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地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる
地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる
ผู้แต่ง: 水守恵蓮

それ以上は、立ち入り禁止

ผู้เขียน: 水守恵蓮
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2026-02-02 09:27:19

氷室ひむろじょう、三十一歳。

日本最大手の航空会社、日本エア航空のオペレーションコントロールオフィス……通称OCOに所属する、入社九年目のディスパッチャー――運航管理者。

彼は一応、この春入社以来の念願が叶って、営業部からOCOの運航管理部に異動してきた私、八巻やまき藍里あいりの『指導担当者』だ。

年次で言ったら同期だけど、私の手が届かないほど、遠く遠く高い高い、雲の上の人。

同じ職場になる前から、陰ながら目標にしていた人だった。

モデル並みの小顔に、百八十センチ越えのスマートな長身で、美しくバランスの取れた理想的な八頭身。

スッと通った鼻筋、信じられないくらい整った端整な顔立ちのイケメン。

知的でクールな印象を強める、スクエア型のシルバーメタルフレームの眼鏡が、トレードマークだ。

レンズの向こうの涼やかな切れ長の目、リムで隠れる位置にある小さな泣き黒子が、ちょっぴり意外でチャーミング。

普段、あまり表情を動かさないことにも、常に冷静で鋭い観察力と洞察力が求められるディスパッチャーに相応しい資質が表れている。

運航管理者の国家資格を得て、それより厳しい社内試験を経てディスパッチャーになって五年。

様々なデータから、気象条件や状況に沿った飛行ルートを分析して、彼が作り上げるフライトプランは、どれも緻密で完璧。

ディスパッチャーとしての経歴はまだまだ浅い方だけど、自分の仕事に自信を持っているから、どんなベテラン機長相手でも、臆さず意見を闘わせる。

フライトプランへの修正もほぼないため、彼の仕事は常にスムーズで、現在我が日本エア航空OCOでもっとも多忙なエースディスパッチャー……。

完璧すぎて、OCO内では孤高の狼。

そんな彼から直々に指導を受けられるのは、身に余るほど光栄なこと。

業務上は偉大な先輩だけど、私は一応同期だし。

打ち解けて、仲良く仕事したい。

目指すは絶対的バディ!! ……なんて。

私は異動が決まってからずっと、ワクワクとドキドキで期待に胸を弾ませていた。

ところが……彼の方からは、全然歓迎されていなかった。

喋るのが面倒臭いのか、一言一言、ノンブレスでとにかく短い。

余計なことはもちろん、大事なことすら話したがらない。

むしろ、私に対して『話しかけるな』オーラを発する、根っからの塩対応――。

私は彼の隣のデスクで、運航支援者として補佐しつつ、運航管理者資格取得を目指して指導を仰ぐ身だけど、業務中はもちろん、業務時間外も、雑談の一つも交わしたことがない。

いつも彼の視界は、デスクに置かれた五つのモニターに占領されていて、私はその端っこを掠めることもできない。

常に冷静沈着、ブリーフィングの時以外は寡黙で、私には清々しいほど無関心。こんなギスギスの『師弟』関係も、早三ヵ月。

彼との距離が縮まらないことにも、諦めモードだった。

なのに、今。

オフィスのある羽田空港から、一番近い繁華街の駅ビルにある居酒屋で――。

私は、彼に、壁際に追い詰められている。

背にした壁の向こうの広いお座敷では、管制塔の航空管制官との定例懇親会真っただ中。

同僚や上司、仕事仲間たちが、仕事から離れて賑やかに歓談する声が、襖戸の隙間から漏れ聞こえる。

壁一枚隔てたところに、たくさんの仲間が集っているのに、彼は私の頭の上に腕を突き、頭一つ分高い位置から、睨めつけるように見下ろしてくる。

さらりと額に下りた、少し長めの焦げ茶色の前髪の向こうから、深く澄んだ黒い瞳で、メタルフレームの眼鏡のレンズ越しに私を射貫き……。

「それ以上は、立入禁止」

いつもは端を掠めさせてもくれない視界のど真ん中に私を据えて、不機嫌そうに眉根をくっと寄せた。

息継ぎの必要もない、ぶつ切りの言葉。

指導担当と『教え子』のわりに、親しく会話したこともない。

聞き慣れたなんて到底言えないのに、抑揚のない低い声は、私の耳に怖いほど馴染む。

「ここから先に踏み込もうって言うなら、身体、差し出してもらうよ」

顎を反らして彼を見上げる私の目の前で、男らしい薄い唇がそういう形に動いた。

「……っ、なっ……!」

なにを言われたのか瞬時に理解できなくて、私の反応はたっぷり一拍分の間が空いた。

頭より先に心臓が反応して、ドッドッと拍動を強める。

わざわざ腰を折って背を屈めた彼の前髪が、私のちょっと茶色い前髪を掠めて揺らすまで、彼との距離の目測を誤っていて。

「っ……」

唇に温もりが落ちてきて初めて、二人の間に間隔がなくなっていたことに気付いた。

ギョッとして息を止め、眦が避けそうなほど目を見開いた。

近すぎて焦点が合わない、彼の顔を凝視する。

レンズの向こうで伏せられた睫毛は、男の人にしては長い。

目元の小さな泣き黒子を、久しぶりに見た。

ちょっと乾いた唇は、意外に柔らかくて温かい。

下唇を食み、舌先で舐めながら、時折小さく啄む。

普段の塩対応からは想像もできないくらい、優しいキスをする人だというのを、初めて知った――。

……って。

違う!!

『初めて知った』じゃない。

そもそも、ただの同僚の私が、そんなこと知る必要もないんだから、『初めて』もなにもない。

「ちょっ……なにをして……!!」

私は限界ギリギリまで首を捩じって彼の唇から逃げ、無我夢中でその胸を両手で突き放した。

渾身の力を出したつもりだったのに、彼は私から離れただけで、よろけもしない。

ただ、無言で、自分の唇を腕で拭い……。

「なにって。脅し?」

素っ気なく尻上がりに言って、私をジロッと睨んだ。

半端じゃない目力に思わず竦んだ私に構わず、堂々と胸を張って背筋を伸ばす。

「これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく。本気で言ってるってことを、行動で示した。これに懲りたら、俺のプライベートに踏み込もうなんて、バカな真似やめるんだね」

ピクリとも表情を動かさず、唇から離した腕を払うようにして、私にくるっと背を向けた。

そのまま、何事もなかったようにスタスタと歩き、すぐ横の襖を引いて室内に入っていった。

一瞬、同僚たちの賑やかな声が大きくなったけど、ピシャンと音を立てて閉じた襖に阻まれ、すぐに小さくなる。

一人その場に残された私は呆然として、壁に背を預けたまま、低い天井を仰いだ。

「……はっ……」

短く浅い息が漏れて、キスの途中からずっと、呼吸もままならなかったことに気付く。

肺に酸素が行き届くのと同時に、ひと際大きく心臓が沸いた。

途端に、膝からガクッと力が抜けて、私の背中はズルズルと壁からずり落ち……。

「~~っ……!!」

その場に、ペタンとしゃがみ込む。

口を両手で覆って、叫び出しそうな声が漏れるのを必死に殺した。

とにかく、一度冷静になろう――。

懇親会の席に戻る前に、猛烈にヒートアップした頭を冷やし、統制を失ってまるで無法状態の、速い拍動を続ける心臓を落ち着かせなければ。

居酒屋から出て、駅ビル内店舗共有の広い化粧室に移動した私は、洗面台に両手を突いて、がっくりとこうべを垂れた。

大きく肩を動かして息をして、動悸を鎮めようと努める。

気分が悪いと思われたのか、後ろを通り過ぎた女性何人かから、『大丈夫ですか?』と声をかけられてしまった。

『大丈夫です』と、無理矢理笑顔を作ることを何度か繰り返すうちに、なんとか心拍数も落ち着いてくれて……。

「……はああっ」

最後に一度、お腹の底から深い息を吐き出し、ムクッと顔を上げた。

鏡に映る自分と、まっすぐ目を合わせる。

丸襟の白いシャツに、グレージュの膝丈タイトスカート。

仕事柄、抜け感を出さないように、服装はいつも、やや堅め地味めのオフィスカジュアルに徹している。

栗色にカラーリングした髪は、すっきりと菱形スタイルのミディアムボブで、針のような毛先が、首筋に添って喉元まで届いている。

人より少し大きい丸い目が、若干潤んで見える。

ぽってりした下目蓋の下、頬骨のあたりが、ほんのり赤く染まっている。

あまり自覚してなかったけど、私はそれなりに酔ってるんだろうか。

だから、あんな……絶対鬱陶しがられるとわかってて、彼……氷室さんに立ち入ろうと、突っかかったりして――。

「塩対応に、輪がかかる……」

自己嫌悪から、無意識に溜め息が漏れる。

どうしよう、明日から。

いや、それより、今日この後。

まずは謝るのが第一だけど、冷静に顔を見られる気がしない。

かと言って、いつまでもここに隠れて戻らずにいたら、同僚たちに心配されてしまう。

私はほとんど惰性でバッグを漁り、中から化粧ポーチを取り出した。

普段から、すっぴんに毛が生えた程度のナチュラルメイクしかしないから、仕事上がりの飲み会途中でも、それほど崩れてはいない。

それなのにメイク直しをしようと思ったのは、少しでも身だしなみを調えることで、お座敷に戻るのに及び腰の自分の背中を押そうとしたため。

鏡の中の、どんよりと浮かない顔をした自分を眺めながら、パウダーファンデーションを軽く頬に叩く。

――美人には程遠く、顔立ちはせいぜい十人並み。

整っていないわけじゃないけど、華やかな造りではないのは自覚している。

今年で三十一歳になるのに、未だに学生に間違われることもある幼顔で、年齢相応の大人っぽさとは縁遠い。

形は悪くないけど低さが悩みの鼻を目にして、さっき間近で見た、氷室さんの作り物みたいに整った鼻を思い出してしまった。

ほんと……至近距離で見ると、嘘みたいに綺麗な顔だった。

私がずっと目標にしてきた、ディスパッチャーに相応しい天性の資質だけじゃなく、ルックスまでも恵まれた彼は、神様から贔屓されて生まれてきたみたい。

妬ましいぐらい羨ましいけど、入社と同時にOCOに配属された彼は、経験も能力もなにもかも、私より遥か先を行く人。

羨望というレベルを通り越して、もう崇拝の域に達する――。

航空業界に詳しい人じゃないと、ディスパッチャーという職業は耳慣れないかもしれない。

日本語では、運航管理者という。

ディスパッチャーのメイン業務は、飛行機のフライトプランの作成だ。

気象条件や発着地の情報を収集し、機体の整備状態や、乗客、搭載貨物の重量などのデータを元に、飛行高度、経路を決定して、必要な燃料を算出したフライトプランを、一便ごとに作り上げる。

飛行機が離陸した後も、常に最新の空の状況を把握しておく必要がある。

気流の変化や突然の揺れを予測して、カンパニーラジオという無線で機長に伝えるなど、飛行機が目的地に到着するまで、地上から飛行を監視、サポートを続けている。

コックピットで操縦桿を握るパイロットが、安全にフライトできるよう援護するディスパッチャーは、『地上のパイロット』とも呼ばれる。

どんなに憧れても、どんなになりたくても、誰でもなれる、こなせる仕事ではない。長年希望を出し続け、九年目にしてようやく運航管理部への異動が叶った私と違って、新人で大抜擢された氷室さん。

そんなすごい人――憧れないわけがない。

異動して三ヵ月、目標としている人の仕事ぶりをいつもそばで見ていれば、自然と士気が高まる。

早く成長して、彼のようなパーフェクトなディスパッチャーになりたい――。

純粋に、仕事で目標とする彼に近付きたい気持ちが強まりすぎた。

最近の私は、同期だからもっと話したい、彼のことを知りたい……と、仕事からやや逸脱した願望を抱いている自覚はあった。

だから……。

さっき、化粧室に行こうと席を立ち、お座敷から出たところで、まるで物陰に隠れるように、氷室さんが航空管制官の女性と話をしているのを見て、ドキッとすると同時に、変な胸騒ぎがした。

女の第六感ってやつかもしれない。

二人から漂う空気はどこか親密で意味深、ちょっと険悪なようでもあって、普段はほとんど表情を動かさない彼が、わずかながら感情を乱し、時々声を荒らげるのまで聞こえた。

話の内容までは聞き取れなかったけど、明らかに、業務上のみの関わりという雰囲気ではない。

どういう関係か気になったのは、私にとっては当然の興味だった。

女性がお座敷に戻っていくのを見送った後、その場に一人佇んでいた彼に声をかけたのは、好奇心が煽られたせい。

女性と話していた時は、遠目にも感情の起伏が読み取れたのに、私の前では、波一つ立たない凪いだ水面のように鎮めてしまう。

そんな彼が寂しくて、何故か切なくて、そして、仕事から離れた宴席の場でも、彼を無表情にさせてしまう自分が、力不足で情けなくて……。

『もしかして、付き合ってる……とか?』

頷かれたら、どうしよう。

躊躇いながら口にした質問に、ズキズキと胸が痛んだ。

徹底して無視の構えに出ていた彼の眉が、わずかにピクッと動いた。

だけど。

『あんたに関係ないだろ』

ふいと顔を背けるだけで、答えてはくれない。

彼の素っ気ない態度に傷ついて、私は……。

――まったく関心を向けてくれないなら、彼の神経を逆撫でしてでも、私の方を向かせたい。

私を、よくわからない、どこか狂暴な衝動に駆り立てたのは、やっぱりお酒の力だったのかもしれない。

『関係ないって。一応、同期なのになあ……』

自虐的な笑顔を作って、ほんのちょっとボヤいてみせた。

『職場恋愛だし、私、秘密守りますよ? あ、もしかして、喧嘩したとか。だったら、仲直りにも協力……』

『うるさい。黙ってろ』

自分でも、言いすぎ、踏み込みすぎだとわかっていて、歯止めが効かずにいた。

そこを、彼の抑揚のない低い声で制止され、ビクンと身が竦んだ。

氷室さんは、くるっと身体の向きを変えて、私に向き合った。

そして、びっくりして瞬きも忘れる私の頭上の壁に、ビュッと音がするほど勢いよく、腕を打ちつけ……。

『それ以上は、立入禁止』

凍えるような拒絶の言葉は、鼓膜に直接刻み込まれ、頭の中に激しく反響する。

ショックと自己嫌悪で胸がズキズキと痛むのを感じながら、私は無意識に自分の下唇を指でなぞっていた。

――私との間の溝を、さらに深く抉るために仕掛けられたのは、その目的と意図を違えているとしか思えない、優しいキス。

心では突き放されたのに、別の意味で急接近したせいで、自ら溝を飛び越えて、近付きたいというジレンマに揺れる。

『これ以上踏み込みたいなら、あんたの身体を対価としていただく』

彼が私に突きつけた脅しは、本気だろうが冗談だろうが、普通に考えたらとんでもないものだけど。

それはつまり、交換条件。

氷室さんも、私がこれ以上近付かないと思ってるだろうし、そこを狙ったのだろう。

でも、私が対価を払えば――。

やっぱり、これもお酒の勢い?

私の思考は、彼の意地悪を逆手に取るという、狂暴な方向へと堕ちていき――。

「……なにやってんの。あんた、正気?」

ものすごく不機嫌に顔を歪めた氷室さんが、顎を引いて私を見下ろしてくる。

私は、先ほど氷室さんにされたように、彼を追い詰めて壁ドンの体勢にある。

……と言っても、百八十センチ越えの彼相手じゃ、女性としては決して低くない、身長百六十センチの私でも、実際には全然追い詰めることができていない。

私は、彼の両側の壁に、腕を突っ張るのが精いっぱい。

ともすれば、抱きついているような格好なのは重々承知で、ごくんと喉を鳴らした。

「お酒の力で、思考のメーターが、あらぬ方向に振り切ってる自覚はあります……」

「分析済みなら、やめとけば?」

氷室さんは、落ち着き払っている。

彼を正視できず、無駄に目を泳がせる私に、シレッと冷静に挟む。

――懇親会の一次会が終わり、みんなが連れ立って二次会に移動していく中。

私は、一人さっさと帰ろうとしていた彼を『拉致』した。

私の暴挙に呆気に取られながらも、目立った抵抗を見せない彼の腕を抱えて歩き、駅前のビジネスホテルに入った。

ここに来て、さすがの彼も意表をつかれたようだ。

『おい、待て』

やや焦りが滲む、氷室さんの鋭い制止も聞かず、私はダブルベッドルームにチェックインをして……。

部屋に入ってすぐの壁に彼を追い詰め、今この状況に至る。

「…………」

心臓が、バクバクだ。

酔った勢いにしても、大胆すぎる自分の行動に、突っ張った腕がプルプル震える。

私の腕に囲われた格好の氷室さんは、やや窮屈そうに片手を動かし、スラックスのポケットに突っ込んだ。

「このまま朝まで、突っ立って睨み合いして過ごす気? そんな暇なこと、付き合うつもりないんだけど?」

フロントでは、ほんのちょっと動揺した様子だったけど、部屋に入って達観したのか……通常運転に戻り、淡々とした口調で異議を唱える。

氷室さんがどこまでもいつもの氷室さんだから、私のぶっ飛んだ思考メーターも、正常に戻りつつある。

氷室さんをホテルに連れ込んじゃうなんて……あまりに無鉄砲な自分に、頬がカアッと熱くなる。

でも、ここまでしでかすだけの理由はあるから、前にも後ろにも進めない。

「……はあ」

私の頭上で、これ見よがしな溜め息が聞こえた。

「ほら。いいから退け」

氷室さんは私の腕を掴み上げ、狭い囲いからなんなく摺り抜けた。

「っ、あ」

「俺、帰るから」

そう言って、私が壁ドンした勢いで床に落としたスーツの上着を拾い上げると、肩から背中に提げるように持って、ドアに手をかける。

「っ、ま、って!!」

私は、ほとんど条件反射で、彼の手を掴んだ。

眉根を寄せて肩越しに見下ろしてくる、レンズの向こうの冷ややかな瞳に、一瞬竦みながらも……。

「私の身体を対価にするから、氷室さんへの立ち入りを許可してください!」

勇気を振り絞って、恥も外分もかなぐり捨てた。

「……は?」

呆気に取られた様子の彼を、力任せにグルッと回転させて、その背をドアに押さえつける。

「私、入社した頃からディスパッチャーになりたくて。同じ新人で抜擢された氷室さんが羨ましくて、憧れてて」

私に注がれる視線が、完全に呆れ返っているのを承知で、半分以上ヤケっぱちで捲し立てる。

「念願の異動が叶って、氷室さんから直々に指導してもらえるの、楽しみにしてました。同期だし……いいバディになれたらって」

「そんなことのために、俺に身体差し出すの? 安いね」

「そんなこと、じゃない!」

揶揄する言い方には、意地になって反論した。

ほんのわずかに、彼が虚を衝かれた気配が伝わってくる。

「この三ヵ月、自分なりに氷室さんのやり方盗んで来ました。でも、私は氷室さんの補佐だから、ちゃんと教えてほしい。仕事のためです。私の成長は、飛行機の安全運航にも繋がるはず」

「あんたの成長が、飛行機のため? 今度は随分とスケールでかく出たな」

「っ……私が戦力に育ったら、氷室さんも楽でしょう?」

氷室さんはハッと浅い息を吐いて、額にかかった前髪を掻き上げた。

長めの前髪とは逆に、すっきりと短い襟足に手を回し、

「……さっきの、管制官」

視線を横に流して、ポツリと呟く。

「付き合ってるのか?って聞いてきたな。あれが俺の彼女だったら、寝取ることになるって罪悪感はないわけ?」

わざわざ腰を折って背を屈め、私の顔を意地悪に覗き込んでくる。

私は顎を引いて、彼とまっすぐ目を合わせ……。

「だって、違うでしょ?」

「え?」

「あの人が恋人だったら、氷室さん、いくら脅しでも、私にキスなんかできないと思います」

「…………」

気持ちで負けないように、目力込めて返すと、氷室さんは口を噤んだ。

口元に手を遣り、私から目線を外して逡巡するような間を置いて、

「……退け」

私の肩をグイと押して退かした。

「あっ……」

引き止めようとして、反射的に声をあげたけれど、氷室さんはドアには手をかけず、私の横を通り過ぎて、スタスタと部屋の奥に向かっていく。

「氷室さん」

慌てて後を追った私の視界の真ん中で、大きなダブルベッドの端にドスッと腰を下ろした。

鼻根でクッと眼鏡のブリッジを押し上げて、上目遣いに私を見据える。

「どこまで立ち入りを認めるかは、満足度次第」どこまでも上から目線で挑発して、軽く両腕を広げた。

「……どうぞ?」

今夜ここで起こること全部、私の意思に委ねておきながら、どこか誘う仕草に胸がドキッと跳ねる。

騒ぎ出した鼓動を気にして、胸元で白いシャツを握りしめながら、たどたどしい足取りで彼の前まで進んでいった。

氷室さんは、一挙手一投足も見逃さないというように、近付く私に視線を据えている。

私は、彼の足の間でピタリと立ち止まった。

彼は喉を仰け反らせて私を見上げ、腰に両手を回してくる。

「っ……」

この土壇場で、私は確かに怖気づいた。

だけど、今を逃したら、この先彼への立ち入りを許される機会は二度とないと、自分に刻みつけ……。

私は、彼の肩に両手をのせた。

ドキドキを通り越して、バクバクと壊れそうな拍動を続ける心臓の音が、彼に聞こえてしまわないか心配で、怯む気持ちから意識を遠ざける。

ゆっくり背を屈めて、彼の薄い唇にキスをした。

「ふ、んっ……」

さっき、氷室さんが私にしたように、ちゅっちゅっと小さく唇を啄む。

たったそれだけのキスで、心臓が口から飛び出そうなほど猛烈に跳ね上がり、最後は息苦しくて唇を離した。

「っ、は」

短い息を吐いて目を開けると、氷室さんが鋭い瞳で私を見ていた。

キスの間、ずっと目を開けていたんだろうか。彼の眼鏡のレンズ越しに、バチッと視線がぶつかった途端、「ふん」と鼻を鳴らして口角を上げる。

皮肉げながら、『笑った』と言える表情がレアで、私の鼓動はリズムを狂わせる。

「下手くそ。中学生か」

「っ」

「普通、先に眼鏡外すだろ」

そう言って、氷室さんはテンプルを指で摘まみ、自ら眼鏡をスッと引き抜いた。

いつもフレームに隠れている小さな泣き黒子が現れ、私の目はついついそこに行ってしまう。

「ディープキスするのに、邪魔になる。そんなことにも、気が回らない? だったら、俺のバディになんか到底……ん?」

眼鏡を折りたたみ、軽く腕を伸ばしてサイドテーブルに置いた彼が、私に視線を戻して訝し気に首を捻った。

「……なに」

「あ、いえ」

短く問われて、慌てて首を横に振る。

「氷室さんの泣き黒子、久しぶり……。眼鏡外すと、隠れないから」

しどろもどろに両手の指を絡ませると、「は?」と聞き返された。

虚を衝かれたように目を瞬かせる、そういう表情もまたレアだった。

「初めて、こんなに長く会話しましたね。あの、明日からは、もっといろんなこと……」

「満足度次第。そう言ったろ」

「え? あっ……」

ついつい浮かれたのを、調子づいたとでも思われたのかもしれない。氷室さんは、高揚する私を、取りつく島もないほどバッサリと斬って、

「ひゃあっ……!?」

私の膝の裏に片腕を回し、ぐるんと回転させてベッドに横たえた。

「っ……」

一瞬にして、彼を下から見上げる体勢になり、無意識にごくんと唾を飲んだ。

氷室さんが、やけにゆっくりとネクタイを解く指の動きが妖艶で、私の目はそこに釘付けになる。

私の不躾な視線に気付いたのか、彼は不快気に眉根を寄せた。

「視線が、熱い」

「っ、え?」

喉につっかえながら聞き返す私の上で、首からネクタイを引っこ抜く。

「俺は恋人を抱くんじゃない。あんたの方こそ、仕事のためだって言った」

「!」

「これはギブアンドテイク。まず俺のテイクが先」

真正面から冷ややかな瞳で射貫かれて、無意識に喉がひくっと鳴った。

「それと、仕事に私情挟むのは、お断り。……いや、痴情か?」

氷室さんは表情も変えずに淡々と言いながら、片手で器用にワイシャツのボタンを外していく。

「やる気があるなら、あんたもさっさと脱いで。利害の一致のセックスで、優しく脱がしてやったりしないから」

ここで、私が向けた『憧れ』に、彼が言う『痴情』が混ざっていると思われたら、私の仕事に対する熱意を疑われる気がした。

認めてもらえるか、そばに置いてもらえるか。私が目指すバディへの道が、この一晩にかかっている。

絶対に、しくじるわけにはいかない……!

いったい、なんの衝動に突き動かされたのか。

私は身体を起こすと、身を捩って彼に背を向けた。

緊張でカタカタと震える指を必死に動かし、シャツのボタンを外す。

背中で、バサッと乾いた音がした。

先に脱いだ氷室さんが、ワイシャツを床に落とした音だろうか。

ドッドッと、限界を越えて高鳴る胸に、固く握った拳を押し当てて自分を奮い立たせる。

私は意を決して、肩からシャツを抜いた。

一度ゴクッと唾を飲んでから、思い切って両手を背中に回した、その時。

私の指がホックにかかる前に、胸元の締めつけが緩んだ。

ブラジャーのストラップが肩から落ち、肌からカップが浮き上がる。

「っ、え?」

「遅い」

苛立ちが滲む短い言葉と同時に、背中から伸びてきた大きな手が、私の両方の胸を下から掬い上げる。

「ひゃんっ……!」

私は喉を仰け反らせ、甲高い声で叫んでしまった。

彼の手に力がこもり、グッと後ろに引き寄せられる。

背中に、彼の厚い胸板がぶつかった。

互いの肌を通じて、私より少し高い体温が流れ込んでくる。

ドキッとする間も与えてくれず、氷室さんが肩口から顔を覗かせ、私の喉に噛みつくようなキスをした。

「っ、あっ、あ……」

ピリッとした痛みに近い刺激に、全身がゾクゾクと痺れた。

両方の胸を揉みしだかれ、戦慄き、脱力しながら、私は彼に体重を預けていく。

「俺に立ち入りたいなら、せいぜい楽しませて」

低い囁き声が鼓膜を、少しザラッとした熱い舌が耳朶を直接くすぐる。

寒気と紙一重の、ゾワッとした戦慄が背筋を駆け抜け、私はビクンと大きく痙攣した。

「っ!!」

だけど、意思とは関係ない悲鳴は彼の唇に阻まれ、声にならずにくぐもる。

「ふあっ……氷室、さ」

いきなり唇を割って入ってきた熱い舌に口内を蹂躙されて、抗う隙も見出せないまま翻弄される。

舌の根元から搦め捕られ、言葉を紡ぐこともままならない。

「んんっ……んっ」

逃げずに応えるのに必死でいたせいで、他のことには完全に無防備になっていた。

彼の方から唇を離し、遠ざかる温もりを追ってうっすらと目を開けた時、私はベッドに仰向けにされ、真上から彼に見下ろされていた。

激しいキスで、胸を喘がせる。

大きく息を吸い込む間もなく、氷室さんは私に肌を重ねてきた。

人肌の感触と温もりは、久しぶりだった。

遠い、快感の記憶が呼び起こされ、ゾクゾクが止まらない。

「あ……あ……」

目の前に、チカチカと星が飛ぶ。

それを最後に、私の理性は弾け飛んだ。

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    OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   何度でも、何度でも

    JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   ……さすがキャプテン

    お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   今、すごく抱きたい

    ――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   よいフライトを

    休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信

  • 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる   こっちこそ、よろしく

    泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで

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