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5話. 赤いテザーの始まり

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:13

体育館前の、プラタナスの並木道。

春の昼の日差しが、若葉の隙間から柔らかくこぼれていた。それなのに、蓮の周囲だけは、真冬の霜のように冷えきっていた。

森川に強く受診を命じられた蓮は、こわばった顔でスパイクのバッグをかけ直していた。

どこに視線を置けばいいのかわからない。その目は、土の地面にできた光と影の境を、不安げに探っていた。

「神崎先輩」

背後から、落ち着いた澄んだ声がした。

はっとして振り向くと、汗を拭い、軽いジャージに着替えた千紗が立っていた。

蓮の顎に、ぐっと力が入る。

自分の弱った状態を、誰より先に見た後輩だ。また同情や下手な慰めを口にするつもりなら、今度こそ冷たく突き放してやる。

「何だ。今、忙しい」

「大学病院に行くんですよね。一人で受診するつもりなら、一緒に行きます」

蓮の眉が、険しく跳ね上がった。

「どうしてお前と病院に行くんだ。目に少し埃が入っただけだ。大したことないって、何度言わせる」

「先輩。意地を張ってる場合じゃありません」

千紗は少しも揺らがず、不安定な視線をまっすぐに受け止めた。

そこに同情の色はなかった。毎日顔を合わせる、同じスプリンターとしての、淡々とした判断だけがある。

「受付を探して、検査室にも移動しないといけないでしょう。さっきも通路で、ぶつかりそうになりました。道は私が見ます。検査を受けるか決めるのは先輩ですけど、一人で行って怪我だけはしないでください」

蓮の息が止まった。

視界の弱点を的確に突かれ、心臓がどくんと沈んだ。

「お前……俺の目の何を知って、そんな確信したようなことを言う?」

「何も知りません。医者じゃありませんから」

千紗は静かに肩をすくめた。

「だから、専門の先生に診てもらいましょうって言ってるんです。病院までは付き添いますけど、診察室には入りません。検査結果を監督やチームに伝えるかどうかも、先輩が決めることです。私は、道を案内するだけです」

結果を誰に伝え、どう判断するか。その主導権を、すべて蓮に委ねる態度だった。

弱みを握って振り回そうとか、安っぽい同情で優位に立とうとか、そんな気配は少しもない。

蓮は唾をのみ、千紗のまっすぐな顔を見つめた。

一人でバスに乗り、知らない病院の廊下をさまよえば、本当に階段から転げ落ちるかもしれない。胸の奥から、恐怖が頭をもたげていた。

「……受付までだ。診察室には近づくな」

低くつぶやき、蓮は先に歩き出した。

* * *

検査が終わった、その日の夕方。

千紗は自動精算機から診療費の明細を出し、領収書を蓮の手に渡した。

「先輩、タクシーにしましょう。地下鉄の乗り換え通路は帰宅ラッシュです。今の視界だと危ないですから」

蓮は黙ってうなずいた。

後部座席に並び、西都体育大へ戻る間、車内には重い沈黙が流れた。

窓の外を過ぎていく東京のネオンは、蓮の網膜に白い霧のようににじんだ。

短距離選手として、いちばん鮮やかに花開くはずの年齢で訪れた、治る見込みのない闇。

前の人生でこの絶望に直面した蓮は、酒に溺れ、荒れた生活で体を壊した。やがて自分の影に千紗を引きずり込み、彼女の人生まで破滅させたのだった。

* * *

数時間前。東都大学病院、眼科センター。

千紗の言ったとおりだった。

白い蛍光灯がまぶしく光り、何百人もの患者や付き添いが行き交うロビーは、蓮にとって巨大な闇の迷路だった。

針の穴のように狭まった視野の中で、人の輪郭が、砕けた破片のように揺れる。

千紗はむやみに腕を組まず、強引に引っ張りもしなかった。

ただ右側を半歩先に歩き、足音と、柱の位置を知らせる静かな声で導いた。

「前に、自動ドアの金属の段差があります。少し足を上げてください」

「三歩先、右がエレベーターです。人が多いので、左の壁に寄りますね」

簡潔で、明確な案内だった。蓮は一度もぶつかったりよろめいたりせず、三階の特殊検査室前の椅子に座ることができた。

約束どおり、千紗は診察室の外の待合席で、一人、陸上雑誌を開いた。

蓮は自分でドアを開け、診察室へ入った。

散瞳薬をさし、一時間にわたる精密な眼底撮影、ゴールドマン視野検査、そして網膜電図検査――ERGを受けた。

すべての検査が終わると、白髪の眼科教授はモニターに網膜の断層画像を映し、重く息をついた。

「神崎選手。夜間の練習でレーンが見えにくくなったのは、いつからですか」

蓮の指先が、小刻みに震えた。

「……夜の練習を避けるようになったのは、半年前です。その前から暗い場所は苦手でした。でも、慣れたトラックなら、なんとかなると思ってました」

「慣れた場所なら、体が覚えた方向に進むことはできます。ただ、それは視力が保たれているという意味ではありません。今は明るい場所でも、小さな文字や人の顔を見分けにくいでしょう?」

教授がレーザーポインターで、網膜の周辺部を示した。

縁に沿って、骨小体のような黒い色素沈着が、びっしりと広がっていた。

「典型的な網膜色素変性症です。遺伝性の網膜疾患です」

淡々とした声が、ひどく冷酷に聞こえた。

「周辺の視野が狭くなっただけではありません。中心視力も大きく損なわれていて、レンズで矯正しても、形を認識する力はかなり低くなっています。光の方向を感じることと、物を見分けることは別です。検査結果を踏まえて、まず、移動や生活にどんな支援が必要か、考えなければなりません」

死刑宣告のような診断だった。

「失われた視力を元に戻すことは、難しい状態です。併発している問題の治療と、残る視覚やほかの感覚を使うリハビリを、並行して相談しましょう。今の状態で、一人で100メートルを全力で走るのは危険です。まず、単独での全力疾走は中止してください」

蓮の頭の中が、真っ白になった。

自己ベスト、10秒23。

オリンピックの決勝を夢見て、血を吐くような思いで走ってきた青春が、二十二歳の春に、完全に終わった。その事実が刃となって、心臓を何度も切り裂いた。

診察室を出たとき、脚にはもう力が入らなかった。

待合席から立ち上がった千紗が、近づいてくる。

蓮は冷たい廊下の壁に手をつき、荒い息を繰り返した。

唇に血がにじむほど、歯を食いしばる。認めるのが怖い絶望が、喉を塞いでいた。

(終わった。俺の陸上は……俺の人生は、ここで終わりだ)

うつむいたまま千紗の服の裾をつかみ、唸るようにすがった。

「……千紗。これ、誰にも言うな。森川コーチにも、黒田監督にも……誰にも、言うな」

裾を握る手を、放せなかった。最後の言葉は、聞き取れないほど小さかった。

前の人生で千紗の手を縛り、すがりついたのと同じ、弱く、残酷な沈黙の鎖だった。

千紗は、震える肩を静かに見つめた。

同情も、非難もない目だった。

バッグのファスナーを開ける。

手のひらほどのポーチから何かを取り出し、蓮の震える右の手のひらに、そっと置いた。

柔らかく、丈夫なナイロンの、確かな感触。

中央に赤い面ファスナーのパッドがついた、長さ五十センチの練習用テザーだった。

蓮は呆然と、指先でそれを探った。

「これ……何だ?」

千紗は蓮をまっすぐに見上げた。まずどんな道具なのかわかるように、手首にかける輪を、指先に触れさせた。

蓮は震える手で、赤いテザーを撫でた。

わずか五十センチほどの、ナイロンのロープ。

手首にかける輪をなぞると、スポーツ用具だろうとはわかった。けれど、何に使えというのかわからない。蓮は千紗の答えを待った。

「この紐……どこで手に入れた?」

「視覚障害のある選手が、ガイドランナーと一緒に走るときに使う、テザーです。歩行に慣れる練習に使えたらと思って、持ってきました。伸びにくいので、隣の人の動きを感じ取りやすいんです」

千紗の声に、迷いはなかった。

「今、決めてほしいわけじゃありません。ただ、先輩がもう一度走りたいなら、一人で耐える以外の方法も、探してみませんか」

「でも、これを持てばすぐ全力で走れる、というものじゃありません。コーチと相談して、歩くところから合わせないと」

蓮の呼吸が止まった。

「コーチには、先輩から話してください。どこまで伝えるかも、相談して。それから、練習できる方法があるか、一緒に聞いてみましょう」

蓮の瞳が、激しく揺れた。

手のひらの赤いテザーが、火の塊のように熱を帯びていた。

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