闘の混乱の中で紗江子を傷つける可能性を、完全に排除したかったからに他ならない。紗江子の絶対的な安全を確保するため、当初の計画を変更し、一葉を単身で向かわせ、紗江子の無事な帰宅を確認した後に攻撃を開始する、それがプランAだった。そして、万が一、プランAが機能しなかった場合に備え、当初の突入計画をプランBとして残してあったのだ。多少のリスクと、確実な死。選ぶべきは、言うまでもなく前者だ。ただ、そのプランBでは、一葉からの合図を受けてから慎也が部隊を率いて潜入する手筈になっていた。音もなく突入するには、どうしても時間が必要となる。幾度もの計算の結果、一葉が計画変更の合図を送ってから慎也たちが潜入するまで、最短でも二十分はかかると見込まれていた。それなのに、今、彼女が合図を送ってから、まだ三分も経っていない。一葉が我に返った時、慎也は既

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第676話

    だから、どれほど心臓が恐怖に凍りつき、すべてを投げ出して祖母を救いたいと叫んでいても、彼女は奥歯を強く噛み締め、言った。「どうしてもおばあちゃんの命を奪うというのなら、こちらも相打ち覚悟よ!」そう言うと彼女は、万が一のために袖に隠し持っていたナイフを取り出し、自らの首筋に突きつけた。「研究成果は、すべて私の頭の中にしかない。おばあちゃんに万が一のことがあれば、あなたたちがその成果を永遠に手にすることはできなくなるわ!」仮面の男の眼光が、ぞっとするほど険しくなった。彼は冷たく一葉を見据え、何かを言いかけた。しかし、その前に一葉が畳み掛ける。「おばあちゃんを家に帰せとまでは言わないわ。ただ、あの方をここへ、私の隣へ連れてきて。それさえしてくれれば、すぐに研究成果を渡す!」「あなたも分かっているはず。私は本当に一人でここに来た。この状況で、あなたの目の前で、おばあちゃんが隣にいたところで、私一人に何ができるというの?私にできることなど何もない。あなたは、ただおばあちゃんをここまで連れてこさせるだけで、一番欲しいものがすぐに手に入るのよ!」仮面の男は一葉をじっと見ていたが、やがて、彼女の言葉に心を動かされたのか、あるいは何か別の考えがあったのか、紗江子をここまで連れてくることに同意した。紗江子は一葉の姿を認めると、すぐさま「うー、うー」と呻き声を上げ、目で合図を送ってきた。自分のことは構うな、どうにかしてここから逃げろ、と。もう十分に生きた年寄りだ、いつ死んでも悔いはない、と。数々の修羅場をくぐり抜けてきた紗江子は、たとえ自らの命が危険に晒されようとも、さして怖気づいてはいなかった。それどころか、孫娘がこんな連中にいいようにされてなるものか、という反骨精神が、彼女を奮い立たせていた。その眼光は、病院で静かに療養していた時よりも、むしろ鋭く炯々と輝いている。その気丈な姿に、どうしようもなく不安と恐怖に揺れていた一葉の心は、いくらか落ち着きを取り戻した。しかし、だからといって、祖母の言う通りに彼女を見捨てて逃げることなど、できるはずもなかった。そもそも、今のこの状況で、逃げたいと願ったところで逃げられるものでもない。ふと、慎也が立てたプランBが脳裏をよぎる。不測の事態までも想定に入れていた彼の周到さに、彼女は改めて

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status