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夏の盛りを待たずに
夏の盛りを待たずに
Author: 銜枝

第1話

Author: 銜枝
結婚五周年記念日、村瀬詩織(むらせしおり)の夫・村瀬雅也(むらせ まさや)は不倫をした。

翌日、夫の初恋相手・真鍋結月(まなべゆづき)は、小切手を詩織の顔に突きつけ、傲然と言い放った。

「20億よ。一週間以内に、村瀬夫人の座を譲ってちょうだい」

もし昔の詩織なら、小切手を相手の顔に投げ返していただろう。「ありえない!」と。

だが今、彼女はただ静かに頷き、小切手を拾い上げた。

結月は口角を上げ、立ち上がると、女のそばで足を止めた。「一ヶ月後、雅也との離婚届を見せてもらうわ」

それを聞いた詩織は、自嘲気味に笑った。

正妻として、ここまで落ちぶれたのは彼女くらいだろう。

一週間前、雅也が白血病を克服した日、彼は仲間たちを連れて、高級クラブで祝った。

詩織が入り口に着き、ドアを開けようとした瞬間、中からこんなからかいの声が聞こえてきた。

「村瀬さん、奥さんと結婚してもう五年になりますけど、まだ結月さんのことを想っているんですか?

あの女は、あなたが病気だと知るやすぐに海外へ逃げ出したのに、あなたが元気になるとすぐによりを戻したいと言い出す。でも奥さんは、あなたが治るまで五年も付き添い、骨髄まで提供したんですよ」

雅也は顔を曇らせ、低い声で言った。

「詩織は確かにいい女だ。

だが、結月のことが忘れられない。

彼女を恨むべきなんだろうが、なぜか、彼女が泣く姿を見ると、心が揺らいでしまうんだ……」

「じゃあ、奥さんは?」誰かが尋ねた。

雅也は黙り込み、小さな声で言った。「感謝はしている。だが、それは愛ではない。ただの義理の気持ちだ」

……

思考が現実に戻ると、詩織はすでに車で自宅に帰っていた。

家に入った途端、スマホにメッセージが届いた。

詩織は目を落とし、結月からの親密な写真だと気づいた。これは挑発だ。

詩織は苦笑し、悔し涙が零れ落ちた。

彼女と雅也は元々、住む世界が違う人間だった。

一人は高みにいる大手企業の御曹司。

一人は両親を亡くした貧しい孤児。

誰も知らなかった。詩織が10歳の時から雅也を好きだったことを。

その年、両親を亡くし、叔母に家を追い出され、凍え死にそうになっていた彼女に、雅也は肉まんを一つ差し出して言った。

「お嬢ちゃん、強く生きろ。生きていれば希望はある」

もし雅也が突然、白血病にならなかったら、彼らは一生交わることはなかっただろう。

彼女は彼に骨髄を提供する機会を利用して、彼のそばに留まり、それが八年になった。

詩織は、彼らが永遠にこの関係を続けると思っていた。三年目までは。

雅也は彼女にプロポーズした。婚約指輪も、結婚式も、親戚や友人からの祝福もなく、ただ空気中に漂う消毒液の匂いだけがあった。

詩織は自分が彼を感動させたと、彼がやっと自分を愛してくれたのだと思った。だが、忘れていたのだ。

蛾が炎に飛び込むようなものだ、良い結果になるはずがない。

詩織は痛みに身を縮こまらせ、スマホを握る手が震え、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

その時、スマホが鳴った。

彼女は震える手で電話に出ると、男の低い声がスマホから聞こえてきた。

「詩織、家にいるか?サプライズを用意したんだ。テレビをつけて」

ちょうどリモコンが彼女の手元にあった。

次の瞬間。

全てのテレビ局で同じ番組が放送された。村瀬グループの社長が、妻のために巨額を投じてバラ園を買ったというニュースだ。

ドローンが上空を飛び越える。

一面に咲き誇る赤いバラで「五周年おめでとう」という文字が描かれている。

ロマンチックで情熱的な光景だ。

雅也は彼女の耳元で言った。「結婚5周年おめでとう。気に入ってくれたかい?」

詩織はそれを見て、心に最後の希望が湧き上がった。

「気に入ったわ。だから、帰ってきてそばにいてくれる?」

彼女に返ってきたのは、電話の向こうから聞こえてくる荒い息遣いと、女の甘い嬌声だった。

雅也は申し訳なさそうに言った。「詩織、わがまま言うな。会社でまだ用事があるんだ。じゃあな」

電話はすぐに切れた。

詩織の心も完全に死んだ。

突然、彼女は胸元の服を掴み、身体の芯まで裂かれるような痛みに襲われ、息もできなくなった。

「薬……」

詩織は震える手で引き出しを開けると、中には心不全の治療薬が色々入っていた。

彼女は二錠掴んで口に放り込み、大粒の涙が地面に落ちた。

雅也、もう終わりだ。

八年前、彼女が骨髄移植を決意した時、医者はこう言っていた。

「ドナーは一度始めたら後戻りはできません。彼が治るまで自分の骨髄を抜き続けなければなりません。たとえあなたが死ぬかもしれないとしても、後悔しませんか?」

女は断固として言った。「決めた以上、悔いはない」

この八年間、彼女は自分を燃やし尽くすことで、彼の命を繋いできた。そして今、ついに燃え尽きたのだ。

心不全末期。

彼女に残された命は、あと七日間しかない。

詩織は最後の力を振り絞り、結月にメッセージを送った。【彼を最後に七日間だけ私にちょうだい。七日後、あなたたちを自由にするわ】
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