LOGIN過去に思いを馳せていた弥一の耳に、「社長、着きましたよ。」と、三雲の声が響く。
一気に現実に引き戻された弥一は、反射的に「ああ。」と返して、シートベルトを外した。 そして、運転手が開けてくれたドアからその長い足を外に出しながら、 「今日は厄介な接待に付き合わせて悪かったな。明日の昼にでもこの埋め合わせをしたいから、予定空けといてくれよ。お前の大好きな寿司でも一緒に食いに行こう。じゃあ、お前も早く帰って休め。」 そう三雲に言って車を降りると、今度はドアを開けてくれた運転手に向かっていつものように「ありがとう。」と言った。運転手もまた、「とんでもございません。」と言って微笑む。弥一もそれに頷き返す。 そうして部下と使用人への労いの言葉を掛け終わると、足早に家へと向かって歩いて行った。 三雲も素早く助手席から降りるとその背中に向かって、「社長、お疲れ様でした。」と言って深々と頭を下げた。その言葉に、弥一は背を向けたまま利き手である右手を軽く挙げて応える。 御子柴会長(八重子)の指導が行き届いているからか、御子柴家の人々は大金持ちでありながら、金持ちにありがちな横柄な態度を取る者は三雲の知る限り誰一人としていなかった。弥一は三雲のことを、呼び方こそ"お前"などとは言ってきても、その接する態度は先程見た通り思いやりがあって礼儀正しい。 だからこそ三雲はどこか歯痒い気持ちでいた。 というのは、弥一のかすみに対する態度である。彼は彼の妻であるかすみにだけはなぜか、素直になれないのか、少し距離があるような態度を取るのであった。とはいえ、当初の弥一からすればだいぶまともになったものの、自分らに向けるのと同じくらいの気持ちで彼女にも接することができれば、彼らの結婚生活はもっと円滑に進むのではないか、そう思わずにはいられないのであった。 三雲と弥一はあくまで仕事上仲がいいといった関係性だったが、 そんな三雲から見ても、弥一がかすみにだけわざとそういった態度で接していることは明らかだった。 彼が上司の妻であるかすみに会ったのは数えるほどしかなかったが、確かに弥一とかすみでは見た目に釣り合いが取れているとは言えなかった。 ただし誤解がないよう言っておくと、かすみは決して不細工なわけではない。ただ、弥一の見た目が飛び抜けすぎているのだ。 二次元のイケメンが三次元に飛び出してきたかのような、はたまた美青年という言葉そのものを具現化してできたかのような弥一と、顔もスタイルも全てにおいて平均点並みのかすみとでは、並んで歩いた所で到底夫婦には見えない。 会社で弥一のことを分かりやすく狙っている噂好きな派手目女子たちが言うには、彼は非常に信仰深く、それ故に敢えてかすみのような平凡な年上の女性を妻に据えることによって、三代欲求である性欲というものが彼の身に湧くことがないようにしているのだと言っていた。 三雲が知る限り、弥一が何かの神なり宗教なりを崇めている様子はなかった。だが、あながちその噂話も的外れではないように思えた。と言うのも、弥一には他に想いを寄せる相手がいるように思え、その人に対して操を立てているようには見えていたからだ。 三雲がまだ弥一の同期として、二人して女性用下着のマーケティング部に配属され仕事をしていたときの話だ。 その頃の弥一の携帯は昼夜問わずひっきりなしに鳴っていた。そしてそのメッセージや電話がくる度に、弥一が就業中にも関わらずその都度仕事の手を止めると、優しい声色で電話に出たり、嬉しさが隠しきれない様子でメッセージを返したりしている様を何度も見てきた。三雲もその度にうんざりさせられたものだった。彼が御子柴家のご子息でもなくただの一介の新入社員だったのなら、同期として不満を爆発させたことだろう。 だが、弥一はやはり一般人とは一線を画していて、他者の思いも寄らないような切り口から解決策や案を導き出しては、何度となくチームの成長に貢献してきたのだった。 そして後日、弥一が既婚者であること、しかも結婚してまだ日が浅いことを知った三雲は、自分と同い年ながらも既に愛妻家が板についている上に何だかんだで誰よりも仕事ができてしまう弥一のことを認め、尊敬するようになっていった。そして将来自分も結婚する時には、弥一に負けないくらい、心から愛せる人を奥さんにもらおうと決めたのだった。 そんな中、新卒の初々しさもとうに抜け、仕事のほうも一通り慣れてきたある日のことだった。一時間ほど残業した後、そろそろ帰ろうかと立ち上がった三雲に、同じく残業していたらしい弥一が声を掛ける。 「なあ、三雲。よかったらこれから二人で飲みに行かないか?」 三雲は、今まで幾度となく同期という立場から弥一のことを食事や飲みに誘おうとしていた。しかし、いざ誘おうとすると、相手との圧倒的な身分の違いにやはり怖気付いてしまい、結局毎度毎度誘わず終いだったのである。そんな弥一から誘われたとあったら行かない理由が三雲にはなかった。 彼はすぐさま二つ返事で了承した。 そんな三雲に、弥一は「ありがとな。」と言って笑った。どこか寂しさが窺える、そんな笑い方だった。 会社を出た二人は、弥一の行きつけだという会員制のバーに向かった。 そこの利用者は全て、金持ちか芸能人や政治家といった要人のみを御用達にしている、いかにもお高そうなバーだった。そんなバーであっても、さすが天下の御子柴グループである。 バーのスタッフは弥一の顔を見るなり深々とお辞儀をすると、どうぞと言ってバーテンダーのいるカウンターを抜けた先の部屋へと二人を案内した。 重厚な扉を開けた先には広々とした空間が広がっており、大理石でできた床はよく磨かれ、天井からは豪華なシャンデリアの灯りが煌々と辺りを照らしている。座り心地の良さそうな革張りのソファに、ガラス張りのテーブルを挟むようにしてそれぞれ腰を下ろす。 ソファに腰を下ろすなり、弥一はスタッフに向かって、「ウォッカをストレートで。あと適当に何かおつまみを。三雲、君は何を飲む?」 「えっと、じゃあ同じのを。」 「かしこまりました。」と恭しく頭を下げて、スタッフが部屋を後にする。 天下の御子柴グループに就職したとはいえ、一般社員では到底関わることがないであろう空間に、三雲はただたま飲み込まれ、居心地が悪かった。普段自分が行きつけとしている、平日ならハイボールが一杯199円が売りの大衆居酒屋が恋しくて堪らない。 そんなことを考えていた矢先、スタッフが注文のお酒たちを手に戻ってきた。 スタッフは数種類のナッツが入った小皿と、生ハムとチーズが乗った皿、シャインマスカットやいちごといったフルーツが彩りよく盛られた皿をお盆から丁寧にテーブルへと置くと、最後に小さなグラスと切り分けられたライムが乗った皿をそれぞれ二人の前に置いた。そしてウォッカが入ったボトルの蓋を開けると、手際よくそれぞれのグラスに注いで行く。注いだ後、手にしていたナフキンでボトルの口を拭くと、蓋を閉め、弥一のそばに音もなく置いた。そして、「では、私はこれで失礼いたしますが、何かあれば何なりとお申しつけくださいませ。」 「ありがとう。」と弥一が答えると、またしても恭しくお辞儀して部屋を後にしていく。 スタッフが出ていくのと同時に、弥一がウォッカが入ったグラスを手に持ったのを見て、慌てて三雲もその手にグラスを持った。 弥一はくすりと笑うと、「乾杯。」と言ってグラスを少し持ち上げる仕草を見せた後、そのまま一気にグラスを煽る。くーっ、と言って息を吐き出した弥一は、間髪入れずにウォッカのボトルを手にすると、空いたばかりの自身のグラスにウォッカを注ぎ入れようとする。三雲はまだ自分の分を飲んでいなかったが、弥一に手酌をさせるわけにはいかないと思い、ウォッカが入ったグラスを慌てて置くと、「僕に注がせてください。」と言って弥一の手から優しくボトルを奪い、そのグラスに注いだ。 弥一は「ありがとう。」と言うと、三雲を待つこともなく、またしても一気にグラスの中のウォッカを飲み干した。と、急に勢いよく目の前のガラス張りのテーブルに派手に突っ伏す。 自身も飲みっぷりのいい弥一に続こうと、ウォッカの入ったグラスを口元まで近づけていた三雲は、陶器同士がぶつかって立てるその騒がしい音に、驚いて手を止める。 幸い、弥一が突っ伏した際弾かれた皿からはいくつかのシャインマスカットがころころと転げ落ちただけで済んだ。 三雲は数秒間そのまま突っ伏している弥一を見つめていたが、微動だにしない彼を前に不安になって、 「御子柴さん、どうしました?大丈夫ですか?」と、声を掛けた。だが、弥一からの返答はない。 焦りが増した三雲は、グラスを置くと、急いでテーブルを周って弥一のそばに寄り、遠慮がちにその肩を叩く。 「御子柴さん?あの、返事してください、御子柴さんっ!」 嘘、どうしよう。反応がない。そうだ、救急車呼ばなきゃ! そう思い携帯を取り出したその瞬間、突っ伏したままの弥一の方から「ぐぅ。」と言う、くぐもった音が聞こえた。 三雲はピタリとその手を止めると、意を決したように、弥一の身体をソファの方へと勢いよく起こした。 無理矢理体勢を変えられた弥一は不満気に「ううーん。」と言って、眉間にしわを寄せる。しかし、その目は閉じられたままだった。 そんな弥一を、三雲は呆然と見つめる。 嘘だろ、こいつ…寝てやがる!?弥一は答えを急ぐあまり、そもそもでこれが自分の話ではないということを前提に話しをするのを忘れてしまっていた。 なので、今さらながらも、「いや、これは俺の友達の話しであって、俺のじゃないんだ。」と、苦し紛れにそう付け加える。 そこに大将が、「旬のカツオを使ったお造りになります。」と、差し出す。 弥一がそれを食べるのを見てから、三雲も箸を伸ばした。 旬とあって、何の生臭さもないカツオは、ただただ美味しかった。 先程の弥一の話しに戻るが、 もちろん三雲にはバレていた。しかし、三雲は物分かりがいい。 だから彼は、「なんだ、友達の話か。ごめん、早とちりした。てっきりお前の話かと思ったわ。」と、言ってあげる。 「そんなわけないだろっ。」と、弥一は顔を赤くする。 三雲は笑って、「だから、ごめんって。で?そのお友達は断ったことで女性側を傷つけたんじゃないかと、そう悩んでるのか?」 「まあ、そうだ…」 「ふーん。」と答える三雲に、「蒸し鮑のあん肝ソースがけになります。」と、大将が二人に差し出す。 二人はそれを黙って食べた。 鮑は柔らかく蒸し上げられ、濃厚なあん肝ソースとよく合っている。 うまい そう味わっていたのも束の間、弥一が三雲に問いかける。 「やっぱり、傷つけるものなのか?」 「え?あ、うーん、まあ…そりゃ、傷付くことには傷付くんじゃないか?やっぱり、それなりに勇気のいることだと思うし。」 「そう、か。」 やっぱり傷付けたのか。そう思った弥一の顔が曇る。 その後、次々と大将が握った寿司が出されていった。三雲はそれらが出されると同時に食べていったが、弥一はなかなか手を伸ばさなかった。 「食べないのか?」と、聞く三雲に、「食べていいよ。」と、弥一が答える。 弥一のその落ち込んだ様子に、察したらしい三雲は、おもむろに、 「自分のこととして考えてみたらどうだ?」と、言った。そして、弥一の分の寿司をありがたく頂戴する。 弥一は顔を上げると、 「自分のこととして?」と、尋ねる。 「そ。もし誘ったのが自分だったらって、そう考えてみる。勇気出して誘って、それを相手に断られたんだとしたら、まあ、その日の体調とか気分とかあるだろうけどさ、でも、やっぱり傷付く部分はあるんじゃない?」 そう言われ、弥
そんな三人の会話を盗み聞きしていた弥一は、ふと、自分は既に胃袋を掴まれた状態にあるのではないかと思った。 なんせ、かすみの作り出す料理は美味しいものばかりなのである。未だかつて、彼女が弥一に出した料理ではずれのものなどなかった。 正直今だって、弥一の口はかすみの作る料理を求めていた。 というのも、あの今朝の料理。あれは早苗が作ったものだということに、弥一は気付いていた。 昨日のことでどうやらかすみの機嫌を損ねてしまったか、あるいは気恥ずかしさや後ろめたさからか、まあ、理由は何にせよ、今朝の朝ごはんをかすみは作らなかったらしい。 朝も感じたことだが、早苗の料理は決して不味くはない。むしろ美味しいのだと思う。が、やはり弥一の口が求めるのはかすみの作る料理だった。 彼女の料理は高級料亭のような、豪華な食材がふんだんに使用されているわけでもなければ、繊細な味わいを楽しむそれとも違っていた。かといって、変に中毒になるような濃い味付けをしているわけではない。 あの味を表現する言葉があるとすれば、それは安心感と優越感だ。 かすみの料理を食べると、ほっと息を吐くことができる。家に帰ってきたんだな、そう思える。 そして、こんなに美味しい料理が主に自分のためだけに用意されたものだということに、何とも言えない優越感を感じる。 今だって、奥さんの料理に対してぼやく片山に、かすみの料理を食べている自分のことを自慢したくて堪らなかった。 うちのは何を作らせても美味しいけどな、と。 そして弥一は確信するのだった。 そんな自分はやはり、かすみの料理に胃袋を掴まされたのだな、とー 弥一と三雲を乗せた車は、御子柴御用達の高級寿司屋に到着した。 格式高い暖簾をくぐると、二人はカウンター席に案内される。 この寿司屋には個室などなく、カウンター席のみだったが、そもそもで高級すぎるが故に各界の著名人と呼ばれるような人々しか出入りできないため、プライバシーを気にする必要がないからであった。 そのため、弥一は席に着くと、大将に向かって、「コース料理とは別に、うにといくらとえんがわを二枚ずつ、彼に出して下さい。」と、言った。 それに対して大将が「かしこまりました。」と言うと、弥一は素早く隣にいる三雲の方を向いて、 「女性から誘われたとして
午前の業務を一頻り終えた弥一は、ふうとため息を吐くと、椅子の背もたれに深く沈んだ。 今朝は時間がなかったため朝食を食べられなかったことと、仕事で頭を使ったことで、弥一のお腹は究極に空いていた。 お昼には少し遅くなってしまったが、昨日約束したこともあり、三雲を誘って行きつけの寿司屋に行こうと椅子から立ち上がる。 ついでに、昨日と今朝の出来事について、三雲に意見を求めよう、とそう思った。 弥一があの家に帰るようになって以来、弥一にとって三雲は、自分の置かれた境遇を知る唯一の同期であり友として、信頼し、重宝していた。 その証拠に、一年前、自身が社長に就任することになった時も、自身の秘書に迷わず三雲を選んだのだった。 弥一が社長室を出たとき、ちょうど中に入ろうとしていた三雲と鉢合わせた。 「ちょうど良かった。約束通り寿司をご馳走するから、これから一緒に食べに行こう。」 そう、弥一は三雲に声を掛ける。 三雲は、「社長、毎回毎回そんな風にしてもらわなくても大丈夫ですよ。接待だって重要な仕事の一つなのですから、私は単に仕事したにすぎませんし。」と、気を遣う。 弥一はそんな三雲の耳に顔を近づけると、ヒソヒソ声で、「相談したいことがあるんだ。つべこべ言わずに行くぞ。」と、言った。 三雲は呆れたような顔をすると、「マーケティング部から企画書のことでお前のサインが欲しいと頼まれた。それにサインしてくれたら、俺がそれをすぐマーケティング部に届ける。そうしたら、晴れてお前の相談とやらに付き合えるけど?」と、小声で返す。 「どれだ?」と間髪入れず尋ねる弥一に、三雲は書類を差し出す。 弥一は書類を受け取ると、サッと目を通した。 企画書は、新しくデザインした下着の展示会についてのものだった。 よくまとめられた資料に、弥一は万年筆を取り出すと、最後のページに流れるようにサインをした。 そしてそれを、「ん。」と言って、三雲に差し出す。 三雲は書類を受け取ると、「先に車の方へ向かっていてください。」と、そう言って、走り去って行った。 弥一は言われた通り、先に車へ向かおうと思い歩き出した。 と、休憩室の前を通り掛かった時だった。 中から聞こえてきた話し声に、弥一は思わず足を止める。 ちらりと中に目をやると、そこには男が三
かすみはアラームの音に、ぱっと目を覚ました。 昨日はお酒の席があった日だから、今日の朝ごはんはいつものやつを作らないと。 そう思いながら、まずはアラームを止めようとベッドから起き上がる。 彼女は手を伸ばしアラームを止めると、そこでやっと、部屋の様子がいつもと違うことに気づくのだった。 「ああ、そうか。もう終わったんだった。」 彼女はそう呟くと、再びごろりとベッドに横になった。 この二年間で久しぶりとなる二度寝に、彼女の顔が綻ぶ。 昨日は日付けが変わってから車移動したこともあり、彼女の身体はまだ睡眠を欲していた。 そして、彼女にはそれをする時間が与えられている。 ああ、なんて贅沢なんだろう。 そう思いながら、かすみはゆっくりとその目を閉じていった。 彼女が再び目を覚ました時、時刻は午後二時を回っていた。たっぷりと寝られたことに、かすみは満足そうに「ん〜!」と伸びをする。 それからベッドから出ると、そこを軽く整えた。 かすみの新しい家は、二階建ての店舗兼住宅だった。一階がお店で、二階を自宅として使用するタイプの家だ。 間取りはそこまで広くはないが、立地が立地なだけにかなりいい値段がした。そんな物件をかすみが購入できたのは、偏に八重子のおかげであった。 かすみは、洗面台で顔を洗うと、そのまま着替えることもなく寝巻き姿のままキッチンへと向かった。 彼女は寝巻きと称して高校の時の赤ジャージの下と、白地に丸文字で"世界着服"と縦に書かれたTシャツを愛用していた。 これとは別にもう1セット、赤ジャージの下に、黒字に白文字で"猫のしもべ"と書かれたTシャツもあって、彼女は毎日交互にそれらを寝巻きに着ていた。 もちろん、海老原市のあの家でもかすみはそれらを寝巻きにしていた。ただし、自身の部屋の中でのみ、だったが。 誰の目を気にすることもなく、くたくたに伸びて着心地の良い服に身を包み、自身のためだけに気ままに料理を作る。 材料は昨日、ここに来る前に寄った二十四時間営業のスーパーでに買い込んだものだ。 彼女はその、言葉通りの"自由"に、思わず鼻歌を歌っていた。だが、ふとその鼻歌を止めると、顔を左に向ける。 二年間そこにはいつも早苗がいて、ぺちゃくちゃと二人で話すこともあれば、ただ黙々と手を動かすだけの
「まずいまずいまずいまずいー」 弥一は呪文でも唱えるかの如く、その言葉を呟き続けながら、とにかく手と足を動かした。 慌ただしくシャワーを浴びると、ドライヤーで髪を八割ほど乾かした。それから、クローゼットに駆け寄るとスーツやワイシャツを引っ掴み、バタバタと着替える。 着替え終わった弥一は、主寝室から出て階段を一気に駆け降りると、腕時計に目をやった。 7:42 もう歯は磨いてあるが、出勤前に何かお腹に入れておきたい。 お酒を飲んだ次の日の朝ごはんのメニューも決まっているから、いつも通り、しじみの味噌汁が出るはずだ。 そう考えた弥一の口は、もうしじみの味噌汁の口になっていた。味噌汁を一杯飲むくらいの時間はある。他のを残してしまうことは申し訳ないが、時間がないのだから致し方ないし、わかってくれるはず。あと、歯磨きは会社に着いてからすればいいだろう。 そう思い、弥一はリビングへ続くドアノブへと手を掛ける。と、弥一の頭にふと昨日のことが思い出された。 彼は自然と顔が緩むの感じ、それにはたと気づくと、まるで雑念を追い出すかのように頭をぶんぶんと振った。 それから、「よしっ。」と自身に掛け声を掛けてリビングへと入る。 「おはようございます。」 早苗は少し冷めたような目つきでそう挨拶しながらも、いつも通り朝食の準備をしてくれていた。 弥一はサッと辺りを見回したが、かすみの姿はなかった。 昨日のこと、引きずっているのだろうか? 弥一は少し申し訳ない気持ちになりつつ、椅子を引いて席に着いた。 ダイニングテーブルには、鮭の焼き物に、だし巻き玉子、漬物と、いつも通りのメニューが並んでいる。 そしてもちろん、お目当てのしじみの味噌汁もあった。 弥一は「悪いけど、時間がないから味噌汁だけいただくよ。」と、キッチンにも聞こえるよう、わりかし声を大きくしてそう言った。 それに対して早苗が、「そうでしょうね。」と言う。 早苗の小言に、弥一は咳払いを一つすることで払拭すると、「いただきます。」と、手を合わせた。 そして、しじみの味噌汁が入ったお椀に手を伸ばすと、一口啜った。 「ん?」 弥一は、不思議がるようにその眉をひそめる。 気のせいかと思い、もう一口啜ってみる。 あれ、何でだ? 弥一の眉間がさら
「わざわざこんな暗い中出て行かなくても。」 玄関先まで出てきた早苗は、キャリーケースを手に靴を履き替えるかすみに、そう声を掛ける。 靴を履き終えたかすみは、振り返ると、 「そういう契約ですから。」 そう言って笑った。 それから、早苗に向けて深々と頭を下げると、 「早苗さん、本当にお世話になりました。」と、言った。 早苗は慌ててかすみにその頭を上げさせると、 「よしてくださいよ。私は何もしてはいませんし、してたとしてと大したことじゃありません。」 「早苗さんがいてくれたからこの二年間を乗り切れました。早苗さんが間に入ってくれてたからこそ、私たちの生活は成り立っていたのですから。」 「全てはかすみさんの努力あってこそのものです。」 温かい言葉に、かすみは目頭が熱くなる。 そんなかすみに、早苗も目元を潤ませると、 「まるで今生の別れのようになっておりますが、私はここであなたとの縁が切れるなどとは思っていませよ。」 かすみの頬を涙が伝う。 「っ、私もです。早苗さん、私は必ず夢を叶えます。その時は必ず、八重子さんと一瞬にいらしてくださいね!」 「ええ、約束です。」そう言って、早苗はかすみの手を取ると、その手を自身の手で軽く叩いた。 かすみは早苗の目を真っ直ぐに見つめると、「本当にお世話になりました。」と言った。 早苗はなんとか涙を堪えると、うんうんと頷き、 「身体に気をつけて。」 「早苗さんも。どうぞご自愛くださいね。」 二人は名残惜しそうにお互いの手を握り合っていたが、やがてその手を離すと、かすみはキャリーケースを引きずって玄関のドアを開けた。 最後にもう一度、かすみは早苗のほうを振り返ると、「ありがとうございました。」と言った。 早苗は今一度ただ頷くのみだった。今生の別れではないと自分で言ったものの、何か話そうものなら、泣いてしまいそうだったからだ。 早苗に頷き返したかすみは、次に背筋を正す。 そして背を向けると、ドアから出て行った。 早苗は堪らず目元を拭った。 かすみとの生活は日々穏やかに流れていったが、一緒に皿洗いをしたり、食事の下ごしらえをしたり、買い物に行ったりと、ささやかながらもその丁寧な暮らしはどれもが楽しく、心豊かになるものだった。 人生の本当の贅







