Se connecter過去に思いを馳せていた弥一の耳に、「社長、着きましたよ。」と、三雲の声が響く。
一気に現実に引き戻された弥一は、反射的に「ああ。」と返して、シートベルトを外した。 そして、運転手が開けてくれたドアからその長い足を外に出しながら、 「今日は厄介な接待に付き合わせて悪かったな。明日の昼にでもこの埋め合わせをしたいから、予定空けといてくれよ。お前の大好きな寿司でも一緒に食いに行こう。じゃあ、お前も早く帰って休め。」 そう三雲に言って車を降りると、今度はドアを開けてくれた運転手に向かっていつものように「ありがとう。」と言った。運転手もまた、「とんでもございません。」と言って微笑む。弥一もそれに頷き返す。 そうして部下と使用人への労いの言葉を掛け終わると、足早に家へと向かって歩いて行った。 三雲も素早く助手席から降りるとその背中に向かって、「社長、お疲れ様でした。」と言って深々と頭を下げた。その言葉に、弥一は背を向けたまま利き手である右手を軽く挙げて応える。 御子柴会長(八重子)の指導が行き届いているからか、御子柴家の人々は大金持ちでありながら、金持ちにありがちな横柄な態度を取る者は三雲の知る限り誰一人としていなかった。弥一は三雲のことを、呼び方こそ"お前"などとは言ってきても、その接する態度は先程見た通り思いやりがあって礼儀正しい。 だからこそ三雲はどこか歯痒い気持ちでいた。 というのは、弥一のかすみに対する態度である。彼は彼の妻であるかすみにだけはなぜか、素直になれないのか、少し距離があるような態度を取るのであった。とはいえ、当初の弥一からすればだいぶまともになったものの、自分らに向けるのと同じくらいの気持ちで彼女にも接することができれば、彼らの結婚生活はもっと円滑に進むのではないか、そう思わずにはいられないのであった。 三雲と弥一はあくまで仕事上仲がいいといった関係性だったが、 そんな三雲から見ても、弥一がかすみにだけわざとそういった態度で接していることは明らかだった。 彼が上司の妻であるかすみに会ったのは数えるほどしかなかったが、確かに弥一とかすみでは見た目に釣り合いが取れているとは言えなかった。 ただし誤解がないよう言っておくと、かすみは決して不細工なわけではない。ただ、弥一の見た目が飛び抜けすぎているのだ。 二次元のイケメンが三次元に飛び出してきたかのような、はたまた美青年という言葉そのものを具現化してできたかのような弥一と、顔もスタイルも全てにおいて平均点並みのかすみとでは、並んで歩いた所で到底夫婦には見えない。 会社で弥一のことを分かりやすく狙っている噂好きな派手目女子たちが言うには、彼は非常に信仰深く、それ故に敢えてかすみのような平凡な年上の女性を妻に据えることによって、三代欲求である性欲というものが彼の身に湧くことがないようにしているのだと言っていた。 三雲が知る限り、弥一が何かの神なり宗教なりを崇めている様子はなかった。だが、あながちその噂話も的外れではないように思えた。と言うのも、弥一には他に想いを寄せる相手がいるように思え、その人に対して操を立てているようには見えていたからだ。 三雲がまだ弥一の同期として、二人して女性用下着のマーケティング部に配属され仕事をしていたときの話だ。 その頃の弥一の携帯は昼夜問わずひっきりなしに鳴っていた。そしてそのメッセージや電話がくる度に、弥一が就業中にも関わらずその都度仕事の手を止めると、優しい声色で電話に出たり、嬉しさが隠しきれない様子でメッセージを返したりしている様を何度も見てきた。三雲もその度にうんざりさせられたものだった。彼が御子柴家のご子息でもなくただの一介の新入社員だったのなら、同期として不満を爆発させたことだろう。 だが、弥一はやはり一般人とは一線を画していて、他者の思いも寄らないような切り口から解決策や案を導き出しては、何度となくチームの成長に貢献してきたのだった。 そして後日、弥一が既婚者であること、しかも結婚してまだ日が浅いことを知った三雲は、自分と同い年ながらも既に愛妻家が板についている上に何だかんだで誰よりも仕事ができてしまう弥一のことを認め、尊敬するようになっていった。そして将来自分も結婚する時には、弥一に負けないくらい、心から愛せる人を奥さんにもらおうと決めたのだった。 そんな中、新卒の初々しさもとうに抜け、仕事のほうも一通り慣れてきたある日のことだった。一時間ほど残業した後、そろそろ帰ろうかと立ち上がった三雲に、同じく残業していたらしい弥一が声を掛ける。 「なあ、三雲。よかったらこれから二人で飲みに行かないか?」 三雲は、今まで幾度となく同期という立場から弥一のことを食事や飲みに誘おうとしていた。しかし、いざ誘おうとすると、相手との圧倒的な身分の違いにやはり怖気付いてしまい、結局毎度毎度誘わず終いだったのである。そんな弥一から誘われたとあったら行かない理由が三雲にはなかった。 彼はすぐさま二つ返事で了承した。 そんな三雲に、弥一は「ありがとな。」と言って笑った。どこか寂しさが窺える、そんな笑い方だった。 会社を出た二人は、弥一の行きつけだという会員制のバーに向かった。 そこの利用者は全て、金持ちか芸能人や政治家といった要人のみを御用達にしている、いかにもお高そうなバーだった。そんなバーであっても、さすが天下の御子柴グループである。 バーのスタッフは弥一の顔を見るなり深々とお辞儀をすると、どうぞと言ってバーテンダーのいるカウンターを抜けた先の部屋へと二人を案内した。 重厚な扉を開けた先には広々とした空間が広がっており、大理石でできた床はよく磨かれ、天井からは豪華なシャンデリアの灯りが煌々と辺りを照らしている。座り心地の良さそうな革張りのソファに、ガラス張りのテーブルを挟むようにしてそれぞれ腰を下ろす。 ソファに腰を下ろすなり、弥一はスタッフに向かって、「ウォッカをストレートで。あと適当に何かおつまみを。三雲、君は何を飲む?」 「えっと、じゃあ同じのを。」 「かしこまりました。」と恭しく頭を下げて、スタッフが部屋を後にする。 天下の御子柴グループに就職したとはいえ、一般社員では到底関わることがないであろう空間に、三雲はただたま飲み込まれ、居心地が悪かった。普段自分が行きつけとしている、平日ならハイボールが一杯199円が売りの大衆居酒屋が恋しくて堪らない。 そんなことを考えていた矢先、スタッフが注文のお酒たちを手に戻ってきた。 スタッフは数種類のナッツが入った小皿と、生ハムとチーズが乗った皿、シャインマスカットやいちごといったフルーツが彩りよく盛られた皿をお盆から丁寧にテーブルへと置くと、最後に小さなグラスと切り分けられたライムが乗った皿をそれぞれ二人の前に置いた。そしてウォッカが入ったボトルの蓋を開けると、手際よくそれぞれのグラスに注いで行く。注いだ後、手にしていたナフキンでボトルの口を拭くと、蓋を閉め、弥一のそばに音もなく置いた。そして、「では、私はこれで失礼いたしますが、何かあれば何なりとお申しつけくださいませ。」 「ありがとう。」と弥一が答えると、またしても恭しくお辞儀して部屋を後にしていく。 スタッフが出ていくのと同時に、弥一がウォッカが入ったグラスを手に持ったのを見て、慌てて三雲もその手にグラスを持った。 弥一はくすりと笑うと、「乾杯。」と言ってグラスを少し持ち上げる仕草を見せた後、そのまま一気にグラスを煽る。くーっ、と言って息を吐き出した弥一は、間髪入れずにウォッカのボトルを手にすると、空いたばかりの自身のグラスにウォッカを注ぎ入れようとする。三雲はまだ自分の分を飲んでいなかったが、弥一に手酌をさせるわけにはいかないと思い、ウォッカが入ったグラスを慌てて置くと、「僕に注がせてください。」と言って弥一の手から優しくボトルを奪い、そのグラスに注いだ。 弥一は「ありがとう。」と言うと、三雲を待つこともなく、またしても一気にグラスの中のウォッカを飲み干した。と、急に勢いよく目の前のガラス張りのテーブルに派手に突っ伏す。 自身も飲みっぷりのいい弥一に続こうと、ウォッカの入ったグラスを口元まで近づけていた三雲は、陶器同士がぶつかって立てるその騒がしい音に、驚いて手を止める。 幸い、弥一が突っ伏した際弾かれた皿からはいくつかのシャインマスカットがころころと転げ落ちただけで済んだ。 三雲は数秒間そのまま突っ伏している弥一を見つめていたが、微動だにしない彼を前に不安になって、 「御子柴さん、どうしました?大丈夫ですか?」と、声を掛けた。だが、弥一からの返答はない。 焦りが増した三雲は、グラスを置くと、急いでテーブルを周って弥一のそばに寄り、遠慮がちにその肩を叩く。 「御子柴さん?あの、返事してください、御子柴さんっ!」 嘘、どうしよう。反応がない。そうだ、救急車呼ばなきゃ! そう思い携帯を取り出したその瞬間、突っ伏したままの弥一の方から「ぐぅ。」と言う、くぐもった音が聞こえた。 三雲はピタリとその手を止めると、意を決したように、弥一の身体をソファの方へと勢いよく起こした。 無理矢理体勢を変えられた弥一は不満気に「ううーん。」と言って、眉間にしわを寄せる。しかし、その目は閉じられたままだった。 そんな弥一を、三雲は呆然と見つめる。 嘘だろ、こいつ…寝てやがる!?かすみは、ハッと何かに気づいたように目を開くと、 「わかりましたっ!一緒に行きますから、誰にも手を出さないでください!」 「何言ってるんだ、かすみさん!ダメに決まってるだろう!」 弥一はすかさずかすみにそう叫び、 櫂斗は、心外だ、というように眉根を下げると、 「なるほど・・・やっぱりお前の中での俺は、簡単に暴力を振るう人間なんだな。」 「それはー」 「やめろよ、その言い方!わざと彼女に罪悪感を抱かせるようとしてんのが見え見えなんだよ!」 「そんなこと微塵も考えていなかったけど。でも、良かった。かすみは俺と来てくれるらしいんでね、そろそろ互いに手を離そうか?」 「連れていかせねーって言ってんだろ。」 「ちょっと‼︎さっきからあたしのことほったらかしにしないでよ!」 こんなにも可愛い自分を差し置いて、目の前の男たちが平凡なおばさんなんかを取り合っていることに、雪菜は我慢がならなかった。 だがー 「「うるさいっ‼︎」」 二人からそう怒鳴りつけられ、雪菜は悔し涙を浮かべると、唇を強く噛んだ。 見かねたかすみが二人の間に割って入り、胸ぐらを掴み合う手を離させる。 かすみは弥一に背を向けて立つと、正面に立つ櫂斗を見上げて、 「櫂斗さん、ここを片付けてから出て行ってもいいですか?」 「かすみさんっ‼︎」 だが、かすみは弥一の方を振り返りもしない。 櫂斗は満足そうな笑みを浮かべると、 「悪いがそんな時間はない。必要なものだけ持ったらすぐに出るぞ。」 「ーわかりました。では、少々お待ちください。」 そこで踵を返したかすみの目が、今に泣き崩れそうな弥一を捉えた。 かすみの胸が、酷く、痛む。 かすみは胸の痛みから逃れるように俯くと、弥一の横を何も言わずにスッと通り抜けた。 しかし、弥一はかすみの腕を素早く掴むと、 「無視しないでよ!」 「ー離してください。」 「かすみさんが付いていく必要なんてないじゃないか!」 「離して・・・」 「俺は、そんなに頼りにならないの?」 「・・・・・・」 弥一はかすみの握る手に力を込めると、 「行かないで。」 震える弥一の声に、かすみの心が揺れる。 しかしー 「かすみ。」 深淵から響いてくるような、低く湿ったそ
「はあ⁉︎唐突に何をー」 吠える弥一だったが、そこで櫂斗の携帯電話がメッセージを受信した。 「失礼。」と、櫂斗が携帯電話を取り出しメッセージを確認したために、弥一の言葉は無理矢理中断させられる。 メッセージを確認した櫂斗は目を細めると、携帯電話をスーツの内ポケットに戻した。 「申し訳ありませんが、急がなければならない事情ができてしまいました。ですので、簡潔にこちら側の要望をお伝えいたします。」 櫂斗はそこで真っ直ぐにかすみを見つめると、 「かすみ、俺と一緒に来い。」 もう我慢ならなかった弥一は櫂斗の胸ぐらに掴み掛かると、 「何なんだよ、あんた!いきなり出てきて、引っ掻き回すようなことして!」 櫂斗はそれでも涼しい顔をして笑うと、 「いいですね、その勢い。若造って感じが全面に出てて、僕は好きですよ?けど、さっき言った通り急がなければならないんです。外野はひっこんでてください。」 「外野はあんたの方だろう!それに、かすみさんがあんたに付いていくわけない。彼女はどう見たってあんたに怯えてる。そんなこともわからないのか?」 櫂斗はちらりとかすみに目をやると、戸惑ったように瞳を揺らすかすみと目が合った。 櫂斗はそのままかすみを見ていたが、弥一の「聞いてるのかよ!」の声に、視線を彼へと戻すと、 「何でしたっけ?」 弥一は奥歯をギリっと噛み締め、 「だから!雪菜を連れてここから立ち去れっていってるんだ!従わないなら警察を呼ぶ。」 そんな弥一の脅し文句に、櫂斗は、プッと吹き出した。 「な、何がおかしいんだよ?」 櫂斗は、くっくと笑いながら、 「いやあ、いいですね御子柴さん。想像通りの真っ直ぐな方だ。真っ直ぐで、若くて、青くてー」 と、そこで櫂斗は弥一の胸ぐらを掴み返すと、グッと自身に引き寄せ、そして、 「反吐が出る。」 弥一は眼前に迫った櫂斗の漆黒の目に、思わず怯んでしまう。 櫂斗は、ニッと笑うと、 「俺が誰だかわかったんだろう?勝てる見込みがないとわかっていながら、それでも楯突いてきたその度胸は認めるよ。けど、お利口さんな君のことだ。事の結末はわかってるんだろう?なら、大人しくかすみを差し出せ。」 「なっー」 「別にタダでとは言わない。だから、ほら。代わりにあの女を連れてき
「櫂斗さん、だったんですか?」 目を丸くして戸惑うかすみと同様に、弥一も驚きを隠せなかった。 (お兄さんのこと名前で・・・しかも“さん”付けでも呼ぶのか?それにー) 花のことはあまり詳しくない弥一だったが、それでも、あのスタンド花には、自分が贈った花束にも使用したスミレの花が含まれていたのを思い出した。 つまりー (この人もかすみさんの好きな花を知っていた?) 兄弟なのだからお互いの好きなものを把握しているのは不思議なことじゃない。 けど。 弥一の中で急に、言葉で言い表せない焦燥感が生まれる。 そんな弥一を他所に、櫂斗はかすみの顔に浮かんだ表情に苦笑した。 「まあ、俺からだとは予想だにしなかっただろうな?俺なりにあのメッセージに想いを込めたつもりだったが・・・」 そこで櫂斗はちらりと弥一を見ると、 「むしろ誤解を招いただけだったか。悪かったな。彼からじゃなくて。」 まるで、かすみがそう期待していたことを見抜いたような櫂斗の言葉に、かすみは動揺したように目を泳がせた。 (メッセージ?それに、俺からじゃなくて悪かった、って) メッセージの内容がわからない弥一は訝しむように眉を寄せ、それから、 「かすみさん、メッセージって何?何て書かれていたの?」 自分からだと勘違いするようなものって、一体どんな言葉なのだろう、という、安直な好奇心から聞いたものだった。 がー かすみはなぜか自分のその簡単な問いに、サッと答えてくれない。 「かすみさん?」 「御子柴さん、そんなに気になるなら見に行ってらどうですか?目につきやすい位置に添えてあるはずですから、すぐに見つけられると思いますよ?」 弥一はムッとすると、 「あなたには聞いてません。それに、一方的に俺のことを知っているなんてフェアじゃないと思いませんか?俺はあなたがどこの誰かもわからないのに。」 櫂斗は「失敬。」と鼻で笑うと、胸ポケットから名刺を取り出して、 「宗方櫂斗(むなかた かいと)と申します。」 (宗方?宗方、って。まさかー) 弥一も驚いたが、雪菜も心底驚いた。 櫂斗は雪菜に名前は教えてくれたものの、苗字までは教えてくれていなかったのだった。 そんな櫂斗の新たな姿を目に、この瞬間から、雪菜の関心は完全に弥一から
(死んだことにしてとんずら?とんずらって何だ?というか、一体さっきから何の話をしているだ?) 会話の内容に加え、兄弟とは到底思えない二人の空気感に、弥一の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。 しかし、櫂斗を目の前にして身体をこわばらせているかすみに、弥一はそのことを追求するより先にかすみの盾となるべく二人の間に入った。 すぐさまかすみが、「ダメです!」と自身が弥一の盾になろうとするが、弥一はそれを手で優しく制した。 弥一は櫂斗の目を真っ直ぐに見据える。 弥一が前に出てきたことに雪菜はすぐさま反応すると、 「弥一!」 呼ばれた弥一はちらりと雪菜を見た。 久々に弥一が自分を見てくれたことに、雪菜は胸が高鳴る。 何か期待を込めたような目の雪菜に対し、弥一は温度のない目で雪菜を見下ろしながら、 「この人とはどういう関係?」 (やだ!弥一ったら案の定彼に嫉妬しちゃってる!) 雪菜は顔がニヤけそうになるのを必死になって堪えると、澄ました顔で、 「見ての通りだけど?」 そう言って、雪菜はより一層、櫂斗の腕に密着するように絡みつけると、笑ってみせる。 瞬間、そうされた櫂斗の顔に浮かんだうんざり顔を、弥一は見逃さなかった。 こっちもこっちで詳細はよくわからないが、目の前の男が雪菜にその気がないことだけは明らかであった。 弥一が嫉妬していると勘違いしている雪菜は、さらに弥一の嫉妬心を煽ろうと、 「そんなにあたしと彼との関係が気になるの?まあ、そうね。敢えて言葉にするとしたらー」 「黙って。」 これ以上雪菜に喋らせたところで有益な情報は得られないだろう。 そう考えた弥一は早々に雪菜の話を遮った。 かすみに声を掛けた時とは打って変わって、冷えた口調でばっさりと切ってきた弥一に、雪菜はツヤツヤと輝く唇を噛むと、忌々しいといった目つきになった。 そしてその目を、弥一の背中で守られているかすみへと向ける。 目の前の男たちの光景に気が気でないかすみは、その雪菜の毒々しい視線に気づかなかった。 弥一は視線を櫂斗から外すことなく、 「いろいろ聞きたいことはありますが、昨今はプライバシーに関しては非常にデリケートな世の中ですからね。大体の疑問は飲み込みます。ですので、あなたにお聞きしたいのはた
かすみは入り口に立つ人物を凝視すると、 「櫂斗、さん?」 だが、そんなかすみの囁き声は、やかましい女性の声にかき消されてしまう。 「うそっ、弥一?どうしてここに?」 櫂斗と腕を組みながら、雪菜は驚いたように声を上げるた。 (ああ、なるほど。これが櫂斗さんが言ってたとっておきのプレゼントってわけね) 彼女は弥一の元へ向かおうと、櫂斗と組んだ腕を離そうとしたが、そこで、待てよ、といったように動きを止めた。 そして、ちらりと自身の横に立つ櫂斗に目をやる。 弥一と遜色ないスタイルと顔の良さに加え、彼にはさらに大人の色気があった。 櫂斗と仲睦まじい様子を見せつけてやれば、未だヘソを曲げてい弥一も、悔しがって自分との復縁を考え直すかもしれない。 そう考えた雪菜は、勝ち誇ったような笑みを浮かべると、より一層、櫂斗に密着するようにして、その姿をこれみよがしに弥一へと見せつけた。 しかし、お目当ての弥一はというと、彼の隣で息を呑んで立ち尽くしているかすみしか見えていなかった。 弥一は心配と戸惑いが滲んだ声で、 「かすみさん?」 そう声を掛けたが、かすみは微動だにしない。 弥一は焦ったように、 「かすみさんっ!」 かすみは、ハッとしたように二度三度とまばたきをすると、やっと自分がどこにいるのかを思い出したようで、 「あ、ご、めんなさい。私ったら、ぼーっとしてました。」 弥一はかすみの肩にそっと触れると、 「大丈夫?」 かすみは額を押さえながら、 「ああ、はい。はい、大丈夫です。ごめんなさい。」 誰がどう見ても大丈夫であるようには見えなかったし、実際、かすみはちっとも大丈夫ではなかった。 心の中では絶えず、この場をどう切り抜けようかと、そのことばかりが頭を駆け巡っていた。 かすみの身体に弥一が触れた瞬間、櫂斗はピクリと身体を動かした。 雪菜も、弥一に心配されているかすみの姿を目に(誰よ、あのおばさん)と、目を鋭くする。 弥一がかすみに顔を近づける姿に、櫂斗は目を細めた。 彼は、チッ、と小さく舌打ちをすると、雪菜が腕を取っていることも忘れて、大股で早足にかすみたちへと距離を詰める。 雪菜は、そんな櫂斗に引っ張られるようになりながらも、腕を離すことなく何とかついて行った。
「ごちそうさまでした。」 手を合わせた弥一の前にはきれいに平らげらた後の食器だけが並んでいた。 結構な量を用意したはずだったのに、全ての料理を完食した弥一にかすみは目を丸くする。 「御子柴さんて、もしかして痩せの大食いですか?」 弥一はキョトンとした顔でかすみを見つめ返すと、 「いや、普通に人並みだと思うけど・・・どうして?」 その問いに答える代わりに、かすみは目の前の空になった食器へと視線をやると再び弥一に視線を戻した。 その視線の意味に気づいた弥一は、ははっ、と笑うと、 「美味しいものだったり、好きなものってなったら別!俺にとってかすみさんの料理はどちらにも当てはまるから、そりゃあ、箸が止まらないよね!」 かすみも、あはっ、と笑うと、 「最高の褒め言葉です。ありがとうございます。」 弥一はかすみの笑顔を愛おしそうに眺めていたが、ふいに、 「そうだ、ケーキなんだけどさ。」 ん?といったように、かすみは弥一を見つめる。 「先に二人で少しだけ食べちゃわない?せめてチョコプレートの所だけでもかすみさんに先に食べてほしいな。」 「チョコプレート、ですか?」 「うん、メッセージ書いたからさ。それを家族に見られたくないんだ。見られたら最後、イジり倒してくるに決まってるから。」 かすみは思わず吹き出すと、 「では、先に少しだけ二人で食べちゃいましょうか!」 弥一は「賛成!」と手を挙げると、 「よし!じゃあ、作業を分担しよう。かすみさんはケーキを取り分ける係、俺は皿を運んで洗う係をやります!」 かすみはすかさず両手を振ると、 「いけません。御子柴さんに皿洗いなどさせられません。」 だが、弥一はかすみの言葉を聞きながらもスーツの上着を脱いで椅子に掛けると、腕時計を外し、ワイシャツの袖をまくりはじめる。 「かすみさん。海老原市での俺たちの関係はもう終わったんだ。だから、俺が皿洗いをしたっていいでしょう?」 「いや、でも・・・それではおもてなしにならないです!」 「十二分にもてなしてもらったよ?俺の大好物ばかり作ってもらえたんだもん!だから、ね?」 ふいに、弥一のそんな甘え顔を正面からくらったかすみはたまらず目を泳がせると、 「ですが、私ばっかりもらいっぱなしっていうのはち
見知らぬ女の唐突の挨拶に面食らった弥一はしばらくお辞儀したままの女を見つめていたが、女が顔を上げて再度自分と目が合うと、すぐさまハッとしたように我に返って女の挨拶を無視して八重子に向かって言った。 「おばあさま、誰ですかこの人?てか、何なんですかこの状況!」 そう尋ねながら、ちらりと女を見る。 その後、弥一は女のそばに寄りたくないのを隠す様子もなく、女から距離を取るようにわざと迂回して八重子に近づいていった。 その様子を見ていた八重子はこちらも不快な気持ちを一切隠すことなく、ありありとその顔に浮かべると、 「あんたみたいな女の見る目もなければ礼儀もなってないような人間を孫
接待を終えた御子柴弥一(みこしば やいち)はいつもよりだいぶ遅くなったものの、ちゃんと帰宅しようとしていた。 今日の相手は得意先の中でもダントツで厄介な質で、酒好きな上に女好きとあって、そいつの接待には必ず美味しいお酒と華やかな女を用意しなければならなかった。 弥一自身もかなり酒を飲まされた上に、そのルックスから女たちは皆彼をロックオンすると、あからさまなボディタッチをするなどしてアピールしてきた。 残念ながら弥一がそれに釣られることはなく、むしろベタベタ触られたことで彼女たちの付ける香水の匂いが自分からもしていることにかなり苛立っていた。 車の空気を入れ替えようと後部座席の窓を
訝しむように自分を見つめる弥一に、咲希は、 「お兄、知らないほうが幸せなことってあると思うよ?口を滑らせちゃったことは本当に悪いと思ってるけど、真実を知ったら、お兄のガラス細工のような繊細なハートじゃきっと耐えられない。粉々に砕けちゃう。」 咲希のその鼻にかかる演技に呆気に取られていた弥一だったが、何か言おうと口を開きかけたところ咲希はそれを遮って、 「けど、お兄がそこまで言うなら私も心を鬼にするしかないわね!」 そう言って、その肩に下げていた可愛いらしいショルダーバッグをゴソゴソと漁って携帯電話を取り出した。 「何も言ってないんですけど。」 そう言う弥一を完全に無視し
そう言うと、女の子はその長い足で一直線に弥一たちに向かって歩いてくると、ソファにうなだれて座っている弥一を前にし、その腕を組んで仁王立ちした。 彼女の服装は上下紺色のセットアップで、上は胸元が大胆に開いた白いTシャツにジャケットを羽織り、下はショートパンツを履いていた。 そのショートパンツから覗く、長くて真っ直ぐな美脚を前に、三雲はごくりと唾を飲み込んだ。 そして、そのまま視線を上げて女の子を覗き見る。 そこには腰近くまで伸びた綺麗な栗色の髪に、透き通った肌の整った顔立ちがあった。 その小さな枠の中に、長いまつ毛のぱっちりした目と程よい高さで形の良い鼻、ぷっくりした色艶の