LOGIN「部長、戻られました」
その一言が落ちた瞬間、会議室の空気がほんの少しだけ締まった。
誰かが手元の資料を揃える。椅子の脚が床を擦る音が短く鳴って止む。さっきまで執務室のほうから聞こえていた電話の声も、ここまで来ると遠い。曇り空の白い光が窓に薄く貼りつき、会議室の空気を平板に照らしている。春の午前の明るさのはずなのに、色温度は低いままだった。暖房の名残が少しだけ室内に残っていて、それがかえって喉の奥を乾かせる。
陸斗は資料の束を手にしたまま、自分でも分からないうちに背筋を伸ばしていた。
理由のある緊張ではなかった。まだ顔を見てもいない。相手がどんな人物かも、名前と支社内での重みしか知らない。それでも、部長が戻ったと聞いた瞬間、体のどこかが先に身構えてしまった。ネクタイの結び目が少しだけ窮屈に感じる。指先はさっきまでと同じように紙の端を揃えているのに、妙に感覚だけが鋭い。
会議室の扉の向こうで、足音が止まった。
次いで、ごく低い声がひとつ聞こえた。
「揃ってるか」
たったそれだけだった。
誰かに向けた確認の言葉。業務のための声でしかない。だが、その抑えた低さが耳に届いた瞬間、陸斗の喉の奥が一度きつく閉まった。
呼吸が、一拍だけ遅れる。
低いのに押しつけがましくない声。抑揚は少ないのに、言葉の輪郭だけが妙にはっきり残る。その響きを知っている、と体が先に思い出す。頭が理解するより早く、指先の感覚がわずかに失われた。持っていた資料の角が、ほんの少しだけずれる。
まさか、と思うより前に、違う場所が反応していた。
ホテルの白いシーツ。夜の終わりに落ちていた、あの声。暗い部屋の中で、距離を測るように静かだった気配。呼吸を乱していたのは自分だけで、相手は最後まで声の温度を変えなかった。その断片が、思い出そうとするより早く、胸の奥へ一気に流れ込んでくる。
陸斗はほとんど反射で顔を上げた。
会議室の入口に立っていた男を見た瞬間、考えるより先に分かった。
あの夜の男だ。
時間はたしかに過ぎている。五年か六年。そのあいだに自分も変わったし、相手も当然変わっているはずだった。けれど、陸斗にとって決定的なのは、顔立ちの一致ではなかった。背の高さでも、整った輪郭でもない。もっと別の、動きの質みたいなものだった。
急がない。
それがまず分かる。
会議室へ入ってくる歩幅が一定で、誰かを待たせることにも、自分が待たされることにも慣れている男の歩き方だった。三十代半ばらしい落ち着きが、わざとらしくなく体に馴染んでいる。濃紺のスーツは派手ではないのに質のよさが分かり、シャツも、ネクタイも、隙のない程度に整っている。地方支社の部長という肩書だけでは収まりきらない、どこにいても自分の輪郭を崩さない男の立ち姿だった。
目元は静かだった。切れ長寄りで、感情を余計に浮かべない。そのくせ、一度視界に入ると逸らしにくい。口元も引き締まっているが、冷たく見せようとしているわけではない。ただ、表へ出すものを選び慣れている顔だ。
あの夜、暗い場所で見た横顔より、今のほうが完成されていると思った。年齢がそのまま落ち着きと圧に変わっている。だからこそ、余計に分かってしまう。
鼻先に、ありもしないはずの清潔な香りまで蘇る気がした。石鹸みたいな、洗いたてのシャツみたいな、薄く乾いた匂い。ホテルの白い空気と一緒に残ったあの気配が、今この会議室の曇った光の中へ、不意に重なる。
「部長、これ朝比奈フーズの更新版です」
誰かがそう言って資料を差し出す。
男は、今は成田部長と呼ばれるその人は、ごく自然にそれを受け取った。視線を落とし、必要な箇所だけを短く読む。動きに迷いがない。周囲もその流れに合わせて無駄なく動いている。誰かが補足を入れ、別の誰かが次の資料を机へ置く。その中心にいるのに、威圧感で場を支配しているわけではないことが、逆にはっきりした。みんながこの人の判断を前提にして動いている。それがあまりに自然だから、かえって格が見える。
陸斗の耳の奥では、別の声が重なっていた。
「帰るなら、今でもいい」
夜の気配の中で、退路だけを残して置かれた声。
「気をつけて帰れ」
明け方の冷えた空気の中で、たった一言だけ残された低い声。
あの夜の言葉はどれも短かった。短いのに、陸斗の中では妙に長く残っている。もうとっくに忘れていたつもりだった。思い出す必要のない記憶として、どこか深いところへ押し込んでいたはずなのに、目の前の男を見た途端、その全部が今ここへ引き戻される。
紙を持つ手に少しだけ力が入った。
表情は崩すな、と陸斗は反射的に思う。ここで顔色を変えるわけにはいかない。会議室には他にも人がいる。誰もこの場で自分の内側がひっくり返っていることなど知るはずがないし、知られても困る。傷ついたときほど平気な顔をしようとするのは、自分でも嫌になるくらい身についた癖だった。
それでも、呼吸だけはうまく戻らない。
喉が乾いている。視線を逸らすべきか、そのまま見てしまうべきか、その判断が半拍遅れる。目を逸らせば不自然かもしれない。見続けるのも不自然だ。そんな迷いが一瞬でいくつも駆け巡るのに、外から見れば陸斗は資料を持って立っている若手社員のままのはずだった。
成田部長は、他の社員の説明を聞きながら一度だけ顔を上げた。
その視線が会議室全体を短くなぞり、最後に陸斗の位置で止まる。
長くはない。短すぎもしない。新しく入った部下を認識する上司として、ちょうど自然な長さだった。だが、その数秒が陸斗には耐えがたく長く感じられた。
何も浮かばない目だった。
少なくとも、外から見ればそう見える。驚きも、戸惑いも、意味ありげな色もない。ただ目の前の相手を認識しているだけの、静かな視線。あの夜、自分の強がりごと見抜いていた目元と同じはずなのに、今はそこに一切の揺れが見えない。
覚えていないのか、と、その場で言葉になる前の痛みだけが胸に走る。
いや、違うかもしれない。そう決めつけるには早すぎる。だが、少なくともこの男は、表向きには何も崩していない。部長として会議室へ入り、部長として資料へ目を通し、部長として新しい部下を見る。その整い方が、陸斗には残酷だった。
何事もなかったみたいではないか。
あの夜、自分の中にはあれだけの熱と、恥ずかしさと、忘れられない感覚が残ったのに。ホテルの白さも、朝の冷えた空気も、たった一言だけ妙に優しかった声も、今でも思い出せるくらいには残っているのに。相手はこうして、何もなかった顔で会議室に立てるのかと思うと、胃の底に重いものが沈む。
成田部長は資料を閉じ、ほんのわずかに顎を引いた。
「三沢」
呼ばれた瞬間、陸斗の心臓がひとつ大きく打つ。
姓で呼ばれること自体は、会社では当たり前だ。新しい配属先ならなおさら、名前より先にそう呼ばれる。だが、匿名の夜の相手だった男に、今は部下として苗字で呼ばれる。その事実が、一言だけで過去を完全に壊した。
あの夜には名前がなかった。
仕事も立場も、明日に続く線もなかった。ただ今夜だけの相手だったはずの男が、今は自分の所属と名前を知っていて、上司として呼ぶ。その当然さが、あまりにもきつい。
「今日からよろしく頼む」
言葉はそれだけだった。
甘さも、意味深さも、何もない。新しく来た部下に向ける、ごく普通の挨拶だ。声も落ち着いている。職場の誰が聞いても不自然ではない。むしろ適切ですらある。
だからこそ屈辱だった。
何もなかったことにされたみたいだ、と陸斗は思う。いや、本当に何もなかったのかもしれない。相手にとっては、あの夜は数ある一夜のひとつで、自分のほうが勝手に引きずっていただけなのかもしれない。そんな考えが、まだ言葉になる前の鋭さで胸を刺す。
返事をしなければならない。
そう分かっていて、喉が一瞬だけ動かなかった。遅れたら不自然だ。ここで黙れば、周囲の誰かが怪訝に思う。陸斗は息をひとつだけ押し込み、表情の筋肉をどうにか平らに保った。
「三沢です。よろしくお願いいたします」
声は、思ったより普通に出た。
少しだけ硬かったかもしれない。それでも破綻はしていない。自分でそう判断できる程度には、まだ外面を保てている。崩れなかったことに安堵するより、余計に惨めだった。周囲にはたぶん何も伝わっていない。新しく来た若手が、部長に対してきちんと挨拶を返した。それだけに見えているはずだ。
この場で揺れているのは、自分だけだ。
その孤立感が、じわじわと熱を持つ。
成田部長は陸斗の返答に短く頷いた。そこで会話は終わる。追い打ちをかけるようなことも、妙な含みを残すこともない。すぐに視線は次の資料へ落ち、別の社員へ確認を返す。
「朝比奈フーズの件、午後一で先方入る。数字はこのまま使うが、工場側の条件はもう一回詰める。斎賀、物流と包装仕様の抜けだけ拾っておいてくれ」
「分かりました」
「水沢さん、先方へ午前のうちに一本お願いします」
「はい」
そのやり取りの自然さに、陸斗はさらに息苦しくなる。
支社の流れは何事もなく続いていく。成田部長を中心に、資料が動き、指示が落ち、誰かがそれを受けて動く。そこに個人的な感情の影はひとつも見えない。新しい部下が来た、その挨拶が済んだ、それで終わり。少なくとも外から見れば、今起きたことはそれだけだ。
陸斗だけが、自分の体温の高さを意識している。
会議室の空気は少し暖房が残っているくらいで、暑くはない。窓の外の光は曇っていて、春らしい軽さもない。なのに、自分の内側だけが妙に熱い。喉の乾きも、首筋の脈も、全部がさっきより近い。
気のせいではなく、あの人なのだ。
そう確信しているのに、目の前の男は平然と部長の顔で仕事をしている。その落差が、言葉にならない屈辱として残る。
自分だけが覚えていたのかもしれない。
その考えはまだ、はっきりした文章にはならない。ただ鋭い痛みの形で、胸の奥へ落ちていく。認めたくないのに、次の資料へ目を落とす成田部長の横顔が、その痛みを肯定するみたいに静かだった。
笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音
食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが
夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう