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4.青椒肉絲と麻婆豆腐の二人

last update Last Updated: 2025-11-10 16:00:00

「ヘヨン、お待たせ」

『全然待ってないよ ! リカコ ! 』

 紫麻はメニューを開く気の無さそうなリカコをにっこりと見つめたまま。

 一方、カウンターには運悪く鹿野がいるのだ。

「おー ! これ、あれだろ ? なんだっけ ? つまりテレビ電話だろー ? 今は会議とかもこれでやるんだよなぁ ? 」

「そうです。

 あ、そうだった ! お姉さん ! 天津飯をお願い ! 」

「天津飯ですね。かしこまりました、少々お待ちください」

 紫麻が大きな中華鍋を火にかけ、黒くギラつく表面がチリチリと音をたてた頃、卵のジュッ ! っと言う豪快な音が店内に響く。

「あんたリカコってのかァ。

 ほんで、これが彼氏さんかい ? いい男じゃねぇか」

 鹿野の言葉にリカコとヘヨンは満更でもなさそうだった。

 鹿野は散々ヘラヘラ絡んだ後、再びお気に入りの席へ戻った。これで泥酔レベル50%だ。

『綺麗な所だね ? 今どこにいるの ? BAR ? 』

「職場近くの中華屋さんなの」

『へ〜、なんか中華版魔法使いの部屋って感じ』

 そこへ紫麻が天津飯をサーブしてきた。

「お待たせいたしました。天津飯でございます」

「わ、早っ ! ありがとうご……ざいます……」

 リカコの視線が天津飯に釘付けになる。

 リカコの挙動に気付いた紫麻が思い出したように、張り紙を指さす。

「そうでした。最初に言っておくべきでした。

 わたしがアレルギーでして、うちに海産物のメニューやお出汁はありません。故に……餡かけに蟹などは入れることが出来ないのです。

 別なメニューを作り直しましょうか ? 」

「あ、いいえ ! 大丈夫です ! お、美味しそうだし ! 」

 リカコはレンゲを持つと、少し躊躇った様子でトレイを自分の方へ寄せる。

 天津飯──とは言い難い。例えるなら巨大なおむすびに大きな卵焼きを乗せて餡をかけただけの……何かだ。

 事実、紫麻の料理は八割が不味いのだ。

『美味しい ? 』

「う、うん。美味……しい…… ? 店員さんはめちゃくちゃ美人 !

 それでね、あそこショップ限定でストラップが付くんだってさ」

『へえ〜いいかも。ねぇ俺の分もお願い〜。買っておいてよ』

「いいよ」

 なんでもない恋人同士の会話。

 嫌でも紫麻にも鹿野にも会話は丸聞こえだ。何もやましい事が無ければ店内飲食で会話してる声量と変わりは無い。

 しかし次の一言から不穏な空気を感じ取ることになっった。

『じゃあさ、リカコごめん ! 今月もちょっと借してくれない ? 』

「えー ? またぁ !? 」

 また、とは。

 以前もあったのだろう。

「いくら ? 」

『一度、そっちに会いに行くからさ。飛行機代合わせて……こんくらい』

「うーん。それならいいけどさぁ。わたしも借りてるモノあるし」

 借りているモノ、とは ? 

 ヘヨンは流暢な日本語だ。

 名前からすると韓国人男性だろうか ? 

 Webカメラに写っている彼は金に困っているようには見えないが、それは外見でしか分かりえない上っ面だ。

「じゃあね〜。うん、振り込んどくから」

 別れを済ませて、リカコはお冷で玉子の塊を流し込む。

「ご馳走様でした」

「リカコさん、と仰るのですか ? 」

「はい ! 梨の花の子で、梨花子です ! 」

「可愛らしい名前です。遠距離恋愛ですか ? とても楽しそうです」

「そうなんです ! なかなか会えないから、すごく楽で」

「楽…… ですか。そういうものなのですね。パソコンにあるステッカーは、『オクトパックス』ですね。わたしもそのキャラクターが好きです」

「うわ、同志 ! いいですよね ! オクトパックス !! 」

「良ければまたお越しくださいね」

「はい ! 今度はお肉料理食べに来ます ! 」

 そう言い、大きく手を振って店から出ていった。

「……あれだよなぁ」

 鹿野が呆然と梨花子のいた席を見つめる。

「金の貸し借りは良くねぇや 」

「どうだろうな。

 それにしては梨花子もなにか借り物があるようだし、毎回金をタカっているとは限らん」

「いやいや。……返って来ればいいがよ。今どき市役所勤めったって、あのこの年じゃ『騙されても痛くも痒くもねぇ』とはならんだろ」

「わたしにどうしろと ? 

 ……それに韓国までは遠すぎだ」

 今回は見送りか。

 紫麻の様子に、鹿野はホッとしたように教会から持ってきたワインのコルクを開けた。

 □□□

 翌週、梨花子はその男性と共に八本軒へ現れた。

「こんにちは〜 ! 」

 梨花子はやはり私生活は若々しい雰囲気だった。普段は意識して地味に纏めているのだと紫麻は確信する。律儀なものだ。普段のホワイトカラーは窮屈だろうと紫麻は物思いにふける。

 今日もカウンターの角で鹿野は酒を入れていた。泥酔レベル60%だ。やや危険。

「梨花子さん、いらっしゃいませ」

「来ちゃいました ! なんかこのお店の雰囲気気に入りました ! 清潔だし、個性的だし ! 

 ヘヨン、ここがこないだの」

「ああ、爆速調理の ! 海鮮NG中華のお姉さんですね」

「大衆中華 八本軒。どうぞいつでも歓迎いたします」

 紫麻は笑みを浮かべて二人を案内するだけだ。

「お冷はセルフです。お決まりになりましたらお呼びください」

「はーい」

 男女二人。仲睦まじく肩を並べる。

 一目見て気になったのはヘヨンの荷物の多さだった。移住でもしに来たのかという荷物量。一先ずどこかへ預けてから来ればいいものを。恐らくこれから少しづつ梨花子の家へ通う生活用品一式なのだろう。初々しいことだ。

 だが、この寂れた路地裏の町中華に、国外から来て直行してくれた客を邪険に扱うことは勿論しない。そもそも梨花子の事も深く知らないのだから、あれこれ世話を焼くのは野暮である。

「それじゃあ ! えっと、青椒肉絲と麻婆豆腐をお願いします」

「かしこまりました。青椒肉絲と麻婆豆腐、ありがとうございます」

 紫麻が厨房へ入ると、鹿野がよろよろ、カソックを着たままの姿で二人に絡む。

「なぁ〜んだ、すげぇ荷物だな ! サンタが来たかと思ったぜぇ〜」

 鹿野は今日もやった。ウザ絡み神父。

 常習犯である。酔うと必ず客に絡む。

 しかしヘヨンも愛想のいい男だ。大学生くらいかと言うほど童顔で、人懐こい笑顔を見せた。

「こんにちは。こないだの常連さんですね。僕はヘヨンです」

「いやぁ〜、最近の子は本当に言語が達者だよなぁ〜。日本語出来るってこたァ、それなりに勉強もしてんだろ ? ってーと、英語もペラペラだろ〜」

「彼女のお陰です」

「いいなぁそういうの。いい事だ〜 ! 感動したっ !! 」

「鹿野。お客に絡まないで欲しい」

「すまんすまん」

 鹿野が紫麻に追い払われ、カウンターに戻ると、早速青椒肉絲と麻婆豆腐の大皿を持った紫麻が出てくる。

「わ、早っ ! 」

「でしょー ? わたしも最初びっくりしたの ! お姉さん一人で鍋振ってるのにこのスピードだよ ? もうさ、手が十本無いと無理じゃない ? 」

「確かに ! 」

 紫麻は何も言わず微笑む。

「十本じゃねんだ。八本だぁ〜」

 鹿野はまたやらかす。

 しかし常人はただの酔い人の戯れ言としか思っていない。

「確かに。ここ『八本軒』だもんね」

「面白いね。

 いただきます」

「美味しそう〜。いただきまーす。

 ……なんて言うか、うん。中華はやっぱり油が凄いよね。麻婆豆腐はどう ? 」

「…………っ ! 」

「え ? 」

「か……辛い…… !! 」

「う、うーん」

 食事が進むと、ヘヨンの方から切り出してきた。

「実はさ……もう頻繁に日本に来れなくなると思うんだ」

「え…… ? なんで ? 」

「実は……家族が。母が倒れて。こないだ借りたお金も、精密検査のお金に使ったんだ」

「じゃあ……うちらの仕事どうするの ? わたしは副業出来ないし」

「でもこのままでは梨花子に迷惑になる。だから、もう終わらせたくて……」

 鹿野は頭をボリボリとかいて手酌でグラスにワインを注ぐ。一方、紫麻は流しを布巾で拭いながら聞き耳を立てた。

「ちょっと確認させて。色々お互い確認してみようよ。絶対どうにか出来るって ! 」

 梨花子は前のめりでヘヨンを引き止める。

「そりゃ……僕もそうしたいけれどね……」

 煮え切らない状態のまま、その日二人は八本軒を後にした。

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  • 大衆中華 八本軒〜罪を喰う女〜   3.春画と神父

    翌日。 早朝から仕込みを初め、それが終わり次第、十一時の開店まで紫麻の休憩時間だ。 『夏休みの学生さんが多いですね〜 ! 最高気温も三十五度越えですよぉ〜 ! 』 『暑そうですね〜 。CMのあとは、熱中症対策グッズの紹介 ! 今年はアレが目白押し〜 ! 』 この時間に遅めの朝食を摂り、ワイドショーを観ながら新聞を読むのが日課だ。 『高齢者住宅での殺人事件』 『面識なし、押収したスマートフォンから闇バイト仲間であった可能性』 『二日前に自主した崎森被告の共犯か、捜査滞る』 『「旅行中で良かった」と家主の夫婦がコメント』 「〜〜〜♩♩〜〜っ♩」 「随分ご機嫌じゃないか」 開店前の店内。L時型カウンターの一番影になるような席に男がいた。 大通りにある教会の神父である。 老齢で白髪と無精髭。ローマンカラーを付けたままのカソック姿。 常連を極めに極めたこの男は神父でありながら、開店前から酒を浴び、趣味の春画を眺めている。 「お腹が満たされたからな。気分がいい」 紫麻は唯一、この男にだけは素で付き合える間柄だ。先に自宅で読んで来た新聞の内容を思い出し、神父は紫麻へ声をかけた。 「カシエル……どうせ食うなら綺麗に食えばいいんだ。なんで食い散らかすかねぇ。昨日ここに、刑事が来てたろ ? 」 「美味しい部分だけ食べたいんだ、ヒズキエル。それに今は紫麻と名乗っている」 「俺もその名はもう名乗れねぇんだよ。今は人間、鹿野 敦夫だ。 長いな、俺たちも。人の世界に堕ちてから……」 紫麻は紙タバコに火を付けると、紫煙をくゆらせて新聞に視線を落としたまま。 「人間のルールは守るさ。 けれどわたしはこう考える。悪質な者は滅びるべき、とな。特に海にゴミを捨てるような者は特にだ。何故なのか、ゴミの不法投棄で人を殺していい法律は無いらしい」 「当然

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