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夫が兄になりすまして義姉と契った話

夫が兄になりすまして義姉と契った話

Par:  弥生Complété
Langue: Japanese
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カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。 震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。 「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」 私は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。 さすが双子だ。 今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。 しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。 「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」 「いらない」 きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。 「彰宗さんは、ちゃんと知恵(ちえ)さんのそばにいてあげて」 口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。 不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。 「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」 あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。 別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。

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Chapitre 1

第1話

カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。

震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。

「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」

私・久遠美咲(くおん みさき)は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。

さすが双子だ。

今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。

しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。

「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」

「いらない」

きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。

「彰宗さんは、ちゃんと知恵さんのそばにいてあげて」

口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。

不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。

「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」

あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。

別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。

彰宗は呆然と立ち尽くした。

「何を言っているんだ?」

私は手を引き抜いて、自分でガーゼを巻き始めた。

「この数年間、私の病気のせいで、彰宗さんにも知恵さんにもたくさん迷惑をかけたわね。でも、もうすっかり良くなったから、そろそろここを出て行こうと思うの」

彼は弾かれたように立ち上がった。

「良くなった?それなのに手首を切ったのか?」

私は俯いたまま、サージカルテープを歯で噛み切り、ガーゼの端をきちんと押さえた。

「リンゴを剥いてたら、ちょっと滑っちゃっただけ」

信じてくれなかった。

この三年間で、私は十七回も手首を切っていて、そのたびに一番にドアを蹴破って駆け込んできたのは彼だったから。

でも、今回は違う。

本当に、リンゴが食べたかっただけ。

「喜んでくれないの?」

顔を上げて、彼を見つめた。

「ずっと前に進めって言ってくれてたじゃない。今、やっと前に進めるようになったのに、どうして喜んでくれないの?」

彼の表情がわずかに揺れ、口を開きかけて、また閉じた。

その顔を見つめながら、私はいつの間にか指先を握りしめていた。

翔伍と彰宗は、本当に瓜二つだった。

双子だから、当然だけど。

眉の形も、鼻筋も、唇も。

こめかみの小さなほくろの位置まで、すべて同じだった。

昔は、ふたりは似てないと思っていた。

彰宗の笑顔は穏やかで、翔伍が笑うと目尻がほんの少しだけ上がって、少年らしい快活さが滲む。

でも、それは三年前の話だ。

三年前、こう告げられた。

「翔伍は事故に遭って助からなかった」

あの日、私は愛した人を失った。

お腹の子も失った。

私はあまりの衝撃に、睡眠薬を多量に飲み込んだ。

その時に、彰宗が、水を飲ませて吐かせてくれた。

屋上に立ったとき、引き戻してくれたのも彼だった。

何度も何度もリストカットをくり返して、そのたびに包帯を巻いてくれたのも彼だった。

彼は義兄として、この三年間、私のそばにいてくれた。

心から感謝していた。

一ヶ月前までは。

夜中にトイレに起きたとき、書斎の前を通りかかると、電話している声が聞こえてきた。

「お母さん、彰宗兄さんのことは誤魔化せるうちは誤魔化しておこう。知恵はこんなこと耐えられないよ、元々精神が不安定なんだから。

美咲のことは……あいつは強いから、大丈夫」

口を押さえてドアの外にうずくまり、全身が震えていた。

まさか死んでいたのは、彰宗だったとは。

そして今、兄の彰宗になりすまして、三年間生きていたのは翔伍だった。

なのに、あの夜、私は部屋に飛び込んで問い詰めることはしなかった。

本当の彰宗は彼を庇って死んだのだと、自分に言い聞かせた。

彼が兄嫁の世話を続けているのは、罪悪感からなのだと。

そう理解すべきだと思っていた。

でも、ふたりの寝室の前まで来たとき。

彼が林田知恵(はやしだ ちえ)を押し倒して、唇を重ねる光景を目にしてしまった。

もう、自分を騙しきれない。

彼が欲情したときの様子を、私は誰よりもよく知っている。

呼吸が荒くなると、指先には無意識に力がこもること。

かつては私だけのものだったその些細な仕草が、今は寸分違わず別の女に注がれていた。

責任感なんてもの、とっくに変質していたのだ。

この三年間、朝夕をともに過ごすうちに、彼は知恵に惹かれていったんだ。

そのとき、ドアがノックされた。

「美咲ちゃん、大丈夫?」

知恵の声だった。

翔伍……いや、やはり彰宗と呼ぶべきか。彼は薄手のカーディガンを一枚だけ羽織った知恵を見て、反射的に腕の中へと引き寄せた。

「外は寒いのに、どうしてそんな薄着で来るんだ」
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第1話
カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」私・久遠美咲(くおん みさき)は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。さすが双子だ。今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」「いらない」きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。「彰宗さんは、ちゃんと知恵さんのそばにいてあげて」口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。 「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。彰宗は呆然と立ち尽くした。「何を言っているんだ?」私は手を引き抜いて、自分でガーゼを巻き始めた。「この数年間、私の病気のせいで、彰宗さんにも知恵さんにもたくさん迷惑をかけたわね。でも、もうすっかり良くなったから、そろそろここを出て行こうと思うの」彼は弾かれたように立ち上がった。「良くなった?それなのに手首を切ったのか?」私は俯いたまま、サージカルテープを歯で噛み切り、ガーゼの端をきちんと押さえた。「リンゴを剥いてたら、ちょっと滑っちゃっただけ」信じてくれなかった。この三年間で、私は十七回も手首を切っていて、そのたびに一番にドアを蹴破って駆け込んできたのは彼だったから。でも、今回は違う。本当に、リンゴが食べたかっただけ。「喜んでくれないの?」顔を上げて、彼を見つめた。「ずっと前に進めって言ってくれてたじゃない。今、やっと前に進めるようになったのに、どうして喜んでくれないの?」彼の表情がわずかに揺れ、口を開きかけて、また閉じた。 その顔を見つめながら、私はいつの間にか指先を握りしめていた。翔伍と彰宗は、本当に瓜二つだった。双子だから、当然だけど。眉の形も、鼻筋も、唇も。こめかみの小さなほくろの位
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第2話
彼の口調は、まるで子供をあやすように柔らかかった。知恵は彼の肩に寄りかかり、少し心配そうにこちらを見ていた。「大丈夫よ」私はかすかに笑みを浮かべた。「ふたりとも、部屋に戻って休んで」彰宗はすぐには動かなかった。私を見つめる目が、珍しくも真剣だった。「前に進めるのは、当然いいことだ。でも、出ていくとなると話は別。家族みんなで、ちゃんと話し合わないと」その言葉に、知恵は少し驚いたように私を見つめた。何も言わず、彰宗の後について出ていった。 ドアが閉まった。私はベッドの端に腰かけて、小さく笑った。家族、か。私たちって、本当に家族なのだろうか。スマホが震え、画面を見ると、スケジュール確認の通知だ。翔伍と一緒にアイスランドでオーロラを見るのがずっと私の夢だった。でも桐谷家は政界と深く結びついた複雑な関係を持っていて、家の長老たちは子どもたちが自由に海外へ出ることを許さなかった。彼が生きていた頃、私は待ち続けていた。死んでからも、私は彼に縛られていた。でも今はもう、自分のために生きたい。……翌朝早く、書類と身分証をカバンに詰めた。部屋を出ると、ちょうど彰宗が朝食を作っているところだった。厚焼き玉子、知恵の好物だ。しじみの味噌汁に揚げパン、私の好物だ。毎朝ずっとそうだった。知恵は甘い味が好きで、私は塩味が好きで、彼は一度も間違えたことがなかった。この三年間、文句のつけようがないほど細やかに気遣ってくれたものだ。「おはよう。朝ご飯できたぞ」彰宗が私のために椅子を引いた。「いい。二人で食べて」踵を返して玄関へ向かおうとしたとき、彰宗が私の手に持った書類袋に目を留めた。歩み寄り、私の腕を掴んだ。「それ、何だ?どこ行くんだ?何しに?」こんなに反応するとは思っていなかった。 とっさに言い訳を作った。「この前の健康診断で、ひとつ数値が良くなかったから。先生に再検査って言われて」じっと私を見つめて、信じていないのが分かった。彼は手を伸ばして書類袋を取ろうとした。その指先が触れかけた瞬間、寝室から、知恵の小さな悲鳴が上がった。一瞬で彰宗の手が離れ、彼は駆け足で寝室へ向かった。「知恵?どうした?」「つま先をベッドの角にぶつけちゃって
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第3話
「何をするの!」彼はうつむき、その吐息が額にかかった。数秒、沈黙が続いた。「変わったな、お前」私は一瞬固まって、すぐに彼の言いたいことが分かった。思わず笑ってしまった。「悲しい過去を忘れて、前に進んだら、変わったってことになる……っていうの?」顔を上げて、彼を見据えた。「あなたも、知恵さんも、お義母さんも、散々私に言ったじゃない。前に進めって、やり直せって。今、やっとその通りにできたのに、何がいけないの?」彼の顔色がさっと険しく変わった。ギリッと歯を食いしばった。「嘘だ。あんなに愛していたのに……俺……の、弟のことを」押し殺した声が、ほとんど歯の隙間から絞り出されるようだった。「たった三年で、翔伍のことを忘れられるのか?あの子のことも?」最後の一言が、刃のようにまっすぐ心臓を突き刺した。私はぎゅっと手を握り締めた。あの子。私が守り切れなかった、あの子。なのに、どの口がそれを言うのか。彼の訃報さえ聞かなければ、あんなふうに取り乱して早産することもなかったのに。赤ちゃんだって、感染して窒息死することもなかったはずなのに。 自分が何を言ったか気づいたのか、彰宗は慌てて謝ろうとした。だが、私はそれを許さなかった。「自分が何様だと思っているの」必死に涙をこらえて、彼の顔を射抜くように睨みつけた。「どうして信じないの?愛してないって言ったら、もう本当に愛してないのよ。もうあの人のために一人で生きたりしない。涙だって、二度と流さない」「黙れ!」彼の瞳はわずかに揺れた。私にそんなことを言わせたくないのか、耳元に押しつけていた手が、さらに強く押しつけられた。焦ったように顔を近づけ、何かしようとしたその瞬間。「あなたたち、何をしているの?」 顔が青ざめている知恵が、薄暗い明かりの下に立っていた。彰宗はすぐに手を離した。「誤解しないでくれ」大股で歩み寄って、彼女を腕の中に引き寄せた。「美咲がよろけたから、ちょっと支えただけだ」なんて見え透いた言い訳だというのに、知恵はそれにあっさり騙された。 そして、無理に笑みを作った。「そうだったの、てっきり……」少し間を置いて、話題を変えた。「さっきお義母さんから電話があって、優(ゆう)が
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第4話
頭を下げたまま、背中の痛みで息をするのもままならず、ただひたすら謝り続けた。「ごめんなさい、私が悪かった。本当に……ごめんなさい……」ふと彰宗の方を見ると、知恵をしっかりと抱きかかえて、必死になだめていた。義母は傍らに立ち、その目には失望の色が満ちていた。歯を食いしばり、それ以上何も言わなかった。医者がカルテを手に現れ、深刻な面持ちだった。「お子さんには重度の凝固障害があります。現在、出血が多く、輸血が必要な状態です。Rh陰性血液型なのですが、あいにく血液バンクの備蓄が足りていなくて」廊下が死んだように静まり返った。思わず知恵の方へ目をやった。彼女がO型だということは知っている。彰宗も翔伍も、A型だった。なら優がRh陰性なんて、あり得ないはずだ。でも、そんなことを考えている場合ではなかった。 「私がRh陰性です。私の血を使ってください」私は立ち上がって言った。その言い終わった瞬間、義母が甲高い悲鳴を上げた。「ダメよ!」その場の全員が固まった。「どうしてダメなんですか?」私は振り返って彼女を見た。義母の視線が泳いで、私と目を合わせようとしなかった。知恵も泣き止んで、まるで時間が止まったみたいに動かなかった。 彰宗だけがギリッと奥歯を噛み締め、私に説明した。「早産のあと、ずっと体が弱っているんだ。母さんは、お前の体のことを心配してるんだ」馬鹿げていると思った。でも採血室へ向かおうとしたまさにそのとき、彰宗のアシスタントが一人を連れて駆け込んできた。「社長!ご指示通り、事前に手配していたドナーを連れてまいりました」思わず足を止めた。その献血者に、見覚えがあった。私がRh陰性だと分かったとき、翔伍は万が一に備えて、高額の謝礼を用意して同じ血液型の献血ボランティアを探し、バックアップの契約を結んでいたのだ。でも、周りの人たちが安堵の表情を浮かべるのを見て——私が献血すると言った時の慌てた様子とは打って変わったその態度に、私は全身の血が凍る思いがした。ふと、直系の親族からは輸血できないはずだと思い出した。二時間の手術を終えて、優は一命を取り留めた。家族みんなが優を取り囲んで世話をする姿を、私は傍らで見つめながら、胸が激しく鳴っていた。妊娠中、医者は
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第5話
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第6話
冷たい夜風がタクシーの窓ガラスを叩く。高架道路に入ると、私はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。「白崎さん、計画通りに進めてください」白崎博人(しらさき ひろと)は、この三年間で弁護士として唯一信頼できる先輩だった。おかしいと気づいた早い段階から、彼にDNA鑑定の依頼とビザの手続きを密かに頼んでいた。「医療用のチャーター機はすでに待機中です。航路の許可も下りました」電話の向こうで、彼はきっぱりと告げた。 「桐谷家はA市じゃ顔が利きますので、一般の航空便じゃ逃げ切れないかもしれません」「わかった」と電話を切って、SIMカードを抜き取って窓の外へ投げ捨てた。三十分後。彰宗が家のドアを押し開け、手にはテイクアウトしたばかりのムースケーキを提げていた。家は、怖いくらい静まり返っていた。手から力が抜けて、ケーキが床に落ち、クリームが飛び散った。地下室へ駆け込むと、ベッドはすでに冷え切っていた。二階へ駆け戻り、勢いよくマットレスを剥がした。そこに隠してあったはずのパスポートが、消えていた。「探せ!空港と新幹線の駅を封鎖しろ!」電話に向かって怒鳴りながら、ネクタイを乱暴に引き下ろした。…… 空港の旅客ターミナルロビー。彰宗が部下を連れて駆けつけ、レイキャビク行きの搭乗者リストを直接確認した。しかし、私の名前はなかった。「社長、奥様の出国記録が確認できません」アシスタントが額に汗を滲ませながら、タブレットを差し出した。彰宗は搭乗口を食い入るように見つめ、その目は赤く血走っていた。知恵が追いついてきて、彼の腕に縋りついた。「彰宗、美咲ちゃんはあんなに具合が悪かったんだから、どこかの隅に隠れてるだけかもしれない。警察に届けましょう」「どけ!」と彰宗が勢いよく振り払うと、知恵は柱にぶつかり、驚愕の表情を浮かべた。ちょうどそのとき、彰宗の仕事用スマホに予約送信されたメールが届いた。動画だった。再生すると、機内に座る私と、窓の外に広がる駐機場と夜景が映し出された。「翔伍」 私はカメラを見据えた。 「三年間も彰宗になりすまして、楽しかった?私を騙しただけじゃ足りなくて、自分の子まで知恵に差し出して、利用したのね!この映像はもう、時間指定で一斉送信するよう
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第7話
彼を見つめながら、私は淡々とした顔のまま、口元だけを作り笑いのようにわずかに持ち上げた。「桐谷社長、はじめまして。グローリー・ベンチャーキャピタルのアジア地域統括責任者、久遠美咲と申します」知恵の顔が青ざめ、スカートの裾を強く握りしめていた。「あなたが、どうして……」とかすれた声が漏れた。 あのおどおどとして精神的に不安定だった女が、こんな姿になれるはずがない。彰宗には、他の人間など目に入っていなかった。 ボディーガードを突き飛ばし、焦るように私を見た。 「戻ってきたんだな。やっと、戻ってきてくれた!」手を伸ばして、私の手首を掴もうとした。私は半歩後ずさり、冷ややかな声で告げた。「桐谷社長、ご自重ください。桐谷グループの資金不足は六百億円に上ると伺っております。あなたが今気にかけるべきは、初対面の投資家に馴れ馴れしく触れることではなく、ご自身の会社の破産清算のはずでは?」彰宗が固まり、私の目をじっと見据え、かつてのように自分を頼るような色を探そうとした。 何もなかった。「美咲」声が掠れていた。「恨んでくれてもいい、戻ってきてくれさえすればいいんだ。怒りたいなら、いくらでもぶつけてくれ。投資が欲しいなら、桐谷グループだって全部お前にやる。だから……知らないふりだけはしないでくれ」私は白崎弁護士の方へ顔を向けた。「桐谷社長は、こういうやり方でビジネスをされるんですね。白崎さん、投資候補のリストは、まだ恒田(こうだ)テクノロジーが入っていましたよね?」「はい、その通りです」白崎弁護士が息の合った返事をした。彰宗が焦り始めた。桐谷グループにとって、グローリー・ベンチャーは唯一の頼みの綱だった。資金が入らなければ、三日以内に破綻する。「優が毎日『美咲おばちゃん』って呼んでいるのよ」知恵が突然前に出てきて、無理やり笑みを張り付けた。「この三年、音沙汰なかったから、優はずっと美咲ちゃんのことを恋しがってたわ」優の名前を聞いた瞬間、息が一瞬止まりかけたが、顔には一切出さなかった。知恵の方へ向き直って、頭の先からつま先までじろじろと見定めた。「そのドレス、C社の型落ち品ですよね。桐谷グループも随分追い詰められたんですね、奥様の衣装代まで削るとは」知恵の顔が、みるみる赤黒
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第8話
乾いた平手打ちの音が響いた。続いて、小さな女の子の押し殺した嗚咽が聞こえた。頭の中が一瞬で真っ白になり、私はドアを蹴り破った。知恵が高く手を振り上げて、二発目を打とうとしていた。優はピアノの椅子にしがみつき、赤く腫れた小さな顔に目いっぱいの恐怖を浮かべていた。怒りが一瞬で理性を焼き切った。大股で駆け寄り、知恵の髪をひとつかみにし、容赦なく頬を張った。知恵が悲鳴を上げて、床に倒れた。「よくも私を殴ったわね!」顔を押さえながら、信じられないという目で私を睨みつけた。私は知恵を無視してしゃがみ込み、震えながら優を抱きしめた。優はずいぶん背が伸びていた。大きな目でこちらを見上げ、おずおずと呼んだ。「美咲おばちゃん?」「もうおばちゃんじゃないのよ」涙をぐっとこらえて、その小さな顔をそっと撫でた。「ママだよ……優のママ。迎えに来たよ」彰宗が飛び込んできた。優の頬の平手打ちの跡を見て、それから床に倒れた知恵を一瞥した。「彰宗、この人頭がおかしいわ、入ってくるなり私を叩いたのよ!」知恵が被害者ぶって彰宗に泣きついた。彰宗は知恵に歩み寄ったが、助け起こすどころか、容赦なく蹴り飛ばした。知恵が吹き飛び、血を吐いた。「……優に手出しするなと言ったはずだ」彰宗の声は、凍りつくほど冷たかった。私は優を抱き上げ、この醜い茶番を冷ややかな目で眺めた。「彰宗さん」私は口を開いた。「優は連れて行く」「だめだ!」彰宗が振り返った。「優は俺のそばに置く。お前もだ」「何の立場でそんなことを言うの?」私は冷笑しながら彼を見た。「桐谷彰宗として?それとも、噓つきの桐谷翔伍として?」その言葉を口にした瞬間。後から上がってきていた義母の顔が真っ青になって、階段の入り口にへたり込んだ。知恵も、固まった。私はカバンから一枚の書類を取り出して、彼の顔めがけて叩きつけた。「三年前のヨット爆発事故で死んだのは桐谷彰宗。あなたは家の実権を手放したくなくて、兄に成りすました。知恵は真実を知っていて、それで脅してあなたと結婚した。それで、ふたりで共謀して私の子供を盗み、死亡診断書まで偽造した」証拠書類が床に散らばった。正体を偽り続けることができなくなった翔伍はきつく拳
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第9話
「ねんね、ママはもう二度と離れないから」翌日、桐谷グループ本社ビル最上階の会議室。私は会長席に座っていた。翔伍がドアを押し開け、入ってきた。無精ひげは伸びきり、全身から酒の匂いが漂っていた。「書類にはサインした」株式譲渡契約書を私の方へ押し出した。「桐谷グループはお前に譲る。条件はひとつだ。優に一度だけ会わせてくれ。それから……俺をここから追い出さないでくれ」かつて頂点に立っていた男は、今や地に落ちたように頭を垂れていた。書類に目を走らせ、不備がないことだけを確認した。 「三年前のことを覚えてる?私を部屋に閉じ込めて、医者に鎮静剤を打たせた日々のこと」私は椅子の背もたれに深く寄りかかった。彼の顔がさっと蒼白になり、口を開いた。「すまない……あのときは気が狂っていた。ただお前に去ってほしくなかったんだ」「謝罪なんて受け取らない」書類を閉じた。「あなたは兄を装っていただけでなく、知恵が長い間、私に薬を盛るのを見て見ぬふりしていた。血液サンプルを残していなかったら、自分がどうやって狂わされたのかも分からなかった」翔伍が勢いよく顔を上げた。「薬を盛ったって、何のことだ?」「何も知らなかったの?」冷たく笑って、USBメモリを放り投げた。「中には、知恵が家政婦を買収し、毎日私の食事に幻覚剤を混入させていた証拠、送金記録と監視映像が入っている。産後うつが悪化したと思っていただろう。違う、あれは『あなたの妻』の仕業よ。守るつもりで私を軟禁したんでしょうけど、結果的に彼女を大いに助けたことになるわね」翔伍は雷に打たれたように硬直した。信じられないというように、二歩後ずさった。「知恵が……」「お二人、本当にお似合いね。一人は嘘まみれで、もう一人は性根が腐りきっている」立ち上がって、冷たく言い放った。「株式譲渡契約はすでに効力を生じた。あなたはもう桐谷グループの会長ではないわ。警備員、この人を外へ連れていって」警備員が二人入ってきて、翔伍の両腕を抱えた。彼は抵抗せず、ただ私をじっと見つめていた。「美咲」引きずり出される直前、嗄れた声で訊いた。「もし最初からあの嘘をつかなかったら、俺たちは……」「とっくの昔に終わっていた」と私は遮った。ドアが重々し
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