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第1章:013

last update publish date: 2026-05-27 17:51:57

電話を切った直後、玲の頭の中は渚でいっぱいだった。

グラタン。土曜日のパスタ。渚の「ふふっ」という笑い声。

それだけで、今日一日乗り越えられる気がした。

エレベーターのドアが開く。玲はスマートフォンを内ポケットにしまい、フロアに踏み出した。

玲は自分のデスクに戻り、椅子に座った。

モニターに映るのは、仕事のデータ。

(渚、ちゃんと食べてるかな)

そこまで考えて、すぐに別の考えが割り込んでくる。

(金曜日……どこに行っているんだ)

残業はない、と守衛は言った。毎週金曜日、渚は嘘をついている。理由が分からない。他の男と会っているのか。そんなはずはない。でも、そんなはずはないと思いながら、頭の中は最悪の想像で埋まっていく。

玲は引き出しを開けた。

二台目の携帯を取り出す。

マッチングアプリを開いた。

(渚が嘘をついている理由が分からない)

画面をスクロールしながら、玲はそれだけを考えていた。

自分が嘘にまみれた人間だということは、分かっている。それでも――渚の嘘だけは、耐えられなかった。

プロフィールが流れていく。顔。年齢。一言コメント。

どれも、
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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:024

     ※ ※ ※  結局、グループカウンセリングに次の土曜日も参加していた。自分を変えないといけない、という気持ちだけがあって、答えを求めるために参加している。 輪になった椅子の並びも、座っている顔ぶれも先週と同じだった。進行役とピアサポートの昴も変わらずにいる。 次の週も、また次の週も渚は参加した。同じ顔ぶれに渚はもう慣れていたが、何も言葉を発することができなかった。自分の番が近付くと、無意識に膝の上で両手を強く握り、喉の奥に石が詰まったように重く、息苦しくなってくるのだ。 その日、渚の隣に座っていた女性が、静かに口を開いた。「昨日、元夫から連絡が来て。よりを戻そう、俺は変わった、君を傷つけない、約束するって」 彼女は、元夫から暴力と性的支配を長い間受けていた女性だった。暴力を受けた後は必ず優しくされて、それをされるたびに「私は愛されている」と確信し、元夫からの暴力を受容していた。だが、それは夫の不倫を知ったことで崩壊する。自分は愛されていなかった。ならば、暴力や性的支配を受け入れる理由などあるのか――ない。そう悟った彼女はやっと離婚を決意し、元夫から離れる決心をしたのだという。「やっと逃げ出せたんです。それなのに、メッセージを見た瞬間、『変わった』っていう彼の言葉に縋りそうになった自分がいて……。自分で自分が、たまらなく気持ち悪くて」 女性は、顔を歪めて吐き捨てるように語った。「来ないで、二度と連絡しないでって返しました。離れられたはずなのに、まだあの人に振り回されている自分が本当に嫌で堪らない」 元夫から受けた暴力や支配、そして不倫という裏切り。傷つき、ボロボロになりながらも自分を取り戻そうと抗う彼女の言葉は、恐ろしいほど渚の心に刺さった。(裏切られても、縋りそうになる……) 時間が経つほど、玲を思い出してしまう自分。玲との過去を捨てきれない自分。重なる部分が多すぎて、渚の胸は押し潰されそうになり、息が苦しくなっていく。「はい、由美さん、話してくれてありがとうございます」 進行役が優しく声をかけ

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:023

     ※ 案内された部屋は、想像していたよりずっと狭かった。 パイプ椅子が輪になって並べられ、すでに数人が座っている。年齢も性別もバラバラで、共通しているのは、誰もが少し俯き加減で、視線を合わせようとしないことだった。 渚は空いている椅子の中から、入口に近い席に腰を下ろした。膝の上で、指先が無意識に絡み合う。「初めまして、渚さんですね」 進行役らしき女性が、柔らかい声で名前を呼んだ。渚は小さく頷くことしかできなかった。「今日から参加される方が一人います。緊張されると思いますが、ここはお互いのプライバシーを守るため、下の名前だけで呼び合う安全な場所です。話したくないことは話さなくて大丈夫ですよ。ここにいるだけでも、十分な一歩ですから」 輪になった椅子を、渚はぐるりと見渡した。 誰も、渚の顔をじっと見つめてこない。値踏みするような視線も、同情するような視線もない。ただ、静かにそこにいる。「昴くん、今日もよろしくね」 進行役の声に、渚の視線が動いた。 斜め向かいに座っていたのは、思いのほか若く見える男性だった。丸みのある輪郭、大きな瞳、あどけなさの残る顔立ち――男性、という言葉から連想する威圧感が、まるでなかった。むしろ、女の子と見間違えそうなほど柔らかい印象だった。「はい、よろしくお願いします」 昴と呼ばれたその人は、軽く笑って会釈した。人懐っこい、屈託のない笑顔だった。 渚の身体は、強張らなかった。(あれ……) 自分でも意外だった。橘や和樹のように「安全だと確信できる理由」があらかじめ開示されているわけでもないのに、目の前の彼には、不思議と恐怖や警戒心が湧いてこない。 昴が渚の視線に気付き、にこりと笑いかけてきた。「初参加なんですね。緊張しますよね、僕も最初はそうでした」「……はい」 声が、思ったより自然に出た。 進行役が場を整え、輪の中で一人ずつ、今週あったことや胸の内を話し始める。 誰かが、震える声で職場

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:022

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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:021

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  • 壊したいほど好きだから、   第4章:020

     ※ ※ ※ 金曜日の夕食後、リビングで温かいお茶を飲んでいた時だった。渚は手元のお茶を見つめたまま、意を決して口を開いた。「橘さん、和樹さん。……あの、明日の土曜日、行きたい場所があるんです」 ソファでくつろいでいた橘と、キッチンで片付けをしていた和樹が同時に渚を見た。橘は少しだけ目を細め、すぐにいつもの柔らかい声音で言った。「そう? どこか行くのなら車で送迎するわよ」「ありがとうございます。でも……今回は一人で行ってみたいんです。このまま二人にお世話になりっぱなしで甘え続けるのも申し訳ないですし……それに、自分一人で悩んでいても、どうしても答えが出ないことがあるんです。あの場所に行けば、何か答えが出るかもしれないと思いまして」 あの場所――グループカウンセリングのことだ。 玲のことを思い出してしまう。玲の裏切りを知り、心は傷ついているはずなのに、彼を思い出すと許そうと思ってしまう自分がいる。それは、彼をまだ愛しているのか、それとも、その愛に縋ろうとしているのか。玲に対する罪悪感から、許そうとしているだけなのか。ただ、彼を許したところで、真央という存在がいる。自分が何を知ろうとしているのか、はっきり分からない。玲と話したいのか、そうでないのか――……。(……私は、一体どうしたいんだろう) 真央のお腹には、玲の子供がいる――少なくとも、渚はそう受け取っている。お腹を擦っていた真央の姿が、今もなお鮮明に残っている。玲を選べば、一生その影に苛まれ続けることになる。逆に拒絶したところで、彼のいない未来に何を見出せばいいのかも分からない。壊れた日常を取り戻したいのか、それとも過去を全て捨て去りたいのか――問いかけるほどに、思考の渦へ深く沈み込んでいく。「前に進もうとしているのね」 静かに渚の葛藤を見守っていた橘が、暖かな眼差しを向けながら口を開いた。「どうなんでしょうか……」 渚は首を傾げた。前に進んでいる実感など、どこにもな

  • 壊したいほど好きだから、   第4章:019

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  • 壊したいほど好きだから、   第1章:003

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  • 壊したいほど好きだから、   第1章:002

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  • 壊したいほど好きだから、   第1章:001

    (あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある

  • 壊したいほど好きだから、   序章:002

    渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ

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