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22.支社の中の日常

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-05-11 16:38:25

十月の終わりが近づくと、新潟の午後の光は少しずつ低くなる。

空はまだ明るいのに、色だけが先に冷えていく。窓の外には白っぽい雲が薄く広がり、風が吹くたび、ガラスの向こうの街路樹が乾いた音を立てた。冷房の気配はもうない。かといって暖房を入れるにはまだ早いらしく、支社の室内には、人の出入りと機械の熱だけで保たれているような半端な温度が残っている。

電話の本数は昼より少し減っていた。コピー機の音も、朝ほどひっきりなしではない。誰かが日報をまとめ、誰かが伝票の束を揃え、給湯スペースのほうでは湯を注ぐ音が小さく響く。春のころにはただ近くて雑多なだけだったその気配が、今は前より少しだけ意味のあるものとして耳に入ってくる。

陸斗は自席で画面を見つめたまま、しばらく指を止めていた。

仕事がないわけではない。むしろ、目の前には今日中に片づけるべき確認事項がまだ残っている。朝比奈フーズ関連の数字の更新も、販路の整理も、明日の打ち合わせ用の確認もある。頭は動いている。けれどその裏で、数日前にあったやり取りが、まだ妙に生々しい形で胸のどこかに残ってい

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  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   26.一室だけ

    雪の中に浮いたホテルの灯りは、妙に現実味があった。もっと洒落た外観か、あるいは逆に古びた安宿みたいなものを想像していたわけでもないのに、目の前の建物があまりにも“必要なものだけある場所”の顔をしているせいで、陸斗は一瞬だけ息の置き場をなくした。郊外の幹線道路沿いに建つ、どこにでもありそうなビジネスホテル。四角い看板、明るすぎないロビーの灯り、雪を被り始めた植え込み。色気の欠片もない。だからこそ、ここへ来たのが仕事と天候の延長でしかないことを、容赦なく突きつけてくる。車のドアを開けた瞬間、風が横から吹き込んだ。湿りを含んだ雪が頬に当たり、首筋からコートの襟へ入り込む。粒は大きく、雨より鈍い重さで肩口に落ちて、すぐに溶ける。その次の粒がまた同じ場所へ重なる。駐車場の白線はもう半分ほど見えなくなりかけていて、さっきまで見えていた向かいの店の看板も、今は雪の向こうで滲んでいた。ここへ来たのは、仕事の延長だ。そう思うのに、その言い聞かせが少し遅い。陸斗はドアを閉め、鞄を持ち直した。濡れた革の感触が指先に冷たい。征司はすでに運転席側から回り込んでいて、片手でジャケットの前を押さえながらホテルの自動ドアへ向かっていた。振り返りもしない。だが、急ぎすぎてもいない。歩幅は一定で、雪の降り方も、路面の濡れ具合も、その場にある条件として静かに受け入れているみたいだった。ロビーへ入った瞬間、空気が一変した。暖房の乾いた熱が、冷えた頬と耳へ一度に触れる。ガラス扉の内側で、濡れたコートや靴から落ちる水気だけが急に生々しくなる。足元のマットはもう何人分もの雪を吸っていて、靴底の下でわずかに沈んだ。フロントの上には柔らかい色の照明が落ち、壁際には観光案内のパンフレットが整然と並んでいる。必要な明るさ、必要な音量、必要な清潔さ。全部が過不足なく、事務的だった。征司はフロントへまっすぐ向かった。会社名、予約の確認、領収書の宛名、朝の出発時間。事務的なやり取りが短く交わされる。陸斗は少し離れた場所で待っていた。手伝えることは特にない。濡れた袖口が妙に気になり、コートの裾から落ちた水滴が床へ小さく丸い跡を作っているのを

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   25.帰れない道

    包装会社の玄関を出た瞬間、空気はもう朝とは別のものになっていた。白いだけだった空が、いつの間にか厚みを持って近づいている。風が真正面から吹きつけ、頬に当たるものが冷たい雨ではなく、もっと粒のある湿りに変わっていた。最初の一つは、ただの氷の粒かと思った。次の瞬間には、それがいくつも、横から叩きつけるように飛んできた。雪だ、と陸斗は思った。まだ積もってはいない。アスファルトも、駐車場の白線も見えている。だが、車の屋根に当たる音が、雨より鈍く重い。コートの肩に落ちた粒はすぐに溶けるのに、その次がもう上から重なってくる。視界の向こうで、さっきまで見えていた道路標識の輪郭が少しだけ曖昧になっていた。「……降ってきましたね」思わず口から出る。征司は車のロックを外しながら、空を一度見上げただけだった。「乗れ」その一言に促され、陸斗は助手席へ滑り込む。ドアを閉めた瞬間、外の音が一段遠くなった。だが静かにはならない。屋根を打つ雪の音と、フロントガラスへ細かく当たる粒の連続が、閉じた車内にまで響いてくる。エンジンがかかり、ワイパーが動いた。一度、前を切る。二度目で、もう白い筋が増えている。ヘッドライトをつけた対向車が、昼間なのにどこか夜の中を走るみたいな鈍い色で流れていった。陸斗は腕時計へ視線を落とした。まだ、どうにかなる時間のはずだった。包装会社を出るのが多少遅れたとはいえ、ここから高速の入口まではそれほど遠くない。雪が強くても、少し時間を見れば支社までは戻れるかもしれない。そこから駅に出るのが難しくても、最悪、会社で何とかなる余地もある。そういう計算が、半ば反射で頭の中に立ち上がる。立ち上がるのに、その計算のどこかへ自分でうまく乗れない。征司は車を出すと、すぐにダッシュボードのスマートフォンを一度だけ確認した。道路情報の画面らしいものが光っている。すぐに戻した表情は変わらない。何もなかったみたいな横顔だった。その平静さが、陸斗にはかえって不安を呼ぶ。慌てていない。つまり、慌てる前に判断を切り替え始

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   24.雪になる前の空

    朝、部屋を出た瞬間に、空の低さで今日は違うと分かった。晴れていないわけではない。光はある。だが青さが見えず、街全体の上に白い蓋をかぶせたみたいな空だった。風は冷たい。十一月の終わりから十二月へ入るころの、新潟特有の、水を含んだような冷え方だ。まだ雪はないのに、頬へ当たる空気の質だけが先に冬になっている。陸斗はマフラーを首元へ少し引き寄せ、駅へ向かう人の流れに混じった。春にここへ来たばかりのころは、この土地の寒さにも、空の色にも、毎朝いちいち身構えていた気がする。今はそこまでではない。驚かないだけで、好きになったわけでも、慣れきったわけでもない。ただ、この白い空が、何かを予告する色だということくらいは、身体が先に覚え始めている。支社へ入ると、外の湿った冷気とは別の、乾いた暖かさが迎えた。暖房は強すぎず、紙とインクと、朝いちばんのコーヒーの匂いが薄く混じっている。電話はもう何本か鳴っていて、コピー機が低い音を立てて紙を吐き出し、誰かが総務の席のほうで短く在庫確認をしていた。人の声はあるのに、夏や秋の初めのようなせわしなさは少し引いている。冬の前は、支社の音まで少し硬くなるのかもしれないと、陸斗はぼんやり思った。「三沢さん、朝比奈の件、倉庫側の更新来てます」水沢がファイルを一冊持ってきて、机の上へ置いた。「ありがとうございます」「包装会社のほう、午後から来るそうです。部長、今朝もう一本入れてました」そう言って彼女はすぐ別の書類を抱え直した。説明はそれだけだが、それで十分通じる。春のころなら、その短さに置いていかれる感じがしただろう。今は、今日の動きが頭の中でほぼ同じ線に乗る。包装会社、冷凍倉庫、出荷導線の最終確認。朝比奈フーズ本体だけでは足りない部分を、関連先ごと見て回る日だ。朝比奈のリニューアル案件が実際に走るなら、見せ方だけではなく、包材の納まり方も、倉庫から出るときの温度帯も、出荷便の組み方も、全部一度きちんと潰しておかなければならない。だから征司が行く意味があり、陸斗が同行する意味もある。机に座り、今日必要になる資料を確認する。包装仕様の最終案、朝比奈側

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   23.役に立てる場所

    十一月の朝は、もう冬の手前の顔をしていた。駅へ向かう道で吐いた息が、わずかに白く見えた気がして、陸斗は首元のマフラーを少しだけ引き上げた。まだ雪の気配はない。けれど、空の色も、頬に触れる風の乾きも、春や秋の冷たさとは違っている。季節がもうひとつ先へ進めと急かしてくるみたいだった。支社の自動ドアが開くと、外気とは別の温度が頬に触れた。暖房が入り始めたらしい。乾いたあたたかさの中に、紙とインクと、朝いちばんのコーヒーの薄い匂いが混じっている。電話はもう鳴っていて、コピー機が低く紙を吐き出し、誰かが荷物の受領印を探しながら短い声を返していた。春先には、ただ近くて雑多なだけだったこの朝の気配も、今は前より少しだけ輪郭を持って見える。誰がどこで何を回しているのか、その流れの細い線が、完全ではなくても拾えるようになっていた。「三沢さん、その件、あとで確認お願いします」席へ向かう途中、総務の席の近くから水沢が声をかけてきた。言いながら、彼女は別の書類を誰かへ渡している。わざわざこちらを向き直りもしない、その自然さが少しだけ胸に残った。「分かりました」返事をしながら、陸斗は一瞬だけ立ち止まりかけて、それから何でもない顔で自席へ向かった。名前が、普通に仕事の流れの中で呼ばれる。春にここへ来たころは、その当たり前がなかった。誰かの預かり物として、仮置きされた席にいる感覚のほうが強かった。今も、左遷されてきたという事実が消えたわけではない。それでも朝の支社は、最近ときどき、陸斗を“説明の必要な人間”ではなく、“いる前提の人間”として扱う瞬間がある。椅子へ腰を下ろし、パソコンを立ち上げる。画面が明るくなるのを待つあいだに、斎賀が机の横へ来て、薄いファイルを一冊置いた。「朝比奈の包装仕様、最終整理いきます」相変わらず抑揚の少ない声だった。だが以前のような、どこか突き放した短さではない。「午前のうちに現場と条件合わせて、午後一で向こうへ出したい。原料側の更新、昨日入ってるんで先に見といてください」言葉が一つ多い。それだけ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   22.支社の中の日常

    十月の終わりが近づくと、新潟の午後の光は少しずつ低くなる。空はまだ明るいのに、色だけが先に冷えていく。窓の外には白っぽい雲が薄く広がり、風が吹くたび、ガラスの向こうの街路樹が乾いた音を立てた。冷房の気配はもうない。かといって暖房を入れるにはまだ早いらしく、支社の室内には、人の出入りと機械の熱だけで保たれているような半端な温度が残っている。電話の本数は昼より少し減っていた。コピー機の音も、朝ほどひっきりなしではない。誰かが日報をまとめ、誰かが伝票の束を揃え、給湯スペースのほうでは湯を注ぐ音が小さく響く。春のころにはただ近くて雑多なだけだったその気配が、今は前より少しだけ意味のあるものとして耳に入ってくる。陸斗は自席で画面を見つめたまま、しばらく指を止めていた。仕事がないわけではない。むしろ、目の前には今日中に片づけるべき確認事項がまだ残っている。朝比奈フーズ関連の数字の更新も、販路の整理も、明日の打ち合わせ用の確認もある。頭は動いている。けれどその裏で、数日前にあったやり取りが、まだ妙に生々しい形で胸のどこかに残っていた。これなら進めやすいです。湊の、あの短い言葉。それに続いた征司の、過不足のない一言。それでいこう。たったそれだけのことを、こんなに引きずるのは自分でも癪だった。大げさに褒められたわけでもない。劇的な成功でもない。ただ、自分が持っていったものが、その場で“使うもの”として扱われた。それだけのことだ。なのに、その小ささのまま、思っていたより深く残っている。考えすぎるな、と陸斗は思う。そんなことを大事そうに胸へ置いておくのは、どうにも気恥ずかしい。だから画面の数字へ意識を戻そうとする。戻そうとするのに、ふとした拍子にまた思い出す。そのたびに、嬉しいとも言い切れない、悔しいとも言い切れない感情が胸の奥で混ざる。「まだそれ見てるんですか」不意に声がして、陸斗は顔を上げた。水沢が給湯スペースから戻ってくるところだった。片手に湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手にはクリアファイルを抱えている。忙しさの切れ目をうま

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   21.初めて噛み合う

    十月に入ると、朝の空は少しだけ高く見えた。支社へ向かう道の光はまだ明るい。残暑が完全に抜けたわけではなく、日なたを歩けばシャツの背にじわりと熱が溜まる。それでも、頬をかすめていく風の感触は九月までと違っていた。湿りを引きずりながらも、奥のほうに乾いた冷たさの気配がある。季節が変わるのはいつも唐突ではなく、こういう曖昧な朝からなのだろうと、陸斗は信号待ちのあいだにぼんやり思った。手元の封筒には、朝比奈フーズ向けに修正した資料が入っている。昨日の夜、最後まで見直した。競合比較の表も、売価帯の整理も、訴求軸の言葉も大きくは変えていない。変えたのは順番だった。どの論点から入るか。どの不安を先に拾うか。どこで現場の制約を見せて、そのあとに販路の話を乗せるか。前回は、言いたいことを先に置きすぎた。今回は逆だ。相手がいま抱えている怖さから話を始めて、その上に自分の整理を重ねる。理屈としては、もう何度も頭の中で確認していた。それでも不安が消えないのは、この修正が正しいのかどうかを、自分ではまだ証明できないからだった。支社の自動ドアが開く。中はいつもどおり、少し近くて少し雑多な朝の音で満ちていた。電話の保留音、コピー機の低い作動音、荷物を抱えた誰かの短い声。春のころほどその近さに身構えなくなったのは事実だが、馴染んだと認めるほど素直にもなれない。ただ、この朝の流れの中で誰が何を回しているのか、以前より少し分かるようになってしまっただけだ。水沢が総務の席の近くで、二つの書類を片手で持ち替えながらこちらに気づいた。「おはようございます」「おはようございます」「朝比奈さん、今日でしたよね」水沢の視線が、陸斗の手元の封筒へ落ちる。「はい。午前のうちに一回」「部長、さっきその件で電話してました。今日はたぶん、ちゃんと使う前提で持っていくんだと思います」その言い方に、陸斗はわずかに眉を動かした。「使う前提、ですか」「そう聞こえましたけど」水沢は軽く肩をすくめる。「もっとも、私は外から見てるだけなんで」言うだ

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