LOGIN夜の静寂が白亜宮を包み込む頃、セラは寝間着の上に薄手の羽織りを重ね、壁に隠された扉をそっと開けた。
セラとジェイドの寝室をつなぐ、秘密の隠し通路。
足音を忍ばせながら暗い廊下を進む。
夕食の席で、寝る前に部屋を訪れる約束をしていたのだから、堂々と訪ねればいいのだけれど、なんだかいけない悪戯でもしに向かっているような感じがする。
「なんだか……、楽しいかも」
セラは、ひとりで小さくそう囁いて、くすりと笑った。
ほんの少し前まで、冷たい地下室の中で、自由に出歩くことすら許されなかった自分。それが今では、自分の足でどこへでも歩いていける自由があるだけでなく、素敵な婚約者の寝室に繋がる秘密の道まで持っているのだから。
信じられないほど、幸せなことね。
ジェイドは、自分の隣でころんと転がり、枕に頭を預け、目を丸くして固まっている婚約者の姿を見下ろし、思わず口元を緩めた。 この愛らしい表情から察するに、セラは本当にこの『夜本』を、大人向けの絵本のような、可愛いものだと思い込んでいたのだろう。 一体、侍女のリタはどういう説明をしてこの本を渡したのやら。 まあ、絵本と言えなくもないが……。 それにしても、まさかセラに夜本を勧めるとは。 昨今の貴族令嬢たちの間でこうした書籍が密かに嗜まれているという噂は耳にしていた。それに、もちろん男も、この手の書籍を手にする機会は、そこらじゅうにある。 が、まさか自分の婚約者が、目を輝かせて持参することになるとは思いもしなかった。 ジェイドは、表紙だけはどこにでもある地味な学術書のように装われたその本を、手元でぱらぱらとめくってみた。 王都の市井や貴族街で出回る夜の手引書のようなものはいくつもある。夜本は、その手の本の中でも群を抜いて刺激的で、過激な部類に入るものだ。純粋なセラには刺激が強すぎるかもしれない。 ジェイドは、隣で頬を赤く染めているセラに声をかけた。「セラ、これ以上読むのはやめておく?」 すると、ぱたりと倒れていたセラがさっと身体を起こし、慌てたようにジェイドの隣へと戻ってきた。 セラが、なにごとか決意したような、力強い瞳で言う。「いえ、読みます。わたし、何も知らないままは、いやです」「そうか……。でも、その……もうすこし優しめの本もあると思うけれど」「そうなんです
「夜本を、読んだことはありますか?」 セラがそう聞くと、ジェイドが手に取った一冊の本をまじまじと見つめたまま、ぴたりと動きを止めてしまった。 ジェイドが、なんだか固い声で答える。「いや、ないよ」 ソファで隣に座っているジェイドが、ふいっとセラから視線を外す。「そうなんですね」「あ~……どうかな」「……?」 一度否定したものの、なんだか歯切れの悪いジェイドの態度に、セラは首を傾げた。するとジェイドが、困ったように眉尻を下げて吐息をつく。「……嘘ついた、ごめん。本当は、見たことある」 あまりにも素直な撤回に、セラは思わず、くすくすと、おかしくなって笑ってしまった。「なぜ嘘をつくんですか?」「だって……。まあ、いいや。一緒に見よう。……ベッドで」「ベッドで? ここで見るのではだめなんですか?」 暖炉の前のソファは暖かくて快適だ。ふたりで座り、間に本を広げても十分な大きさのソファだった。 ジェイドが、視線を少し彷徨わせながら言う。「だめじゃないけれど……」「……? わかりました」 ジェイドの態度が何を示すのか、セラには理解できなかった。 が、よくよく考えて
夜の静寂が白亜宮を包み込む頃、セラは寝間着の上に薄手の羽織りを重ね、壁に隠された扉をそっと開けた。 セラとジェイドの寝室をつなぐ、秘密の隠し通路。 足音を忍ばせながら暗い廊下を進む。 夕食の席で、寝る前に部屋を訪れる約束をしていたのだから、堂々と訪ねればいいのだけれど、なんだかいけない悪戯でもしに向かっているような感じがする。「なんだか……、楽しいかも」 セラは、ひとりで小さくそう囁いて、くすりと笑った。 ほんの少し前まで、冷たい地下室の中で、自由に出歩くことすら許されなかった自分。それが今では、自分の足でどこへでも歩いていける自由があるだけでなく、素敵な婚約者の寝室に繋がる秘密の道まで持っているのだから。 信じられないほど、幸せなことね。 通路の突き当たりにある扉を軽く叩くと、すぐに内側から引き開けられた。姿を現したジェイドが、セラを優しく部屋へと招き入れる。「こんばんは、セラ」「こんばんは、ジェイド」 部屋の中央にある暖炉には心地よく薪が燃えている、部屋全体を橙色の温かな光が満たしていた。二人は示し合わせたように、暖炉の前に置かれた大きなソファへと並んで腰を下ろした。 セラは、今日起こった出来事を、ひとつひとつ整理しながら話した。「王妃様のサロンで、気になる方がいました」 セラは自身の内側で、消えたかのようにして眠る魔力に集中した。すぐに、手のひらの上に淡い光の粒子が揺らめく。やがてその光は糸をつむぐようにして、人の姿を映し始める。王妃のサロンで見かけた男と同じ——口元に痛々しく引きつった傷痕を持つ男の姿。&n
「……恨むか?」 静まり返った庭園で、国王から投げかけられた言葉。 セラは、じっと国王の瞳を見つめた。淡褐色の瞳の内側に、不思議な色合いが、複雑にある。美しい瞳だ。 セラは一瞬だけ目を伏せ、胸の中に湧き上がる感情を確かめた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、国王の瞳を見つめ返して言った。「いいえ。恨みません。それどころか、感謝しております」「ほう?」 国王は面白そうに眉を上げた。「ジェイドとうまいこといったからか?」「いいえ、ちがいます」 セラは静かに首を振った。「わたくしは、ローゼンタール家の地下室で……、ずっと、青い空を見たいと思っておりました。ひろくひらけた、青い空を。鳥がどこまで飛んでも、果てないほどの、広い青空です……。ただ、ひと目見たいと願っていました」 セラは、黒曜宮のジェイドの執務室から、初めて見た、鮮やかな青を思い出した。雲の切れ間から、果てしなくひろがる先への輝きは、涙が出るほど美しかった。「ローゼンタール家を出されるとき、ジェイド殿下のもとに行けば、ほんの一瞬で、終わる命かもしれないと覚悟していました」 あの時の気持ちを思い出す。 暗い気持ちよりも、地下室を出られた嬉しさがあった。「ほんの一瞬でも、構わないと思っていました」 ローゼンタール家の冷たい地下室で、ただ日に日にすり減っていくだけだった日々。そこから飛び出す機会をくれたのは、紛れもなくこの企みだった。&nb
白亜宮へ戻る途中で馬車を止められたセラは、国王陛下の招きにより、その場で豪華な国王の馬車へと乗り換えることとなった。 リタとレオンは、セラが乗っていた馬車で、あとからついてくる。 国王とふたりきりで馬車に乗り、揺られることしばらく。到着した場所は、色鮮やかな大輪の花々が咲き誇る、広大で美しい王家所有の私的な庭園だった。 リタとレオンは、馬車のある場所に残り、セラは、国王とふたり連れだって歩いた。「この花は、今が見ごろだな。最近の晴れ間つづきで、ずいぶん機嫌がよさそうだ」 静かな庭園を、国王は上機嫌で歩いていく。 セラが興味津々で花を見ていると、国王はひとつひとつ丁寧に、花について教えてくれる。「これは南国から取り寄せた珍しい品種だ。昼下がりに甘い匂いをさせるんだ。こっちは朝と夜で色が変化する、不思議な花だ。それから、あそこに咲いているのは……」 セラは色とりどりの花の、面白い特徴に思わず瞳を輝かせながら言った。「まあ……、とても面白いですね。いろんな特徴があって、とっても不思議です。それに可愛いです」「可愛いよなあ。わたしが、花に詳しいのは、似合わないだろう?」 そう言って笑う国王の姿を、セラは好ましく思って言った。「いいえ、とてもお似合いです。陛下は体格が良くて男らしい姿をしていらっしゃるので、可愛い花と一緒におられると、雰囲気がやわらかくなって話しやすい感じもします」「セラちゃんは、物おじしないな」 国王は楽しそうに笑うと、庭園の奥、ガゼボに用意されていた豪華なお茶の席へとセラを促した。
口元に傷のある男が、王妃の耳元でなにごとか囁いた後、王妃は唐突にお茶会の散会を告げた。「本日のサロンはここまでにいたしましょう」 急なおひらきだったが、いつものことなのか、集まっていたご婦人やご令嬢たちは慣れた様子で王妃の言葉に従い、庭園をあとにしていった。 セラもまた、失礼のないよう、しっかりと王妃に向かって礼をつくしたのち、その場を離れ、控えの間で待機していたリタとレオンのもとへと向かった。 二人の姿を見つけた瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張がふっと緩むのを感じる。「セラ様! おかえりなさいませ!」 リタが笑顔でそう言う隣で、レオンが何か大きな焼き菓子を、あわてた様子で口に放り込んでから言う。「おふふぁれさまでした~」 リタが、レオンをふりむいて「一口で放り込んだんですか⁉ やめてください、もう!」と言いながら、手をふりあげる。 レオンが、もごもご言いながら、こわがるような仕草をした。 セラの緊張していた身体から、一気に、こわばりが抜けていくようだった。 セラは、リタとレオンと、馬車に戻る途中、悩みながらも言った。「白亜宮に戻る前に、調べたいことがあります」「調べたいこと、ですか?」 リタが首をかしげる。 セラは、リタとレオンに顔を向けて言った。「さっき王妃様を訪ねてこられた方が、どういった方なのか、知りたいんです」「なぜ、その方のことが気になるのですか?」 リタの問いに、セラは一瞬言葉を詰まらせた。







