Se connecterカミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。 震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。 「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」 私は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。 さすが双子だ。 今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。 しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。 「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」 「いらない」 きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。 「彰宗さんは、ちゃんと知恵(ちえ)さんのそばにいてあげて」 口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。 不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。 「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」 あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。 別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。
Voir plus「ねんね、ママはもう二度と離れないから」翌日、桐谷グループ本社ビル最上階の会議室。私は会長席に座っていた。翔伍がドアを押し開け、入ってきた。無精ひげは伸びきり、全身から酒の匂いが漂っていた。「書類にはサインした」株式譲渡契約書を私の方へ押し出した。「桐谷グループはお前に譲る。条件はひとつだ。優に一度だけ会わせてくれ。それから……俺をここから追い出さないでくれ」かつて頂点に立っていた男は、今や地に落ちたように頭を垂れていた。書類に目を走らせ、不備がないことだけを確認した。 「三年前のことを覚えてる?私を部屋に閉じ込めて、医者に鎮静剤を打たせた日々のこと」私は椅子の背もたれに深く寄りかかった。彼の顔がさっと蒼白になり、口を開いた。「すまない……あのときは気が狂っていた。ただお前に去ってほしくなかったんだ」「謝罪なんて受け取らない」書類を閉じた。「あなたは兄を装っていただけでなく、知恵が長い間、私に薬を盛るのを見て見ぬふりしていた。血液サンプルを残していなかったら、自分がどうやって狂わされたのかも分からなかった」翔伍が勢いよく顔を上げた。「薬を盛ったって、何のことだ?」「何も知らなかったの?」冷たく笑って、USBメモリを放り投げた。「中には、知恵が家政婦を買収し、毎日私の食事に幻覚剤を混入させていた証拠、送金記録と監視映像が入っている。産後うつが悪化したと思っていただろう。違う、あれは『あなたの妻』の仕業よ。守るつもりで私を軟禁したんでしょうけど、結果的に彼女を大いに助けたことになるわね」翔伍は雷に打たれたように硬直した。信じられないというように、二歩後ずさった。「知恵が……」「お二人、本当にお似合いね。一人は嘘まみれで、もう一人は性根が腐りきっている」立ち上がって、冷たく言い放った。「株式譲渡契約はすでに効力を生じた。あなたはもう桐谷グループの会長ではないわ。警備員、この人を外へ連れていって」警備員が二人入ってきて、翔伍の両腕を抱えた。彼は抵抗せず、ただ私をじっと見つめていた。「美咲」引きずり出される直前、嗄れた声で訊いた。「もし最初からあの嘘をつかなかったら、俺たちは……」「とっくの昔に終わっていた」と私は遮った。ドアが重々し
乾いた平手打ちの音が響いた。続いて、小さな女の子の押し殺した嗚咽が聞こえた。頭の中が一瞬で真っ白になり、私はドアを蹴り破った。知恵が高く手を振り上げて、二発目を打とうとしていた。優はピアノの椅子にしがみつき、赤く腫れた小さな顔に目いっぱいの恐怖を浮かべていた。怒りが一瞬で理性を焼き切った。大股で駆け寄り、知恵の髪をひとつかみにし、容赦なく頬を張った。知恵が悲鳴を上げて、床に倒れた。「よくも私を殴ったわね!」顔を押さえながら、信じられないという目で私を睨みつけた。私は知恵を無視してしゃがみ込み、震えながら優を抱きしめた。優はずいぶん背が伸びていた。大きな目でこちらを見上げ、おずおずと呼んだ。「美咲おばちゃん?」「もうおばちゃんじゃないのよ」涙をぐっとこらえて、その小さな顔をそっと撫でた。「ママだよ……優のママ。迎えに来たよ」彰宗が飛び込んできた。優の頬の平手打ちの跡を見て、それから床に倒れた知恵を一瞥した。「彰宗、この人頭がおかしいわ、入ってくるなり私を叩いたのよ!」知恵が被害者ぶって彰宗に泣きついた。彰宗は知恵に歩み寄ったが、助け起こすどころか、容赦なく蹴り飛ばした。知恵が吹き飛び、血を吐いた。「……優に手出しするなと言ったはずだ」彰宗の声は、凍りつくほど冷たかった。私は優を抱き上げ、この醜い茶番を冷ややかな目で眺めた。「彰宗さん」私は口を開いた。「優は連れて行く」「だめだ!」彰宗が振り返った。「優は俺のそばに置く。お前もだ」「何の立場でそんなことを言うの?」私は冷笑しながら彼を見た。「桐谷彰宗として?それとも、噓つきの桐谷翔伍として?」その言葉を口にした瞬間。後から上がってきていた義母の顔が真っ青になって、階段の入り口にへたり込んだ。知恵も、固まった。私はカバンから一枚の書類を取り出して、彼の顔めがけて叩きつけた。「三年前のヨット爆発事故で死んだのは桐谷彰宗。あなたは家の実権を手放したくなくて、兄に成りすました。知恵は真実を知っていて、それで脅してあなたと結婚した。それで、ふたりで共謀して私の子供を盗み、死亡診断書まで偽造した」証拠書類が床に散らばった。正体を偽り続けることができなくなった翔伍はきつく拳
彼を見つめながら、私は淡々とした顔のまま、口元だけを作り笑いのようにわずかに持ち上げた。「桐谷社長、はじめまして。グローリー・ベンチャーキャピタルのアジア地域統括責任者、久遠美咲と申します」知恵の顔が青ざめ、スカートの裾を強く握りしめていた。「あなたが、どうして……」とかすれた声が漏れた。 あのおどおどとして精神的に不安定だった女が、こんな姿になれるはずがない。彰宗には、他の人間など目に入っていなかった。 ボディーガードを突き飛ばし、焦るように私を見た。 「戻ってきたんだな。やっと、戻ってきてくれた!」手を伸ばして、私の手首を掴もうとした。私は半歩後ずさり、冷ややかな声で告げた。「桐谷社長、ご自重ください。桐谷グループの資金不足は六百億円に上ると伺っております。あなたが今気にかけるべきは、初対面の投資家に馴れ馴れしく触れることではなく、ご自身の会社の破産清算のはずでは?」彰宗が固まり、私の目をじっと見据え、かつてのように自分を頼るような色を探そうとした。 何もなかった。「美咲」声が掠れていた。「恨んでくれてもいい、戻ってきてくれさえすればいいんだ。怒りたいなら、いくらでもぶつけてくれ。投資が欲しいなら、桐谷グループだって全部お前にやる。だから……知らないふりだけはしないでくれ」私は白崎弁護士の方へ顔を向けた。「桐谷社長は、こういうやり方でビジネスをされるんですね。白崎さん、投資候補のリストは、まだ恒田(こうだ)テクノロジーが入っていましたよね?」「はい、その通りです」白崎弁護士が息の合った返事をした。彰宗が焦り始めた。桐谷グループにとって、グローリー・ベンチャーは唯一の頼みの綱だった。資金が入らなければ、三日以内に破綻する。「優が毎日『美咲おばちゃん』って呼んでいるのよ」知恵が突然前に出てきて、無理やり笑みを張り付けた。「この三年、音沙汰なかったから、優はずっと美咲ちゃんのことを恋しがってたわ」優の名前を聞いた瞬間、息が一瞬止まりかけたが、顔には一切出さなかった。知恵の方へ向き直って、頭の先からつま先までじろじろと見定めた。「そのドレス、C社の型落ち品ですよね。桐谷グループも随分追い詰められたんですね、奥様の衣装代まで削るとは」知恵の顔が、みるみる赤黒
冷たい夜風がタクシーの窓ガラスを叩く。高架道路に入ると、私はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。「白崎さん、計画通りに進めてください」白崎博人(しらさき ひろと)は、この三年間で弁護士として唯一信頼できる先輩だった。おかしいと気づいた早い段階から、彼にDNA鑑定の依頼とビザの手続きを密かに頼んでいた。「医療用のチャーター機はすでに待機中です。航路の許可も下りました」電話の向こうで、彼はきっぱりと告げた。 「桐谷家はA市じゃ顔が利きますので、一般の航空便じゃ逃げ切れないかもしれません」「わかった」と電話を切って、SIMカードを抜き取って窓の外へ投げ捨てた。三十分後。彰宗が家のドアを押し開け、手にはテイクアウトしたばかりのムースケーキを提げていた。家は、怖いくらい静まり返っていた。手から力が抜けて、ケーキが床に落ち、クリームが飛び散った。地下室へ駆け込むと、ベッドはすでに冷え切っていた。二階へ駆け戻り、勢いよくマットレスを剥がした。そこに隠してあったはずのパスポートが、消えていた。「探せ!空港と新幹線の駅を封鎖しろ!」電話に向かって怒鳴りながら、ネクタイを乱暴に引き下ろした。…… 空港の旅客ターミナルロビー。彰宗が部下を連れて駆けつけ、レイキャビク行きの搭乗者リストを直接確認した。しかし、私の名前はなかった。「社長、奥様の出国記録が確認できません」アシスタントが額に汗を滲ませながら、タブレットを差し出した。彰宗は搭乗口を食い入るように見つめ、その目は赤く血走っていた。知恵が追いついてきて、彼の腕に縋りついた。「彰宗、美咲ちゃんはあんなに具合が悪かったんだから、どこかの隅に隠れてるだけかもしれない。警察に届けましょう」「どけ!」と彰宗が勢いよく振り払うと、知恵は柱にぶつかり、驚愕の表情を浮かべた。ちょうどそのとき、彰宗の仕事用スマホに予約送信されたメールが届いた。動画だった。再生すると、機内に座る私と、窓の外に広がる駐機場と夜景が映し出された。「翔伍」 私はカメラを見据えた。 「三年間も彰宗になりすまして、楽しかった?私を騙しただけじゃ足りなくて、自分の子まで知恵に差し出して、利用したのね!この映像はもう、時間指定で一斉送信するよう