เข้าสู่ระบบ翌朝。
目が覚めて一番に、ベッドの下に脱ぎ散らかされた服が視界に飛び込んできて、一瞬にして血の気が引いた。 自分の身体の状態は、誤魔化しようがない。 昨夜、私から吹っ飛んだものすべてが、一気に戻ってくる。 脳裏に蘇る、一部始終の記憶――。いくら酔ってたからって……なんてことをしたの、私……。
激しい自己嫌悪で、二日酔いとは関係のない頭痛がする。どうしよう。
ほんと、どうしよう。 ズキズキと痛む頭を抱え、無意識にきゅうっと身を縮めた時。「……起きた?」
背後から気怠げな声をかけられて、ギクッとして硬直した。
反応してしまった以上、無視も寝てるフリもできない。「は、はいっ。……おはよう、ございます……」
振り返ることもできず、朝の挨拶も尻すぼみになる。
「おはよ」
氷室さんは、普段と変わらない抑揚の乏しい声で、さらっと返してくれた。
ギシッとベッドが軋んで、彼が上体を起こしたのがわかった。 彼の動きに合わせて、身体にかかっている布団が持ち上がる。「ひゃっ……」
私は彼に背を向けたまま、なにも身に着けていない身体を隠そうとして、さらに小さく身を縮めて……。
「今日、何番?」
欠伸交じりに問いかけられて、そおっと肩越しに振り返る。
そして、上半身裸のまま寝乱れた髪を掻き上げる、壮絶セクシーな彼に心臓が飛び跳ね、勢いよく正面に向き直った。
「? 八巻さん?」
私の態度が不審だったのか、訝し気な声が続く。
「お、同じです。氷室さんと。遅番……」
ディスパッチャーの仕事は、二十四時間三百六十五日、四交替のシフト制勤務だ。
指導してもらっている立場の私は、よほどのことがない限り、彼と同じシフトで組まれている。「そ」
自分で聞いておいて、氷室さんはそれほど関心を持った様子ではない。
と言うか、今までもそうだったのに。 もしかして、存在自体無視されてたんだろうか……。地味に落ち込む私に構わず、氷室さんはもう一度ベッドを軋ませた。
ベッドから降りたのか、先ほどよりも大きく布団が持ち上がって、私はビクッと身体を強張らせる。「八時か……。先、シャワーもらう。俺、一度家に帰るから」
そう言いながら、ベッドの足元を通り過ぎ、シャワールームの方にスタスタと歩いていく彼は、ボクサーパンツ一丁という姿。
「は、はいっ……」
私は頭から布団を被って視界を遮断して、くぐもった声で返した。
やがて、シャワーの湯音が聞こえてきて、そっと顔を出す。モゾッと身体を起こし、ベッドの上に三角座りをして、
「はーっ……」
両腕を前に突き出し、こうべを垂れて深い溜め息をついた。
氷室さん……全然普通だけど、昨夜の私をどう思ってるんだろう。 いくらお酒の勢いでも、誰が見ても軽はずみな行動だった。 『仕事のため』に身体を差し出すなんて、軽蔑されても仕方がない。 いや、軽い女だと思われてたら、どうしよう。これは……もう『バディ』なんて、大きなこと言ってられないんじゃ?
今さらながら、お酒に酔ってしでかした自分を、激しく後悔した。でも、後悔先に立たず。
今後も、彼の塩対応が続いても、自己責任としか言いようがない。 私のディスパッチャーへの道も、一寸先は闇――。「うー、うー……」
私は無自覚のうちに唸りながら、寝乱れた茶色い髪を、ぐしゃぐしゃと掻き回した。
できることなら、時間を巻き戻したい。 そう……昨夜、化粧室に立つタイミングが、もう少し違っていたら、こんなことにはならなかったはず……。激しい自責の念にジタバタしながら、自分の思考に引きずられて、はたと思い出した。
昨夜氷室さんと物々しい空気を醸し出していた、女性管制官の姿が浮かび上がる。確か、名前は
私は昨夜、氷室さんに『付き合ってるとか?』なんて聞いてしまったけど、よくよく考えてみたら既婚者のはずだ。
初めて管制塔との懇親会に参加した時、男性の先輩が、『二年前、多くの男が立花ロスに陥って、運航管理部は闇だった』と、笑い交じりに話してたのを聞いたことがある。氷室さんも、ロスに陥った多くの男の一人なんだろうか。
いや、でも、私が『喧嘩』なんて言った所以は、二人から張り詰めた険悪な空気を感じたから。 昨夜の様子を見る限りでは、彼の方がよそよそしくて、迷惑そうだった。 だったら……『元カノ』とか?「あんな美人が元カノ? どれだけリア充なのよ……」
なにか打ちひしがれて、声を消え入らせた時。
「誰が、リア充だって?」
「!?」
いきなり頭上から声が降ってきて、私はギョッとして顔を上げた。
そこに、タオルで髪を拭っている、バスローブ姿の氷室さんを見つけて、ドッキンと心臓が飛び跳ねる。イケメンの濡れ髪エフェクト、半端じゃない。 シチュエーションがシチュエーションだし、朝っぱらからダダ漏れの色気に当てられる。「先、どうも。あんたも浴びてくれば?」
不審そうに眉根を寄せて言われて、私は無意味に何度も首を縦に振った。
急いでベッドから降りようとして、ハッと我に返って身体を固まらせる。「あ、あの。氷室さん、あっち向いててもらえますか。私、裸のままで……」
布団を喉元まで持ち上げて、身を竦めながらお願いする。
「ん……? ああ」
氷室さんは、表情こそ動かさないものの、納得顔で相槌を打ってくれた。
なのに。「別に、今さらだろ。昨夜お互いに、とんでもない部分まで晒し合った後だし」
「!!」
涼しい無表情で、結構ドギツいことをさらりと口にする。
羞恥のあまり、私は全身をカアッと火照らせた。「でも、まあ、どうぞ」
意地悪にからかったわりに、氷室さんはわりと素直に、私にくるっと背を向ける。
それを見て、私は変な汗を肌に滲ませながら、ほとんど飛び降りるようにして、床に立った。 散らかった服をザッと抱え集めて、一目散にバスルームに駆け込んだ。熱いシャワーに身を打たせ、疲れとか汚れとか、身体に纏わりつく諸々のものを洗い流すと、頭も幾分すっきりした。
とりあえずバスローブを身に着け、髪をタオルで拭いながらバスルームを出る。 そして、窓際の簡素なテーブルの前の椅子に、ゆったりと腰かける氷室さんを目にして、ドキッとして足を止めた。彼もバスローブ姿のまま、長い足を組み上げている。
裾が割れ、引き締まったヒラメ筋を惜しみなく披露する彼が、ちらりと私に視線を流してきた。「なんだよ」
一瞬私が怯んだのを見逃さず、むっと口をヘの字に曲げて、腕組みをする。
「い、いえ。一度帰るって言ってたから、まだいると思わなくて」
タオルを口元に当て、モゴモゴと言い訳をする私に、ハッと短い息を吐く。
「置いて帰ったかって? いくらなんでも、薄情だろ」
「えっと……ありがとうございます……?」
正直なところ、朝を迎えたら昨夜のテンションが気まずいし、こっそり帰ってくれてた方がありがたかった気もする。
私はサッと室内を見回し、ベッドの足元にちょこんと腰を下ろした。 彼がまだ私に視線を流しているから、意味もなく肩に力を込める。……こうなったら、とにかく言わなきゃ。
昨夜のことをちゃんと謝って、酔ってたからとか、言い訳でも弁解でもいい。あんな風に男の人を連れ込んだのは、昨夜、氷室さんが初めて。 もちろん、この先二度とない、人生最初で最後の大失態だ。 とにかく、酔っ払ったら誰とでも簡単に寝る女だなんて、思わないでほしい。だけど、説明がしどろもどろになっては、元も子もない。
どんな言葉を選ぶのが正解なのか。 失敗して、かえって軽蔑されたら堪らない……!私は焦燥感に駆られながらも、心の中でジレンマと闘い、結局なにも言えないまま、膝の上に置いた両手に目を落とした。
すると。「……なにがいい?」
思いがけず、氷室さんの方が先に口を開いた。
「え?」
反射的に顔を上げると、まっすぐこちらを見ていた彼とバチッと目が合う。
「対価、もらったから」
氷室さんは素っ気なく言って、おもむろに足を組み替えた。
「あんた、交換条件のつもりで、俺とヤったんだろ?」
眉根を寄せて言われて、私は無意識にゴクッと喉を鳴らした。
「氷室さん、昨夜のことは、その……」
「一つだけ、言うこと聞いてやる。常識的な範囲で」
むしろ、ここがチャンスとばかり、『昨夜のことは忘れてください』と言いかけた私を遮って、どこか不服そうに顔を歪める。
「……え?」
問われた私の方が戸惑って聞き返すと、彼はガシガシと髪を掻き回した。
「ここで聞かなきゃ、ただのヤり逃げ。さすがに卑怯だし」
眉間の皺を深めて、溜め息交じりに呟くのを聞いて、私の心臓がドキッと跳ねる。
「え、ええと……」
思わずそわそわと視線を彷徨わせた。
「私のこと、軽蔑してないんですか……?」
半分自分に問いかけるように訊ねると、氷室さんがピクッと眉を動かした。
「軽い女、とか」
「性欲に負けた俺も、半分同罪だから。ヤらせてもらって、流すわけにもいかない」
組んだ足に肘をのせて頬杖をつき、斜めの視線を向けてくる。
「言って」
促しながら、どこか警戒するような視線がレアだ。
いやがおうでも、私の鼓動は限界を突破する。「じゃ、じゃあ……」
聞いてもらえる交換条件は、たった一つ。
私が一番、彼に望むこと。 それは――。「氷室さんの絶対的バディになれるように、指導してください」
膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、前のめりになって答えた。
「まずは、氷室さんが私じゃなきゃダメだって言ってくれるような……運航支援者になりたいんです!」
勢い込んで言い放った私に、彼は一瞬、ほんのわずかに目を丸くした。
午後二時。
運航管理部、遅番勤務者の始業時間だ。 簡単なミーティングの後、早番勤務者から申し送りを受けて、早速業務に取りかかる。「八巻さん。南紀白浜空港上空の気象データ、集めて」
氷室さんは自分のデスクに着くより先に、私に指示を出した。
「はい」
私も中腰の体勢でマウスを動かし、パソコンモニターに天気図を展開させる。
氷室さんは隣のデスクの椅子を引いて腰を下ろし、カンパニーラジオのインカムを装着していた。「JAK103便。コックピット、応答願います」
早番から引き継いだ、現在飛行中の機体のコックピットに、無線で呼びかける。
ザザッと無線特有のノイズが走った後、『こちら、JAK103便、コックピット。どうぞ』
コックピットから、応答があった。
「ここからサポート交替します。東京OCOの氷室です。よろしくお願いします」
普段と変わらない涼しい表情で、コックピットとやり取りする横顔を、私はそっと窺った。
『キャプテン、
無線にのって、JAK103便の機長の声が聞こえる。
どうやら、日本エア航空史上最年少のエリート機長のようだ。 エリートと呼ばれるに相応しく、操縦技術は天下一品。 自分にも他人にも厳しく、運航管理部のディスパッチャーが『鬼機長』と恐れるパイロットの一人だ。氷室さんとは本質的に似た者同士だからか、普段からあまり剃りが合わない。
だけど。『フライト、おおむね良好です。大きな揺れもない』
「了解です。なにか異変があれば、ご連絡を」
『ラジャー』
彼は鬼機長相手にもぶれずに、淡々と交信を終えて、マイクの音声をオフにした。
早番から引き継いだのは、伊丹空港行きのフライトだ。
私に命じた南紀白浜空港上空の気象データは、午後十七時の便のフライトプランを作成するため。 氷室さんは無線交信をする傍ら、すでに南紀白浜便のロードプランをモニターに展開している。七月も、後半を迎えた。
世間は夏休みに突入し、旅行、航空業界にとってはオンシーズン。 これからお盆にかけて、さらにハイシーズンへと入っていく。遅番勤務が始まるこの時間、空は大渋滞。
フライトレーダーを見ると、日本各地の主要空港周辺に飛行機が密集している。うちの会社の羽田空港発着便は、国内、国際線合わせて一日に六百便近くある。
ディスパッチャーは、国内線、国際線、長距離線、短距離線で担当が分かれていて、私たちは一番便数が多い、国内の短距離線チームに所属している。一人のディスパッチャーが、一勤務で担当するのは、平均して四十から五十便。
飛行中の機体を幾つも監視しながら、同時進行で一便ごとにフライトプランを作成する。 始業早々、息つく暇もない。「氷室さん。気象データ、送信しました」
私は、彼が無線交信を終えたタイミングを測って、声を挟んだ。
「了解」
氷室さんは、返事と共に、早速データを確認している。
私の視線を感じているのか、わずかに眉根を寄せて、中指と人差し指で眼鏡のブリッジをクッと押し上げた。「見すぎ」
やや鬱陶しそうに横目を流してくるけれど、すぐにハッとしたように、正面に向き直って口元に手を当てる。
そして、「はあ」と声に出して溜め息をつき……。「……ロードコントローラーから、小松84便と広島12便のデータもらって」
いつもは、さっさと自分で手配してしまい、私に振ってくれない仕事を命じてくれる。
「はいっ!」
これも、昨夜の醜態もののやらかしの、『怪我の功名』。
彼からちゃんと、『氷室さんのようなディスパッチャーに育ててもらう』権利を勝ち取れたおかげだ。そもそも、氷室さんは私の指導担当で、本来当然の権利だけど、今朝も、『一つだけ言うこと聞いてやる』と言ったくせに、ものすごく渋い顔をした。
とは言え、塩対応の自覚はあったようで、苦々しく不本意そうでありながら、承諾してくれたのだ。ここぞとばかりに、塩対応の理由も聞いてみた。
正直言うと、同期とは言え、彼の方は私の存在すら知らなかっただろうし、いきなり嫌われたのだとしたら立ち直れない。それには、
『仕事で関わるだけの人間に、嫌いも好きもない。指導が面倒なだけ』
という返事だった。
私の指導を命じられた時も、部長に盾ついて拒否したそうだから、よほど指導に就くのが不服だったのだろう。『ド新人に教えてやらせるより、自分でやった方が断然早くて正確』
……と、明らかに指導担当には不向き。
元も子もない言い訳だけど、以前から運航支援者のアシストを必要としないそうだから、私に限ったことでもない。だけど、それも昨日までのこと。
今日からは大手を振って質問できるし、過去は流すに限る。私は鼻歌を歌いたいくらいの高揚感をなんとか抑え、同じOCO内のステーションコントロール部に電話を入れた。
氷室さんに指示された、ロードデータ。 機体のウェイトアンドバランスを表したデータだ。例えば空席が多い便で、乗客が前方の席に偏ってたりすると、機体が機首に前傾してしまう。
安全な飛行のためには、貨物を含めた機内の重量を、均等に分散させる必要がある。 貨物を床下貨物室に搭載する順番、位置を細かく調整し、稀に乗客のシート変更をお願いすることもある。 そうやって、巡航中の機体の水平バランスを保つのが、ロードコントローラーの役割だ。ディスパッチャーはロードデータを入手して、高度や経路を決定し、飛行に必要な燃料を算出する。
一つのフライトプランを作成するために、本当に様々なデータが必要になる。「氷室さん。ロードデータ、十分で届きます」
私は電話を切ると、意気揚々と報告した。
だけど、返事はない。 隣に顔を向けると、氷室さんはモニターをジッと見つめて、やや難しい顔で顎を撫でていた。「氷室さん? どうかしましたか?」
椅子ごと移動して、彼がなにを見ているのか、ひょいと覗き込んでみる。
「うるさい」
氷室さんはモニターから目を離さず、いつもの調子で返してきたものの……。
「……グアム島沖の低気圧。台風発生しそう。七十二時間予測確認して」
今朝の約束を思い出したのか、渋い顔で私に仕事を振ってくれた。
「はい! フライトに影響しそうですか?」
椅子のキャスターを転がして自分のデスクに戻り、早速データ収集に取りかかる。
氷室さんは、こちらを見ずに「いや」と言った。「今のところは」
軽くテンプルを持ち上げて、眼鏡を掛け直す横顔は、相変わらず顔面神経が働いていない。
それでも、なにか気になっている様子だから、私も天気図に目を凝らしてみた。「まだ発生前だし、進路予想も出てない……」
私が独り言ちる隣で、彼はインカムのマイクをオンにしていた。
「JAK20便コックピット、東京OCO。どうぞ」
こうしている間にも、巡航中のコックピットから無線が入る。
交信に耳を傾けてみると、どうやら関空近辺で機体の揺れを観測したという報告のようだ。
氷室さんはすぐに、フライトレーダーを確認して、当該機の正確な位置と高度を割り出している。「位置、了解です。後続機に伝えます」
そう言って、JAK20便との交信を終了させて、すぐに後続機のコックピットに周波数を合わせる。
コックピットからの情報に、スピーディーに対応する頭の回転の速さ。 私は、無意識にゴクリと喉を鳴らした。この三ヵ月ちょっと、私はいつも隣のデスクでこの人の仕事ぶりを見て、憧れを強めてきた。
こんなすごい人に、直接指導してもらえる幸運――昨夜の暴挙は、この幸運を無駄にしたくないという思いが高まった結果だった。 今朝はあまりの恥ずかしさに、『なかったことに』と言いそうになったけど、言わなくて本当によかった――。これからの期待に、気が昂る。
私が思わず武者震いした時、氷室さんが後続機との交信を終えた。 「ふう」と息をついて、軽く眼鏡をかけ直す。 フレームが持ち上がり、泣き黒子がちらりと見えて、私の胸は意思に反してドキッと跳ね上がった。「っ……」
嫌でも、昨夜彼とした行為が脳裏を掠めて、顔が茹る。
私は慌てて、まっすぐデスクに向き直った。今日のように、雲一つない快晴の日は、フライトへの支障も少なく、業務は順調に進む。
OCOのオフィスも和やかな空気で、離れた島からは時折笑い声も聞こえてくる。業務開始から四時間。
東京の空でも、太陽が西に傾いた午後六時、休憩の時間だ。一人でオフィスに残されても、使いものにならない私は、だいたいいつも彼と同じ時間に休憩を取る。
とは言え、一緒に食事に行ったことは、今まで一度もなく……。「あの、氷室さん。よかったら一緒に……」
ここまで四時間、初めてまともに仕事を振ってもらえた嬉しさで、ちょっと気が大きくなっていて、私は彼に声をかけてみた。
ところが、今日も例に違わず、氷室さんは私の誘いの途中でしれっと席を立ち、さっさと出口に歩いて行ってしまう。「あ、待って!」
オフィスを出ていく背中を、急いで追いかけた。
だけど、どれだけ足が速いのか。 私がオフィスを出た時には、彼の姿はどこにも見当たらなかった。「……つれない」
無意識に独り言ちて、がっくりとこうべを垂れた。
シフト勤務の上、毎日決まった時間に休憩に入れるわけじゃない。 そう簡単に誰かと約束もできないし、どうせお互い、一人で食べることになるのに。しゅんとしたものの、なにも今に始まったことじゃない。
もしも食堂で見つけたら、ダメ元で話しかけてみよう……。 そう気を取り直して、職員食堂に向かった。 空港内に二つある職員食堂は、全空港勤務者共有のもので、日本エア航空の社員食堂ではない。 制服姿のグランドスタッフやショップ店員、入国管理官に警備スタッフ。 パイロットやCAも、フライト合間のブレイクで立ち寄ったりする。 ちょうど夕食時なのもあり、かなり広い食堂も混雑していた。今日はこの後午後十時まで仕事だから、がっつり力をつけようと、私はかつ丼をセレクトした。
丼をのせたトレーを持ち、席を探しながら奥に進み……。「あ!」
見つけてしまった。
奥まった窓際の席に、氷室さんがいる。「ひむ……」
自分の背を押し、思い切って声をかけようとして、私は無意識に足を止めた。
彼の向かいに、白いワイシャツに三本ラインのパイロットがいたからだ。 それは、私もよく知っている人で――。「あれ。八巻さん。お疲れ」
思い切ってテーブルに近付いていくと、同期の副操縦士、
「八巻さんも休憩? よかったら一緒にどう?」
同期入社の訓練生の中で一番早く副操縦士になった、将来有望なパイロット。
だけど、偉ぶったところのない、爽やかなイケメン。 ついこの間、同じく同期で本社の財務部勤務の「い、いいですか? 氷室さん」
氷室さんが苦い顔をしているから、恐る恐る断りを入れる。
それに返してくれたのは、水無瀬君だ。「え? なんで。同期なんだし、構わないだろ?」
不思議そうにきょとんとして、氷室さんに向かって問いかける。
「って言うか、今は同僚じゃなかったっけ」
首を傾げる彼に、私も頷いて見せた。
「一応、直々に指導してもらってる」
氷室さんが、どう反応をするか気にしながら答える。
「そうなんだ。それなら、むしろ、是非一緒に」
「じゃあ、遠慮なく……」
屈託ない笑顔に誘われ、それでもやや遠慮がちに、氷室さんの隣の席に座った。
彼の前には、半分ほど進んだ唐揚げ定食のトレーが置かれている。 水無瀬君はフライト合間のブレイクなのか、コーヒーのカップだけだった。「八巻さん、どう? 運航管理部は」
水無瀬君がカップを口に運びながら、私に訊ねてくれる。
「うん。今までの営業と勝手が違って、最初は大変だったけど……念願だったから、楽しい」
私はそう返事をしながら、隣の彼を横目で窺った。
氷室さんは私が同席するのと同時に、黙々と箸を動かしていた。「氷室が指導してくれるなら大丈夫だよ。氷室、頼りになるし」
水無瀬君は、にっこりと笑う。
「ああ、うん。ほんと、氷室さんってすごくて……」
さすがに本人目の前にして、他人に今までの塩対応を語るわけにいかない。
私は、曖昧に言葉を濁した。 水無瀬君は、氷室さんが無言で食事のペースを上げるのに気付いたのか、「ん?」と首を傾げる。「氷室、どうした?」
「……別に」
取りつく島もない返答に、戸惑い気味に眉をハの字に曲げて……。
「ねえ。ふと気になったんだけど、どうして八巻さん、氷室のこと『さん』付けで呼ぶの?」
「えっ?」
いきなりの話題転換に、私はギクッとして聞き返した。
「同僚で同期なのに、なんか違和感。仕事だからこそ、仲良くやろうよ」
クスクス笑って言われて、氷室さんの反応を探る。
――異動初日に、本人の拒否に遭った、とは言いにくい。言われなくても私だって、いくら手の届かない遠い遠い雲の上の人でも同期だし、和気藹々と、楽しく仕事できたらいいなと思っていた。
『今日からよろしくお願いします。ディスパッチャーの氷室君にずっと憧れてたから、直々に教えてもらえるの、嬉しいです! あ、同期だし、氷室君って呼んでいい?』
明るく挨拶した途端、彼の鋭い睨みに遭い……。
和気藹々と仕事をするのは、初日にして諦めた。 だけど、彼とも親しい水無瀬君もそう言ってくれるし、今ならこれまでの関係性にメスを入れることもできる……気がする。「ええと……氷室君って呼んでもいい?」
質問したものの、返事が怖い。
背中に変な汗が伝うのを感じながら、私はぎこちない笑顔を浮かべて、氷室さんの答えを待った。 彼は一度食事の手を止めて、興味なさそうに私を一瞥して……。「昨夜のたった一回で、そこまで欲張る?」
すぐにまっすぐ正面に向き直って、素っ気なく言った。
「っ!」
なにを匂わされたか、瞬時に理解が繋がり、私はひゅっと音を立てて息をのんだ。
一瞬にして呼吸が止まり、身体が固まる。 だけど、水無瀬君に、意味がわかるわけがない。「は? 欲張る?」
彼が私たちに交互の視線を向けて回答を求めるのに構わず、氷室さんは箸を置いてスッと立ち上がった。
「お先」
トレーを持ち上げ、スタスタと歩いて行ってしまう。
「え? あ、氷室さ……」
私は、大きく上体を捩ってその背を目で追って……。
「……はあ」
がっくりとこうべを垂れ、深い溜め息をついた。
OCOで初めて過ごした八月は、まるで駆け抜けるように過ぎていった。九月に入り、夏休みも終わって、旅行、航空業界のオンシーズンも一段楽。ピーク時に比べてフライト数も落ち着いて、穣は通常比かなりゆったり……私は相変わらずバタバタと仕事をしている。「八巻さん。小松60便のフライトプラン、フェイストークで受け渡して」「はい」「三十分後、機長とオンラインブリーフィングやるから、準備よろしく」「了解ですっ」気象データを集める間にも、矢継ぎ早に指示が入る。フライト数は減ったのに、私はハイシーズンと変わらない忙しさ……目が回りそうだ。――でも。フライトプランを機長に受け渡すために、社内アプリのフェイストークにフライトプランを移しながら、隣の彼の横顔を窺った。私がこんなにバタバタなのも、それに反して穣がゆったりなのも、私に仕事を任せてくれているからだ。八月最終週の胴体着陸事故前までは、仕事を振ってくれるだけで、『任せてもらえている』という実感には至らなかった。でも今は、左腕くらいには信頼してもらえていると、自負している。彼女だから、じゃない。むしろ穣は意識して、仕事中、努めて事務的に接しようとしている。おかげで、以前以上に塩対応に拍車がかかった……ようにも見えるけれど。私に、異議はない。だって穣は、一歩空港を出るとメガトン級に甘いから。――と言うか、エロい。今はモニターに注がれていて、私を映さない真剣な目も、持て余すようにペンを回す長い指も、燃料重量を自分に刻むみたいに唱える唇も。あと数時間して仕事が終わったら、今夜また私に、あんなこともこんなことも――。「……八巻さん。視線が熱い」「っ」溜め息交じりに言われて、私はハッと我に返った。穣が左手で頬杖をついて、右手の指でペンを回しながら、私を斜めからの角度で見ている。「フライト減って、少しくらい手が空いても、仕事中に妄想する余裕、あんたにはないだろ」「うっ。すみません」私は条件反射で、シャキッと背筋を伸ばした。煩悩を払おうと、両手でパンと頬を打って……。「……なんで、妄想ってバレた……?」思わず首を捻る横で、穣は顔を伏せ、笑いを噛み殺していた。「いや、わかるだろ。そんな食い気味の熱視線。炙られるかと思った」「!」目を細めて揶揄されて、私はカアッと頬を茹らせた。「ご、
JAK73便の乗客乗員四百十一名に怪我はなく、全員無事だった。胴体着陸なんて大事故が、目と鼻の先で起きたのに、夏休みシーズンで普段より混雑していた空港ターミナルでも、目立った混乱は見られなかったそうだ。タッチアンドゴーを繰り返さず、一発で着陸を成功させたおかげで、ターミナル内にいた旅客の多くが、そんな事態に陥っていたことに気付かなかったためだ。結果として、久遠さんの判断がすべてにおいて功を奏し、巡航中の機内だけでなく、空港全体の秩序を守った。英雄と崇められてもいい。とは言え、胴体着陸ともなると、航空事故に分類され、重大インシデントに認定される。着陸前から、社内で事故調査委員会が発足していた。明日には、国土交通省による、事故調査チームが調査に入る。それに先立って、社内での聴取が行われることになった。着陸を終えて間もない久遠さんと副操縦士を、社内の調査委員がターミナルで出迎えた。73便の機体整備を担当した航空整備士、胴体着陸を許可した管制官の立花さんとその上司、そして、担当ディスパッチャーの穣と運航支援者の私も招集された。委員も含めて十五人ほどでの聴取は、本社の役員会議室で行われた。私はこの時初めて、ディスパッチャーにも恐れられる、『鬼機長』の久遠さんと対面した。フライトプランの件で、穣と一触即発のやり取りをした記憶も新しい。四本ラインの制服姿が凛々しい、美しい鬼……いや、エリート機長は、ちょっと怖そうだけど、真面目で真摯な印象を受けた。ほんのちょっと……穣に通じるところがある。重苦しい空気の中行われた聴取では、離陸前の機体整備状況に問題はなく、事故の原因も、バードストライクによるエンジントラブルと結論付けられた。その後争点になったのは、穣も反対した、フライトマニュアルに反した一発での胴体着陸という、機長の判断だった。久遠さんは、カンパニーラジオ越しに穣にしたのと同じ説明を繰り返し、立花さんも『久遠機長の操縦技術は確かですから、その判断を信頼し、全面的に支持しました』と答えた。調査委員から意見を問われた穣は、燃料に十分な余裕があったことから、フライトマニュアルに沿って、タッチアンドゴーを試みるのが第一選択だったはず、と答えた。だけど……。「以上が、一ディスパッチャーとしての意見です。私個人的な意見を申し上げますと……今後、自分が
お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な気遣わなくていいから、座って」
――ふわふわする。頭も、身体も。微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。あの人みたいに、『穣」って呼びた……。……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。鼻をギュッと摘ままれる感触。――息苦しい。一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見回した。私の部屋ではない。ホテ
休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中のコックピットと交信
泣いた。辺りを気にすることなく、まるで子供の頃のように、わんわん声をあげて。顔を突っ伏した枕がグショグショになるほど、涙を流して。喉が嗄れて、泣き声も出なくなるほど。涙が枯渇して、全身の水分が失われ、干上がるかと思うほど。思いっきり泣いて、力尽きて泣きやんだ。ゴロンと寝返りを打って、ベッドに仰向けになる。天井を仰ぎ、お腹の底からはーっと息を吐いた。最後の嗚咽の余韻のように、ひくっと喉が鳴る。もう、しゃくり上げる力も残っていなかった。目の上に両腕を翳し、閉じた目蓋に力を込める。「言うな、ってなんなの。真剣なのに、言わせてもくれないなんて、酷い男……」実際に声になっていたか、それともそういう形に唇が動いただけかはわからない。だけど、意識してはっきりと彼を詰れたおかげで、少しだけ気分が晴れる。そうよ。あんな酷い男、仕事以外で尊敬する部分なんて、なに一つない。いくらずっと憧れていたディスパッチャーだからって、一度寝ただけで変な情が湧いて好きになるなんて、いい年してどうかしてた。いや、それだって錯覚だったかも。氷室君と、二度目の夜。あの時の私は、身体は疲れてるのに、頭は冴えて気持ちが高揚していた。心と身体、脳みそがバランスを欠いて、明らかに尋常じゃなかった。私は、彼の意味深な言い回しを、誘われたと勘違いして期待した……なんて方向に、意地悪に誘導されただけだ。いっそ、心を巧妙に操作された、と言い切ってもいい。今日だって、頭の中で脳神経が一本切れたような、興奮状態だった。氷室君は、恋愛に本気になるのは嫌だと言った。私は適当な遊び相手でしかなかっただろうし、『好き』なんて口走らなくてよかった。――止めてもらえて、よかった。「っ……」冷静になって導き出した結論は、絶対正しいと思うのに、彼を詰る私の心は張り裂けそうだった。彼を悪者にして、自分を肯定しようとすればするほど胸が痛み、なんの慰めにもならない。だって今なら、私もよくわかる。私が運航管理部に異動したのは、すでに立花さんが、氷室君に復縁を求めていた頃だろう。自分の都合で氷室君を振っておいて、今もまた、自己中心的に彼を欲しがって。氷室君は、気持ちでは強く突っ撥ねていても、あまりに彼女を理解し難いせいで、思考回路を占領される。そんな自分は、彼女に囚われているかのようで







