เข้าสู่ระบบ久しぶりの女子会から数日後。
早番で出勤した私は、濃霧で始発便からディレイという、私史上初の事態に遭遇した。台風と違って、霧発生の予測は難しい。
この間のように、巡航中の便を代替空港に着陸させる必要はないものの、後発便の離陸時間も後ろにずれ込む。夏休み真っ只中で、お盆のハイシーズン目前の今、どこの航空会社もかき入れ時。
各社とも、大幅に増便対応していて、フライトスケジュールは分刻みの過密状態。 うちの会社は特に、羽田空港でのハンドリングシェアを半数近く占めているから、影響も大きい。私は勤務開始時刻を待たずに、バタバタと慌ただしく業務に追われた。
霧が晴れても、離陸時間の変更や、各便との調整、管制塔への連絡など、やることが山積み。 休憩に入れたのは、いつもよりだいぶ遅い、午前十時半だった。普段、早番の休憩では、朝食感覚の軽い食事をとっているけど、今日はもうがっつりランチの気分。
一仕事終えた後のように、空腹だった。 食堂に行く準備をする私の横で、氷室君が先に席を立った。「あ、待って!」
私は条件反射で彼を追って、エレベーターホールで追いつくことができた。
ちょっぴり息を上げた私を一瞥しただけで、彼はドア脇のランプに目を戻してしまう。「氷室君、一緒にランチしていい? えっと……私、航空無線通信士の勉強しててね。わからないところがあって、教えてくれないかなあって」
私は、反応を窺いながら誘いかけた。
氷室君は、もう一度こちらを見下ろし……。「後のは、まだのんでないはずだけど」
つれない一言を放ち、ちょうど到着したエレベーターに、さっさと入っていく。
「う」
地味に断られた……気がする。
同じ箱に乗るのは遠慮しようと、足を竦ませた私を見遣り、氷室君は「はあ」と溜め息をついた。「後払いする? なら、いいよ」
ボタンを押して、ドアを開放させながら、私に『対価の支払い』を念押ししてくる。
「っ……」
私の心臓は、意志に反して跳ね上がった。
ドキドキと騒ぎ出す胸に手を当て、一瞬目を泳がせたものの。「……わかった」
彼から視線を外してボソッと呟き、俯いてエレベーターに乗り込んだ。
私たち二人しか乗っていない箱の中、ドアの両サイドに分かれて立つ。 氷室君は、スラックスのポケットに片手を突っ込み、壁に寄りかかっていた。狭い箱によぎる、微妙な沈黙。
彼の視線を感じるから、私は無駄に操作盤を見つめ、居心地悪さに身を縮めた。 エレベーターは、ほんの数秒で、食堂フロアに到着した。私がドアのボタンを押して先を譲ると、氷室君は「サンキュ」とフロアに降り立った。後から続く私に、
「今夜でいい?」
まっすぐ前を向いたまま、随分と軽い調子で訊ねてくる。
確認されたのは、『抱かれる都合』――。「え、っと……」
私は、さらに拍動を強める胸に手を当てて、ぎこちなく目を彷徨わせた。
どんなリアクションに出るべきだろう……。 判断に困っている間に、氷室君は食堂に着いてしまった。 メニューが展示されたショーケースに、サッと視線を走らせただけで、すぐに中に入っていく。「な、なににするの?」
私はメニューが決まらないまま、先を行く彼を追いかけた。
「ざる蕎麦」
氷室君は迷うことなく、麺類のカウンターに向かう。
「え? この時間じゃ、お昼……だよね。小食じゃない?」
「朝から疲れたから、食欲ない」
そう言って、流れで後ろに並んだ私を肩越しに一瞥して、
「ランチだろ? 俺に合わせる必要、ないけど?」
訝しげに、眉をひそめる。
「あ、ええと……暑いし、さっぱりしたものがいいかなって」
取ってつけたような説明をして、私はトレーを手に取った。
「…………」
氷室君は、黙ってひょいと肩を動かし、まっすぐ厨房の方に向き直った。
カウンター前で隣に並び、料理の提供を待つ間も、沈黙がよぎる。私は、今夜の都合を問われたきり、返事ができていない。
彼が私に言わせたいのも、その答えだろう。「えっと……霧って、大変だね」
だけど私は、その話題を回避して、仕事の話を振った。
氷室君が、チラッと目を落としたのを感じる。「……そうだな」
溜め息交じりの、相槌が返ってくる。
私が話題を逸らしたのを見透かしての溜め息かは、わからない。 でも、「数日前から予測できる台風と違って、霧は読めない」
珍しく、自ら会話を続けてくれた。
私は意味もなくホッとして、何度も頷いて応える。「でも、氷室君はやっぱりすごい。全然動じないし、私への指示も冷静で……」
私が話す途中で、氷室君は厨房職員からざる蕎麦を提供されていた。
そして、さっさとカウンターから離れていってしまう。「あ、待って」
続いて同じものを受け取って、私はあたふたと彼の背を追った。
朝食にも昼食にも中途半端な時間だからか、食堂は空いている。氷室君は、周りに人がいないテーブルにトレーを置いて、椅子を引いて腰かけた。
そして、彼の向かいに立った私に、上目遣いの視線を投げてから、「座れば?」
すぐに目を伏せ、麺つゆに薬味を入れながら、促してくれる。
座ったら、『今夜』に応じたことになる? 勉強の話をしなければ、セーフ? 私は、心を揺らして躊躇して、「う……うん」
結局、腰を下ろした。氷室君は、ほんの少し私を見遣っただけで、ほとんど反応はない。
無言で箸で蕎麦を摘まみ、食欲がないわりには、ズズッと美味しそうな音を立てて啜る。向かい合って食事をしながら、休憩時間を一緒に過ごす――。
これも、『対価』として得た、貴重な時間。 なのに、今夜の新たな『対価』を意識しまい、私の食欲の方が、失せてしまったみたい。ざる蕎麦にして、よかったような。
ちょっと落ち着かない気分で、ちびちびと蕎麦を口に運ぶ。 それでいて、彼の食事のペースが速いのにも焦る。「あの、氷室君」
見切り発車なのを承知で呼びかけた。
「食事中だけど、さっきの約束。航空無線通信士の過去問で、わからないところ……」
他に話題が見つからないから、意を決してバッグから参考書を取り出した。
氷室君が、ちらっと私を見遣ってから、手を伸ばしてくれる。 彼が、「どこ?」と問いかけてきた、その時。「あら。珍しいわね。女性と一緒なんて」
私たちのテーブルの横で、誰かが足を止める気配がして、そんな声が降ってきた。
「え?」
私は、条件反射で顔を上げた。
仰ぎ見た視界に、航空管制官の制服を着た女性が飛び込んでくる。「あっ」
ドクン、と、心臓が嫌な拍動をした。
「立花さん……」
私は無意識に腰を浮かして、彼女の名を口にした。そして次の瞬間、
彼女に声をかけられた氷室君を気にして、ギクッとする。
とっさに、彼に視線を走らせた。氷室君も、話しかけられたのは自分だと、わかってるだろう。
だけど、顔を上げることなく無反応……いや、私から参考書を受け取ったまま、固まっている。「あら? 私のことをご存知?」
立花さんは、黙ったままの彼には構わず、私に問いかけてきた。
「は、はい。私……この春、日本エア航空のOCOに異動した新米で、八巻藍里と申します」
私は背筋を伸ばし、勢いよくペコッと頭を下げた。
「運航管理部で、氷室……君に、指導してもらっていて」
口を閉ざす彼を窺いながら、自己紹介をした。
立花さんは、「そうなの」と、わずかに虚を衝かれたような顔を見せる。「管制官の、立花です。穣……氷室君、は指導には向かないタイプだから、教わる方も大変でしょ」
クスクス笑って自己紹介を返してくれるけれど、私は、彼女が氷室君を、『穣』と名前で呼んで言い直したのに、耳聡く反応してしまった。
彼をよく知ってるからできる言い回しが、胸に刺さる。「ええと……」
返答に困って、言い淀んだ。
氷室君は、話題の中心にいるにもかかわらず、私の参考書を脇に置いて、食事を再開していた。 立花さんが、そんな彼に眉を曇らせ、小さく「ふう」と息を吐く。痺れを切らした様子で、足を引いて彼の方にまっすぐ向き直った。「氷室く……」
「立花さん」
硬い声で呼びかけたタイミングで、彼女と同じ制服の男性が、後方から近付いてきた。
立花さんは、ハッとしたように振り返る。「どうしたんですか? 早く戻らないと」
同僚らしき男性から促され、やや名残惜しそうに頷いた。
「そう、ね。行きましょう」
男性を先に通してから、もう一度氷室君に視線を向ける。
なにか言いたげに唇を動かしたものの、突っ立ったままの私を気にしてか、結局なにも言わずに口を結んだ。 颯爽と踵を返し、先を行く同僚の後を追って、私たちのテーブルから離れていく。「……お疲れ様です」
私は、無意識に彼女の背中に告げて、深く頭を下げた。
そして、ずっと無言だった氷室君に、目を向ける。「氷室君。あの……」
遠慮がちに呼びかけながら、椅子に腰を戻した。
ところが、氷室君は私と入れ替わりで、ガタンと音を立てて立ち上がる。「お先に」
いつの間にか、ざる蕎麦を食べ終えたようだ。
トレーを持ち上げ、私の横を通り過ぎていく。「え? 氷室君……!」
私は椅子の背もたれに腕をのせ、大きく身を捩った。
視線も声も届いていると思うのに、氷室君は一度も振り返らずに、下膳台の方に歩いていった。 まるで、自分の身代わりみたいに、前の席に私の参考書を置き去りにして。休憩から戻った後、氷室君は相変わらず無表情で、淡々と仕事をこなしていた。
だけど、午後一時十五分発の、岡山行き101便のフライトプランを確認した『鬼機長』久遠さんから、オンラインブリーフィングで、搭載燃料量の修正の相談があり――。『飛行ルート付近で、積乱雲が発生する予報が出ている。着陸許可を待って、低空飛行や待機旋回が長引き、燃料消費量が増える可能性がある』
実際にコックピットで操縦桿を握るパイロットの、『現場』の意見は貴重なもの。
こうして機長からの意見で、フライトプランに修正が入ることも多々ある。 ところが。『本日の101便、満席の上、貨物もペイロードギリギリに積んでます。燃料を増やしたら、最大離陸重量二百十九トンをオーバーしてしまう。燃料タンクを満タンにはできません。羽田―広島間の飛行距離は七百九十キロ。787の一リットル当たりの燃費は0.084キロですので、単純計算で九千五百リットルあれば飛行できる。今日は予備燃料含めて、百十キロリットル搭載してますから十分です』
氷室君は、涼しい顔して理詰めで攻め、
『機体重量が重くなればなるほど、巡航中、揺れの予測に伴う高度変更の幅が狭まる。安全なフライトという意味でも、このプランがマストです。もちろん、飛行ルートも、より燃費のいい高度についても、地上から随時サポートします。久遠キャプテンの飛行技術があれば、なんの懸念もないですよ』……と、秒速で論破した。
ペイロードというのは、旅客、貨物の総重量のこと。
101便はこの重量がMAXの状態だから、貨物を減らさないと、燃料を増やせない。 ブリーフィングに一緒に参加していた私は、無言で能面になっていく久遠さんにハラハラして、氷室君に『少し貨物を減らしてみては?』と進言したけれど。『航空会社にとって金になる、有償重量減らすほどの意見か。着陸順が優先された場合、旋回の必要もなく、最大着陸重量まで燃料消費しきれなくなる。燃料投棄なんて無駄なことさせるつもりか』
ジロリと鋭い睨みをお見舞いされて、ぐうの音も出なかった。
見た目だけなら、休憩前後で変わった様子はない。 でも、氷室君がドSの方向に振り切り、むしろ生き生きして見えるのは、実は相当荒れている時。あんなに彼の感情を乱したのは、十中八九、食堂で立花さんに声をかけられたせい。
その場に一緒にいた私は、それがわかってしまうから――。「んっ……まっ、待って、氷室君っ」
その日の業務を終えて、空港に隣接するホテルの部屋に入った途端、私をドアに押さえつけ、強引なキスを繰り返す彼に、必死に声を挟んだ。
言っても聞いてくれないから、首を捩じってキスから逃れようとする。 なのに、片手でがっちりと顎を掴まれ、無理矢理正面を向かされ……。「あ、ふっ……氷室、く」
激しく舌を絡ませ、執拗に音を立てるキスに、呼吸もままならない。
酸素不足で頭の中がボーッとして、脳神経が麻痺しそうになる。
縺れ合ったまま室内に移動して、ベッドに組み敷かれ、「あ……っ!」
服の上から胸を鷲し掴みにされ、私は悲鳴じみた声をあげた。
いやがおうでも、背が撓ってしまう。氷室君は構うことなく、私のシャツのボタンを、もどかしそうな手つきで外した。
いつも、『優しく脱がしてやったりしない』と、甘さを見せない人が、私のキャミソールとブラジャーを一気に喉元までずり上げる。「氷室君っ」
力任せに暴いた胸に顔を埋め、まるで屠るみたいに強引な愛撫を始める。
「っ、あ、んっ!!」
いきなり弱いところを狙い澄まされ、私はビクンと痙攣した。
全身に力がこもり、足の爪先がエビ反りになる。彼の大きな手と長い指、薄い唇と熱い舌で嬲られたら、私はそれだけで蕩けきってしまう。
だけど、最初からピンポイントで仕掛ける性急さが、彼らしくない。業務中だけじゃない。
今もなお、彼から自我を奪い、急き立てるもの。 それは、私への情欲ではなく、彼の頭の中をいっぱいにしている、立花さんだとわかるから……。「待って、氷室く……」
私は彼の肩を両手で掴み、必死に自分から剥がそうとした。
私の抵抗が邪魔なのか、彼の愛撫が執着めいていく。「ひゃんっ!!」
堪らず甲高い声で鳴いて、腰を跳ね上げた。
「嫌……やめて、氷室君!!」
ほとんど絶叫する勢いで張った声に、氷室君がピクッと反応する。
愛撫がやみ、私は急いで彼の下から抜け出した。 片腕ではだけた胸を隠し、お尻をズリズリとずらして頭の方に逃げる私に、「なにが嫌? 約束の対価だろ」
氷室君は濡れた唇を手の甲で拭って、不機嫌に顔を歪める。
私は、生理的な涙を目尻に滲ませ、勢いよく首を横に振ってみせた。「け、結局、勉強、教えてもらえなかった」
「じゃあ、今度埋め合わせしてやる。どうせあんた、次も追いかけてくるんだろうし」
ふん、と鼻を鳴らし、今度は私をベッドヘッドに追い詰めて、覆い被さろうとする。
私は反射的に、彼の胸に片腕を突っ張って止めた。「……八巻さん」
苛立ちも露わな声に、怯みそうになるけれど……。
「私を、立花さんの代わりにしないで!」
「え?」
勇気を絞って叫んだ私の上で、氷室君がゴクッと喉仏を上下させた。
「感情抑えられなくなるくらい……立花さんのこと考えてるの、わかってるよ」
続けてそう告げた私に、きゅっと眉根を寄せる。
眉間に刻まれた皺に、警戒が滲む。「……なに言ってんの? あんた」
怪訝そうに、探るように問う彼の前で、私は乱れた呼吸を整えようと、肩を動かした。
「私、知ってる。氷室君……三年前、管制官の立花さんと付き合ってたんでしょ」
私を見下ろす彼が、大きく目を瞠った。
懇親会の時とは違い、私がはっきり断言したから、動揺してるのがわかる。 彼の反応を確認して、まるで抉られたみたいに胸が痛む。 顔を強張らせる彼を、正視できない。私は彼から目を逸らし、ササッと胸元の服を直した。
そして。「ごめんなさい。その……CAの同期から、噂になってたって聞いて」
俯いて謝る私の頭上で、氷室君はハッと浅い息を吐いた。
上から降ってくる彼の影が薄くなり、ベッドがギシッと軋む音がする。彼が離れていくのを感じて、私はそっと顔を上げた。
氷室君は私に背を向け、ベッドの真ん中で胡坐を掻いている。 やや顔を伏せ、無言で前髪を掻き上げる背中を見つめて、私はゴクッと唾を飲んだ。「立花さんが結婚したのは、二年前。氷室君との関係が終わって、わりとすぐ、だよね。……もしかして氷室君、今でも……」
懇親会の時、『あんたに関係ない』とばっさり斬られたことを思い出し、言い回しを考え、たどたどしく続けると、
「もういい。帰って」
そんな言葉で、遮られた。
「え?」
「帰れ」
怯みながら聞き返した私に、氷室君は素っ気なく繰り返す。
ここから先は、立入禁止――。 身体を重ねようとしてる今も、私は彼の心への侵入を拒まれる。「嫌なんだろ? それじゃ、一緒にいる意味がない」
氷室君はこちらを見てくれず、私との間の溝をさらに深く深くする。
「氷室君……」
私は打ちひしがれて、悲しくやるせない気持ちで、掠れた声で呼びかけた。
この距離なら聞こえていると思うのに、彼はやっぱり私に背を向けたまま。 反応すら、返してくれない。私は、彼に対して、どうしようもなく無力だ。
それを嫌というほど思い知って、面を伏せ、唇を噛む。彼のそばにいたいのに。
今、なにを思っているか聞きたいのに。 踏み込めない自分が、堪らなく嫌になり――。「っ……」
私は彼から目を逸らし、ベッドから飛び降りた。
ベッドに移動する間に落としたバッグを拾い上げ、バタバタと騒々しくドア口に走る。 ドアレバーに手をかけたところで、一度、後ろ髪を引かれる思いで振り返る。ベッドの真ん中で、片膝を立てて抱え込み、額を預ける彼にきゅんと胸を疼かせ――。
そんな想いを断ち切るように、勢いよく顔を背けた。 ドアを開け、部屋から転がり出る。 そのまま、立ち止まることなく逃げ出した。空港地下の駅から電車に乗り、いつもの帰路についた。
ドア脇の狭いスペースに背を預け、窓から暗いトンネルをぼんやり眺める。「……はあ」
私は、声に出して溜め息をついた。
モゾッと身体を動かし、ドアに摺り寄るようにして、手すりを握って目を閉じる。言うタイミングを誤ったことは、痛感している。
だけど、氷室君と立花さんの関係を、この間瞳から聞いていたから、切なかった。 我を失うほど荒れて私を抱こうとする彼が、誰を見てるかわかっていたから、悔しかった――。私は、どうすればよかったんだろう。
疑問を挟む余地もなく、氷室君は彼女のことでなにか苦しんでる。 それで自暴自棄になっていても、求められたのは確かだから、私は黙って受け止めるべきだったんだろうか。 私もいい大人なんだから、立花さんの代わりにしないで、なんて言わずに、広い心で氷室君を……。自分の思考に反論して悲鳴をあげるように、胸がズキッと痛む。
私は胸元に手を当て、ゆっくり目を開けた。 視界に映るのは、やっぱり変わらない、暗い闇。 だけど、一瞬前より明らかに、視界が開けた気がした。――大丈夫。間違ってたわけじゃない。
彼自身が目を背けて認めようとしない、心を乱す原因を、今、客観的にまっすぐぶつけることができるのは私だけ。
私が言わずに、誰が言ってあげられるの。なのに私は、氷室君に拒まれて、勝手に傷ついて逃げてきた。
彼の心を土足で踏みにじって暴いておいて、一人で残してきてしまった。なんで私は、今一人でいるんだろう。
無力でもなんでも、私が言葉で傷つけてしまった彼を、一人にしてはいけなかったのに――。「っ……」
弾かれたように背を起こすと同時に、次の駅に着いた。
ドアが開き、何人か乗客が入ってくる。 背を引いて、それを横目で見遣って……。 私は、思い切って電車から降りた。ホームに立って一歩踏み出すと、勢いがついて小走りになる。
エスカレーターをほとんど駆け足で上り、私は空港に戻るホームに向かった。堪らなく嫌で情けないのは、彼に踏み込めない自分じゃない。
中途半端に立ち入って、逃げ出した私だ。もう、こうなったら、どこまで拒まれても同じ。
それなら、今みたいに後悔して、後でクヨクヨ考えないよう、今、踏み込むだけ踏み込んでしまおう――! 氷室君が、まだあの部屋にいることを願って、私はホテルに引き返した。私は、ほんの三十分前に飛び出してきた部屋の前に立った。
「よかった。氷室君、まだいてくれて」
ドアを開けてくれた氷室君が、驚いた顔で見下ろしてくる。
「……なんで」
「お邪魔します」
戸惑った様子で、眼鏡の向こうで瞳を動かす彼の横を摺り抜け、私は再び室内に戻った。
「八巻さん」
ドアを施錠した氷室君が、私の背中に呼びかけてくる。
返事をせず、ベッドサイドにストンと腰を下ろした私の目の前まで来て、両足を揃えて止めた。「ヤる気になった?」
ベルトに右手の親指を引っかけ、小首を傾げる。
小気味よい仕草は、彼がやるとどこかアンニュイな印象だ。 でも、私の行動の裏が読めず、探ろうとしているのがわかりやすい。 私は、軽く喉を仰け反らせて――。「いいよ」
氷室君を視界の真ん中に据え、彼に倣って短く答えた。
意表をつけたのか、彼がわずかに目を瞠った。 言い出したわりに怯んだ様子で、私からサッと目を逸らす。 だけど、虚勢を張るかのように、ハッと浅い息を吐き、「じゃ、続き、しよう」
テンプルを指で摘まんで眼鏡を外し、畳まずそのままサイドテーブルに乗せた。
ベッドに片膝を乗り上げ、ベルトから離した右手で私の肩を押して沈める。顎を傾け、キスをしようとしてくる彼から、私はふいと顔を背けた。
氷室君は、鼻先を掠める距離でピタリと止まる。「その前に、交換条件」
「……なに」
『水を差された』といった不満げな顔で、訊ねてくる。
先を促しながらも、なにを言われるか警戒しているのが、細めた目からも感じ取れる。「氷室君……今でも、立花さんのこと好きなの?」
オブラートに包むとか、遠回しなんて気遣いはせず、遠慮のない質問をぶつけた。
彼の眉尻が、ピクッと上がった。 その喉元で、喉仏がこくりと上下する。「忘れられない人……とか」
私は、言い回しを変えて畳みかけた。
氷室君は答えるどころか、きゅっと唇を結んでしまう。 キスまであと数センチの距離で、身体を凍りつかせたまま動かない。 逡巡するような間の後、顎を引いた。「俺が彼女と付き合ってたってのは、あんたの中では決定なわけ?」
皮肉めいた、刺々しい口調。
私は彼に焦点を合わせ、無言で一度頷いた。氷室君は不愉快そうに、「ちっ」と舌打ちをする。
勢いよく身体を起こし、ベッドを軋ませて床に降りた。 脱力したみたいに、ベッドサイドにドスッと腰を下ろす。私は彼の背を見つめながら、ゆっくり身体を起こした。
その場に、ペタンと座り込む。「そもそも、あんたとこんなことになったのは、あの日、見られたからだった」
氷室君は、溜め息交じりに、抑揚もなく呟き――。
「……そうだよ。俺は、立花さんと付き合ってた」
相変わらず息継ぎの必要のない、短い言葉で肯定した。
私の胸が、ズキッと痛んだ。 強い決意で踏み込んでおきながら、どう反応していいかわからない。「……そっか」
目を彷徨わせ、ぎこちなく相槌を打った。
氷室君は、膝に置いた自分の手を、睨むように見つめている。私たちの間に、気まずい沈黙が流れた。
それを払い除けるかのように、彼が静かにかぶりを振った。「でも、もう好きじゃない。……好きなわけがない。あんな勝手な女」
「勝手……?」
詰るような言い回しが引っかかって、私は自分の口で反芻した。
彼の説明を待って、息をひそめる。「勝手じゃなかったら、他になんて言えばいい」
氷室君が、自嘲気味に顔を歪めた。
「……あんた、なにをどこまで知ってる?」
問いかけられて、私は一瞬返事に詰まった。
「え、っと」
無駄に瞬きをして、最後は俯く。
「あくまでも、人から聞いた噂だけど……立花さんは氷室君と付き合ってたはずなのに、今の旦那さんと電撃結婚した、って……」
口にしていいものか迷いながら答える私に、氷室君は何度か無言で首を縦に振った。
「だいたい、合ってる。上司の紹介で見合いした男と結婚するから、別れてくれって。付き合って一年経った頃、俺は一方的に振られた」
私は彼の話を聞こうと、無意識に身を乗り出していた。
距離が狭まる気配を感じているのか、氷室君はわずかに口角を上げて、天井を仰いだ。「俺がまだディスパッチャーの卵だった頃、あの人は航空管制官としてキャリアを積んでた。バリバリに仕事できるし……とにかくカッコよくて。俺は、あの人に憧れてた」
想いを馳せるように、目蓋に力を込めて目を閉じる。
「あの人は、結婚と恋愛の相手は別だって言って、俺を切り捨てた。『穣は、恋人として楽しませてくれるけど、この先一緒にいても、私の地位もキャリアも保障してくれないわよね』って。そうして、あの人が選んだ結婚相手は、国交省の官僚だ」
まるで他人事のように、淡々と語る……彼の心には、さざ波すら立っていない。
だけど――。「……やっと吹っ切ったんだよ。好きになるのと同じだけ時間かけて、やっと……」
言っているうちに、彼は徐々に俯いていく。
声帯が圧迫されて、その声は力を失い小さくなって消え入った。 普段の彼からは信じられないくらい、弱々しい声――。なのに、抑揚を殺した口調だから、かえって、彼が恋に破れて心に負った傷が、痛々しいほど浮き彫りにされる。
唇に腕を当てたせいで、吐き捨てるような言葉がくぐもって聞こえる。
胸が詰まり、私は言葉を失った。「なのに、さ」
氷室君が、ポツリと続けた。
「あの人……半年くらい前から、縁りを戻そうって言い出して」
「……っ、え?」
聞き返した声が喉につかえたのは、瞬時に理解できなかったからだ。
氷室君は、片足をベッドにのせて抱え込み、肩越しに私を振り返った。「なあ。八巻さんも、さ。俺って、そんなにいい?」
皮肉げに口角を上げて問われた意図がわからず、戸惑って瞬きで返す。
特段、真面目な回答を求めていたわけじゃないようだ。 彼は私の返事を待たず、顔を正面に戻した。 抱えた膝に顎をのせ、小さく背を丸めて、「旦那じゃ満足できないから、俺がいいんだって。……男としちゃ、光栄だな」
なにかを蔑むようでいて、自虐的にふっと鼻で笑う。
「っ、氷室君」
なにを言おうとしたかは、わからない。
だけど、氷室君が立花さんのことを本当に好きだったのがわかるから、彼女の言葉に惑わされているなら止めなきゃ、という思いで気が逸った。「ダメ、そんなのダメ」
ベッドに突いた彼の腕を、両手でギュッと握りしめた。
力がこもり過ぎて、血の気を失った手が、カタカタと震える。 氷室君は、顎を引いてそこに目を落とし――。「言われなくたって、わかってる。だから、ちゃんと突っ撥ねた。……それはこの間、あんたも見ただろ」
溜め息交じりの声を聞いて、私はそっと彼の横顔を見上げた。
「ただ……わからない。わからないんだよ、俺には。自分の将来設計には必要ないって切り捨てておいて、今さら……あの人がなに考えてんのか」
自分の言葉に同調するように、彼の瞳が揺れる。
「わからなすぎて、この半年、気付くとあの人のことを考えてる。……本当に、もう好きじゃないんだ。縁りを戻す気も、サラサラない。だけど、夢中になるほど好きだった頃と同じくらい、あの人のこと……」
氷室君の心と身体、思考は、全部相反する方向に向かっている。
心では立花さんを拒絶してるのに、頭の中は彼女でいっぱい。 統制が取れない自分に、誰よりも彼自身が混乱してる。ほんの数時間前、多くのディスパッチャーに恐れられる『鬼機長』を理詰めで説き伏せた、強気で冷静な氷室君とは別人のように……今、彼は、立花さんに幻惑して、激しく心を揺さぶられている。
『私を、彼女の代わりにしないで!』――。
なんで、あんなこと言えたんだろう。
私は、なにもわかってなかった。 代わりになんかされてない。 だって、最初から、氷室君の目に私は映ってなかったんだから。私は、代わりにすら、なってなかった――。
無力なだけじゃない。 彼にとって無意味な存在でしかない自分が悲しくて、苦しくて、やるせなくて……。「!? 八巻……」
私は、氷室君が怯むのも構わず、力任せにこちらを向かせた。
視界の真ん中に、大きく目を見開いた彼を焼きつけて、目蓋を閉じる。「っ」
唇がぶつかった途端、氷室君が一瞬息を止めた気配が伝わってきた。
それでもお構いなしに、薄い唇を舌でこじ開けた。「んっ、やま……」
珍しく、氷室君がキスの途中で声を漏らす。
滅多に聞くことのない色っぽい声に、背筋にゾクゾクとした戦慄を感じながら、私は追及の手を緩めず、グイグイと追い詰めていき……。「氷室君、私を見て」
唇を離して、声を絞り出した。
「立花さんで頭も心もいっぱいにしないで、私を」
凶暴なくらい、一気に胸に込み上げてきたなにかで、声が詰まる。
泣きそうに顔を歪める私を、氷室君がベッドに仰向けになって見上げている。 その喉元で、男らしい喉仏が上下した。 私は鼻の奥の方がツンとするのを堪え、彼の胸に突いた両手をぎゅっと握って震わせた。「氷室君。私、氷室君のこと、好……」
胸いっぱいにせり上がった色々な感情に突き動かされ、迸らせる途中で――。
「言うな。聞きたくない」
氷室君が、大きな手で私の口を塞いでいた。
低い声で阻まれ、言葉にできなかった想いを、ゴクッとのみ下す。 瞬きも忘れて、ただバカみたいに彼の顔を見つめた。氷室君は片手で私の両手を纏めて掴み、自分の胸から離させると、ゆっくり上体を起こした。
そして、脱力してペタンと正座した私を上目遣いで見据え……。「本気になると、心も身体も振り回される。自分のこともわからなくなるほど、溺れてもがく……。俺、もうそういうの嫌なんだ」
まるで、言い含めるようにゆっくり言って、手を放す。
私は、力なく腕を落とした。 目を見開いたまま呆然とする私から、氷室君は目を逸らす。「今まで、ごめん。明日からは、指導担当替えてもらえるよう、俺からリーダーに掛け合っておく」
淡々と言って、ベッドから降りた。
サイドテーブルから取り上げた眼鏡を、スッと片手でかける。 軽く背を屈めて、リュックと上着を床から拾い上げた。 ベッドの上の私を一度も振り返らず、スタスタとドア口に向かっていき――。「……あんたは、俺みたいになるな」
最後に一言だけ残し、私を置き去りにして部屋から出ていった。
OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、
JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が
お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」
――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ
休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信
泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで







