تسجيل الدخولそんなことに気づく由もない孫を尻目に、八重子はソファから立ち上がると、「じゃあ、あたしはそろそろお暇しようと思うのだけれど、その前に。かすみちゃん、荷物はもう部屋に運んだのかしら?」
かすみはゆったり微笑むと、「はい、荷物は全て午前の内に業者さんに手伝っていただいて運び終わりました。」 その返答に八重子は安心したように微笑むと、 「それなら良かった。弥一にはこの後すぐ荷物をまとめさせるけれど、それでもなんだかんだこの別荘に来るのには二、三日かかると思うわ。その間大丈夫?いつでも早苗はいてくれるとしても、何か心配事はない?」 かすみは首を横に降ると、「早苗さんが居てくださるのでしたら、何の心配もありません。むしろ心強いです。お気遣いいただきありがとうございます。」 早苗は"もちろんです"というように頷いてみせた。それを見た八重子は安心したように頷き返すと、 「見送りはいらないわ。かすみちゃん、うちの孫のこと、どうぞよろしくね。」 と、まるでモノでも預けるかのような軽い調子でそう言い残すと、弥一には声をかけることも一瞥することもなく早々にその場を後にしたのだった。 残された三人にしばしの沈黙が訪れる。 と、ふいに早苗がそれを壊した。 「では、私は夕飯の買い出しに行って参りますね。」 瞬間、弥一の顔には"うげっ"とでも言いたげな表情が浮かんだ。当たり前だ。今さっきあったばかりの、しかも急に結婚させられる羽目になってしまった女と二人きりの状況だなんて耐えられない。 急いで弥一も立ち上がると、「早苗さん、ついでに俺のこと家まで送ってってよ。ほら俺、荷物まとめないといけないらしいからさ、ね?」 早苗は無言で弥一を見つめる。弥一は懇願するようにその目を見つめ返した。頼むから良いよと言ってくれ、と。 「いけません、坊ちゃん。」 「なんでだよっ!」 「坊ちゃんを送っていってからでは、ヤマムラのタイムサービスが終了してしまいます。」 「ヤマムラ?タイムサービス?何だ、それ。」 "これだからボンボンは…" 呆れたように首を振る早苗に替わり、かすみが説明する。 「ヤマムラはこの近くのスーパーの名前です。タイムサービスというのは、ある一定時間、商品が通常より安く買えることを意味します。」 答えたのはかすみなのに、弥一は彼女を見ようともせず視線は早苗に向けたまま、 「そんなに安くなるの?」 「場合によっては一品につき数百円ほどですかね。」 またしても答えたのはかすみだったが、今度も弥一は彼女を見ようとしない。 弥一は、ハッと言って馬鹿にしたように笑うと、 「数百円!?たかだかそれっぽっちのお金のために俺のことを送っていけないって言ってるの?」 そう言って非難の目を早苗に向ける。 早苗が何か答える前に、またしてもかすみが口を開いた。 「たくさん買えば買うほど、その分、トータルで見た時の金額がうんと安くなります。」 「へえ、そうですかそうですか。」と、彼は彼女を軽くあしらうと、急にパンと手を叩いて、 「じゃあこうしよう!そのタイムサービスとやらで浮く分のお金を俺が出すよ!その代わり、俺のこと今から家まで送って行って。それなら良いでしょ?」 そう言って早苗に目をやる。 呆れているのか怒っているのか分からない目でただただ見つめ返してくるだけの早苗に、弥一は怯むことなく着ているジャケットの内側から財布を取り出すと、 「トータルでなら一体いくら浮くんだろ?一万…いや二万か?」言いながら探るように早苗を見てみたが、相変わらずその目から何か情報を得ることはできなかったので、 「よーし、決めた!今日は結婚記念日ってことで俺から二人に大判振る舞いしちゃおうかな。はい、どうぞ!」 と、札束を取り出し早苗の前に差し出した。軽く十万円はありそうなその厚みを前にしても、早苗は眉一つ動かさずにただじっと弥一を見つめている。 その早苗の様に、弥一の顔から取り繕った笑顔が消えた。代わりに苛立ったような表情を浮かべたその時だった。 「早苗さん、御子柴さんのことを家まで送っていってあげてくれませんか?ヤマムラには私が代わりに行きますので。」 弥一は、"ああ、その手があったか。"と、少し感心すると、やっと視線をかすみに向けた。 その後、彼女の提案はいかにも素晴らしいとでも言うように、口角をこれでもかと上げて早苗を見つめる。 早苗はため息を吐くと、「私ではなくかすみさんが坊ちゃんを送っていって差し上げるのはいかがですか?この機会に、お互いに会話をされてはいかがです?話をするのにちょうど良い距離だと思いますけど。」 とんでもない!と言うように、弥一はその目を見開いて早苗を見る。次いでかすみが口を開く。「早苗さん、お気遣いいただきありがとうございます。ただ、正直私は昔から地理に弱くて…ここの土地勘すら危うい私では、安全に御子柴さんをご実家までお送りできる気がいたしません。そんな私の運転で、もし御子柴さんに何かあっては、私は一生八重子さんに顔向けできません。なので、どうかこんな私ではなく、早苗さんにこそ送っていってもらいたいのですが、ダメでしょうか?」 弥一は"そうだ、そうだ"と頷いて加勢する。 早苗は弥一のことは視界に入らないようにしながら、かすみのハの字になった眉を見つめ苦笑した。 かすみは東北出身である。そんな彼女は今日、誰に送られるでもなく自身の運転でこの海老原市まで来たのだ。本当に地理に弱く土地勘もないような人間ならそんなことできるわけもない。 彼女もこの短時間で弥一のことを苦手な人に分類したのだろう。かすみと弥一の違いは、その気持ちをあからさまに態度に出すか出さないかというだけだった。 そんなかすみの本音に気づきながらも、心底困っているよう見せるのが上手い彼女を前に、早苗はやれやれと言うように、 「わかりました。では、私が坊ちゃんを送って行きますので、かすみさんにはお手数ですが買い物をお願いいたします。」 「ありがとうございます、早苗さん。買い物も今日の夕飯も私に任せてください。早苗さんのお口に合うよう、心を込めて作りますので。」 そう言って微笑んだ。 どうやら彼女の笑顔は人の心を解きほぐす力があるらしい。釣られて早苗も微笑んだ。 玄関先にて。 見送りにと出てきたかすみに早苗は、「出かける際だけでなく、買い物が済んで家に帰ってきてからも戸締りはなさってくださいね。なるだけ早く帰ってきますので。」 「はい、お待ちしております。ただ、私のことを気に掛けるあまり、スピードの出し過ぎなどには気をつけてくださいね。」 そう言って、笑い合った。 言葉だけで見たら、まるでかすみと早苗こそが夫婦のようである。 そんな早苗はかすみに向けては、「では、行って参ります。」と微笑んだのに、横にいる弥一に目を向けた時にはもうその笑顔を引っ込めると、「坊ちゃん早く行きますよ。」と言って、一分一秒を惜しむかのよう、小走りに車へと向かって行ったのだった。 そんな早苗に弥一は苦笑すると、彼女に続こうと一歩踏み出したが、ふと思い出したように足を止めた。そして自身の右手を見つめる。そこには早苗に受け取ってもらえなかったお金が未だ握らていた。彼は、「ん。」と言って、それをかすみの前に差し出す。 そのあまりに多すぎる額を前に、かすみは見つめるだけで受け取らずにいると、弥一はちらりと彼女を一瞥して、 「さっさと受け取ってくれ。」と言って、その手をさらに押し出した。 しかし、かすみのほうをよく見もしていなかったために距離感を誤ったのか、その手が意図せずかすみの身体に触れてしまう。 瞬間、弥一は驚いたようにパッとその手を開いた。開かれた手からお札が舞い、床にはらはらと落ちていく。 かすみがその顔を上げた先で、気まずそうな表情を浮かべた弥一と目が合った。しかし、彼はすぐさまその目を逸らすと、次にこれでもかと顔をしかめて、落ちたお金を拾おうともせず、くるりと背を向けると後ろ手に扉を閉める形で立ち去った。 何の加減もなく閉められたドアはバタンと音を立てて、後にはただ、床に散らばったお札とかすみだけが取り残された。 かすみはゆっくりしゃがみ込んで膝をつくと、その手で散らばったお札を一枚一枚丁寧に拾い上げた。 そしてその足でリビングへ戻ると、リビングに置かれた木製の戸棚の一番上の引き出しに、拾い上げたお金をそっくりそのまま仕舞い込む。 そしてその戸棚の上に両手をつくと、頭を少し下げて、目を閉じ、はあ、と深いため息を一つ吐いた。 「目的のために手段を選ばなかったのは、私。こんな扱いなのは自業自得でしょ。」 そう呟き、笑った。弥一は運転手に礼を言って車から降りると、目の前のお店に目をやった。 エートル・カプティヴェ フランス語で虜になるという意味をもつその店の看板を目に、弥一の期待が膨らんだ。ここなら、かすみのお眼鏡に叶うケーキが手に入りそうだと、そう思った。 三雲の言葉通り、店の前には午後三時を過ぎたにも関わらず長蛇の列ができており、ガラス越しに見える店内も大変な賑わいを見せていることが見て取れた。 弥一は生まれてこのかた、行列になど並んだことがなかった。 彼は長期戦になること確実なその行列を前に、ふうと息を吐くと、「よしっ。」と言って気合いを入れ、最後尾と書かれたプラカードを持つ女性店員の前に行った。 そして、「ここに並ぶといいんですか?」と、その店員に声を掛ける。 何時間も外で立ちっぱなしだったこともあり、その店員は何とか気力だけで笑顔を保っているような状態だったが、ふいに視界に入り込んできた美青年に、その驚きと衝撃から、瞬時に彼女の疲れは吹っ飛ぶと、「はいっ!ここが、最後尾となっております。ここに、私の一つ前にお並びください!」と、頬を紅潮させながら、ハキハキと答えた。 弥一は笑顔を浮かべ「ありがとうございます。」と言うと、言われた通り、その店員の前に並んだ。 女性店員は、自分に向けられたその破壊力抜群の笑顔と、その身体からほのかに香るムスクの色気ある香りに、腰から砕けそうな感覚に襲われた。 未だかつて、これほどまでに顔面偏差値の高い人間に出会ったことがなかったのだから、こうなってしまうのも致し方ないように思われる。 彼女はプラカードの持ち手を地面に着くと、それを支えに何とか立つのだった。 弥一はそんな女性店員の様子に気づくことなく、自身の眼前に広がる長蛇の列に目をやった。やはりケーキとあって、並んでいるのは女性がほとんどだった。中には男性もいるが、彼らは女性の付き添いで来ているようで、弥一のように男性一人で並んでいる人はいなかった。 弥一は並んでいる間何をして時間を潰そうかと考えた、ちょうどその時だった。 弥一の目の前には二人組のマダムが並んでいた。その内の丸いシルエットのマダムが、隣の華奢なマダムに話しかける。 「全く、この行列ときたら嫌になっちゃうわよね。ここはいつも並ぶけど、今日はどうやらあのハンサムオーナー
三雲は弥一の肩に触れると、優しく揺さぶった。 幸いにも、他の客はそれほど多くはない。それでも、三雲は早くこの場を離れることが懸命と思い、 「御子柴、大丈夫か?とりあえず店を出よう、な?」 と、声をかける。弥一はそれに応えるよにふらりと立ち上がると、会計をしようとスーツの内側の胸ポケットから財布を取り出した。 大将は慌てて、「御子柴さま、お代は結構です。お代をいただくことは私のプライドが許しません。」 「いや、払わせてください。」 「御子柴さま、どうか私の顔を立てると思って。」 そう言われ、弥一は渋々ながらも財布をしまうと、「ごちそうさまでした。」そう言って、ふらふらと戸口に向かって歩いて行った。 三雲も「ごちそうさまでした。それと、申し訳ありませんでした。」と頭を下げ、足早に弥一を追いかける。 三雲が店から出ると、数歩先のところで弥一が呆然とした様子で立ち尽くしていた。 「御子柴?」と、背後から三雲は声を掛ける。 弥一は地面の一点を見つめたまま、「三雲、どうしよう。俺はとんでもないことをしてしまった。思いもしてなかったんだ、断られることがこんなにも辛いだなんて。」 先程の話が自分のことなのだと打ち明けてしまっていることにも気づかずにそう話す弥一に、三雲は、 「御子柴、起きてしまったことはどうしようもない。ただ、俺たちは人間だ。人間である俺たちは誠心誠意、謝ることができる。」 そう言い、御子柴の肩に手を掛けた。 「もちろん、ただ言葉で謝るだけじゃダメだ。貢ぎ物がいる。」 「貢ぎ物?」 「そう。古くから、謝罪には言葉と共に詫びる物がセットだと言われている。言葉は自身で考えてもらうとして、物は大抵その人が最も欲しているものを渡すのがベストだ。ブランド好きな女ならブランドのカバンやアクセサリーといった具合にな。」 そう言われた弥一は、かすみの好きな物について考えてみた。 彼女の普段の服装から見るに、ブランド物に興味があるとは到底思えなかった。 「ブランド物が好きそうでなかった場合はどうするんだ?」 「いい質問だ。正直、ブランド好きな女のほうが男としてはわかりやすくてありがたい。そういった人にはとりあえず有名ブランドの何か高そうな物をあげとけばいいんだからな。けど、そうでなかった場合が厄介だ
弥一は答えを急ぐあまり、そもそもでこれが自分の話ではないということを前提に話しをするのを忘れてしまっていた。 なので、今さらながらも、「いや、これは俺の友達の話しであって、俺のじゃないんだ。」と、苦し紛れにそう付け加える。 そこに大将が、「旬のカツオを使ったお造りになります。」と、差し出す。 弥一がそれを食べるのを見てから、三雲も箸を伸ばした。 旬とあって、何の生臭さもないカツオは、ただただ美味しかった。 先程の弥一の話しに戻るが、 もちろん三雲にはバレていた。しかし、三雲は物分かりがいい。 だから彼は、「なんだ、友達の話か。ごめん、早とちりした。てっきりお前の話かと思ったわ。」と、言ってあげる。 「そんなわけないだろっ。」と、弥一は顔を赤くする。 三雲は笑って、「だから、ごめんって。で?そのお友達は断ったことで女性側を傷つけたんじゃないかと、そう悩んでるのか?」 「まあ、そうだ…」 「ふーん。」と答える三雲に、「蒸し鮑のあん肝ソースがけになります。」と、大将が二人に差し出す。 二人はそれを黙って食べた。 鮑は柔らかく蒸し上げられ、濃厚なあん肝ソースとよく合っている。 うまい そう味わっていたのも束の間、弥一が三雲に問いかける。 「やっぱり、傷つけるものなのか?」 「え?あ、うーん、まあ…そりゃ、傷付くことには傷付くんじゃないか?やっぱり、それなりに勇気のいることだと思うし。」 「そう、か。」 やっぱり傷付けたのか。そう思った弥一の顔が曇る。 その後、次々と大将が握った寿司が出されていった。三雲はそれらが出されると同時に食べていったが、弥一はなかなか手を伸ばさなかった。 「食べないのか?」と、聞く三雲に、「食べていいよ。」と、弥一が答える。 弥一のその落ち込んだ様子に、察したらしい三雲は、おもむろに、 「自分のこととして考えてみたらどうだ?」と、言った。そして、弥一の分の寿司をありがたく頂戴する。 弥一は顔を上げると、 「自分のこととして?」と、尋ねる。 「そ。もし誘ったのが自分だったらって、そう考えてみる。勇気出して誘って、それを相手に断られたんだとしたら、まあ、その日の体調とか気分とかあるだろうけどさ、でも、やっぱり傷付く部分はあるんじゃない?」 そう言われ、弥
そんな三人の会話を盗み聞きしていた弥一は、ふと、自分は既に胃袋を掴まれた状態にあるのではないかと思った。 なんせ、かすみの作り出す料理は美味しいものばかりなのである。未だかつて、彼女が弥一に出した料理ではずれのものなどなかった。 正直今だって、弥一の口はかすみの作る料理を求めていた。 というのも、あの今朝の料理。あれは早苗が作ったものだということに、弥一は気付いていた。 昨日のことでどうやらかすみの機嫌を損ねてしまったか、あるいは気恥ずかしさや後ろめたさからか、まあ、理由は何にせよ、今朝の朝ごはんをかすみは作らなかったらしい。 朝も感じたことだが、早苗の料理は決して不味くはない。むしろ美味しいのだと思う。が、やはり弥一の口が求めるのはかすみの作る料理だった。 彼女の料理は高級料亭のような、豪華な食材がふんだんに使用されているわけでもなければ、繊細な味わいを楽しむそれとも違っていた。かといって、変に中毒になるような濃い味付けをしているわけではない。 あの味を表現する言葉があるとすれば、それは安心感と優越感だ。 かすみの料理を食べると、ほっと息を吐くことができる。家に帰ってきたんだな、そう思える。 そして、こんなに美味しい料理が主に自分のためだけに用意されたものだということに、何とも言えない優越感を感じる。 今だって、奥さんの料理に対してぼやく片山に、かすみの料理を食べている自分のことを自慢したくて堪らなかった。 うちのは何を作らせても美味しいけどな、と。 そして弥一は確信するのだった。 そんな自分はやはり、かすみの料理に胃袋を掴まされたのだな、とー 弥一と三雲を乗せた車は、御子柴御用達の高級寿司屋に到着した。 格式高い暖簾をくぐると、二人はカウンター席に案内される。 この寿司屋には個室などなく、カウンター席のみだったが、そもそもで高級すぎるが故に各界の著名人と呼ばれるような人々しか出入りできないため、プライバシーを気にする必要がないからであった。 そのため、弥一は席に着くと、大将に向かって、「コース料理とは別に、うにといくらとえんがわを二枚ずつ、彼に出して下さい。」と、言った。 それに対して大将が「かしこまりました。」と言うと、弥一は素早く隣にいる三雲の方を向いて、 「女性から誘われたとして
午前の業務を一頻り終えた弥一は、ふうとため息を吐くと、椅子の背もたれに深く沈んだ。 今朝は時間がなかったため朝食を食べられなかったことと、仕事で頭を使ったことで、弥一のお腹は究極に空いていた。 お昼には少し遅くなってしまったが、昨日約束したこともあり、三雲を誘って行きつけの寿司屋に行こうと椅子から立ち上がる。 ついでに、昨日と今朝の出来事について、三雲に意見を求めよう、とそう思った。 弥一があの家に帰るようになって以来、弥一にとって三雲は、自分の置かれた境遇を知る唯一の同期であり友として、信頼し、重宝していた。 その証拠に、一年前、自身が社長に就任することになった時も、自身の秘書に迷わず三雲を選んだのだった。 弥一が社長室を出たとき、ちょうど中に入ろうとしていた三雲と鉢合わせた。 「ちょうど良かった。約束通り寿司をご馳走するから、これから一緒に食べに行こう。」 そう、弥一は三雲に声を掛ける。 三雲は、「社長、毎回毎回そんな風にしてもらわなくても大丈夫ですよ。接待だって重要な仕事の一つなのですから、私は単に仕事したにすぎませんし。」と、気を遣う。 弥一はそんな三雲の耳に顔を近づけると、ヒソヒソ声で、「相談したいことがあるんだ。つべこべ言わずに行くぞ。」と、言った。 三雲は呆れたような顔をすると、「マーケティング部から企画書のことでお前のサインが欲しいと頼まれた。それにサインしてくれたら、俺がそれをすぐマーケティング部に届ける。そうしたら、晴れてお前の相談とやらに付き合えるけど?」と、小声で返す。 「どれだ?」と間髪入れず尋ねる弥一に、三雲は書類を差し出す。 弥一は書類を受け取ると、サッと目を通した。 企画書は、新しくデザインした下着の展示会についてのものだった。 よくまとめられた資料に、弥一は万年筆を取り出すと、最後のページに流れるようにサインをした。 そしてそれを、「ん。」と言って、三雲に差し出す。 三雲は書類を受け取ると、「先に車の方へ向かっていてください。」と、そう言って、走り去って行った。 弥一は言われた通り、先に車へ向かおうと思い歩き出した。 と、休憩室の前を通り掛かった時だった。 中から聞こえてきた話し声に、弥一は思わず足を止める。 ちらりと中に目をやると、そこには男が三
かすみはアラームの音に、ぱっと目を覚ました。 昨日はお酒の席があった日だから、今日の朝ごはんはいつものやつを作らないと。 そう思いながら、まずはアラームを止めようとベッドから起き上がる。 彼女は手を伸ばしアラームを止めると、そこでやっと、部屋の様子がいつもと違うことに気づくのだった。 「ああ、そうか。もう終わったんだった。」 彼女はそう呟くと、再びごろりとベッドに横になった。 この二年間で久しぶりとなる二度寝に、彼女の顔が綻ぶ。 昨日は日付けが変わってから車移動したこともあり、彼女の身体はまだ睡眠を欲していた。 そして、彼女にはそれをする時間が与えられている。 ああ、なんて贅沢なんだろう。 そう思いながら、かすみはゆっくりとその目を閉じていった。 彼女が再び目を覚ました時、時刻は午後二時を回っていた。たっぷりと寝られたことに、かすみは満足そうに「ん〜!」と伸びをする。 それからベッドから出ると、そこを軽く整えた。 かすみの新しい家は、二階建ての店舗兼住宅だった。一階がお店で、二階を自宅として使用するタイプの家だ。 間取りはそこまで広くはないが、立地が立地なだけにかなりいい値段がした。そんな物件をかすみが購入できたのは、偏に八重子のおかげであった。 かすみは、洗面台で顔を洗うと、そのまま着替えることもなく寝巻き姿のままキッチンへと向かった。 彼女は寝巻きと称して高校の時の赤ジャージの下と、白地に丸文字で"世界着服"と縦に書かれたTシャツを愛用していた。 これとは別にもう1セット、赤ジャージの下に、黒字に白文字で"猫のしもべ"と書かれたTシャツもあって、彼女は毎日交互にそれらを寝巻きに着ていた。 もちろん、海老原市のあの家でもかすみはそれらを寝巻きにしていた。ただし、自身の部屋の中でのみ、だったが。 誰の目を気にすることもなく、くたくたに伸びて着心地の良い服に身を包み、自身のためだけに気ままに料理を作る。 材料は昨日、ここに来る前に寄った二十四時間営業のスーパーでに買い込んだものだ。 彼女はその、言葉通りの"自由"に、思わず鼻歌を歌っていた。だが、ふとその鼻歌を止めると、顔を左に向ける。 二年間そこにはいつも早苗がいて、ぺちゃくちゃと二人で話すこともあれば、ただ黙々と手を動かすだけの







