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木曜日。 渚が展示会と商談を兼ねた二泊三日の出張へ向かった。 行き先は遠方の取引先。玲に告げたのは「上司と同行する」という事実だけだった。(また、橘部長か……)
楽しそうに橘の話をする渚は、今までにない「仕事の楽しみ」を見つけたようだった。
彼女が楽しそうにしているのを見るのは好きだ。だが、それを他人がもたらしたものなら、本音は面白くもなんともない。 内ポケットにある携帯の振動に、玲は携帯を取り出した。 一通の、通知。渚からだった。 玲は画面に浮かんだ渚の名前に微笑んだ。『新幹線の窓から。景色きれいだよ』 添付された写真には、流れる青空と遠くの山々が写っていた。 次に、渚と窓の景色のショット。 画面いっぱいに映り込む渚を見て、いつもなら幸福の時間が流れるのに今日は違った。(美容院に行ったのか?)
※ 玲が乱暴に鍵を開けて玄関に踏み込むと、真央はちょうど靴を履き終えたところだった。バッグを手に、今まさに外出しようとしていた。「私、出かけ――」 最後まで言わせなかった。 玲は真央の肩を掴み、そのまま強引に壁へ押しつける。 鈍い音が響いた。 「……玲?」 見上げた真央は息を呑む。 玲の目が、どこも見ていなかった。「黙れ」 低い声だった。「俺の性欲処理になるって約束だろ。お前は黙って穴をかせ」 玲は真央の両脚の間に己の膝を強引に割り込ませた。動きを完全に封じたまま、片手で手早くベルトを外し、前を寛げていく。 頭の中で、あの男の影が浮かんでは消えた。 玲は真央のスカートを乱暴にまくし上げ、薄いストッキングを容赦なく引き破った。愛撫も、労りもない。まだ何の準備もできていない、渇いたままのそこへ、自身を無理矢理押し込んだ。「……っ!」 鋭い痛みに、真央は一瞬息を詰まらせ、顔を歪めた。 けれど、次の瞬間には、真央は拒絶する代わりに、自由な両腕を玲の広い首元へと回した。 爪が食い込むほどの力で、玲の背中にしがみつく。 手荒に扱われようと、言葉で貶められようと――真央は静かに全て受け入れるように目を閉じた。 玲は真央の身体を激しく蹂躙しながら、必死に脳裏にこびりつく渚の幻影を叩き潰そうとしていた。 だが、いくら腰を打ち付けても、いくら真央の肉を貪っても、胸の奥のどろりとした空虚が満たされることは決してなかった。 ※ 事が終わり、玲は衣服も身に付けないまま、ベッドの端に腰掛けて携帯を起動した。画面の明かりが、彼の昏い瞳を照らす。 渚からメッセージが届いた。『今日も頑張ったよ。展示会、すごく勉強になった』 既読をつけた直後、続けてメッセージが届く。 『ホテルのご飯美味しかった。写真撮ったから送るね』 添付された写真を、玲は無言でタップして開く。 上品に盛り付けられたホテルの料理。画角のなかに映っているのは、確かに渚一人分の席だけだった。(本当に一人か……? カメラの後ろに、あの男が立っているんじゃないのか?) 一度歪んだ視界は、どんなに潔白な証拠を突きつけられても、それを「巧妙な隠蔽」としか捉えられなくなっていく。玲の指先が、携帯の縁を白くなるほど強く握り締めた。「ねぇ。渚ちゃんと、何かあったの
※ 木曜日。 渚が展示会と商談を兼ねた二泊三日の出張へ向かった。 行き先は遠方の取引先。玲に告げたのは「上司と同行する」という事実だけだった。(また、橘部長か……) 楽しそうに橘の話をする渚は、今までにない「仕事の楽しみ」を見つけたようだった。 彼女が楽しそうにしているのを見るのは好きだ。だが、それを他人がもたらしたものなら、本音は面白くもなんともない。 内ポケットにある携帯の振動に、玲は携帯を取り出した。 一通の、通知。渚からだった。 玲は画面に浮かんだ渚の名前に微笑んだ。 『新幹線の窓から。景色きれいだよ』 添付された写真には、流れる青空と遠くの山々が写っていた。 次に、渚と窓の景色のショット。 画面いっぱいに映り込む渚を見て、いつもなら幸福の時間が流れるのに今日は違った。(美容院に行ったのか?) 写真の中の渚は、いつもより少しだけ髪が整い、大人びて見えた。 (俺に何も言わずに? どうして? 美容院、苦手だったよな?) 男女問わず、俺以外に髪を触られるのが嫌いなはずだ。 玲は無言のまま、拡大した。綺麗に整った毛先が渚の小さな顔を包み込むようにして内側に緩いカーブを描いていた。 頭に疑問符を浮かべたまま、携帯を睨みつけていると窓ガラスの隅に反射して写り込んだ影があることに気が付いた。 ――男だ。 輪郭はボヤけ、顔までは判別できない。だが、体格のいい男が渚のすぐ隣に座っている。 渚が送ったどの写真にも、窓に男の影が映り込んでいる。どの写真にも、全部。 ――電車が嫌いな渚が、男の隣に座って出張に行っている。その事実が、玲の脳内を掻き乱す。 カウンセリングの効果が出始めているのなら、それは喜ぶべきことだ。 渚が克服すれば、今よりもっと、触れられる。 もっと深く抱ける。 ――そう思っていたはずなのに。
※ 美容院を出る頃には、空は薄暗くなっていた。 鏡の中の自分が、まだ少し他人のように見えた。 美容院に来たのは、小学二年生以来だった。それからずっと、自分のはさみで切っていた。長くなったら切る。それで充分だと思っていた。 橘のパートナーはよく笑う人だった。渚が何も言わなくても察したのか、ずっと話しかけてくれた。怖くない、と気付いたのは、帰り際に扉を開けてもらった時だ。 橘を含めて、三人目だった。 なんとなく、それが嬉しかった。 渚は携帯を取り出す。『髪を切ったよ』 と打ち込んで、玲に送ろうとしたが指が止まった。 再会してから今日まで、玲には揃っていない髪しか見せていない。写真で美容院でセットした自分を見せるのは、なんとなく照れ臭かった。(玲には、出張から帰ってきてから見せよう) 代わりに、 『明日から出張頑張ってくるね』 とだけ送った。 すぐに既読が付く。『頑張って。気を付けて行ってきてね』 優しい返信。 それだけなのに、少し安心する。『お土産、買ってくるね』 すぐに既読が付いて、すぐに返信があった。『渚が無事に帰ってきてくれるだけで、俺は嬉しいよ』 キザっぽい言い方に、渚は思わず吹き出してしまった。 ※ ※ ※ 新幹線の窓から見える景色は、どこまでも澄み渡っていた。 玲と一緒に彼の実家に行くときは飛行機で、新幹線に乗ったのはもう随分前だ。 携帯を掲げ、流れる青空を切り取る。送信先は玲だ。 渚は窓の景色と一緒に、自分も写真を撮って玲に送った。セットした髪を玲に直接見せようとしていることをすっかり忘れてしまうくらい、子供のようにはしゃいでいた。 そんな渚を、隣に座る橘は、まるで幼い娘を見るかのように優しい目をしていた。 「彼氏さんによね」 隣から聞こえてきた橘の野太い声に、渚は少し照れたよう
※ ※ ※玲と同棲が決まってから、いつもと変わらない穏やかな日が続く。 ふとした時に、頭の片隅に小さなピアスがチラつくけれど……それ以外は平穏だ。何も、問題はない。 渚はクライアントにメールを送信してから、小さく息を吐いた。「相良ちゃん、明日その髪で行く気?」 肩越しに振り向くと、書類を持った橘が怪訝そうに渚を見ていた。 「え?」 渚は反射的に前髪を押さえた。 肩につかないくらいの短さ。 鏡を見るたび適当に切っているせいで、毛先はばらばらだった。「いや、別に変ってほどじゃないわよ? でも展示会でしょ。取引先も来るし、せっかくだから綺麗にしてきなさい」「美容院、苦手で……」 小さく言うと、橘は「あー」と納得したように頷いた。「じゃあ、私が紹介してあげる」 橘はそう言うと、スーツの内ポケットから名刺を一枚取り出して渚に手渡した。 受け取ったのは、名刺ではなく美容室のショップカードだった。「私のパートナーがこのお店で美容師をしてるのよ」「……パートナーさんが?」 面談の時に橘から見せてもらった写真を思い出す。 そこには、パートナーだという男性と肩を寄せ合って笑う橘が写っていた。「そ。付き合って十年くらい。見た目は優男だから、私よりも威圧感はないはずよ」 手渡されたショップカードを、渚はそっと指先でなぞった。 顔を寄せ合って笑う二人は、見ているこちらまで安心するような空気だった。 あんな風に誰かの隣にいることを、“当たり前”だと思える関係があるのだと、少し不思議に思う。(私たちも、付き合ってから十年が経つけど……) 同じ年月のはずなのに。 私と玲は、離れていた時間まで含めれば、もっと長いのに。
※ 薄暗い廊下を進み、女から送られてきた部屋番号の前で立ち止まる。『着いた』 それだけを送信した。 ――数秒後。 カチャリ。 内側から重い鍵が外れる音がした。 ゆっくりとドアが開くと、生温い空気とともに女の香水の匂いが漂ってくる。薄暗い部屋の奥、ドアを引いた女――真央の眉が不機嫌そうに跳ね上がった。「待ちくたびれたんですけど」 そう言った女の横を素通りして奥に入ると、暗い照明に照らされたワインレッドのベッドカバーのベッドが鎮座していた。(安っぽいホテル……) 場所もよく調べずに、真央に待ち合わせ場所として呼び出したこのラブホテルは、渚と過ごした清潔な空間とは何から何まで違っていた。 壁紙の所々は薄汚れていて、エアコンからはカタカタと微かな機械音が周期的に響いている。「……なにそれ」 背後から追ってきた真央の声。 振り返ると、真央の冷ややかな視線が玲の首元――渚から贈られた手作りのマフラーに注がれていた。「宮原さんから貰ったの?」 真央がそのマフラーへと手を伸ばしてくる。 指先が生地に触れそうになった瞬間、玲は真央の手を払いのけた。「触るな」 低く突っ撥ねるような声。 払われた手首を宙で止めたまま、真央はゆっくりと顔を上げ、玲の瞳の奥を覗き込むように目を細めた。その唇の端が、歪んだ愉悦を孕んで冷たく上がる。「……ふーん。分かりやす」 真央は気に留める様子もなく一歩踏み込むと、玲を見上げた。 玲は真央の瞳を、感情がこもっていない目で無言で見下ろした。 ――何故、渚以外の女を視界に入れているのだろう。 数十分前までは、玲の視界は渚しか存在していなかったのに。 真央の手が玲の胸元に触れてくる。女の瞳は変わらず玲しか見ていない。 玲の視界には真央しか映り込んでいないのに、頭の中にいるのは渚のことばかり。
※「――お客さん、着きましたよ」 運転手の静かな声で、玲はハッと目を開けた。 自分の体が動いたことで肩の重みが消え、渚が目を擦りながらゆっくりと目を覚ます。 タクシーのメーターと時計に目をやると、心配していた時間にはまだ十分な余裕があった。「門限の二十二時、間に合ったよ」「……ん……」 まだ夢と現実の間にいるような、ポヤポヤとした眠たげな顔の渚。無防備なその姿が愛おしくてたまらない。「じゃあね、玲。今日は楽しかった」 渚が車を降り、タクシーのドアが半開きになる。そのまま行こうとする後ろ姿に、玲は思わず身を乗り出した。「渚っ」 呼び止められ、渚がくるりと振り返る。「ん?」「今年の初詣……も、一緒に行こう」 一瞬の静寂の後、渚はふわりと笑みをこぼした。「もちろん」 未来の約束を口にできたこと。 彼女が当たり前のように笑って受け入れてくれたこと。 今日という日を経て、彼女に拒絶されなかったのだという安心感が、玲の胸を温かく満たしていく。「今年はね……一緒に年越しそば食べよ?」 渚から差し出された言葉に、玲の瞳が大きく揺れた。「ああ……! もちろんっ」 渚から未来の約束を交わしてくれた――それがこんなに嬉しいなんて。 今日、渚を抱いてしまったことで、心のどこかでずっと怯えていたのだ。渚が自分を怖がってしまうんじゃないか、一線を越えたことで何かが壊れてしまうんじゃないかと。 けれど渚は、何も変わらない……ううん、以前よりもっと近く、柔らかい笑顔で、自分との未来を求めてくれている。 胸を締め付けていた不安が一気に吹き飛び、玲の心に温かく大きな安堵が広がっていく。もっと渚と一緒にいたい、もっと渚の家族や世界に踏み込んでいきたいという想いが溢れ出していた。「……ねえ、年越しそば、俺の実家に来ない? もし嫌なら無理にとは……」「ううん、行きたい。玲のお父さんとお母さんにも、会いたいな」 迷いのない返事に、玲の口元が自然と大きく綻んだ。渚は少しだけ頬を染めながら、上目遣いに玲を見つめる。「あのね……私の両親にも、会ってもらえる……?」 その言葉を聞いた瞬間、玲の胸がトクンと大きく跳ねた。(……それって、まるで結婚の挨拶みたいじゃないか) 愛おしさと照れくささで胸がいっぱいになり、玲はこれ以上ないほどの笑顔で深く頷いた。
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
滑らかな肌、掌に吸い付く肌触り。 躰の線を指先で撫でれば、小刻みに震え、甘い吐息を漏らす愛しい人。 宮原玲はフェザータッチから徐々に手の動きを大胆にしていき、大きな掌で、薄い腹に触れた。 その手に驚いたのか、玲の下にいる相良渚の腰が跳ねた。 玲は渚の反応にすぐに手を止めた。 両眉を八の字に下げて、彼女を心配そうに見下ろす。渚は頬を赤く染め、瞳が潤んでいた。 「ごめん、驚かせた。大丈夫?」 答えの代わりに、渚は玲の背中に手を回した。遠慮がちに触れるだけ――爪を立ててくれても良いのに。血が出るほど、消えない痕を残







