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last update Date de publication: 2025-12-01 15:38:55

 その男はノーネクタイで、胸元がだらしなく開いている。足元には、泥だらけになった革靴。 まるで、どこかのパーティー会場からそのまま逃げ出してきたような。

「あの、もしもし?」

 恐る恐る声をかける。返事はない。ただ、浅く速い呼吸音だけが聞こえる。死体ではない、生きている。

 近づくと、奇妙な匂いが鼻をついた。ゴミ捨て場特有の生ゴミの腐敗臭、それに混じって、脳が痺れるような甘く官能的な香りが漂ってくる。

(これ、香水の匂い? けっこう高級なやつじゃない? 何だかどこかで覚えがあるような……)

 場違いな香りに頭が混乱してしまう。

 私は改めて目の前の彼を見た。

 泥だらけの顔に、雨に濡れたように張り付いた前髪。

 男が、うめき声を上げてわずかに顔を動かした。街灯の頼りない明かりが、その横顔を照らし出す。

「……え?」

 時が止まるというのは、こういうことか。閉じた瞼を縁取る睫毛は、泥に汚れた頬に影を落とすほど長く、濃密だ。鼻筋は、神様が定規で引いたとしか思えない完璧なラインを描いている。血の気の引いた唇でさえ、花弁のように優美な形を保っていた。

 肌には泥がこびりついているはずなのに、その下にある皮膚は驚くほど白く、陶磁器のような滑らかさを主張している。汚れているのに、薄汚くない。むしろ、その汚れさえも「退廃的な美」を演出するメイクアップのように見えた。ゴミ捨て場という最底辺のロケーションが、逆に彼の人間離れした造形美を際立たせる舞台装置になってしまっている。

 ついさっき、街頭ビジョンで見上げたばかりの「国宝」。 綺更津レンが、そこに落ちていた。

「き、綺更津……レン……?」

 国民的アイドル。今をときめくスーパースターで、雲の上の存在。

 そんな彼がなぜ、私の家のゴミ捨て場の隣で、ボロ雑巾のように転がっているのか。

「……っ、う……」

 彼は苦しげに眉を寄せ、自分の首元をかきむしるような仕草をした。

(助けなきゃ)

 とっさに思った。

 でも、どうやって? 救急車? いや、アイドルだぞ。スキャンダルになる。警察? もっとダメだ。

 しこうがぐるぐる回って、答えが出てこない。 手元の茶色い弁当と、目の前の泥だらけの国宝を見比べる。

 拾うべきか。 通報すべきか。 あるいは、見なかったことにして逃げるべきか。

 どうしたらいいの!?

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  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   207

     それから数日後の午後のこと。  ペントハウスの広大なリビングには温かい日差しが差し込んで、平穏な時間が流れていた。  私はキッチンで夕食の仕込みをしながら、リビングのソファでスマートフォンを耳に当てているセナさんの様子をうかがっていた。「……ええ、はい。承知いたしました。……ええ、誠に光栄なことです。スケジュールにつきましては、追って担当の者から調整のご連絡をさせていただきます。……はい、本日はわざわざのお電話、ありがとうございました。失礼いたします」 セナさんが丁寧な口調で通話を終えて、スマートフォンをテーブルに置いた。 彼は中指で眼鏡のブリッジをスッと押し上げる。  キッチンにいる私、床でブロック遊びをしている伊織と茉莉、さらには向かいのソファで寝転がっているハルくんと、台本を読んでいるレンくんの全員を見渡した。「今の電話は、白石監督ご本人からです」 セナさんのその言葉に、リビングの空気がピンと張り詰める。「先日行われた次期大型ドラマの子役オーディションの結果が出ました。……伊織、茉莉」 セナさんが静かな声で双子の名前を呼ぶ。  双子はブロックの手を止めて、不思議そうに首を傾げた。  そんな彼らに向かって、セナさんは滅多に見せない温かさを帯びた笑みを浮かべた。「おめでとうございます。白石監督直々の熱烈な指名により、あなたたち2人が今回のドラマのメイン子役の座を見事に勝ち取りました」 数秒の沈黙の後。「うおおおおおっ! やったああああっ! すっげえええええっ!」 真っ先に叫び声を上げて飛び起きたのは、ハルくんだった。  彼はソファから飛び降りると、伊織と茉莉の元へ駆け寄って両腕でガバッと抱き上げた。「お前ら最高だよ! あの超気難しいって有名な白石監督に指名されるなんて、天才すぎだろ!」「きゃははっ! ハルお兄ちゃん、ぐるぐるしてー!」「やったー! お仕事きまったの?」 訳も分からず喜ぶ双子を抱えたまま、ハルくんがリビングをぐるぐると回り始める。

  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   202

     6歳の男の子とは思えない、生真面目で理屈っぽい言葉だった。  母親から日頃から刷り込まれている言葉を、そのままなぞっているかのようだった。「うん……そうだよね。ごめんなさい、お兄ちゃん」 美桜ちゃんはしょんぼりと肩を落とす。  膝の上に置いた自分の小さな手をギュッと握りしめた。  そうして再び感情を押し殺したような、完璧な「子役の顔」へと戻っていった。 私はそのやり取りを見て、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 あの子たちは5歳や6歳にして、どれほどのプレッシャーと我慢を強いられているのだろう。  大人の期待に応えるために、子供らしい欲求や無邪気さを全て押し殺して、あの完璧な仮面を被っている。 それは本当にあの子たちの望みなのだろうか?  美咲さんは親のエゴを押し付けているだけではないのか?  そんな疑問が湧いた。 やがてスタッフが名前を呼ぶ。  彼らはオーディション会場の方へ消えた。 一方で私の目の前では。「ママ! このクッキー、もう一個食べてもいい?」「だめよ、茉莉。お腹いっぱいになっちゃったら、オーディションでお返事できなくなるでしょう」「えー! じゃあ、終わったらお家でクッキー焼いてくれる? クマさんとウサギさんの!」 今度は伊織が声を上げる。「ふふっ、ええ、もちろん。ご褒美にたくさん焼こうね」「やったー! 伊織、がんばろうね!」「うん! がんばる!」「パパといっしょに、ドラマ出るんだもんね!」 伊織と茉莉は、ニコニコと満面の笑みを浮かべていた。 どんなにアウェイな環境でも、どんなに悪意を向けられても、決して自分たちのペースを崩さない。  彼らの心臓には毛が生えているどころか、分厚い鋼鉄の鎧でもまとっているのではないかと思うほどの度胸だ。(頼もしいなぁ……) 私はありのままの「子供らしさ」を失わない2人の姿に、深い安堵と誇らしさを感じていた。  大

  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   201

     普通の子なら、大人の発するピリピリとした怒気や、この異様な空間のプレッシャーに萎縮してしまうはずだ。  美咲さんもこの場の空気に乗じて、私と双子を威圧するつもりだったのだと思う。明らかに悪意が感じられたから。 けれど伊織と茉莉は、美咲さんの嫌味を完全にスルーした。  ただ純粋に「美味しいおやつ」の存在に心を奪われていたのである。「いただきまーす!」 2人はケータリングコーナーのそばで、サクッ、サクッと音を立ててクッキーを頬張り始めた。「んー! バターの味がして美味しいね、伊織!」「うん! クマさん、お耳から食べちゃった!」「あはは! 伊織、お口の周りに粉がついてるよ!」 伊織はえへへと笑って口の周りを指で拭った。  かじりかけのクマさんクッキーを見て、首を傾げる。「美味しいけど、ママのクッキーのほうが美味しいな?」「そうだよねー! 今度、ウサギさんの作ってもらお!」 双子はキャッキャと無邪気な笑い声を上げる。  ごく自然体で天真爛漫な姿だった。  周囲に満ちる異様な空気など、ちっとも気にしていない。 張り詰めていた糸がプツンと切れたかのように、周囲にいた他の親子たちも、呆気にとられた顔で双子を見つめている。「な……なんなのよ、あの子たち……っ!」 完全にペースを乱されて、渾身の嫌味を無視された美咲さんは、顔を真っ赤にしてワナワナと震えていた。  怒りの矛先をどこへ向けていいか分からず、ヒステリックに私を睨みつけた。「ど、どういうしつけをしてるの! オーディションの前にケータリングを漁るなんて、非常識にもほどがあるわ。なんて卑しいの! やっぱり親の七光りだけの素人ね!」 捨て台詞を吐き捨てて、美咲さんは乱れた呼吸を整えながら、カツカツと足音を荒立てて自分の席へと戻っていった。 私はほっと胸を撫で下ろし、クッキーを食べている2人の元へ歩み寄った。「伊織、茉莉。こぼさないように食べてね。お口の周り、ハンカチで拭くからね」

  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   200

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  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   199

     だから絶対に迷惑はかけられない。 変な悪目立ちをして、レンくんの顔に泥を塗るようなことだけは避けなければならない。 私は双子の専属管理官として、並々ならぬ覚悟を持ってこの付き添いを引き受けていた。 長椅子に座り、水筒の麦茶を2人に飲ませて一息ついた時だった。「ごきげんよう。監督、本日はよろしくお願いいたします」「よろしくおねがいいたします!」「おねがいいたします!」 控室の入り口付近で、ひときわ通る明るい声が響いた。 視線を向けると、関係者らしき男性スタッフに向かって、深々と寸分の狂いもなく完璧な角度でお辞儀をしている親子の姿があった。 男の子は仕立ての良い紺色のフォーマルスーツに身を包み、髪の毛一本すら乱れていない。 女の子は淡いピンク色のフリルがあしらわれた上品なワンピースを着て、まるで精巧なフランス人形のように愛らしい微笑みを浮かべている。(あの子たちは……) テレビで何度も見たことがある。 すでに「天才子役」として数々のドラマに出演し、名実ともにトップクラスの知名度を誇る翔太くんと、美桜ちゃんの兄妹だ。 翔太くんは6歳、美桜ちゃんは5歳のはず。 うちの双子と同年代だ。 けれどその立ち振る舞いには、子供らしさというものが一切感じられなかった。 背筋をピンと伸ばして、周囲の大人たちへ完璧な挨拶と愛想笑いを振りまいている。 子供らしさどころか、機械のような正確さだった。 彼らを背後から操るように寄り添っているのが、母親の美咲さんだった。 三十代前半だろうか。 体にぴったりとフィットしたハイブランドの黒いスーツに身を包み、ピンヒールをカツカツと鳴らして歩く姿は、並々ならぬ自信と上昇志向の強さを全身から発している。 彼女はちらりと周囲を見た。 とても鋭い眼光だった。 控室にいる他の親子たちを「敵」として値踏みしているかのようだった。「さあ、翔太、美桜。あちらの席で最終確認をするわ

  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   198:子役オーディション

     テレビ局の広大な建物の奥深く。 厚い防音扉に仕切られたその区画は、少々異質な空気に包まれていた。 磨き上げられたリノリウムの床を歩く私の足音さえ、周囲の張り詰めた空気に吸い込まれて消えてしまいそうだ。 私は緊張を覚えながら、それでも笑顔を作って双子に話しかけた。「伊織、茉莉。ここが今日のオーディション会場の控室よ。中に入ったら、静かに待っていましょうね」「うん、わかった!」「茉莉、おとなしくできるよ!」 伊織と茉莉は、私の両手をそれぞれしっかりと握っている。普段と変わらない元気な声で頷いた。 今日は子役オーディションの日。 双子はさらなる飛躍として、ドラマのオーディションを受けることにしたのだ。 ドアノブに手をかけて、控室の扉を押し開ける。 その瞬間、むわっとした熱気と、肌を刺すような緊張感が押し寄せてきた。「……!」 広い控室には、厳しい書類選考を勝ち抜いた数十人の子役たちと、それに付き添う親たちがひしめき合っていた。 ただの待合室ではない。 ここは子供たちの人生と、親たちのプライドが交錯する戦場だ。 壁際では台本を握りしめた母親が、引きつった顔で子供に早口でセリフを叩き込んでいる。「違うでしょ! ここはもっと悲しそうな顔をしてって言ったじゃない! もう一回最初から!」「うぇぇん、ママ、もうやりたくないよぉ……」「泣かないの! ここまで来るのにどれだけ苦労したと思ってるの! ほら、涙を拭いて!」 発声練習の声と厳しい叱責、プレッシャーに負けて泣き出す子供たちの声があちこちから聞こえてくる。 異様なほどピリピリとした空気が、部屋全体を支配していた。 私は圧倒されそうになる心を奮い立たせて、部屋の隅にある空いた長椅子へ双子を誘導した。(大丈夫。私たちは私たちのペースでいこう) 数日前のペントハウスでの出来事を思い出す。 密着ドキュメ

  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   66

    「やっと開きましたね」 セナさんが凍りつくような笑顔で言った。口の形だけは笑顔なのに、眼鏡の奥の瞳は全く笑っていない。「随分と優雅な朝をお迎えのようですね、レン? 電話も出ないで、マネージャーが発狂していましたよ」 セナさんの視線が、レンくんの全身を舐めるように走査する。 寝癖のついた髪。それにパステルイエローのモチ犬スウェット。「……ぷっ」 後ろでハルくんが吹き出した。「レンくん、その服マジで着てるんだ! ウケる、写真撮っていい?」 レ

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-23
  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   69

    「単刀直入に言いますよ」 セナさんはスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。表示されているのは通話アプリの発信画面。  宛先には『事務所社長』、そして『警察』の文字が見える。指先一つで、私の人生を社会的に抹殺できる準備は整っていた。「綺更津レンの誘拐、および監禁、洗脳の疑いで、通報する準備はできています」「……っ」 息が止まる。 誘拐。監禁。客観的に見れば、そう見えなくもない。連絡を絶った国民的アイドルが、一般人の女性宅に軟禁され、謎の服を着せられているのだから。 しかもそのアイドル

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-23
  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   67:魔王とモチ犬

     終わった。私の人生のエンドロールが、脳内で高速再生されている。 築30年のボロアパートの玄関。そこに立っていたのは、この世で最も出会ってはいけない2人組だった。 1人は派手なオレンジ髪の青年、遊馬ハルくん。バラエティ番組で見せる無邪気な笑顔だが、その手にはしっかりとスマホが握られている。いつでも証拠写真を撮れる構えだ。 もう1人。こちらが問題だ。完璧な仕立てのスーツを着こなした、銀縁眼鏡の美青年。国民的アイドルグループ『Noix(ノア)』のリーダー、葛城セナ。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。唇の端は優雅に上がり、非の打ち所のない「アイドル

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-23
  • 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい   68

     セナさんが見つめる先。レンくんの胸元には、パステルイエローの生地にデカデカとプリントされた、虚無顔のゆるキャラ『モチ犬』がいる。スーパーJASTOのワゴンセールで発掘された、1980円の奇跡である。 天下の国宝級アイドル、綺更津レン。彼は今、私の部屋着(ダサい)を着て、メンバーを威嚇しているのだ。「……レン?」 セナさんの口から、困惑がにじみ出た声がこぼれた。理解が追いついていないようだ。 無理もない。高貴な「王」をコンセプトにする彼らのセンターが、まさか「モチ犬」を着て仁王立ちしているなど、誰が想

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-23
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