ログイン彼の目線を追って、私もそちらに目を向ける。「あ」関空行きのジャンボ機が、滑走路に進入を開始していた。 私は、フェンスに向き直った。 穣と一緒に、無言になって、最終離陸態勢に入った機体を見守る。ピタリと停まった飛行機から、ゴーッという音が聞こえる。エンジン出力全開。 飛行機が滑走路を走り出すと、穣が私の手をぎゅっと握った。「Cleared for take off」きっと無意識だろうけど、離陸前にコックピットが管制と交信する、嫌というほど聞き慣れた言葉を口にする。 『離陸に、支障なし』――。 地上のパイロットとして、空に飛び立つパイロットを激励しているようだ。私は彼を視界の端に映して、応答の代わりに、ぎゅっと手を握り返した。 轟音のようなエンジン音が、キーンという甲高い音に変わる。 ――離陸推力、TO1到達。 大きな大きなジャンボ機が、滑走路を走り出した。私はゴクッと唾を飲み、一気に加速度を増す機体を注視する。 穣も、本日最後の自身の仕事を見届けるみたいに、飛行機を見つめていたけれど……。『V1』頭の中で、コックピット内のコールを再現する私の視界を、背を屈めて阻んだ。「え?」離陸寸前の飛行機を目で追っていたはずが、眼鏡を額に持ち上げた彼の顔に占められる。「っ、んっ……?」唇に重なった、私のものではない感触と温もりに、大きく目を瞠った。『VR』滑走路から飛び立った飛行機の主翼が、彼でいっぱいの視界の端を掠める。 やがて、機体の尾翼も確認できなくなって――。どのくらいの間、そうしていたか。「一緒に、住む?」穣が唇を離し、私の瞳の奥まで見据えるような目をして、短く問いかけてきた。「……は」「同棲ってやつ」彼の言動は突拍子がなさすぎて、私はなにを言われたか、瞬時に理解できない。 瞬きを忘れ、大きく見開いた目を向けるだけの私に、「すでに半分以上そういう状態になってるし。改まって始める必要もないけど……ずっと一緒にいたい。考えておいて」穣はぶっきら棒に言って、スッと踵を返した。「え……?」思考回路は飽和状態で、思うように作動しない。 でも、騒ぐばかりの心臓が、確かな動力になる――。「穣っ」私は、さっさと先を行く彼の背中を追って、駆け出した。「私。私も……」穣と、一緒にいたい……! 数メートル先で
そのおかげで、涙が止まる。 私がひくっと喉を鳴らすと、穣は片手で自分の口を覆った。「……ごめん。独り言とは言え、紛らわしかったか。まあ、そもそも聞かせるつもりもなかったんだけど」大きな手に阻まれ、彼の声はくぐもってしまう。 私が食い入るように見ているせいか、きまり悪そうにツッと視線を横に流し……。「今のまま、ずっとこうして。でもそれは、藍里が一人前のディスパッチャーになるまでの、期間限定」「私が……ディスパッチャーになるまでの?」瞬きも忘れて、彼の言葉を反芻する私に、「ん」と相槌を打つ。「今は新米運航支援者でも、そのうち無線通信士や運航管理者の資格を取って、社内試験もクリアする。早ければ四年……五年後には、お前は一人前のディスパッチャーになる」穣が噛み砕いて説明してくれたのは、私の長年の夢。 今は確かな目標だ。「……うん」私は、頬に置かれた彼の手に自分の手を重ね、目を合わせた。「そのために、穣が指導してくれてて……」「そう。それで藍里がディスパッチャーとして独り立ちしたら、俺のアシスタントからも離れる。もちろん、ずっと同じシフトってわけにはいかない。昼夜真逆で、すれ違うこともあるだろ?」「あ……」言わんとするところを理解して、私は大きく目を見開いた。「お前が言った名コンビも、残念ながら、そう長い期間にはならない。……俺も、今が幸せすぎて。今のまま一緒にいたいって思ってるから、カッコ悪いけど、つい本音が出た」穣が、照れ臭そうな笑みを浮かべる。 それを目の前で見ていた私は、心臓を鷲掴みにされ――。「な、なんだ……よかった……」へなっと脱力して、膝が折れた。「え、おいっ」穣が反射神経よく私の腰に腕を回して、抱き止めてくれる。 私も、反射的に彼の胸に両手でしがみついて。「一緒にいたいの、私だけかって……そうだったら、どうしようって……」肩を動かして安堵の息を吐くと、すぐ額の先で、「まったく」と呆れた声が聞こえる。「予想の斜め上をいく勘違いで、泣かれても困る。少しは俺を信用して」穣が不機嫌を憚らない早口で、背を屈めて私を覗き込んでくる。「……水無瀬も言ってた。お前、俺の運命の女らしいから」「!」私は虚を衝かれて、ドキンと胸を跳ね上げ……。「うん。ごめんなさい。……ふふっ」照れ臭いのと、踊り出したいくらい嬉しい
穣は片手をスラックスのポケットに突っ込み、私の隣に並んだ。「気になるって、なにが?」もう片方の手でフェンスを掴み、滑走路に目を遣りながら訊ねてくる。 私は、ぎこちなく目を伏せた。「大したことじゃないから、気にしないで」「珍しくって言っただろ。お前が微妙に落ちてることくらい、俺にもわかる」はぐらかそうとした私に機嫌を損ねた様子で、眼鏡の向こうの目を鋭くする。「でも、俺に関係ないって言い張るなら、無理には聞かない」――私を気にして、心配してくれている。 恋人になったからこそ向けられる優しさは、やっぱりどこか不器用で……。 他の誰でもない、穣だから、私を堪らなくときめかせる。「じゃあ……聞いて」彼と同じように、フェンスの方に身体を向けて、俯いて切り出した。「私、今、すごく幸せ」「は?」「穣が指導してくれて、毎日一緒に仕事できて。恋人にしてもらえたら、穣、いつも一緒にいてくれるし」「……?」意味がわからないといった顔つきで見下ろす彼に、堰を切ったように捲し立てる。「まだ、付き合い始めたばかりだけど。これ以上を望んだりしたら、バチが当たりそうで怖いんだけど」穣は、ポカンとした顔をした。 だけど、思い詰めて言い募る私を、茶化すことも憚られるのか。「なにか、俺にしてほしいことがある?」困惑顔で質問を挟まれ、私は勢いよく首を横に振った。「穣はなにもしなくていい。私が、ずっとずっと穣の彼女でいたいだけ」彼に身体ごと向き直り、引き締まった腕に両手で掴まって訴えかけた。 忙しなく揺れる瞳を見つめているうちに感極まって、鼻の奥の方がツンとして――。「……おい」穣が、訝しげに眉根を寄せる。 レンズの向こうの端整な目元が、私の視界の中でぼやけた。「お願い。いつまでかな、なんて考えないで」最後は声が詰まり、自分が泣いていることに気付いた。 突然、下目蓋から涙を溢れさせて、ポロポロと頬に伝わせる私に、「ちょっ……藍里」穣がギョッとしたような声をあげた。 私をフェンスの角に押さえつけ、自分はそこに両腕を突っ張り、展望デッキにいる人たちの視線の、盾になってくれる。「待って。ええと……もしかして、今朝の俺の独り言?」混乱しながらも思い当たったようで、私を見下ろして訊ねた。 それには、一度こくりと頷いて応える。 わずかな間の後、頭
腕時計を見ながら、自ら箸を進めて私にも促す。 男気ある気持ちのいい食べっぷりをする彼に、私はなんとなく視線を送った。午前中聞き拾った彼の独り言が、ずっと胸に引っかかっていた。 でも、気にすることじゃないよね……? 私も気を取り直して、箸を動かした。午後五時半で仕事を終えて、私は空港ターミナルの展望デッキに出た。 九月になって、日の入りが少し早くなった。 夜を迎えるこの時間は、沈みゆく夕陽と、滑走路から飛び立つ飛行機が融合した夕景が美しい。 そのせいか、展望デッキのあちこちに、スマホやカメラで、飛行機と空を撮影する人の姿が見られる。私はデッキの端っこまで行って、フェンスを握りしめた。 ちょうど、うちの会社のジャンボ機が、プッシュバックで駐機場を離れたところ。 目を凝らすと、辛うじて、尾翼付近の機体番号が読み取れた。間もなく離陸態勢に入る、関空行き。 日勤勤務終了間際、この便の機長から、フライトプランの修正依頼が入った。 穣は私だけ先に上がらせて、自分はその対応に当たっている。オフィスを出る時、『展望デッキで待ってるね』と言っておいた。 無事、フライトに漕ぎつけたようだし、そう待つことなく来てくれるはず――。 私は、彼の訪れを待ってきゅんとする胸元に、そっと手を当てた。指導担当と教え子という関係もあって、私たちはほぼ同じシフトが組まれている。 おかげで、二十四時間三百六十五日のシフト勤務でも、仕事上がりの時間は夜も朝も彼と同じ。一緒にオフィスを出て、彼のマンションに行く。 二人で夕食を、朝食をとって、多くの時間を共に過ごせる。恋人になって間もないけれど、彼のマンションに私の私物が増えつつある。 着替えもばっちりだし、多分今夜も……。 仕事中は払拭できた煩悩が湧き上がって、心臓が拍動を速める。「ふう……」私は声に出して息を吐き、夕焼け空を仰いだ。 ――いつも一緒にいられるのが幸せすぎて、そうじゃなくなるのが怖い。「まさか、そんな腑抜けたこと、思う日が来るなるなんてなあ……」誰にともなく、独り言ちる。 柄にもなくセンチメンタルになったのは、午前中の穣の独り言が、やっぱり胸に引っかかったままだからだ。『こういうのも、いつまでかな……』今、再び脳裏に蘇らせて、彼の意図を探る。 ――まさか。 彼には、すでに別れの
私は肩を竦めて、コソッと教える。「え? 今野さんが?」「うん。瞳、佐伯君と付き合ってるの。でも、一年くらい経つよ?」穣は訝し気に眉根を寄せていたけど、思考が繋がった様子で天井を仰いだ。「アイツ……聞いてねえぞ」「お前、なかなか同期会に顔出さないから、同期同士の話題に疎いよな」水無瀬君が、先ほどまでとは打って変わって、モリモリとご飯を食べながら言葉を挟む。「で。今野が言ってたダブルデート、俺と嫁さんも混ぜてもらっていい?」あっという間にハンバーグを半分食べ終えて、私に小首を傾げた。「っ、えっ!?」「ダブルデート? なんのこと?」穣が頬杖をついて、私を斜めに見上げてくる。「あ。そ、それはね、瞳がフライングして盛り上がってただけで……」穣と水無瀬君、二人から探るような目で見られ、私は身の置き場がない気分で縮こまった。 だけど、すぐに我に返り、「そもそも、水無瀬君と理華の場合、『デート』とは違うんじゃ」隣から視線を感じながら、水無瀬君にツッコむ。「え? 違わないよ。恋人が嫁さんってだけで」当然のように返されて、思わず息をのんだ。 穣が、「はあ」と声に出して溜め息をつく。「結局、自分が惚気たいだけだろ」水無瀬君は、ハンバーグの最後の一口を頬張って、「俺に惚気と言うからには、認めたってことでいいね?」悪戯っぽい……策士な笑みを浮かべた。 それには穣も、返事に窮して口ごもる。「あー……ええと」きまり悪そうに視線を彷徨わせるのを見て、水無瀬君は満足げに口角を上げた。 そして。「ご馳走様」食べ始めたのは一番遅かったのに、ハンバーグ定食を綺麗に平らげ、両手を合わせて挨拶をした。 呆気に取られる私に、「お邪魔しました」と目を細め、椅子から立ち上がる。「あ。えっと……理華によろしく」トレーを持ち上げた彼に、私は軽く腰を浮かせてそう言った。「うん。目出度く付き合い始めたみたいだよって報告したら、アイツもすごく喜ぶと思う」「!」「じゃ、氷室。トリプルデート、楽しみにしてるな」まるで台風のように私たちを引っ掻き回して、最後は彼らしい爽やかな笑顔を見せる。 水無瀬君がテーブルから離れていった後、私と穣はまさに台風の目の中に入ったように静まり返った。「えげつない探り方しやがって……。水無瀬のヤツ」苦々しそうに、ボソッと呟く
穣は、自分に注がれる視線を私に流すように、横目を向けて、「空に一番精通してるのは、管制官でもディスパッチャーでもなく、パイロットだから。操縦の判断は任せて、地上で待ってよう……って、コイツに言われた」「っ! ブホッ」あの時、熱くなって彼を諭した言葉を、前触れもなく持ち出され、私は思わず吹き出した。 水無瀬君が、「へえ」と目を瞠る。「『航空事故』だからこそ、パイロットに、フライトマニュアルに沿った操縦をさせないと……って。俺はあの時、頭ガチガチにして、久遠さんとバトった。許可した管制はあくまでも外部の人間だから、同じ社員の俺が、なんとか社内規定に従わせないとって。……八巻さんに、一人じゃなくて、みんなで分担しようって言われて、目が覚めた気分だった」私は口元をハンカチで押さえながら、静かにポツリと口にする穣の横顔を、涙目で見つめた。「人の手を借りるより、自分一人の方がペースが乱れない。確かに俺、ずっとそうやって仕事してた。……周りを、信用しようとしてなかったから」「……そっか」水無瀬君が、なにか訳知り顔で目を細める。 ようやく箸を持ち上げると、味噌汁で濡らした。「氷室もやっと、運命の女と巡り会えたかー」自分の言葉に納得したように、何度も首を縦に振る彼に、私は「えっ!?」と声をひっくり返らせた。「なっ……水無瀬」今度は、穣が「ゴホッ」と噎せ返るのを聞いて、「じょ……氷室君、大丈夫?」慌てて声をかけ、彼の背中を軽く叩く。 水無瀬君は、なにやらニヤニヤと私たちを眺めている。 穣は、私に「ああ」と頷いてから、コップの水をゴクゴクと呷り、「なんちゅう意味深な言い方するんだ、お前」向かい側の彼を、ギロッと睨む。 なかなかの眼力なのに、水無瀬君は怯む様子もない。「意味深に聞こえるのは、氷室が意識しすぎてるからだよ」むしろ強気に、ふふんとほくそ笑む。「俺が、なにを」「パイロットの間でも、滅茶苦茶キレるけど一匹狼の石頭って言われるお前が、八巻さんの言葉で改心した。お前の仕事人生を変えたに等しい出会い。運命だって、俺は思うよ?」いつもは爽やかな笑みに、そこはかとないブラックさを滲ませ……。「ね? 八巻さん」あろうことか、私に同意を求めてくる。「えっ!? ええと……」私は素っ頓狂な声をあげて、穣の判断を求め、チラッと視線を投げた。
「八巻さん、どう? 運航管理部は」水無瀬君がカップを口に運びながら、私に訊ねてくれる。「うん。今までの営業と勝手が違って、最初は大変だったけど……念願だったから、楽しい」私はそう返事をしながら、隣の彼を横目で窺った。 氷室さんは私が同席するのと同時に、黙々と箸を動かしていた。「氷室が指導してくれるなら大丈夫だよ。氷室、頼りになるし」水無瀬君は、にっこりと笑う。「ああ、うん。ほんと、氷室さんってすごくて……」さすがに本人目の前にして、他人に今までの塩対応を語るわけにいかない。 私は、曖昧に言葉を濁した。 水無瀬君は、氷室さんが無言で食事のペースを上げるのに気付いたのか、「ん?
とりあえずバスローブを身に着け、髪をタオルで拭いながらバスルームを出る。 そして、窓際の簡素なテーブルの前の椅子に、ゆったりと腰かける氷室さんを目にして、ドキッとして足を止めた。彼もバスローブ姿のまま、長い足を組み上げている。 裾が割れ、引き締まったヒラメ筋を惜しみなく披露する彼が、ちらりと私に視線を流してきた。「なんだよ」一瞬私が怯んだのを見逃さず、むっと口をヘの字に曲げて、腕組みをする。「い、いえ。一度帰るって言ってたから、まだいると思わなくて」タオルを口元に当て、モゴモゴと言い訳をする私に、ハッと短い息を吐く。「置いて帰ったかって? いくらなんでも、薄情だろ」「えっと
いやがおうでも、私の鼓動は限界を突破する。「じゃ、じゃあ……」聞いてもらえる交換条件は、たった一つ。 私が一番、彼に望むこと。 それは――。「氷室さんの絶対的バディになれるように、指導してください」膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、前のめりになって答えた。「まずは、氷室さんが私じゃなきゃダメだって言ってくれるような……運航支援者になりたいんです!」勢い込んで言い放った私に、彼は一瞬、ほんのわずかに目を丸くした。午後二時。 運航管理部、遅番勤務者の始業時間だ。 簡単なミーティングの後、早番勤務者から申し送りを受けて、早速業務に取りかかる。「八巻さん。南紀白浜空港上空の
飛行中の機体を幾つも監視しながら、同時進行で一便ごとにフライトプランを作成する。 始業早々、息つく暇もない。「氷室さん。気象データ、送信しました」私は、彼が無線交信を終えたタイミングを測って、声を挟んだ。「了解」氷室さんは、返事と共に、早速データを確認している。 私の視線を感じているのか、わずかに眉根を寄せて、中指と人差し指で眼鏡のブリッジをクッと押し上げた。「見すぎ」やや鬱陶しそうに横目を流してくるけれど、すぐにハッとしたように、正面に向き直って口元に手を当てる。 そして、「はあ」と声に出して溜め息をつき……。「……ロードコントローラーから、小松84便と広島12便のデー